《 読後感・短評 》
※、末部の[ ]内は、
その投稿者のお名前です。
『カラマーゾフの兄弟』
「カラマーゾフの兄弟」
[ レニさん ]
私はこの小説を三〜四ヶ月かけて読み終わったばかりです。のでこの小説の全貌は掴みきれていませんし、「読後感は、疲労ばかり」といった感じでした。
とはいえ、面白いと感じた場面もかなりありました。個人的に気に入ったのは、ゾシマ長老の伝記、一本の葱、イワンが悪夢を見るシーンです。
長老の伝記では、「自分自身の内に人生の充実を味わおうとする努力から生ずるのは、完全な自殺に他ならない」「地獄とは、もはや愛することのできないという苦しみである」などの鋭い警句に恐れ入りました。特に、「人間の孤立の時代」という一句には、現代(日本)における世帯の孤立化や核家族化を予言しているかのようで恐ろしくなりました。
一本の葱の章は、「ただただ泣けました。」の一言に尽きます。
イワンの悪夢では、イワンの思想や精神を幻想的に、かつ的確に描写する作者の手腕に魅了されましたし、悪魔とのやりとりも読んでいて面白かったです。
この小説はしばらくしたら、また読み返してみたいです。
「カラマーゾフの兄弟」
[ 小嶋保さん ]
「カラマーゾフの兄弟」を読んで気になるのが、ドストエフスキーが「ヨブ記」をどのように考えていたかだ。
「ヨブ記」は旧約聖書の中の1つのお話し。信心深いヨブがどのくらい信心深いかを、神が悪魔と賭けをするという内容だ。
ヨブはこの賭けのため、財産を失くし、家族も死んでしまうのだが、神を最後まで恨まず神への信仰心を捨てなかった、という要旨。
「カラマーゾフの兄弟」では「ヨブ記」は1度、言及されている。ゾシマ長老が生まれて初めてキリスト教に感激するのが、教会で聞いた「ヨブ記」だ。
罪のない人が罰を受けるというのは「カラマーゾフの兄弟」の広義の意味でメインテーマであり、「カラマーゾフの兄弟」そのものが現代の「ヨブ記」だ。無実の罪で有罪となるカラマーゾフの長兄はある意味で現代の「ヨブ」だ。
狭義の意味で、罪のない人が罰を受ける話しは、「大審問官」を含む第五編「プロとコントラ」に出てくる。
地主の愛犬を間違えて怪我をさせた8歳の子供を、地主が200匹の犬をけしかけ噛み殺させる。それも子供を裸にさせ、多くの人が見物する中、母親の目の前で。
また、5歳の女の子が寝糞をしたことに怒った母親が、その糞を女の子の顔や体に塗りたくり、食わせ、最後は裸にさせ真冬に便所に閉じ込めるというもの。
この罪のない人が罰を受ける話しは、次男のイワンが3男のアリョーシャに語るものだ。次男のイワンはヨブ記のヨブと違い、これらの理不尽な罰を認めない。ヨブは、色々な不幸が襲ってきても神
を恨まない。そして以下のようなことを言う。「神様、あなたはわたしに罰をおくだしなさいましたが、それでもあなたの御名が祝福されますように」
ドストエフスキーは「ヨブ記」に感激するゾシマ長老を古いタイプの信仰者と考えていたと私は思う。ゾシマ長老は、カリスマ性のある僧侶で、ロシアの人々は、ゾシマ長老はイエスのように死後、復活するのではないかと期待されていた。
しかし、ゾシマ長老は死後、復活はせず、他の亡くなったカリスマ性のある僧侶とは違い、遺体の腐敗がすすみ、悪臭が漂ってしまう。
「ヨブ記」に感激し、その話しの内容を疑いもしないゾシマ長老を古いタイプの信仰者とドストエフスキーは設定していたと思う。また、ドストエフスキーは、ゾシマ長老はそのことに気づいており、新しい信仰の形を3男のアリョーシャを託す意味で、アリョーシャに教会を去らさせる話しを書いたのだ、と思う。
『罪と罰』
「罪と罰」
[ レニさん]
カラマーゾフを読み終わった後に、私を襲った「読み足りない」という強烈な感情に引き寄せられるがままに書店で罪と罰を買い、21日(三週間)で一気に読み終えました。
