ドストエフスキーの言葉 ()
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更新:24/03/18)
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<「人の生き方」について>

 

「あまりに意識しすぎるのは、病気である。正真正銘の完全な病気である。人間、日常の生活のためには、世人一般のありふれた意識だけでも、充分すぎるくらいなのだ。」
(『地下室の手記』の第1部の2より。新潮文庫のp11)



「人間は身持ちをよくしなければならない。身持ちが悪いというのは、つまり自分を甘やかしている証拠で、悪い性癖は人間をほろぼし、台なしにしてしまうものだ。」
(
『貧しき人々』より。)
   


「中庸(ちゅうよう)を失った人間は破滅する。」
(『未成年』より。)



「希望を持たずに生きるのは悲しいことですね。」
(書簡より。)
     


「各個人の自己完成が《いっさいのみなもと》であるばかりでなくいっさいの継続であり結末である。」
(『作家の日記』より。)  



「人間のできる唯一のことは、自分自身が精神的に成長することです。」
(
※所在、未確認。)



「節度を知りなさい。時宜を心得なさい。それを学びなさい。」
(『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の言葉。亀山郁夫訳。)
、ドストエフスキーが節度と時宜を大事にしていたことがわかる言葉だ。




「堪え忍べ、働け、祈れ、そしてつねに希望を持て。これがわたしが全人類に一度に吹き込もうと願っている真理なのです。」
(『スチェパンチコヴォ村とその住人』より。)


「全体のために働けばよいのである。未来のために仕えればよいのである。しかし、決して報いを求めてはならぬ。 しいて求めずとも、すでにこの世において、偉大なる報いが与えられている、――すなわち、正しき者のみが所有しうる心の喜びである。」
(『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の言葉。)

 

10
「おい、アリョーシャ」
とイヴァンはしっかりした声で言いだした。
「もしぼくがほんとに粘っこい若葉を愛せるとするなら、それはおまえを思い起こすことによって、はじめてできることなのだ。おまえがこの世界のどこかにいると思っただけで、ぼくには十分だし
人生に愛想もつかさないでいられる。」
(『カラマーゾフの兄弟』の第3編の第3「兄弟の接近」より。新潮文庫の上巻のp507。米川正夫訳。)
※、心打たれる箇所。故・久山康氏(哲学者。元・関西学院大学教授。西宮市の「土曜会」(「ドストエフスキー研究」発行)主宰。)は、上のイヴァンの言葉を、「作中の一つのクライマックスを形成している光景」 (久山康「ドストイエフスキイにおける愛の問題」より。)と評している。      
   

11
私は心配することをやめた。そうすると全ての問題は消え去ったのだ。」
(※所在、未確認。)


12
「人間は到達を好むくせに、完全に行きついてしまうのは苦手なのだ。もちろん、これは、おそろしく滑稽なことには相違ないが。」
(『地下室の手記』の第1部の9より。新潮文庫のp53)


13
「人間の知恵は自分の望むところに到達するために授けられているのである。しかし、なにがなんでも一足とびに目的に到達しようというのは、私に言わせれば、知恵でもなんでもないのである。」
(
『冬に記す夏の印象』より。)


14
「肝要なのは自分自身にうそをつかぬことですじゃ。みずから欺(あざむ)き、みずからの偽りに耳を傾けるものは、ついには自分の中にも他人の中にも、まことを見分けることができぬようになる、すると、当然の結果として、自分にたいしても、他人にたいしても尊敬を失うことになる。何者をも尊敬せぬとなると、愛することを忘れてしまう、ところが、愛がないから、自然と気をまぎらすためにみだらな情欲におぼれて、畜生(ちくしょう)にもひとしい悪行を犯すようになりますじゃ。それもこれも、みな他人や自分にたいするたえまない偽りからおこることですぞ。」
(『カラマーゾフの兄弟』の、フョードルに向けてのゾシマ長老の言葉。第2編第2。新潮文庫の上巻のp81)
   

15
「 ―途中略― でも、失礼ですが、 (「もしゆるされたらそのあとの人生は、一分一分をいちいち計算して、もう何ひとつ失わないようにして大事にする」と死刑前に考えたが、直前になって死刑を免れた)そんな恐ろしいお話をなさったお友だちはどうなさったんでしょうねえ……だって、そのかたは減刑になったわけですから、つまり、その《無限の生活》を与えられたのでしょう。それじゃ、そのかたはそれからのち、その宝物をどうなさったでしょう。一分一分いちいち《計算して》生活なさったんですの?」
「いえ、ちがいます。当人が自分で言っていましたが、いや、私もそのことはとっくにきいたのですがね――まるっきりちがった生活をして、じつに多くの時間を空費してしまったそうですから」
「まあ、それじゃ、あなたにとっていいご経験でしたのね。つまり《いちいち計算して》生活するなんてことは、実際にはできないことなんですのね。どういうわけかわかりませんが、とにかくできないことなんですのね」
「ええ、どういうわけだか不可能なんですよ」
公爵は同じことをくりかえした。
「私自身にもそう思われました……が、それでもやはり、何かそうとばかりも信じられないのですが……」
「というと、あなたは誰よりも賢い生活ができるとお考えですの?」
アグラーヤがたずねた。
「ええ、ときにはそんな気もしました」
「いまでもしますの?」
「いまでも、しますね」
公爵は相変わらず静かな、というより、むしろ臆病そうな笑みをふくんでアグラーヤをながめながら答えたが、すぐにまた声をたてて笑いだし、おもしろそうに彼女を見やった。
―以下略―
(『白痴』の第1編の第5より。新潮文庫の上巻のp111p112。木村浩訳。)
※、ムイシュキン公爵が付け加えて述べた「
誰よりも賢い生活」のことが、彼は具体的には述べないが、私たちには大いに気になるところだ。『白痴』における大事なテーマが示されている見過ごせない箇所だと言える。


