ドストエフスキー―ポリフォ
ニックな小説を通して
の啓蒙的な宗教思想家
ドストエフスキーをめぐって、
ドストエフスキーは、「思考・哲学」型の作家というよりは、むしろ「気分・感覚」型の作家であり、作中の登場人物にも、しばしばドストエフスキーの自己の投影・分身として、「気分・感覚」型の人物が多く見られる
とする見方を90年代に中村健之介氏は打ち出しました。
〔中村健之介著『知られざるドストエフスキー』(岩波書店1993年初版)の第1章「ドストエフスキーの文学の主役たち」の中の文章「感覚の作家」。p11〜p15。〕
中村氏のこの見方は、後者を強調するあまり、ドストエフスキーの前者としての性格や価値を私たちが軽視してしまう結果になってしまうのではないか、と思う。
ある批評家が、
ドストエフスキーは作家にならなかったら、古今におけるすぐれた思想家・哲学者にもなれたであろう
と言ったように、
表向きは作家・ジャーナリストであったドストエフスキーは、同時に、事実として、思索による掘り下げや洞察においてすぐれた思想家(哲学者)であったのであり、
思索によって、自分の執着しているテーマや自己の体験や世の事件の本質を徹底的に(究極まで)掘り下げていくという氏の才能は、
言論誌における言論活動
(この分野での言論活動では、ドストエフスキーの物言いは、多分に、モノローグであり、ドグマ的になっている)
においてよりも、
小説の創作の中でポリフォニックに(多極的に、弁証法的に)、豊かに、発揮されている。
ドストエフスキーの後期の小説群には、宗教思想(キリスト教思想への教導)が顕著であり、
ドストエフスキーは、
小説という文学的(劇的・対話的)な形象化を通して、生涯において自分が掘り下げていった考え(テーマ)や宗教的な信念を、それに対立する考えや信念も同時に作中の登場人物の言説の中に含ませて、双方を対比させて(=ポリフォニックに)読者に提示しつつ、豊かに(止揚的に、弁証法的に)表現していった啓蒙思想家(宗教思想家)であった
と言える。
そういう意味で、
ドストエフスキーの小説は、芸術的に(文学的に)すぐれているとともに、
後期になるほど、当代と未来の社会に向けての、憂国・警世の文豪の作品として、思想書(宗教書)、人間批判(人間風刺)・社会批判の書という性格を帯びており、
その主要小説群の内容は、思想(観念)につかれた登場人物たち、自分が負った宿命に生きる登場人物たちの帰結を、作中で作者が厳しく見すえていくという点で実験的であり、人々(読者)に向けて啓蒙的(教導的)な傾向がある
と言えるだろう。
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