この小説を読んで私が一番強く感じたのは、ラスコーリニコフが自分の分身だという感覚です。知的で残酷でありながら、同時に心優しい彼の姿に、私は自分の理想と現実を同時に見たのです。「貧しいゆえに大学を中退し、その後は世間とかかわりを持たずに過ごしている」という設定にも、私は深い共感を感じました。
ルージンとスヴィドリガイロフに対しては、ドストエフスキーの思想が読み取れます。ルージンは(恐らく)富や名誉を信望する人々を象徴する存在で、彼に対する作者の目は非常に冷ややかです。特に第五章3のルージンの姿には、証取法違反で逮捕された堀江貴文氏などにも通じるところがあり、作者の人物造形の凄さがうかがえます。
スヴィドリガイロフはニヒリストの象徴で、金持ちの妻(マルファ)を持っても、可愛い幼女(ペテルブルグで迎えた妻)を得ても満足することができず、悲惨な最期を迎えてしまいます。彼のような人間に対して作者は、「満足は与えられるものではなく感じるもの」だということを示そうとしたのではないでしょうか。
この強欲な二人に対して、ラスコーリニコフにはソーニャと貧しい生活のみが残ります。にも関わらず、彼らは大きな満足感で満たされます。彼らの姿には、人間が互いに愛し合うことにのみ幸福への道はある、という作者の思いがあるのでしょう。
読み終えた後、私は満足と、すがすがしさを覚えました。そして、この小説が傑作であることは間違いないと思いました。
「罪と罰を読んで」
[ 紫東遥さん ]
何回読んでも泣けてしまう箇所があって。
『ねえ、お母さん、よしどんなことが起ろうと、僕についてどんなことをお聞きになろうと、また、僕のことを人があなたになんと言おうと、お母さんは僕を今のように愛してくれますか?』『僕はねお母さん、あなたに、僕がいつもあなたを愛していたことをはっきり信じていただくために来たのです。』『僕はじかにお母さんに、たとえあなたが不幸におなりになっても、やはり、あなたの息子は、自分自身よりもあなたを愛していることを信じていて下さい。僕がいかにも冷酷で、あなたを愛していないなどとお思いなったことは、みんなまちがいなのです。僕はいつになったって、あなたを愛しなくなるようなことは断じてありません』
ラスコーリニコフのことあまり好きじゃありません。だけどこのページだけはどうしても忘れられなくて。もう会えないかもしれない母に素直に気持ちを打ち明ける彼の心がとても伝わってきて、何度でも泣けてしまうのです。自分のことを愛していてほしいという気持ちと、自分が母親をどんなに愛しているかを精一杯告白している彼と、同化して涙があふれてきます。親の期待に答えたかった息子として、親の期待を裏切ってしまった息子として、事実を言えないこと、失望されたくない。
小説の中の母親との会話の中で、唯一の優しい息子の言葉。どうしてこんなに泣けるのか。自分でも分析できませんが、二人の親子関係が自分に似ていると思うからかもしれません。自分では自分の人生を何一つ後悔していないのですが、親の立場に立ってみると、親の期待にそえなかった自分、親に申し訳ないという気持ち、世間一般の娘らしくないことに両親は肩身のせまい気持ちでいるだろうと、親不孝というか、でも自分を変えることは出来ない。このページに出会ってもう一度、罪と罰を読み直してみようと思いました。ラスコーリニコフを違う目でみて、彼の気持ちを理解したい、好きになりたいと思いました。ソーニャやラズミーヒンのように。私にとっての罪って何だろうということも考えました。多分私の罪は私が私であり続けること、という気がします。私が自分を通すことでたくさんの人に嫌な思いをさせたり、傷つけたりしているとわかっていても、自分を抑えることは自分が生きているということにならない、と思うのでこの考えを今は変えられません。
「罪と罰」
[ レチャさん ]
