<「宗教」「信仰」について>
1
「人間存在の法則は、ことごとく一点に集中されています。ほかでもない、人間にとっては、常に何か無限に偉大なものの前にひざまずくことが必要なのです。人間から無限に偉大なものを奪ったなら、彼らは生きていくことができないで、
絶望の中に死んでしまうに相違ない。無限にして永久なるものは、人間にとって、彼らが現に棲息(せいそく)しているこの微少な一個の遊星と同様に、必要欠くべからざるものなのです。」
(『悪霊』のステパン氏の言葉。米川正夫訳。)
2
「宗教的精神にもとづく自己完成が、国民生活におけるいっさいの基礎である。」
(『作家の日記』より。)
3
「完全な無神論の方が、俗世間の無関心な態度より、ずっと尊敬に値しますよ。完全な無神論者は完全な信仰に達する最後の一つ手前の段に立っておる(それを踏み越す越さないは別として)。」
(『悪霊』のチーホン僧正の言葉より。「スタヴローギンの告白」の第1より。新潮文庫の下巻のp542。)
4
「我々はすべて無政府主義者だの、無神論者だの、革命家だのというような社会主義者めいた連中は、あまりたいして恐ろしくないです。我々はこの連中に注目していますから、やり口もわかりきっていますよ。ところが、その中にごく少数でありますが、若干(じゃっかん)毛色の変わったやつがいます。これは神を信ずるキリスト教徒で、それと同時に社会主義者なのです。こういう連中を我々は何よりも恐れます。じっさい、これは恐ろしい連中なんですよ!社会主義のキリスト教徒は、社会主義の無神論者よりも恐ろしいのです。」
(『カラマーゾフの兄弟』でミウーソフが紹介しているフランス人の言葉より。第2編第5。新潮文庫の上巻のp125。)
5
「宗教は単なる形式ではない、それはすべてである。」
(「メモ・ノート(1876〜1877年)」より。『ドストエフスキー未公刊ノート』(小沼文彦訳、筑摩書房1997年7月刊)のp122。)
6
「道徳というものはどんなものでも大本(おおもと)は宗教だ、なぜならば宗教は単なる道徳の公式にほかならないからである。」
(「メモ・ノート(1875〜1876年)」より。『ドストエフスキー未公刊ノート』(小沼文彦訳、筑摩書房1997年7月刊)のp100。)
7
「強制でどんな信仰が生まれるというんだい?おまけに、信仰にはどんな証拠も役に立たないんだ。」
(※所在、未確認。)
8
「宗教的感情の本質というものは、どんな論証にもどんな過失や犯罪にも、どんな無神論にもあてはまるものじゃないんだ。そんなものには、何か見当ちがいなところがあるのさ。いや、永久に見当ちがいだろうよ。そこには無神論などが上っ面(うわっつら)をすべって永久に本質をつかむことができない、永久に人びとが見当ちがいな解釈をするような、何ものかがあるんだ。(以下、略)」
(『白痴』の第2編の第4のムイシュキン公爵の言葉より。新潮文庫の上巻のp411。)
9
若者よ、祈りを忘れるな。おまえの祈りのたびごとに、その祈りが真心から出たものなら、新しい感情がひらめくだろう。そしてその感情のなかに、おまえのこれまで知らなかった新しい思想が生まれでて、おまえをいっそう勇気づけるだろう。(『カラマーゾフの兄弟』より。)
<「神」「キリスト」について>
1
「もしほんとうに神があって、地球を創造したものとすれば、神がユウクリッドの幾何学によって地球を創造し、人間の知恵にただ空間三次元の観念のみ賦与(ふよ)した(=与えた)ということは、一般に知れ渡っているとおりだ。ところが、幾何学者や哲学者の中には、こんな疑いをいだいているものが昔もあったし、今でも現にあるのだ。つまり全宇宙(というよりもっと広く見て、全存在というかな)は、単にユウクリッドの幾何学ばかりで作られたものではなかろう、というのだ。最も卓越した学者の中にさえ、こういう疑いをいだく人があるんだよ。中には一歩進んで、ユウクリッドの法則によるとこの地上では決して一致することのできない二条の(=二本の)平行線も、ことによったら、どこか無限の中で一致するかもしれない、などという大胆な空想をたくましゅうする者さえある。そこでぼくはあきらめちゃった。このくらいのことさえ理解できないとすれば、どうしてぼくなんかに神のことなど理解できるはずがあろう。ぼくはおとなしく自白するが、ぼくにはこんな問題を解釈する能力が一つもない、ぼくの知性はユウクリッド式のものだ、地上的なものだ、それだのに、現世以外の事物を解釈するなんてことが、どうしてぼくらにできるものかね。アリョーシャ、おまえに忠告するが、決してそんなことは考えないがいいよ。何よりいけないのは神のことだ。神はありやなしや?なんてことは決して考えないがいいよ。こんなことはすべて、三次元の観念しか持たない人間にはとうてい歯の立たない問題だよ。〔以下、略〕」
