各登場人物論2
(更新:24/08/20)
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< グルーシェンカ > 
( 『カラマーゾフの兄弟』 )

1. 中村健之介のグルーシェンカ論
〔中村健之介著『ドストエフスキー人物事典』(朝日選書1990年初版)p438より。〕
 

グルーシェニカはなかなか自活力もあり、他人とも一緒に暮らしてゆける協調の能力もあり、しかも陽気に騒ぐのが好きで、
思い切りがいい。あばずれ(=ひとずれして、あつかましいさま)なのに、こどものように純なところがあり、本当に悪いことをするのをとても恐れている。ドミートリーはグルーシェニカのことを「あれは骨の髄(ずい)からロシア女だ」(新潮文庫の下巻のp47413行目。第13編の第2)と言っているが、ドストエフスキーが晩年に考えていたロシア女とは、なんといっても、このように活力があって、感情の真っすぐな女性であったということがわかる。

       

★中村健之介
ドストエフスキー文学の研究家・翻訳家。現代日本の代表的なドストエフスキー研究家の一人。元・東京大学教養学部教授。北海道大学名誉教授。
1939〜。



< ゾシマ長老 > 
(
 『カラマーゾフの兄弟』 )

1. 宅間紘一のゾシマ長老論
〔土曜会編『ドストエフスキー研究(13)(1973年刊)の「ゾシマ長老について」より。p140p141。〕


「わしの心の親しいあなたがたと、もう一度得心(とくしん。
=納得。)のゆくお話をして、あなたがたのなつかしい顔をながめ、もう一度わしの心をすっかりひろげてお目にかけぬうちは、決して死にはしませんじゃ(=死にはしないつもりじゃ。)(米川正夫訳) 死の直前、生涯を回想して語るゾシマ長老の態度は、親しみあふれるものであった。それは、アリョーシャをはじめとする僧院の人々に対するものばかりでなく、いわば、地上のすべてのものに対する〈親しみ〉である。すべてのものと親しみ〈心をすっかりひろげること〉こそ長老の生涯の仕事であった。たとえロシアの片隅であっても、ほんとうに親しみにあふれた小楽園が実現すれば、やがてそれはロシア全土に広がり、この地上全部が楽園となる。こうした希望が長老を生かして来たのである。
 

★宅間紘一
西宮市の土曜会の会員。



< フョードル > 
(
 『カラマーゾフの兄弟』 )

1.
本間三郎のフョードル論
〔本間三郎著『「カラマーゾフの兄弟」について』(審美社1971年刊)p54p55より。〕

    
フョードル・パーヴロヴィッチについては、一般に、しようのない淫蕩者(いんとうしゃ)であるとか、皮肉屋で、人生に倦()みつかれた豚の子であるとか言われているが、私はドストエーフスキーは決してそんな単純な言葉で彼の性格や人となりを言い決めてしまうことの出来ない、深い愛情で、極めて芸術的にこの男を取り扱っていると思われる。彼と二人
(=イヴァンとアリョーシャ)の間にかわされたこの問答(※この本文より前の所に引用している第3編第8の半ばの有名な箇所のことを指している。新潮文庫の上巻のp253p255)についても、シェストフ(=ロシアの評論家)は「フョードルにさえもドストエーフスキーは『最高の理念』を追求する能力を賦与(ふよ=生来与えること)していた」として彼を光栄あるカラマーゾフの一員として受け入れているのである。  ―途中、省略―  フョードルは汚濁の中に沈みながらも、人生の価値あるものに対する憧憬(しょうけい=あこがれ)を失わず、「最高理念」にたいする感覚を常に自己の関心の中心においているところが(同じく皮肉屋である神学生ラキーチンとの)大きな相違となって現れているのである。ドストエーフスキーが、フョードルを扱う筆には常に愛がみなぎっている。われわれはフョードルの行動や言葉の中にいいしれぬほほえみを感ずる。この人物こそまさにたぐいまれなる芸術品と言いうるであろう。
 

★本間三郎
文筆家。プロテスタント文学集団「たねの会」に所属。           
19151971


2. 『ポケット 世界名作事典』
(
平凡社1981年初版)
の項「カラマーゾフの兄弟」
のフョードル論
(
筆者は、不明記で不明。)


フョードル・カラマーゾフの人生の目的は肉体の快楽を求めることにある。そして、その目的は金の力によって解決できると信じている彼は、金銭に対して異常な執着心をもち、金をふやすことしか考えていない。彼はまだ五十歳をちょっと出たばかりなのだが、若いころからずっと続いている激しい肉欲生活のためにめっきりと体が衰えはじめ、そして精神的にも、神の存在や死後どうなるかという間題でいろいろ苦しんでいる。とはいうものの、依然として堕落した生活から足を洗えないでいる。


 


< 大審問官 > 
(
 『カラマーゾフの兄弟』 )

1.
勝田 吉太郎の大審問官論
〔勝田吉太郎著『ドストエフスキー』(潮新書43。潮出版社1968年初版。)P86p87より。 〕


大審問官は、キリストと同様に、荒野の苦行(くぎょう)に堪()えた人である。彼は、「あれか‐これか」の選択の自由が賦課(ふか)する(=課する。もたらす。)精神の苦しみを味わい尽くし、人間の運命にとって自由の意味する悲劇性をみずから深く体験し、そしてかぎりない混乱と無秩序と不安と寂寥(せきりょう。=心を満たすものがなくて、ものさびしいさま。)とを生み出すべき自由の重荷を知りぬいた人の姿で登場する。だからこそ、老審問官の口調は重々しく真剣で、その言葉はわれわれ読者の心をしめつけないではおかないのである。
〔「意見・情報」交換ボードの[9756]に書き込んだぶん。〕


★勝田吉太郎
ロシア政治思想史研究家。元・京都大学法学部教授。
1928
〜。

選ばれた統率者の判断・選択の責任と苦悩に触れていて胸にこたえる文章だ。
 
 


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