今、私は小学6年生です。罪と罰を読んだのは去年、私が5年生だった頃でした。以前から興味があり、一度読んでみたいと思っていたので図書館で借りてきて読み始めました。
最初はどんな話なのか、登場人物は誰なのかも知らず、ただ読んでみたいと思っていただけでした。お母さんからは『ある青年がお婆さんを殺してしまう話。』と聞いていました。でも実際に読んでみるとラスコーリニコフがお婆さんを殺した話。だけでは済まないがしました。
…私は今まで本を読んでいて(小説も含め)おかしい話や笑える話は早く次のページに行きたいと思ったし、つい時間を忘れて読んでいた事もありました。罪と罰はそういうおかしい話じゃないのに時間を忘れて読んでいました。それはいろんな面で興味深かったからです。
あまり難しい事は分かりませんが、罪と罰を読んでとても勉強になったと思いました。そして人間にはいろんな感情があるんだなという事も分かりました。今まで難しそうな本は読む気がしませんでした。
でもドストエフスキーさんの書いた本は、私に難しい本を読んで損はないと教えてくれました。まだ罪と罰しか読んだ事はありませんが、『貧しき人々』や『カラマーゾフの兄弟』などいろんな本を読んでみたいと思いました。
難しい本を読んで損はないと教えてくれたのと同時に、罪と、罰の複雑さも知りました。罪と罰ほど複雑なものは無くて、さらに罪と罰ほど混じりけの無いものは無いんじゃないかと思いました。
罪と罰を読んだおかげで、新しい知識も得たし、私はあの話を読んでとても得をしたと思います。
「罪と罰」
〔 Tatsuoさん
]
私はこの大作「罪と罰」を高校の時に読みました。高校の図書室の本で、かなり古ぼけた年期のいったものでした。1ページに上下2段という構成だったと思います。「とにかくこの厚い本を読破するんだ!」
という意気込みで、高い山にでも登るような気持ちで読みはじめました。そして、ようやく読み終えました。
読み終えた達成感と「漠然とした”これってひょっとして愛かな”」という思いが伝わってきました。
なんとも感想というにはあまりにも漠然とした感想でした。今、新たに読み返せばまた違う思いが沸いてくるかもしれません。
「罪と罰」
[ Toshioさん ]
15年ぶりぐらいに読み返しました。勝手な感想を書きます。前回読んだときと比べて、テーマの広がり、
真面目さに感心しました。以前は中学生だったので、殺人のシーンに戦慄(せんりつ)を覚えたぐらいだったのですが。主人公がなかなか(あるいは最後まで)自分の行為を否定できずに苦しむところが良かった です。やはり、この小説は根源的です。どうでもいいことは書かないという気概(きがい)があります。小説はこうでなくてはならないでしょう。真面目な割には、各場面には盛り上がりがあって、楽しめました。
特に、マルメラードフの葬式から、その妻が狂死に至る流れは良く出来ていると思います。それに圧倒されたのはキャラクターの誇張。劇画的といってもいいぐらい強烈ですね。時にグロテスクでさえあります。
全然違うのでしょうが、荒木ひろひこの漫画「ジョジョの奇妙な冒険」を連想させました。「罪と罰」を漫画化するなら、彼しかいないでしょう。それはともかく、強烈な個性が惜しげもなくぶつかり合う様は見ごたえ充分でした。ドストエフスキーの最大の魅力はキャラクターのぶつかり合いの迫力にあるのではないでしょうか。私のお気に入りは「裏主人公」と言われるスヴィドリガイロフです。逆にグロテスクが鼻に付くこともたびたびありました。私の読解力が拙(つたな)いこともあるでしょうが、人物の心の動き、細かい行動(特にソーニャ)を見ていると思わず「そんなやつおらんで」と言いたくなることもありました。
また、話の流れ、文章の流れにプロらしくないたどたどしさも感じました。例えば主人公が「針を刺されたようにぴくりとして」気持ちを変化させるという場面があったと思いますが、かなり強引だと思っ