(『カラマーゾフの兄弟』の、アリョーシャに向けてのイヴァンの言葉。新潮文庫の上巻のp451〜p452。米川正夫訳。)
2
イヴァン「ぼくが考えてみるに、もし悪魔が存在しないとすれば、つまり人間が作り出したものということになるね。そうすれば人間は自分の姿や心に似せて、悪魔を作ったんだろうじゃないか。」
アリョーシャ「そんなことを言えば、神さまだって同じことです。」
(『カラマーゾフの兄弟』より。)
3
フョードル「アリョーシカ(=アリョーシャ)、不死はあるか?」
アリョーシャ「あります」
フョードル「神も不死も?」
アリョーシャ「神も不死もあります。神の中に不死もあるのです。」
(『カラマーゾフの兄弟』の第3編の8。新潮文庫の上巻のp254の5行目。)
4
コーリャ「神を信じていなくても人類を愛することはできるのです。ね? ヴォルテール(注:18世紀のフランスの啓蒙思想家)は神を信じていなかったが、人類を愛していた!」
アリョーシャ「いや、ヴォルテールは神を信じていました。が、それはほんのちょっぴりでした。だから彼は人類を愛していたけれど、それもほんのちょっぴりだった、と思うのです。」
(『カラマーゾフの兄弟』の第10編の6。新潮文庫の下巻のp84。米川正夫訳。)
5
「もしも人間が神というものを考え出さなかったら、そのときは文明もまったく存在していなかったでしょう。」
(米川正夫訳。『カラマーゾフの兄弟』のイヴァンの言葉。新潮文庫の上巻のp254。)
6
「もし神さまがいらっしゃらなかったら、私などがどうして大尉でいられよう?」
(『悪霊』での、ある大尉の言葉。新潮文庫の上巻のp354。)
7
「(もし永遠の神がないなら)すべては許される。」
「(自分こそが神だという己れの立場を自覚し人神という新しい地位につけば)すべては許される。」
(以上、『カラマーゾフの兄弟』のイヴァンの言葉。新潮文庫の下巻のp239の3〜4行目・14行目、p271の12行目・17〜18行目。)
※、イヴァンの有名な「神がなければすべてが許される」という命題が述べられた箇所。
8
「もし永遠の神がないなら、いかなる善行も存在しないし、それにそんなものはまったく必要でない。」
(『カラマーゾフの兄弟』のイヴァンの言葉。新潮文庫の下巻のp239の5〜6行目。)
9
「だが、そうすると、人間はいったいどうなるんだね?神も来世もないとしたらさ?そうしてみると、人間は何をしてもかまわない、ってことになるんだね?」
(『カラマーゾフの兄弟』の、ドミートリイがアリョーシャに語る、ドミートリイが過去にラキーチンに向けて尋ねた言葉。新潮文庫の下巻のp155。)
10
「イヴァンはラキーチン(注:登場人物の名。神学校出の軽薄才子の学生。)と違って、自分の思想を隠している。イヴァンはスフィンクスだ、黙っている、いつも黙っている。ところが、おれは神のことで苦しんでいるのだ。ただこのことだけがおれを苦しめるんだ。もし神がなかったらどうだろう?もしラキーチンの言うとおり、神は人類のもっている人工的観念にすぎないとしたらどうだろう?そのときは、もし神がなければ、人間は地上の、――宇宙のかしらだ。えらいもんだ! だが、人間、神なしにどうして善行なんかできるだろう?これが問題だ!おれはしじゅうそのことを考えるんだ。なぜって、そうなったら人間はだれを愛するんだね?だれに感謝するんだね?まただれに向かってヒムン(頌歌(しょうか)=相手の功績をほめたたえる歌)を歌うんだ?こういうと、ラキーチンは笑い出して、神がなくっても人類を愛しうる、と言うんだが、それはあの薄ぎたない菌(きのこ)野郎がそう言うだけで、おれはそんなこと理解できない。ラキーチンにとっちゃ、生きてゆくことなんかなんでもないんだ。」
(『カラマーゾフの兄弟』のドミートリイの言葉。新潮文庫の下巻のp162〜p163。米川正夫訳。)
11
「わしはときどき、神がなくて人間がどんなふうに生きていくのだろう、いつかそんなことの可能な時代が来るのだろうか、と考えてみないわけにはいかなかった。わしの心はそのたびに不可能だという結論をくだしたよ。しかし、ある時期が来れば可能かもしれない……〔以下、略〕」
(『未成年』のヴェルシーロフの言葉。第3部第7章の3内。新潮世界文学のp570。)
12
「神のない良心は恐怖そのものである。そんな良心は、最も不道徳なところにまで迷いかねない。」
