ドストエフスキーの言葉 ()
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更新:24/06/15)
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<「言葉」について>


「これもわたしの意見だが、ロシア語でものを書くのは、どのヨーロッパの言葉で書くよりも、厄介なことらしい。わたしはいま書いたことを読みかえしてみて、書かれたことよりも自分のほうがはるかに利口だと思う。利口な人間の言ったことが、その人間の中にのこっているものよりも、ずっと愚かだなどと、いったいどうしてそういうことになるのか?」
(『未成年』の第1部第1章第2のアルカージイの言葉。)



言葉にあらわれるものよりも、内部に残っているもののほうが桁外(けたはず)れに多いのだ。人間の思想は、それがりっぱなものでなくても、心のうちにとどまっている間は、つねに深遠なものであるが、言葉にあらわれてしまうと、それは滑稽で不当なものになる。」
(『未成年』のアルカージイの言葉。第1部第3章第1)



言葉―民衆、わが国の言葉ではこれは同義語である。そしてこの中にはなんと豊かな深い思想が含まれていることか!」
(『作家の日記』(1876年の「78月号」の第3章の2)より。ちくま学芸文庫『作家の日記』の第3巻のp84)



「あの言葉はもちろん、思わず口からこぼれたのだが、思わず言っただけによけい重大なのだ。」
(
『カラマーゾフの兄弟』より。)




<「文学」について>


「それにしても文学というものはいいものですね、ワーレンカ、実にいいものですよ。これは一昨日あの人たちのところではじめて知ったことなのです。なんとも言えぬ深みのあるものですよ!人間の心の支えになり、教訓を与えてくれるものです。それに――まあこういったいろんなことがまだたくさん、あすこにある本に書いてあるんです。それが実にうまく書いてあるんですよ!文学――それは絵である。つまり、一種の絵であり鏡である。情熱の表現であり、きわめて鋭い批評であり、道徳に対する教訓であり、同時にまた人生の記録である。」
(『貧しき人びと』のジェーヴシキンの言葉より。新潮文庫のp101。小沼文彦訳。)



「われわれは文学をほかのものに見替えるようなことはしないし、われわれはそれを高く評価している……文学は――人間のあらゆる生活の表現である。」
(「メモ・ノート(18601862)」より。『ドストエフスキー未公刊ノート』(小沼文彦訳、筑摩書房19977月刊)p6)

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