<予言・予見を述べた言葉>
〜〜〜にした部分は特に細かく鋭く予言・予見されていて注目すべき箇所。
赤色にした部分は後世への鋭い警鐘が読み取れる箇所。
「※〜」は、補足説明。
1、
「人びとはやがて空中を歩いたり飛んだりするかもしれない。いま鉄道で旅行している速度の十倍の速さで、非常に広い空間をひとっ飛びということになるかもしれない。土の中から信じられぬくらいの収穫をひきだし、化学によって有機体を作りだし、わがロシヤの社会主義者たちが夢みているように、牛肉が一人一キロずつ行きわたるようになるかもしれない。一口に言って、さあ飲め、食え、楽しめというわけだ。「さあ」 すべての博愛主義者たちは絶叫するに違いない。「今こそ人間は生活を保障された。今こそはじめて人間は本領を発揮することだろう! もはや物質的窮乏はないし、すべての悪徳の原因だった、人間を蝕(むしば)む《環境》ももはやない。今こそ人間は美しい、正しいものになるだろう!
もうこれからは、どうにかこうにか暮らしてゆくための絶え間ない労苦はなくなり、今やだれでも高尚で深遠な思想や普遍的な現象に関心をもつようになる。今、今こそやっと最高の生活がやってきたのだ!」 …… だが、おそらくこうした歓喜は人間の一世代ともつまい!
人びとは突然、自分たちの生命がもはやほろび、精神の自由も、意志も個性もなく、だれかが何もかも自分たちから一遍に盗んでしまったのだということに気づくだろう。人間らしい顔つきは失せ、畜生のような奴隷の姿、形、畜生の姿が、やってきたのだ。」
(『作家の日記』1876年1月号より )
※、以上は、
・『ドストエフスキー』(原卓也著、講談社新書・1981年講談社初版)のp52〜p53
・『ドストエフスキー
闇からの啓示』(森和朗著、中央公論社1993年初版)のp96〜p97
で引用し指摘しているもの。
※、以上、「意見・情報」交換ボードの2001年09月16日の書き込みのぶんを補足及び追加。
2、
「15年もすればおそらく、もはや鉄砲で撃つのではなく、何か稲妻のようなもの、機械から発せられ、すべてを焼きつくす電流のようなもので撃つようになるかもしれない。」
(1873年に雑誌「市民」に掲載した評論記事より )
※、『ドストエフスキー 闇からの啓示』(森和朗著、中央公論社1993年初版)のp96〜p97で森氏が引用し指摘しているもの。森氏は、ドストエフスキーがエリート工兵学校で当時の最先端の科学情報を身につけていたことを指摘している。
※、火炎放射器(1901年にドイツで開う発されている)というよりも、さらに未来の高性能性能レーザー光線砲(あるいは、プラズマ兵器)の発明(出現)を予見していると見ておこう。
また、上の内容や表現などは、ドストエフスキーが親しんだ聖書の預言書の記述を頭においているのかも知れない。
※以上、「意見・情報」交換ボードの2001年09月16日の書き込みのぶんを補足。
3、
ロシア社会にユダヤの勢力が浸透しており(「ユダヤ人はロシアに入った毒であり悪魔であり」)、ロシアにユダヤによる革命が起こる
とドストエフスキーはしばしば述べていた。
※、上の引用箇所にはドストエフスキーのユダヤ人への憎悪や悪口が見られるが、ロシア革命の黒幕は国際ユダヤ財閥であるとする見方が正しければ、かなりの的中と言える。
4、
「社会主義は可能ではあるけれども、ただそれはフランスではなく、どこかほかだ。」
(『冬に記す夏の印象』(1863年に発表)の第6章「ブルジョア試論」より。)
※、ベルジャーエフ(ロシアの宗教思想家)は1918年の論文で、「ドストエフスキーはロシア革命の予言者」と述べている。
5、
「社会主義は主として無神論の問題である。無神論に現代的な肉付けをした問題である。地上から天に達するためではなく、天を地上へ引き下ろすために、神なくしてたてられたバビロンの塔だ。」
( 『カラマーゾフの兄弟』より )
「しかし、神はロシアを救ってくださるであろう。なぜなれば、いかに民衆が堕落して、悪臭ふんぷんたる罪業を脱することができぬとしても、彼らは神が自分の罪業をのろっておられる、自分はよからぬ行ないをしている、ということを承知しているからである。わが国の民衆は、まだまだ一生けんめいに真理を信じている。神を認めて感激の涙を流している。ところが、上流社会の人はぜんぜんそれと趣きを異にしている。彼らは科学に追従して、おのれの知恵のみをもって正しい社会組織を実現せんとしている。もはや以前のごとくキリストの力を借りようとせず、もはや犯罪もない罪業もないと高言している。もっとも、彼らの考え方をもってすれば、それはまったくそのとおりである。なぜなれば、神がない以上、もう犯罪などのあろう道理がない!」