(晩年のメモより。筑摩書房1997年刊『ドストエフスキー未公刊ノート』のp158小沼文彦訳。)
13
「いったんキリストを拒否したならば、人間の知恵は驚くべき結果にまで暴走しかねない。これは公理である。」
(1873年12月号「市民」掲載の『作家の日記』第16章より。ちくま学芸文庫『作家の日記1』のp399。小沼文彦訳。)
※、上の文章(6〜12)の中の、
「神なしに」
「神がなくて」
「神のない良心」
「キリストを拒否する」
といった表現は、ドストエフスキーの思想・発想の大事なキーワードの一つ。
ドストエフスキーには、類似表現として、
・「キリストなしの善行」
(『未成年』より。)
・「(社会主義は)神を除外して建設されているバビロンの塔」
(『カラマーゾフの兄弟』より。)
・「神とキリストを抜きにして、人類の運命を解決すること」
(『作家の日記』より。)
といった言い方も見られる。
14
「流刑囚は神さまなしには生きて行けない。流刑囚でないものよりいっそう生きて行けないのだ。」
(『カラマーゾフの兄弟』のドミートリイの言葉。新潮文庫の下巻のp161。米川正夫訳。)
15
「わしはどうしてもキリストをさけることができない、最後に、孤独になった人々のあいだに、キリストを想像しないではおられないのだよ。〔以下、略〕」
(『未成年』のヴェルシーロフの言葉。第3部第7章の3内。新潮世界文学のp572。)
16
「だが、それで神は君に何をしてくれた?」
(『罪と罰』で信仰をとくソーニャに対してのラスコーリニコフの問いかけ。)
<「罪」について>
1
「限りない神さまの愛を使いはたしてしまおうとするような人間に、そんな大きな罪が犯せるものではない。それとも神さまの愛でさえ追っつかぬような罪があるじゃろうか!」
(『カラマーゾフの兄弟』の第2編第3のゾシマ長老の言葉より。新潮文庫の上巻のp96。米川正夫訳。)
※、上の言葉でゾシマ長老(ドストエフスキー)が言おうとしていることには、たいそうハッとするものがあります。
2
「しかし、神はロシアを救ってくださるであろう。なぜなれば、いかに民衆が堕落して、悪臭ふんぷんたる罪業を脱することができぬとしても、彼らは神が自分の罪業をのろっておられる、自分はよからぬ行ないをしている、ということを承知しているからである。わが国の民衆は、まだまだ一生けんめいに真理を信じている。神を認めて感激の涙を流している。ところが、上流社会の人はぜんぜんそれと趣きを異にしている。彼らは科学に追従して、おのれの知恵のみをもって正しい社会組織を実現せんとしている。もはや以前のごとくキリストの力を借りようとせず、もはや犯罪もない罪業もないと高言している。もっとも、彼らの考え方をもってすれば、それはまったくそのとおりである。なぜなれば、神がない以上、もう犯罪などのあろう道理がない!」
(『カラマーゾフの兄弟』の第6編第2のゾシマ長老の言葉。新潮文庫の中巻のp101〜p102。米川正夫訳。)
3
「お母さん、ぼくはさらに進んでこう言います、――ぼくたちはだれでもすべての人にたいして、すべてのことについて罪があるのです。そうのうちでもぼくが一ばん罪が深いのです。―途中、略―ぼくがすべてのものにたいして罪人となるのは、自分でそうしたいからですよ。ただ、腑(ふ)に落ちるように説明ができないだけなんです。だって、それらのものを愛するにはどうしたらいいか、それすらわからないんですもの。ぼくはすべてのものに罪があったってかまやしません、その代わり、みんながぼくをゆるしてくれます。それでもう天国が出現するのです。」
(『カラマーゾフの兄弟』の第6編第2のゾシマ長老の兄マルケルの言葉。新潮文庫の中巻のp53〜p54。)
4
「ぼくは、もしかしたら、あの人たちに対してずいぶん罪なことをしているのかもしれない!……みんな罪がある、みんな罪があるんだ……だから、みながそのことに気がつきさえすれば!……」
(『悪霊』のシャートフの言葉。新潮文庫の下巻のp384。)
5
「まずすべての人を、常に赦(ゆる)しましょう……そして、ぼくらも赦(ゆる)してもらえるという希望をもちましょう。そうですよ、だれでもみなおたがいに罪を犯しているものですものね。万人が罪人(つみびと)なのですから!……」
(『悪霊』のステパン氏の言葉。新潮文庫の下巻のp478。)
※、上の3のマルケルの言葉において、ロシア正教の教えを踏まえた、「罪の共同体(ソボールノスチ、相互の罪の自覚とゆるし合い)」というドストエフスキーの思想がもっともよく表現されている。
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