ドストエフスキーの小説の特徴
(更新:25/04/01)
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投稿者
Seigo、有容赦


※、  〕はその投稿者。





Seigo
()(24)
(更新:25/04/01)


〈作中の出来事・展開・
全体の構成の面〉

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主要登場人物が、他所からその町に戻ってきて、騒動や混乱や事件を引き起こしていくというパターンが見られること。

五大長編においては、『カラマーゾフの兄弟』『未成年』『悪霊』『白痴』に見られる。『罪と罰』も、末部で、主人公の未来におけるシベリアから戻ってくる更正の物語(それは『白痴』で展開されているという見方もあり)が暗示されていて、このパターンが全く無いとは言えない。


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登場人物同士の対話を重視し、登場人物の来訪や訪問があって部屋の中で長く会話ややりとりをしていくシーンが多い。

その対話の中で過去の出来事が語られ、人物の内面や思想を描き出していく手法を用いている。

来訪の途次のシーンや街中を放浪するシーンも多い。


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主人公たちは、しばしば、いちかばちかの「冒険的な行動」に出る。


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各小説には、たいてい、「殺人」「自殺」という事件が起こっている。

登場人物が殺害に見舞われること。その殺害は日常において凶行される。

殺害が未遂に終わるのは『白痴』のムイシュキン公爵、『未成年』のヴェルシーロフとカテリーナ・アフマーコワぐらいで、『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』『白痴』をはじめ、作中では、当人は運命として受け入れていくかのような殺害とその屍(しかばね)の沈黙が進行する。



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登場人物が一堂に会して騒ぎとなって盛り上がるシーンがある。バフチンが指摘したカーニバルの場面である。


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多くの作品が悲劇的な結末を迎え、それによって人間の矛盾や罪を浮き彫りにしようとしている。


登場人物が幸せの絶頂に至っている際に、別の出来事や事件が伴って現れて、その登場人物を死・不幸・艱難(かんなん)・悲劇に突き落とすなど、作中で登場人物にひどい仕打ちを行う傾向がある。



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初期から後期にまで渡って見られるものであるが、恋愛が入っている作品では、主人公の男性が一人の幸せでなさそうな女性(多くは伴侶や愛人あり)を知って、彼女に心ひかれたり、彼女を助けたいと思ったりして、片思いやストーカーのままの場合も含めて、交渉していくが、しまいには、出来事が生じて彼女はその相手と共に去っていってしまうというパターンが数多く見られる。

『罪と罰』のラスコーリニコフ・ソーニャ、『カラ兄弟』のドミートリイ・グルーシェンカの場合は例外だが、ドストエフスキーの恋愛小説は基本的には悲恋小説と言えるだろう。


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各小説の末部には、たいてい、「後日談」の章が添えられている。



〈題材・小道具の面〉

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場面の小道具として、「手紙」「ピストル」が、しばしば使われる。


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10)
各小説は、金銭問題や遺産問題が筋にからんでいる。


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11)

各小説には、たいてい、「夢」の記述がみられる。



〈手法の面〉

(12)

小説の分類として、『罪と罰』『白痴』をはじめ三人称形式のものと、『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』をはじめ「わたし」なる語り手が存在する小説がある。

前者は、冒頭は場面の描写から始まっていて読者が小説世界に入りやすい出だしになっている。後者は、最初は登場人物のことが語り手によって長く語られていて、読者としては冗長気味に感じられる出だしになっている。


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13)
『地下室の手記』『未成年』『おとなしい女』『死の家の記録』(『貧しき人びと』もこの部類に入るか)などの一人称形式の語り・手記において作家としての本領を発揮している。

中期の『虐げられた人びと』『罪と罰』『白痴』などの作者の客観的な描写・語りを採用した小説も、いちおう、成功を収めている。

なお、『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』では「私」なる人物が、時に場面に登場しつつ、出来事を伝えていくという形を採()っている。

異なる人称形式の語りが見られることは、小説をより良く完成させることを目指したドストエフスキーの試行錯誤の跡を示していると言えるだろうが、各々の人称形式の語りは、どういう点で有効と考えて採用したのか、あらためて、じっくり検討してみたいところだ。




〈登場人物の面〉

(14)

「青年」を主人公にした小説が多い。「子供」もよく登場する。


(15)

中期までは、『罪と罰』『白痴』をはじめ主人公の父親不在の小説が見られるが、後期の小説には、『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』と「父と子」という設定とそのテーマが出てきている。


