ドストエフスキーの言葉 (11)
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更新:24/11/22)
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(更新:24/11/22)




習慣」について


「大尉、僕の見たところでは、君はこの四年間少しも変わらないね。」
前よりいくぶん優しい調子で、ニコライはこう言い出した。
「ふつう人間の後半生は、ただ前半生に蓄積した習慣のみで成り立つと言うが、どうやら本当のことらしいね。」
「なんという高遠な言葉でしょう!あなたは
人生の謎をお解きになりましたよ!」
なかば悪くふざけながら、なかばわざとならぬ感激に打たれて(彼はこうした警句が大好物だったので、)大尉は叫んだ。
(米川正夫訳。『悪霊』より。第2編第2章の1。新潮文庫では、第2部第2章の2〔上巻のp415)



「まったく、習慣てやつは、人間をどんなふうにもしてしまうものなのだ。」
(『地下室の手記』の第2部の7より。新潮文庫のp155)



「習慣というものは実に根強いものです。」
(『作家の日記』より。)



「人はとかく慣れやすいものだ。国家的、政治的関係でもそうだ。習慣がおもなる原動力なんだ。」
(『カラマーゾフの兄弟』のコーリャの言葉より。第10編第3)




芸術」について


芸術が問題にするのは、世態風俗にあらわれた偶然でなくて、その普遍的な理念である。
(
『作家の日記』より。)



読書」について


「本を読むことを止めることは、思索することを止めることである。」
(
※所在、未確認。)




子供の時期の想い出」について


「これからの人生にとって、何かすばらしい思い出、それも特に子供のころ、親の家にいることに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。君たちは教育に関していろいろ話してもらうでしょうが、少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な 思い出こそ、おそらく、最良の教育にほかならないのです。そういう思い出をたくさん集めて人生を作りあげるなら、その人はその後一生、救われるでしょう。 そして、たった一つしかすばらしい思い出が心に残らなかったとしても、それがいつの日か僕たちの救いに役立ちうるのです。」
(『カラマーゾフの兄弟』より。)



子供の時分の思い出からその人生に繰り入れられた神聖で貴重なものがなければ、人間は生きていくことすらもできない。なかには、見受けたところ、そんなことは考えていないような人もいるけれど、それでもやはりこうした思い出を無意識にちゃんと心にとめているのである。」
(『作家の日記』より。)

※、子供時代によき思い出を与えられることの大切さを、ドストエフスキーは、折にふれて、説き、強調している。




単純」について


「もっとも単純なものは、もうそれだけで美しい。」
(『未成年』より。)



「単純ということは実際は最も込み入ったはかりごとなのだ。」
(
『未成年』より。)



沈黙」について


「沈黙はいつも美しい。黙っている人はしゃべっている人よりつねに美しい。」
(『白痴』より。)


「沈黙することは、偉大な才能だ。」
(※所在、未確認。)



哲学」について


「哲学は必要なものでございますよ。ことに現代にあっては、その実際的応用がじつに必要なんでございますが、みんなそれをなおざりにしておりますので。いや、まったくですもの。」
(『白痴』より。)



嘘」について


「嘘によって始まったことは、嘘によって終わらねばならない。それが自然の法則と言うものだ。」
(※所在、未確認。)



自殺」について


自殺は人間のいちばん大きな罪だよ」

(『未成年』のマカール老人の言葉より。第3部第3章の1内。新潮世界文学のp463)



社会主義」について


「社会主義というものは単なる労働問題、あるいはいわゆる第四階級の問題ではなくて、主として無神論の問題であり、無神論に現代的な肉づけをした問題である。つまり、地上から天上界に達するためにではなく、天上界をこの地上に引き下ろすために、神なくして建てられつつあるバビロンの塔の問題にほかならないのである。」

(『カラマーゾフの兄弟』より。)



「ああした気違いじみた社会主義者や共産主義者が、それと同時にそろいもそろって、とても信じられないほどにけちんぼで、金儲け主義で、欲ばりなのは、あれはいったいなぜだろうね?」
(
『罪と罰』より。)

 



何かになること」について


賢い人間が本気で何者かになることなどできはしない。何かになれるのは馬鹿だけだ。」
(
『地下室の手記』より。)



善い人」について


「善い人とは、強い人たちのことではなく、誠実な人たちのことである。」
(
※所在、未確認。)



私は笑い方でその人間がわかるような気がする。全然知らない人に初めて会って、その笑いが気持ちよかったら、それはいい人だと思って差し支えないと思う。」

(『死の家の記録』より。)



子供」について


赤んぼうを見たまえ、赤んぼうたちだけが完全に美しく笑うことができる――だからなんとも言えず可愛(かわい)いのである。わたしは泣いているはいやだが、楽しそうににこにこ笑っているは――これこそ天国の光りであり、人間が、ついには、子供のように清純で素朴になる日の訪れることを告げる、未来からの啓示である。」
(『未成年』より。第3部第1章の2内。新潮世界文学のp427)