てしまいます。世界一の作家に「プロらしくない」とはおこがましい限りですが、このあたりのグロテスクさは、確かナボコフが拒絶反応を起こした部分ではなかったでしょうか。もっとも、私は美的センスに合わないと拒絶する気はありません。たどたどしさは些少(さしょう)なことで、全体的には余りある迫力と劇的効果があの力技にはあると思います。
『地下室の手記』
「地下室の手記』
[ 「とら」さん ]
私のドストエフスキーとの出逢いはこの作品を通じてでした。衝撃的でした。まず、第一ページ目に、ぼく、という代名詞が14回も出てきます。これでもう逃れられなくなりました。読書と物書きばかりしていて、世間 との折り合いが悪かった(といっても、高校生の時のことですが)、当時の私の精神状況は、この地下室に通じるものが在ったのです。自意識過剰で、自分に縛られてがんがら締めになっていた自分にとって、この、ぼく、の反復は、それこそ、ずんずんと響くものであったのです。「だが、それはともかく、いっ
ぱし人並みの人間が、もっとも好んで話題にできることといったら、何だろうか?答−−−−−−自分自身のこと。では、ぼくも自分自身のことを話すとしようか。」この語り口に引きずり込まれないわけがありましょうか。で、後は、自意識のどろどろの、苦闘が続きます。第二部「ぼた雪にちなんで」では、娼婦とのエピソードを通じて、ずたずたになる主人公の姿が描かれます。さらに、最後のとどめは、週末に近い次の一節です。「聞かしてやろうか、世界なんか破滅したって、ぼくがいつも茶を飲めれば、それで いいのさ。」
紅茶を飲みながら読書する習慣の在った当時の(今も)私にとって、これでもう、我が身を
地下室の主人公になぞらえるのに十分でした。反面、自意識に苦しみながらも、それを勲章のように感じていた私にとっては、その何倍もの自意識を抱えた人物を造形した人物、ドストエフスキーを知ったことは、自分の存在価値を否定されたほどの事件だったのでした。
『二重人格(=分身)』
「分身」
[ 「なおみ」さん ]
この作品は解説によると発表当初から評価が低く評判もさっぱりだったそうですが、私はそうは思いません。丁寧な人物・状況の描写はあらゆるところに溢れ、中でも冒頭の部分、主人公ゴリャトーキンの部屋と寝起きの様子の描写は物見高い私を「一体何が起こるんだろう」とペテルブルグへ案内してくれた素晴らしい描写であったと思います。途中、主人公が新ゴリャトーキン氏と出くわすところ、ちょっとずつおしくなって社会から取り残されて行く様子、ドストエフスキーならではの表現はとても緊迫感がありどんどん小説に引き込まれてゆきました。また、全体の内容としては確かに「カラマーゾフの兄弟」やその他の作品に比べて永遠のテーマである人類愛とは?信仰とは?といったような思想的な大きなものが前面に押し出されてはいないかもしれません。しかし根本に流れているものは結局いっしょであると私は思っています。
主人公の持つ「こうありたい」「もっと出世したい」という欲望はいつの時代も誰しも同じであり、また、劣った者を疎外しがちな社会のしくみもいつの時代もところが違っても同じであり、そんなしくみの世の中からおちこぼれ発狂していく主人公を通してドストエフスキーは「これでいいのか」と警笛を鳴らしているのだと思います。また、この主人公のような一般社会に暮らす極々一般的な登場人物(果たして発狂した彼が一般的かは一概にはいえませんが)後々の作品にしばしば登場しているのも私にとってはなんだか興味深く
