ドストエフスキーの言葉 ()
(
更新:24/06/15)
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<「真理」「思想」について>


真理は百年もテーブルの上に置かれ、人まえに出されているが、人びとはそれに見むきもせず、人間の頭によって考え出されたものを追っている。」
(『作家の日記』より。)



「真の真理というものは、つねに真理らしくないものである。」
(『悪霊』より。)



「我々は過ちを重ねることによってのみ真理に到達するものなのである。」
(
評論集より。)



「不幸の中にこそ真理が姿を現わすものである。」
(
書簡より。)



「偉大な思想は偉大な知性からよりもむしろ偉大な感情から生まれる。」
(
『永遠の夫』より。第13章。新潮文庫ではp195。小沼文彦訳。)



「人は思想をとらえようが、思想は常に人間よりも現実的である。」
(『罪と罰』より。)



「心底から真理を獲得しようと思い立ったものは誰でも、すでに非常に強力なものとなったのである。」
(
『作家の日記』より。)



「きっと真理は、いつもそうですが、どこか中間どころにあるんでしょう。」
(
※所在、未確認。)




<「自由」について>


「人間と人間社会にとって、自由ほど堪()えがたいものは、いまだかつてなかった。」
(
『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の言葉より。新潮文庫の上巻のp486)
※、以下の言葉にも見られるように、ドストエフスキーは、生涯、「自由(過度の自由、民衆がうまく使えない自由)」に対して、否定的・批判的であった。



「確固(かっこ)たる古代のおきてに引き換えて、人間はこれからさき、おのれの自由な心をもって、何が善であり何が悪であるか、自分自身できめなければならなくなった。しかも、その指導者といっては、おまえの姿が彼らの前にあるきりなのだ。―以下略―
(
『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の言葉より。新潮文庫の上巻のp490)



「おまえは人間にとって平安のほうが、いやときとしては死でさえも、善悪の認識界における自由な選択より、はるかにたいせつなものであることを忘れたのか!それはむろん、人間としては、良心の自由ほど魅惑的なものはないけれど、またこれほど苦しいものはないのだ。」
(『カラマーゾフの兄弟』の、再来したキリストへ向けての大審問官の言葉より。新潮文庫の上巻のp490)



自由は、大多数の者を、他人の思想への隷従にみちびくにすぎない。なぜなら人間は、既成のものを、あてがわれるのが好きだからだ。」
(『作家の日記』より。ちくま学芸文庫『作家の日記4』のp131)



「人間というあわれむべき存在は、生まれるときにさずかった自由を、できるだけはやく誰かに引き渡したいといつも思っている。そしてそのひきわたすべき人を見つける苦労よりも、大きな苦労は人間にはないのである。」
(『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の言葉より。新潮文庫の上巻のp489)



「彼らは自由を強調していて、これは、最近に至って、ことに、はなはだしいが、このいわゆる自由の中に発見しうるものはなんであろう。ただ、隷属と自滅にすぎぬではないか! ―途中略― 人々は自由を目して、欲望の増進と満足というふうに解釈することによって、自分の自然性を不具にしているのだ。それは、自己の中に無数の愚かしい無意味な希望や、習慣や、思いつきを生み出すからである。 ―途中略― 僧侶の歩む道は、これとまったく異なっている。人々は服従や精進や、進んでは祈祷(きとう)さえ冷笑するが、しかしこれらのものの中にのみ、真の自由に至る道が蔵(ぞう)されているのである。われらは、無用の欲望を切りはなし、自尊心の強い倨傲(きょごう)な意志を服従によってむち打ち柔(やわら)げ、神の助けを借りて精神の自由と、それにつれて、内心の愉悦(ゆえつ)を獲得するのである!」
(『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の言葉より。新潮文庫の中巻のp98p100)



「今日、世間では、自由ということを放縦の意味にとっている。しかしながら真の自由は、自分の意志にうちかつこと、克己にあるのだ。」
(『作家の日記』より。ちくま学芸文庫『作家の日記4』のp174)



「わたくしの結論は、出発点となった最初の観念と、直角的に反対している。つまり、無限の自由から出発したわたくしは、無限の専制主義をもって論を結んでいるのです。しかし、一言申し添()えておきますが、わたくしの到達した結論以外、断じて社会形式の解決法はありえないのです。」
(『悪霊』のシガリョフの言葉。新潮文庫の下巻のp101)
※、シガリョフの「無限の自由は無限の専制でもって終わる」という鋭い命題が打ち出された箇所。



「われわれにもっと多く自主性を与え、われわれを自由に行動させ、活動範囲をひろげ、監督をゆるめてみたまえ。われわれはすぐにまた、もとどおり監督してくださいとたのむにきまっている。」
(『地下室の手記』より。新潮文庫のp204。米川正夫訳。)


10
「弱い人間に自由をやってごらんなさい。自分でその自由を縛(しば)りあげて、返しにきますよ。」
(『主婦』より。米川正夫個人訳愛蔵版全集の第1巻のp395)


11
「わがロシアの自由主義者はまず何より下男なのさ。誰か靴を磨(みが)かしてくれる人はないかしらんと、きょろきょろあたりを見まわしているのだ。」
(『悪霊』のシャートフの言葉。新潮文庫の上巻のp216)


12
「そうとも、われわれがいなかったら、彼ら(=民衆)は永久に食を得ることができないのだ!彼らが自由である間は、いかなる科学でも彼らにパンを与えることはできないのだ!しかし、とどのつまり(=結局のところは)、彼らは自分の自由をわれわれの足もとにささげて、「わたくしどもを奴隷にしてくだすってもよろしいですから、どうぞ食べ物をくださいませ」と言うに違いない。つまり、自由とパンとはいかなる人間にとっても両立しがたいものであることを、彼ら自身が悟るのだ。じっさいどんなことがあっても、どんなことがあっても、彼らは自分たちの間でうまく分配することができないにきまっているからな!また決して自由になることができないことも、彼らは同様に悟るであろう。なぜと言うに、彼らはいくじなしで、不身持ちで、一文の値うちもない暴徒だからな。」
(『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の言葉より。新潮文庫の上巻のp487)


13
「専制主義のないところに自由も平等も、いまだかってあったためしがない。」
(
『悪霊』のピョートルの言葉。新潮文庫の下巻のp125)


14
自由とは、生きようと死のうとおなじになったとき、得られるものです。」
(
『悪霊』のキリーロフの言葉。新潮文庫の上巻のp179)


15
「わたしには金は必要でない、というよりは、わたしに必要なのは金ではない、と言ったほうがよかろう。威力でさえもない。わたしに必要なのは、威力によって得られるもの、そして威力がなければぜったいに得られないもの、それだけなのである。それは一人だけのしずかな力の意識である! これこそが、世界中が得ようと思ってあれほどじたばたしている自由の、もっとも充実した定義なのである!」
(『未成年』のアルカージイの言葉。第1部の第5章の3内。新潮世界文学のp107)


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