子供たちは――キリストの姿じゃないか。《天国はこのような者の国である》と教えてるじゃないか。彼は子供たちを敬い愛せよと命じた。子供たちは未来の人類なんだよ……―」
(『罪と罰』のラスコーリニコフの言葉より。第4部の4内。新潮文庫の下巻のp96)



個人の望み」について


「一杯の紅茶をのむためなら、世界が滅びてもかまわない。」
(
『地下室の手記』より。)



「私を静かにさせておいてくれ。私が静かにそっとしておれるものなら、いますぐにでも、全世界をだって、タダの一文で売り渡したいくらいだ。」
(
『地下室の手記』より。)



完成」について


「完成は、付加すべき何物もなくなったときではなく、除去すべき何物もなくなったときに達せられる。」
(
※所在、未確認。)




時間」について


「時間とは何か。時間というものは存在しない。時間とは、存在の、虚無に対する関係である。」
(「創作ノート」より。)



犯罪」について


犯罪は社会機構のアブノーマルに対する抗議だ。」
(『罪と罰』の3部の第5より。新潮文庫の上巻のp448)



犯罪には《環境》というものが大きな意味を持っている。」
(『罪と罰』の3部の第5より。新潮文庫の上巻のp450)



蓄財」について


「人間として最大の美徳は、上手に金をかき集めることである。 つまり、どんなことがあっても他人の厄介になるなということだ。」
(
『貧しき人びと』より。)



「もし他に方法がなければ乞食になってもいい。しかも乞食になったらその日から、手に入ったお金は自分のためにも、家族のためにも、無駄なことに絶対に浪費しないという徹底的な粘り強さ。――これさえあれば、人間は誰でも金持ちになれるものである。」
(※所在、未確認。)



ロシアロシア人」について


「他人の心は闇である。そしてロシア人の心は特に闇である。多くの人間にとって闇なのである。」
(
『白痴』より。)



「自分の中にたくさんの矛盾を同時に仕舞って置けるのは、ひとりロシア人あるのみだ。」
(『賭博者』より。)



ロシア人の信仰、ロシアの正教こそ、ロシア人が自分の宝物と考えているもののすべてである。その中にこそ、ロシア人の理想、生活の真実と真理が、すっかりあるのだから。」
(『作家の日記』より。)



ロシアの民衆の最も重要で、最も根本的な精神的要求は――場所と対象を選ばぬ、飽くことを知らない不断の、苦悩の要求にほかならない。この苦悩の渇望にロシア人は、どうやら、何百年もの昔からかぶれているように思われる。」
(『作家の日記』より。)



ロシア人の心は極端な矛盾を両立させることができ、二つの深淵(しんえん)を同時に見ることができるのです。われわれの上にある天上の深淵と、われわれの下にある最も下劣な、悪臭を放つ堕落の深淵とを、見ることができるのであります。」
(『カラマーゾフの兄弟』の公判での検事イッポリートの言葉。第12編第6。新潮文庫では下巻のp361。米川正夫訳。)



「どうして人間が(それも、ロシア人は特にそうらしいが)自分の魂の中に至高の理想と限りなく醜悪な卑劣さとを、しかもまったく誠実に、同居させることができるのか、わたしには常に謎であったし、もう幾度となくあきれさせられたことである。これはロシア人のもつ度量の広さで、大(だい)をなさしめるものなのか、それともただの卑劣さにすぎないのか――これが問題である!」
(『未成年』のアルカージイの言葉より。第3部第3章の1内。新潮世界文学のp459)


 

日本」について


「ねえ、トーツキイさん、話によると、日本じゃ恥辱を受けた者が恥辱を与えた者のところへ行って『きさまはおれに恥をかかした、だからおれはきさまの眼の前で腹を切ってみせる』と言うそうじゃありませんか。そして、ほんとに相手の眼の前で自分の腹を切って、それで実際に仇討(あだう)ちができたような気分になって、すっかり満足するらしいですがね。世の中には奇妙な性質もあるもんですねえ、トーツキイさん!」「それじゃ、今度の場合にもそんなところがあったときみはお思いなんですね?」
トーツキイは微笑を浮かべて答えた。
「なるほど! しかし、きみはなかなか機知にとんだ……おもしろい比較をもちだしたもので すねえ。 
―以下略― 」
(『白痴』の第1編の16のプチーツィンの言葉。新潮文庫上巻のp331)