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16)

恋愛ものでは、たいてい、対比的な二通りのタイプの女性(気位の高い良家のお嬢様タイプの女性と世間では娼婦や囲い者として阿婆擦れ(あばずれ)とみなされているが心の清らかな女性)が登場すること。

者は、母性本能をくすぐる少年の心を持つ男性を好みその世話をするのがたまらなく好きだが、彼が後者の女性に惹()かれていてその三角関係に苦悩していく。


(17)
主人公や登場人物に、友人や看護婦のように寄り添う女性・男性がしばしば配(はい)されている。

『罪と罰』では、
・ラスコーリニコフに
好人物のラズミーヒン
・ラスコーリニコフにソーニャ

『白痴』では、
・ムイシュキン公爵とラゴージン
・ナスターシャ
フィリポヴナに
ムイシュキン公爵

『悪霊』では、
・キリーロフとシャートフ
・スタヴローギンにダーシャ
・リーザにいつも付き添っ
ている婚約者マヴリーキー
・ステパン氏に
ワルワーラ夫人
・ステパン氏に
ソフィア・マトヴェーエヴナ(侍女)
・シャートフとマリー(元妻)

『未成年』では、
・アルカージーと妹のリーザ
・アルカージーにワーシン
・ヴェルシーロフにソーフィア

『カラマーゾフの兄弟』では、
・アリョーシャにラキーチン
・アリョーシャにリーズ
・ドミートリイにグルーシェンカ
・イヴァンにカチェリーナ
・スメルジャコフにマリヤ

『貧しき人びと』では、
・マカール・ジェーヴシキン
と少女ワーレンカ

『虐げられた人びと』では、
・ナターシャにイ
ワン(語り手の私)

『百姓マレイ』では、
・9歳の私に農夫マレイ
『白夜』では、
・ナースチェンカに私

『死の家の記録』では、
監獄の敷地内の野良犬
に私(ゴリャンチコフ)

といった具合だ。

ドストエフスキーは、登場人物に寄り添う友人や男性・女性を設けることで、小説に感興を添えるに終わらず、その登場人物の救い・信頼・慰労の道の可能性を示そうとしたのだと思う。

人には寄り添って看護し慰めてくれる人がいることが大切だというドストエフスキーの人間観や優しさも現れていると言えるだろう。

(18)
ドストエフスキーの小説の特徴というか、ドストエフスキーの小説の良さは、登場人物がよく描かれている点にある。

初期の作品から、そうであり、最後の『カラマーゾフの兄弟』では、各々の登場人物が円熟した造型になっている。

そして、どんな悪玉の登場人物であっても、どんなダメ人間の登場人物であっても、その人物の良さを垣間見(かいまみ)せていくことを作者は忘れていない。

以上のような点は、登場人物のどのような描き方からくるのか、ぜひ知りたく思う。

たとえば、各登場人物が自分の思いの丈(たけ)を述べていくところなどにそれが感じられるように思うが、そこには、作者のその登場人物への愛着愛情があり、大なり小なり作者の何らかの分身が入(はい)っているということかもしれない。




〈描写の面〉

(19)
登場人物の内面心理を非常に深く掘り下げて描写し、人間の矛盾した心理状態や、倫理的な葛藤を繊細に描いている。変人の生態を描くことも多い。


(20)
描写の面で、作中に自然や風景の描写が少ない



(21)
ドストエフスキーの小説においては、登場人物の心の葛藤を描いていく中で物語の筋(すじ)が展開していく。

そのことを、作家の伊藤整氏は次のように適格に指摘している。

ドストエフスキイの小説においては、人間の心が善から悪にかわり、悪から善にかわる、というその変化と心の戦いのあいだに筋が進行する。それは古い小説においての、善人と悪人がたがいに相手を打ち負かそうとして戦いあう、というあつかいと同質のものである。つまり、古い小説では、善玉と悪玉の対立で物語が書かれたが、新しい小説では人間の心の中の、愛情や我欲の対立と変化を描くことが小説だというふうに考え方も書き方も変(かわ)って来たのである。
[
伊藤整著『文学入門』(光文社1954年初版)より。]

従来の物語は、人物が、善玉と悪玉に分かれていて、その争いや戦いで物語が進んでいくが、ドストエフスキーの小説の場合は、個人の内面の善と悪が争い変化していって、個人の内面劇になっているという指摘は実に鋭い。