( 『カラマーゾフの兄弟』より
)
※、ロシア革命のあと、ソビエトの政権は無神論を奉じ、全国のロシア正教の寺院の閉鎖や破壊、聖職者に対してはあらぬ嫌疑をかけての過酷な追放や処刑や弾圧を行ない多くの犠牲者が出た。レーニンはドストエフスキーの『悪霊』に対しては「反動的小説」と決めつけドストエフスキーの本を以後発禁処分とした。
6、
『悪霊』の中の、ステパン氏の最後の放浪における回心の言葉 (ルカ福音書を引いて、悪鬼が入り込んだ豚たちが悪鬼に導かれて気が狂い崖から海に飛び込みおぼれ死んでしまうが、やがて彼らの病は癒えてイエスの足もとに座るであろう。〔以上その趣意〕 )
(『悪霊』の中のステパン氏の言葉。新潮文庫の下巻のp493〜p494。)
※、アンジェイ・ワイダ監督の映画「悪霊」(1987年制作)でステパン氏がロシアの行く末を述べる回心のシーンは印象深い。
※、上の引用文の末部は、体制崩壊後のロシア正教の勢力の回復、人々のロシア正教への回帰を述べたものか?
7、
「今後の民衆や社会にとって自由ほど耐え難いものはないのであり、彼らは自分たちに確実なパンや心の平安を与えてくれる強大な権力者が現れればキリストが約束する天上のパンなどは捨てて、自ら自由を権力者に譲り渡し、喜んで権力者につき従っていくであろう。聖書で言うキリストの選択よりも悪魔の選択を選んだ権力者はその手を通して彼らにパンをうまく分配し、社会の争いや混乱を鎮撫し、彼らの悩み一切をすべて解決し、権力者のゆるしを得れば罪や悪行もゆるしてやることにする。彼らには時に子供の遊戯のようなものを施してやる。社会にはパンと心の平安を得た多くの羊のような民衆と善悪の選択という受難を背負った権力者が存在していくのだ。」
(以上、『カラマーゾフの兄弟』の章「大審問官」の大審問官の統治思想の趣意。)
※以上、「意見・情報」交換ボードの2001年09月16日の書き込みのぶんを補足。
※、大審問官の民衆統治に向けての語り口やスタンスはレーニンやヒットラーのそれと類似している。クロポトキン(ロシアの政治思想家)も、のちに、キリストよりもパンを取ることを選択している。
※、一方、ナチスに関してはドストエフスキーの作品からの影響という面もあるだろう。ナチスの宣伝相であったゲッベルスをはじめナチスはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章や小説『悪霊』から全体主義体制での統治のあり方を学んだ形跡あり。ナチスは統治下のドイツで B・ブラッヒャーにオラトリオ「大審問官」(1942年作)を作曲させて演奏させたりなどしている。
8、
「わたくしの結論は、出発点となった最初の観念と、直角的に反対している。つまり、無限の自由から出発したわたくしは、無限の専制主義をもって論を結んでいるのです。しかし、一言申し添えておきますが、わたくしの到達した結論以外、断じて社会形式の解決法はありえないのです。」
(『悪霊』に登場するシガリョフの社会統治をめぐっての言葉。新潮文庫の下巻のp101。)
※、「(小説『悪霊』の登場人物として、)このほかに独断的革命理論家シガリョフがおり、彼によれば、革命が与える自由は全体的専制政治を導き出すためのものであるということになる。この理論がすぐれて(=とりわけ)予言的であることは今では私たちにも分(わか)っている。」
(内村剛介氏(評論家・ロシア文学者)の言葉。)
9、
『悪霊』の中の、扇動家の策士ピョートルが超人的な美貌のスタヴローギンを人心掌握のためのカリスマとして表に立てようとする図式。
※、のっぺりした仮面のような容貌も含めてヒットラーはスタヴローギンに似ている、と小林秀雄(文芸評論家)は随想「ヒットラァと悪魔」で述べている。
10、
・『悪霊』の中の、秘密結社グループの革命組織活動のスタンス〔スパイ制度や密告を提唱、時に中傷や殺人もありえる〕
(『悪霊』の中のグループの首領ピョートルが語るスタンス。新潮文庫の下巻のp124〜p125。)
・グループの仲間によるシャートフ殺害
11、
「私は『悪霊』の中で、この上なく純潔な心を持つ人間でさえ、身の毛のよだつような悪事へとままきこまれていくその多様をきわめた動機を描こうとしたのである。」
(週刊雑誌「市民」に発表された「現代的欺瞞のひとつ」(1873年)の中のドストエフスキーの発言 )
12、