※、ドストエフスキーの書き残したものの中で、日本について言及している唯一と言っていい箇所。第一編の末部、夜会における、自分を囲ってきた庇護者トーツキイに向けてのナスターシャ‐フィリポヴナの振る舞いについて、彼女がロゴージンと共に去った後に、プチーツィンが、似た自虐的な行為として、日本の武士の切腹のことをトーツキイに語ったもの。 私などは、日本の武士に関する上の話を、ドストエフスキーはいつどこで仕入れたのか、ということが気になるわけですが、その背景についての指摘は未聞未見です。
以下は推測の域を出ませんが、『白痴』は1867年の9月に起稿され翌年「ロシア報知」に連載されて完成していて、その構想・執 筆期間は、同1867年の4月から始まり4年余りにわたった夫妻での欧州滞在の期間にあたっており、
上の箇所の「話によると」という言い方に注意するなら、この日本の武士についての話は、その滞在先で新聞なり日本通の人の話なりから得たのではないか、と私は推測しています。 ( 1867年までのドストエフスキーの交友においては、日本通の知人は見当たらないようです。1867年は日本では江戸幕府が閉じられた年であるわけですが、ヨーロッパに運びこまれた江 戸時代の浮世絵や陶器などを趣味として収集していて日本の武士の風習についていろいろ知っていた日本通のドイツ人はいたであろうし( 欧州滞在中アンナ夫人の日記には、滞在していたドイツの町を散策した際、夫ドストエフスキーと、日本の花瓶や陶磁器が展示されていた「日本宮殿」のそばを通ったことが記されています。)
そういった人から日本の話を聞いたか、あるいは、 ドストエフスキーは欧州滞在中も当地の新聞は熱心に読んでいますから、明治維新前の日本の国情も伝えられていたと思われる欧州での新聞記事で得た可能性も大きいと思われます。)
また、これはドストエフスキーが書き残したものではないが、 ニコライ主教(1863年に来日以来、50年にわたって、東京を中心にロシア正教の布教活動をした宣教師。)1880年に6月にロシアに一時帰国した際、ドストエフスキーはニコライに会っていて、 その時の語らいの中で、ドストエフスキーはニコライに、「
日本人はキリスト教を受け入れるにあたって何か格別変わっている点はありませんか?」 と尋ねたことが、その日のニコライの日記に記されているそうです。 ニコライの日記を読みそのことを確認した中村健之介氏は、 『ドストエフスキーのおもしろさ』(中村健之介著。岩波ジュニア新書。岩波書店1988年初 版。)で、「ドストエフスキーは日本におけるロシア正教の宣教活動に関心をもち、日本人に興味をいだいていたようです。」(p104p105)と指摘しています。




アジア」について


それ(=アジヤへの進出・侵略)が必要なのはほかでもない、ロシヤはヨーロッパばかりではなく、アジヤにもまたがっているからである。ロシヤ人はヨーロッパ人であるばかりではなく、アジヤ人でもあるから である。いやそれだけではない、アジヤには、ことによると、ヨーロッパなどよりもはるかに多くの希望 があるかもしれない。いや、それどころか、わが国の将来の運命において、もしかすると、アジヤこそわれわれのいちばん大事な出口であるかもしれないのだ!
(『作家の日記』の18811月号の第二章の三「ゲオク・テペ。われわれにとってアジヤとはなんであるか?」より。ちくま学芸文庫の『作家の日記6』のp227)

※、『作家の日記』の末部にあたる、二つの文章「ゲオク・テペ。われわれにとってアジヤとはなんで あるか?」「質問と回答」では、ロシアにとってのアジアというテーマが論じられているが、上の言葉は、その中の発言の一つ。ドストエフスキーは、氏の最晩年に、アジアや日本に注目したのであり、その注目は、直後の氏の急逝によってドストエフスキーの中で引き継がれなかったことが、惜しまれます。 また、東洋の思想や文学に対しては、トルストイやニーチェは、その著書の中で、しばしば、東洋思想に言及しているのに比べ、ドスト氏の晩年が1880年代の初めだったことによるためか、ドストエフスキーの小説や「作家の日記」などに、ブッダ、孔子、老子、日本などと書いて東洋思想のことに言及している箇所は、読んだ範囲では、上の1以外には、見当たりません。ドストエフスキーは、東洋思想(古代インドの仏教思想・中国の儒教や道教・日本の思想)やその真髄にはほとんど触れずじまいに生涯を終えたようです。 ドストエフスキー没後に、トルストイはそのあたりのことを知ってか、トルストイには、「
ドストエフスキーは孔子か、さもなくば仏教徒の教えを知ったらよかったのだ。そうすればかれは気持ちが安らぎ落ち着いたことだろう。これは大事な点で、みんなこのことを知るべきだ。」 という発言もあり。ただし、ドストエフスキーの蔵書として、1874年にペテルブルグで刊行されているA‐クーゼフ著『仏教の精神的理想』があったことが、グロスマン編『ドストエフスキー蔵書目録』で報告されていて、ドストエフスキーは、その本を読み仏教思想の一端に触れていた可能性はあり、また、ドストエフスキーの晩年に親交のあった思想家ソロヴィヨフは、東洋に関する教養や見解も持っていて、ドストエフスキーは、 ソロヴィヨフとの対話を通して、東洋や東洋の思想に触れていた可能性を指摘する研究家もいるようなので、今後の研究によって、その方面の新たな事実や指摘が出てくるかもしれません。




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