ドストエフスキー自身も、そのことを、

・わたしは、人間のたましいの
奥底をあますところなく
描き出しているのだ。
 (「メモ・ノート」より。)
・神と悪魔が闘っている。そして、そ
の戦場こそは人間の心なのだ。
(
『カラマーゾフの兄弟』の
長男ドミートリイの言葉。)

と述べている。



〈テーマの面〉

(22)
罪と罰、人間の存在意義、神の存在など、宗教的・哲学的な問題を小説の中で探求している。


(
23)
当時のロシア社会の矛盾や病理を鋭く批判し、社会問題に対する深い洞察を示している。


(
24)
人間や社会の暗部を描きながらも、作中には、明の部分や光(救い)の方向を大なり小なり設けることを作者は忘れていない。

ほとんどの作品がそうであり、最も救いがたいほどの暗部が多い『悪霊』や『死の家の記録』においても、それは見られる。ドストエフスキーの文学の良さはこのあたりのことにあると言えるだろう。





〔有容赦さん〕


○登場人物類型

・殆(ほとん)ど全ての主要登場人物が、変人と言ってよいくらい極端な人間ばかりである。あるいは、平凡な人であっても、大体重要な場面で一回くらい極端な行動を取る。

・主人公は、大体2233歳くらいの男性である。

・主人公を巡って対立するか、ないしは対照的な二人の若い女性が登場する。

・非常に自尊心が高く、そのために不合理とも言えるような行動をとる美女がしばしば登場する。

・嫉妬から身を滅ぼす人物が多い。

・狂気に至った女性、それも大抵、宗教的な女性がしばしば登場する。

・神懸(かみが)かり的な人物と、その崇拝者達もときどき出てくる。

・社会の底辺にいるような、大酒飲みで、経済的に殆(ほとん)ど破綻(はたん)した、しかし人間観察力や人間的な魅力のある人物がしばしば登場する。

・知性は豊かだが、嫉妬深く、他人のプライバシーとその暴露に異常に興味を持つ、現代日本で言えば「ワイドショーの芸能レポーター」的な人物がしばしば登場する。

・卑屈な太鼓持ちのような人物がしばしば登場する。

・他人の思想を鵜呑(うの)みにし、生噛(なまかじ)りのままで滑稽な行動を取る人物がしばしば登場する。

・頭痛や幻覚に悩まされる人物が多い。


○その他

・非常に長い台詞(せりふ)が多い。

・一日ないし(=あるいは)数日の間に、非常に多くの事件が起き、数百ページ読んでも時間があまり経過していないことが多い。

・一人の人物が、他の多くの人物の間を、一日かけて走りまわるようなパターンが多い。

・何人かの人物がいるところへ、まるで芝居の舞台に出てくるように他の人物がやってきて、それをきっかけにストーリーが新展開するような場面が多い。

・女性がヒステリーを起こし、それで一つの場面が終わるケースがよくある。

・聖書、特に、福音書からの引用が、各作品の心臓部に近い所に現われる。

・大地に接吻する、という動作が、しばしば重要な意味を持つ。

・十字を切る、という動作が、しばしば滑稽な描写として現われる。

・ピストル、手紙ほどではないが、聖書、聖像、灯明、首にかけた十字架が小道具に使われる場面が散見される。

・トランプもしばしば登場する。( これは作者がギャンブラーなので当然でしょうが。)

・若い登場人物が、出版関係の仕事を手がけようとする場面が散見される。

・登場人物が、別の人間のアパートや別荘の一角を、間借りしていて、それがストーリーに関係しているケースが多い。

・ペテルブルグの描写は多いが、モスクワは、そこに行く人物が多い割に描写が少ない。

・プーシキン、ゴーゴリに対する賞賛と、他の多くのロシアの文学者、知識人等に対する非難がしばしば出てくる。

・ドイツ人など特定の外国人に対する見解が、ストーリー上の必然性はさほどないにも拘(かか)わらず、表明されることがある。

・ロシア社会についての見解が、ストーリー上の必然性はさほどないにも拘(かか)わらず、表明されることがある。

各小説にはたいてい「殺人」「自殺」という事件が起こっているということ
については、その犯人や、(無神論者である)自殺者が、他の場面では、人助けなど、打算のない献身的行為を働くことがしばしばある。


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