「神のない良心は恐怖そのものである。そんな良心は、最も不道徳なところにまで迷いかねない。」
(晩年のメモより。筑摩書房1997年刊『ドストエフスキー 未公刊ノート』のp158。)
※、ドストエフスキーは当時のネチャーエフ事件に取材して『悪霊』を創作し、その事件に時代を越えた問題性を読み取り、将来においてもあり得る事件として警告したと言える。
※、1995年の地下鉄サリン事件においても容疑を受けたオウム真理教内のありようをめぐって、論者たちによって『悪霊』の登場人物や人物関係などのことが想起されて、『悪霊』の内容がしばしば引き合いに出された。
※、以上のことなどから、ドストエフスキーの『悪霊』は、「二十世紀の革命とテロリズムの予言書」とも言われている。
13、
「わしはときどき、神がなくて人間がどんなふうに生きていくのだろう、いつかそんなことの可能な時代が来るのだろうか、と考えてみないわけにはいかなかった。わしの心はそのたびに不可能だという結論をくだしたよ。しかし、ある時期が来れば可能かもしれない……〔以下、略〕」
(『未成年』のヴェルシーロフの言葉。第3部第7章の3内。新潮世界文学のp570。)
14、
「いったんキリストを拒否したならば、人間の知恵は驚くべき結果にまで暴走しかねない。これは公理である。」
(小沼文彦訳。1873年12月号「市民」掲載の『作家の日記』第16章より。ちくま学芸文庫『作家の日記1』のp399。)
※、上の文章4・文章5・文章12・文章13・文章14の、
「神なくして」
「神なくしてたてられた」
「キリストの力を借りようとしない」
「神がない」
「神のない良心」
「神がなくて」
「キリストを拒否する」
といった表現は、ドストエフスキーの思想のキーワードの一つ。ドストエフスキーには、類似表現として、
・「神の無い生活」
(『未成年』のマカール老人の言葉。)
・「神なしの善行」
(『カラマーゾフの兄弟』より。)
・「キリストなしの善行」
(『未成年』より。)
・「神とキリストを抜きにして、人類の運命を解決すること」
(『作家の日記』より。)
といった言い方も見られる。
15、
・『地下室の手記』における主人公の来たる文明社会に対する毒舌や批判
・二二が四は死の始まりという発言
「よく考えてみれば、諸君、二二(ににん)が四というのは、もう生ではなくて、死の始まりではないだろうか、すくなくとも人間は、なぜかいつもこの二二が四を恐れてきたし、僕などは今でもそれがこわい。」
(『地下室の手記』より。)
※、森 和朗氏(評論家)の言(げん)。
「ドストエフスキーは神秘的な宗教思想家と見られがちだが、近代の科学技術が人間に突きつける問題を彼ほど鋭く洞察した人がいるだろうか。「二二が四という方程式」の天文学的な射程を、おそらく彼は直感的に見通していたであろう。」
16、
「ひとり鉄道ばかりが《生命の源》を濁すものじゃありません。そういったものをみんなひっくるめて呪うべきなんです。最近、数世紀における科学や実際的方面の風潮をみんなひっくるめて、あるいは実際に呪うべきなのかもしれません」 (途中二行略) 「呪うべきです、呪うべきです、たしかに呪うべきですよ!」
(以上、レーベジェフの言葉。『白痴』の第三編の4内。)
※、上の少し前の箇所で、作者ドストエフスキーは、ヨハネの黙示録の中の茵蔯星(ニガヨモギ)についてのレーベジェフ(黙示録の講釈者でもあった)の説(せつ)に触れていて、その茵蔯星はヨーロッパの鉄道網のことだ(当時ロシアにも鉄道は敷設され始めていた)と考えて、
「鉄道は呪うべきものであり、それは人類を破滅させ、《生命の源》を濁すために、この地上に墜ちた災厄だ」
とレーベジェフに述べさせている。
※、
ヨハネ黙示録第8章10〜11節
「第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ。」
※、甚大な被害をもたらした1986年のチェルノブイリでの原発事故は、チェルノブイリという地名はその地に生えているニガヨモギから命名されたウクライナ語だということもあり、ヨハネ黙示録の中のその記述が実現したものとして当時のソビエト国民は恐れ戦(おのの)いたとされている。
※以上、「事項・テーマ別ボード」に2010/04/03に投稿したぶん(一部補記)より。