16
「きみは生活に飢えているくせに、自分では生活上の問題を論理の遊戯で解決しようとしている。 ―途中略― きみは自意識を鼻にかけているが、要するにぐずをきめこんでいるだけだ。」
(『地下室の手記』の第1部の11より。新潮文庫のp59p60)


17
「笑うことがいちばんですよ! 笑うにまさる福なしです。」
(『未成年』より。)
     
 
18
「今すべての人はできるだけ自分を切り放そうと努め、自分自身の中に生の充実を味わおうと欲しています。ところで、彼らのあらゆる努力の結果はどうかというと、生の充実どころか、まるで自殺にひとしい状態がおそうて来るのです。なぜと言うに、彼らは自分の本質を十分にきわめようとして、かえって極度な孤独におちいっているからです。現代の人はすべて個々の分子に分かれてしまって、だれもかれも自分の穴の中に隠れています。だれもかれもお互いに遠く隔てて、姿を隠しあっています。持ち物をかくしあっています。そして、けっきょく、自分で自分を他人から切りはなし、自分で自分から他人を切りはなすのがおちです。ひとりひそかに富をたくわえながら、おれは今こんなに強くなった、こんなに物質上の保証を得たなどと考えていますが、富をたくわえればたくわえるほど、自殺的無力に沈んでゆくことには、愚かにも気づかないでいるのです。なぜと言うに、われひとりをたのむことになれて、一個の分子として全を離れ、他の扶助も人間も人類も、何ものも信じないように、おのれの心に教えこんで、ただただおのれの金やおのれの獲得した権利を失いはせぬかと、戦々兢々としているからです。真の生活の保障は決して個々の人間の努力でなく、人類全体の結合に存するものですが、今どこの国でも人間の理性はこの事実を一笑に付して、理解しまいとする傾向を示しています。しかし、この恐ろしい孤独もそのうちに終わりを告げて、すべての人が互いに乖離(かいり)するということが、いかに不自然であるかを理解する、そういった時期が必ず到来するに相違ありません。そういった時代風潮が生じて、人々はいかに長いあいだ闇の中にすわったまま、光を見ずにいたかを思って、一驚を喫(きっ)するに相違ありません。 (以下略) 」
(米川正夫訳。『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の言葉。第6編の(D)。新潮文庫の中巻のp80)  


19
「どうにも暇(ひま)をもてあましたら、誰かか、あるいはなにかを、愛するようにつとめることだな、ただなにかに熱中するのもよかろう」
(『未成年』より。第2部第1章の4内。新潮世界文学のp256)
、ドストエフスキーが愛することと熱中することを大事にしていたことがわかる言葉だ。
   

20
「気分のうえで決して年をとらないようにしてください、そして(人生になにが起ころうとも)人生に対する曇(くも)りのない目を失わないで下さい、永遠の若さよ万歳! 人間の若さは時間と生活の力に支配されるとともに、またわたしたちの力にも左右されるものであることをお信じください。」
(『作家の日記』より。)


21
「問題は時間にあるのではなく、あなた自身にあるのです。」
(
『罪と罰』より。)


22
「全世界に勝利したければ、おのれに打ち勝て。」
(
『悪霊』より。)


23
「理想と熱意がなかったら、どんなことだって紋切り型のくりかえしになってしまう。」
(
『ペテルブルグの夢』より。)
、ドストエフスキーが理想と熱意を大事にしていたことがわかる言葉だ。





<「仕事」「労働」について>  


「わたしはふとこんなことを思ったことがあった。つまり、もっとも凶悪な犯人でも震えあがり、それを聞いただけでぞっとするような、恐ろしい刑罰を加えて、二度と立ち上がれぬようにおしつぶしてやろうと思ったら、労働を徹底的に無益で無意味なものにしさえすれば、それでよい。いまの監獄の苦役が囚人にとって興味がなく、退屈なものであるとしても、内容そのものは、仕事として、益(えき)も意味もある。囚人は煉瓦(れんが)を焼いたり、畑を耕したり、壁を塗ったり、家を建てたりさせられているが、この労働には意味と目的がある。苦役の囚人が、どうかするとその仕事に熱中して、もっとうまく、もっとぐあいよく、もっとりっぱに仕上げようなどという気をさえ起こす。ところが、たとえば、水を一つの桶(おけ)から他の桶へ移し、またそれをもとの桶にもどすとか、砂を搗()くとか、土の山を一つの場所から他の場所へ移し、またそれをもとへもどすとかいう作業をさせたら、囚人はおそらく、四、五日もしたら首をくくってしまうか、あるいはたとい死んでも、こんな屈辱と苦しみからのがれたほうがましだなどと考えて、やけになって悪事の限りを尽くすかもしれない。」
(『死の家の記録』より。新潮文庫のp33p34)



「ねえ、きみ、労働で神を手に入れなさい。」
(
『悪霊』より。スタヴローギンに向けてのシャートフの言葉。)



「しだいに高くそびえてゆく建物を見る喜びは、たとえ今までのところ、その建物にわずか一粒の砂を運んだにすぎない人でも、必ずや心の渇きをいやしてくれるはずである。」
(
『作家の日記』より。)


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