思えます。「白痴」の冒頭で二人と一緒に列車に乗っている人や「カラマーゾフの兄弟」で馬車に轢かれてしまう人、どちらも名前がぱっとでませんがなんとなく相通じる社会的立場の登場人物が後々の作品でも重要な役割をしめているように思うのは私の勝手な思い込みでしょうか?ドストエフスキーの面白い人物描写、状況描写、どこまでが現実か分からない読み物的な面白さ、社会への警告、人間の内面の葛藤の様子は筆舌し難いおもしろさがあります。初期の作品ながらもドストエフスキーの魅力を充分に発揮したこの作品は私の最も愛するものの一つに数えることの出来るものです。
発表時、冗長だと酷評されたそうですがきっとゴーゴリの「鼻」と比べられるからではないでしょうか?(「鼻」もまた面白い)決して冗長で読みにくいものではあ りません。 私をドストエフスキーの世界へ誘ってくれたこの作品をみなさんにお薦めします。
『未成年』
「未成年」
[ Motoiさん ]
ドストエフスキイも何度も読み返したという訳じゃないし、それどころかパソコンもやり始めたばかりなので、未熟もいいところなんですが、昨日、「未成年」を読み終えたので、ちょっと書いてみます。
全部読み終える前から、ちょっと、いや、だいぶ勿体無いことをしたかも、と思いながら読みました。という のは、前半の「暴風を内に孕んだ静けさ」の部分を読み流してしまったからです。特にカチェリーナやアンナが登場したときに、注意深く読まなかったので、登場人物の相互関係が混乱しました。
それは第一に、僕がアルカージイの「首っ玉にぶら下がる」という性質に、共感しすぎて(ドストエフスキイの
小説の特に主人公には、毎度自分と共通するものを感じさせられますね)、アルカージイの言動ばかり気にしてしまったからです。岩波文庫の赤帯には、「齢不惑を過ぎて霊肉の分裂に悩む主人公とその私生児」とかいてありますが、中年のつまらないぼやきのように感じられて侮ってしまいました。ヴェルシーロフが主人公とい
うのが気に入らず、彼が善人か悪人かというくらいしか気にしませんでした。
第二に、僕の読み方の幼稚さです。早く何か事件が持ち上がらないかな、と期待しながら読んでたので、この作品を冗長だと感じてしまいました。『二重人格』でさえ楽しく読んだのに。彼の作品の、もちろん心理描写に惹かれて好きなのですが、ストーリーに頼りすぎてた、と反省しています。ですが、この作品は、冷静に考
えてみると貴族のくだらないゴシップに過ぎないと思われる部分(「書類」)があると思います。これは今でも気に入りません。それに、誰某の家に駆けつけたが折悪しく不在だった、というような記述が多すぎる。期待してた思想もヴェルシーロフの貴族論とマカール老人と「理想」くらいで、後は断片的だったと思います。
しかしこれは僕の思い上がりでしたね。米川正夫氏の解説を読んで、正直言って驚きました。ヴェルシーロフ からスヴィドリガイロフ、スタヴローギン、イワン・カラマーゾフらを連想できなかったのは不覚です。さらに彼のナロードニキ的な部分や、ソフィヤとカチェリーナの共通性、いける生命と幻想的生命の二項対立など、こんなに多くの問題が含まれていたのか、と驚きました。しかし今考えてみると、「行間」の多さ、ヴェルシーロフの前半の、アルカージイに対するデリケートな態度など、すばらしくうまく描けていたと思います。ストーリーや異常さで圧倒するだけじゃないところが、円熟期の安定した作品の面目躍如たるところでしょうか。
いつか読み返す機会があるといいと思います。しかしリーザやアンナ、トリシャートフらがよくわからないのですが・・・
「未成年」
[ suehiroさん ]
「未成年」は傑作です!!
1999年12月25日の朝, 毎日新聞に岩波書店の広告が載っておりましたが, その中の,ドストエフスキー「未成年」重版!! の文字を発見した私は,
もう矢も楯(やもたて)もたまらず,すべてを投げ打って (女房も子供も捨てて(???))
さっそく博多駅交通センターの「紀伊国屋書店」まで馳(は)せ参じ,
「未成年」(全3冊)を買い求めました!!