※、ヨハネ黙示録のその箇所を作中で取り上げて注目したこともさることながら、上記のその解釈は、鉄道そして飛行機・自動車の開発へと引き続いていく科学技術の発展により築かれる機械物質文明〔特に原子力の軍事転用の原子爆弾や核兵器の使用、原発の事故、有害物質の排出による公害や自然環境の破壊の進行〕が下手をすると生命の源までもおかしてしまう災厄と破滅を人類にもたらすことをドストエフスキーは予見的に警鐘したと言えます。2011年の福島第一原発事故においても、私たちは、また、上記の箇所により、ドストエフスキーのことを想起したのでした。
17、
『地下室の手記』の主人公の人物像やその独白
※以上、「意見・情報」交換ボードの2001年09月15日の芋粥さんの書き込みのぶんを補足。
18、
「今すべての人はできるだけ自分を切り放そうと努め、自分自身の中に生の充実を味わおうと欲しています。ところで、彼らのあらゆる努力の結果はどうかというと、生の充実どころか、まるで自殺にひとしい状態がおそうて来るのです。なぜと言うに、彼らは自分の本質を十分にきわめようとして、かえって極度な孤独におちいっているからです。現代の人はすべて個々の分子に分かれてしまって、だれもかれも自分の穴の中に隠れています。だれもかれもお互いに遠く隔てて、姿を隠しあっています。持ち物をかくしあっています。そして、けっきょく、自分で自分を他人から切りはなし、自分で自分から他人を切りはなすのがおちです。ひとりひそかに富をたくわえながら、おれは今こんなに強くなった、こんなに物質上の保証を得たなどと考えていますが、富をたくわえればたくわえるほど、自殺的無力に沈んでゆくことには、愚かにも気づかないでいるのです。なぜと言うに、われひとりをたのむことになれて、一個の分子として全を離れ、他の扶助も人間も人類も、何ものも信じないように、おのれの心に教えこんで、ただただおのれの金やおのれの獲得した権利を失いはせぬかと、戦々兢々としているからです。真の生活の保障は決して個々の人間の努力でなく、人類全体の結合に存するものですが、今どこの国でも人間の理性はこの事実を一笑に付して、理解しまいとする傾向を示しています。しかし、この恐ろしい孤独もそのうちに終わりを告げて、すべての人が互いに乖離(かいり)するということが、いかに不自然であるかを理解する、そういった時期が必ず到来するに相違ありません。そういった時代風潮が生じて、人々はいかに長いあいだ闇の中にすわったまま、光を見ずにいたかを思って、一驚を喫(きっ)するに相違ありません。 ―(以下略)― 」
(米川正夫訳。『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の言葉。第6編の(D)。新潮文庫の中巻のp80。)
19、
「キリストの来臨までは戦争が絶えることはないだろう。これは予言されたことである。」
(「メモ・ノート(1875〜1876年)」より。)
※、ドストエフスキー没後、現在まで、日清日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦、戦後も、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争、ウクライナ紛争、等々、続いている。
ドストエフスキーが(キリスト教で)言う「キリストの再臨」が出現して民族・国歌間の戦争が無くなることは、その時期とその事態も含めて、まだ、わからない。
20、
「彼は病気の間にこんな夢を見たのである。全世界が、アジアの奥地からヨーロッパにひろがっていくある恐ろしい、見たことも聞いたこともないような疫病の犠牲になる運命になった。ごく少数のある選ばれた人々を除いては、全部死ななければならなかった。それは人体にとりつく微生物で、新しい旋毛虫のようなものだった。」
(『罪と罰』でラスコーリニコフが見た夢より。「エピローグ」の2内。)
※、この箇所は、2019年末に中国の内陸部の武漢(=アジアの奥地)で新型コロナが発生して以降、全世界へと感染が広まっていることを予見した箇所と捉えておきたい。なお、この箇所の後の各国の軍隊が独善と不信に陥り、争いを始め、各国の軍隊が混乱していったことは、コロナ蔓延ともつながりのある2022年2月以降のロシアのウクライナ軍事侵攻と攻防のことなどを示していると言えるのかもしれない。
21、
ステパン氏は、放浪に出て、場末に至り、そこの一部屋で息を引き取る。(以上、趣意)
(『悪霊』の内容より。)
※、この内容は、後のトルストイの家出とその途次の駅舎での客死を予見したものと捉えておきたい。細かい点は異なるであろうが、夫人との関係なども対応している。
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