そして実際に読んでみて, これは傑作だと感じました。
まず第一に, アルカージイがよく描けている。(世界的巨匠の作品に対して「よく描けている」などと, 偉そうに言うのも変ですが・・・・)
第二番目には,最後の大作「カラマーゾフの兄弟」の「予兆」とも思われるような部分が,「未成年」にはいくつもある。
(1)最初の方の章末で,アルカージイが妹のリーザと別れ際に,「この日のことをいつまでも覚えていよう」と感動を込めて言う部分。「カラマーゾフ・・・・」では,
エピローグでアリョーシャが少年たちに同様のせりふで呼びかける。
(2)マカール老人の生き方及び思想は,ゾシマ長老を予告している。
(3)親子(ヴェルシーロフとアルカージイ)で同じ女性(アフマーコヴァ夫人)に恋慕している。「親子で同じ女を狙うなんて,いやらしい」みたいな意味の
タチヤーナ伯母のせりふが最後の方に出てくる。これは, 「カラマーゾフ・・・・・・」におけるグルーシェンカをめぐるフョードルとドミートリイとの確執を想起させる。
(4)「未成年」には「エピローグ」がある。「罪と罰」以来,9年間,ドストエフスキーは,少なくとも長編では「エピローグ」を書かなかったが,ここにきて 「未成年」と「カラマーゾフ・・・・・・」の両作品で,「エピローグ」を書いている。
(5)アルカージーが,自分の服に「決定的手紙」を縫い込んで,それをだれにも知らせず
にいる部分が,「カラマーゾフ・・・・」で,ドミートリーが,「決定的証拠」のお金を袋の中に縫い込んで肌身離さず秘匿していた状況に非常によく似ている。
以上に列挙したような具合で,僕は「未成年」を読む間じゅう,「カラマーゾフ・・・・・」のことが念頭にありました。
冒頭にも書いたとおり,「未成年」は,創作の絶頂期にあった文豪の名に恥じない作品であり, 「カラ兄弟」への「壮大なる序曲」だと思います。
『キリストのヨルカ
に召された少年』
「キリストのヨル
カに召された少年」
[ レニさん ]
しかし私は受験生であるにも関わらず、一つの小説を読んでしまったらしい。
……とまあ、前置きはこの辺にしておきまして。この小説は文庫本にして十ページほどしかない短編で、しかも途方もなく奇妙な小説だと私には思えました。
一言で言えば「クリスマスに死んだ母親と息子がキリストのもとで再会する」という小説です。これだけなら何も読む必要はないんじゃ、と感じる諸氏もいらっしゃるでしょうが、そこはドストエフスキ―、話の作り方が上手です。特に上手いのが主人公とキリストとが出会うシーンだと思います。そこではまず最初に誰かの、と言っても一部の人には一発であの人だと分かるセリフだけが出てきて、それから美しい人形のような何かが描写され、続いてそれが何なのか明らかになり……という風に少しずつ書き足すことで臨場感を生み出す技術が一級品です。ドストエフスキーより「美しい」文章を書く人は沢山いますが、「実感のある」文章を書ける人は二、三人いるかいないかといった所ではないでしょうか。
さて、この小説でもう一つ印象的なのが、ドストエフスキーが下界の、つまり現実のクリスマスを批判しているのではないか、と思われるところです。
この小説では主人公はダンスをしている子供とガラスで隔てられ、パイを食べに行ったら握れっこない1コペイカ玉を手に追い出され、人形を見ていたら卑劣な子供に殴られてしまいます。この様をキリスト教の祭日であるクリスマスのこととして描くことで、「人はクリスマスを祝うことでキリストを敬っているふりをしているが、実際は彼が語った『善きサマリア人』のように死にそうな子供を助けてはいない。つまり、キリストの教えを守ってはいないではないか」と作家は暗にほのめかしているような気がします。(この小説やカラマーゾフにおけるアリョーシャの僧院脱出に見られる「キリストは信じてもキリスト教は信じない」という態度はドストエフスキーの思想の中で重要なものだと私は思います)
加えて、この小説にはキリストを除くすべての人物の固有名詞が出てきません。このことには「キリストの救済に例外はない」という主張が込められているのでしょう。
とまあ、ここまで長く書いてきましたが、個人的にはもっともっと多くの物がこの小説から引き出せるような気がしてなりません。今の私には上記の分析が精一杯ですが、これでもまだこの小説の神髄を捉えたとは言えないと思います。
とにかく、この小説を読んでみてください。きっと、あなたも感想文を書かずにはいられなくなるような感動を味わうことでしょう。私に「本当に」言えるのはそれだけです。
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