各登場人物論3
(更新:24/11/01)
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< わたし(手記者) > 
(
 『地下室の手記』 )

12.
清水孝純
の「わたし(手記者)」論
〔清水孝純著『道化の風景 ― ドストエフスキーを読む』 (九州大学出版会1994年初版。)の「序」より。〕


いわば、
ドストエフスキーの、近代人としての自己認識がそこに(=『地下室の手記』主人公の人物像の中に)定着されたといえる。地下室という、魂の暗室ともいうべき深所において紡(つむ)がれた巨大なコンプレックスの塊(かたまり)、それは自閉的な自意識の空間で、そのシニシズム(=物事に対する冷笑的な態度。)を宇宙の創造者にむけて不断に噴出させてやまない。その自意識の肥大においては、神をも毒付(どくづ)きながら、しかし、その自卑(じひ。=自分を卑下すること。)において自身を地下室の鼠(ねずみ)のごとくみなす、この自閉的な空間においては、主人公の自意識は、その両極を無限に循環するにすぎない。しかし、その循環によって、主人公のたぐり寄せるのは、近代人の一切の問題といっていいかもしれない。いわば神を失った場合の人間の無限の頽落(たいらく。=頽廃し堕落していくこと。)の可能性、コンプレックスの生み出すサディステックな残虐性、と同時に奇妙な自己処罰の要求、かと思えば自己の絶対性の主張もそこに共存する。ドストエフスキーは、いわばレトルト(=フラスコの口を横に倒した形の実験器具。)で蒸溜(じょうりゅう)したごとき自意識の問題性をここで抽出(ちゅうしゅつ)したのだ。
しかし、このような自閉的空間に人間はいつまでも存在するわけにはいかない。こうして、いわば絶対を求めての旅立ちが後期の巨大な作品群において開始される。


★清水孝純
しみずたかよし。元福岡大学教授。
1930
〜。



< ラスコーリニコフ > 
( 『罪と罰』 )

1.
清水孝純
のラスコーリニコフ論
〔清水孝純著『ドストエフスキー・ノート ― 『罪と罰』の世界』 (九州大学出版会1981年初版。)の「序論」より。〕


なによりも、この作品(=小説『罪と罰』)の魅力は、ラスコーリニコフという青年の魅力にありましょう。青年というものは、いつの時代においても、その青春のゆえにこそ、独特な憂愁(ゆうしゅう。=心の底を離れることのない心配や悲しみ。)をもって魅力的ですが、この痩身(そうしん)(=やせ身の。)白ル(はくせき)(=顔色が白い。)美貌(びぼう)の青年が恐るべき貧困の中で、しかし、それらに何(なん)ら忸怩(じくじ)たる(=恥じる。)ことなく、壮大な犯罪哲学を構築してゆく激しい精神の行使(こうし)の中に、一種の浪漫主義的な逆光が漂っているのです。ドストエフスキーの創(つく)った人物像のうち、ムイシュキンやスタヴローギン、キリーロフ、ドミートリ、イヴァン、アリョーシャといった具合に、魅力的な人物は数多くあり、なかんずく、ムイシュキンの美しさは、すばらしいものです。しかし、
全体的なバランスを持った美しさは、なんといってもラスコーリニコフが有しているのではないでしょうか。それはこの青年の中に眠っている青年らしい一切を秘めた独特な憂愁(ゆうしゅう)にあるのであり、自己を、未(いま)だ深くきわめてはいないものの、躊躇(ちゅうちょ)と素朴さ、倨傲(きょごう。=自分が偉いと思って他人を見くだした態度を取ること。)と純潔、夢と絶望、逃避と敢行(かんこう。=悪条件をおしきって行なうこと。)の深い亀裂の中で、誠実に人生に立ち向(むか)ってゆく、未分の混沌(こんとん)たる問いかけにあるのでしょう。


★清水孝純
しみずたかよし。元・九州大学教授、元・福岡大学教授。
1930
〜。




< ソーニャ > 
( 『罪と罰』 )

1.
有容赦のソーニャ論
〔書き込みボードの[98327134431]の書き込みより。〕


ソーニャは、ドストエフスキーが描く、暖かい愛と信仰の人の一人ですが、たとえば
ムイシュキンなどのように「愛すべきデクノボウさん」的イメージは殆(ほとん)どありません。彼女はシベリアまでついていって、囚人たちに慕(した)われ、ラスコーリニコフを心の妻として支(ささ)えますが、この行為には、単なるお人好しの善良さを越えた、もっと意識的で粘り強い意志の力を感じます。つまり、ソーニャには、弱さとともに、強さがあります。愛だけでなく、たくましい生活力もあります。人を受け容()れる優しさの他に、人を活()かすための不屈の努力があります。自分の生活費も稼(かせ)げない、いわば純粋培養的な人物であるムイシュキンなどと違い、極貧と恥辱(ちじょく)の中で、あのような父と継母を財政的・精神的に支え続けてきたソーニャは、ラスコーリニコフの苦境に直面した際にも、愛を愛だけ、信仰を信仰だけで終わらせず、更生への現実的な希望の礎(いしずえ)となることができたのです。


★有容赦
ありようしゃ。会社員。
  

 
2.
吉村善夫のソーニャ論
吉村善夫著『ドストエフスキイ ― 近代精神超克の記録』(新教出版社1965年初版。1987年に復刊。)より。p101。〕


彼女(=ソーニャ)はかの(=例の。)一線を踏み越えはしなかった。彼女は罪ある行為をしたけれども自(みずか)らに(=自分に。)罪を許しはしなかった。罪を正し(=正しいもの。)とはしなかった。良心を偏見とはしなかった。
かえって彼女はいよいよ罪を罪とし、「だって私は、こんな‥‥穢(けが)れた‥‥」と、自分を人の前にも立ちえないように思いなす。彼女は堪()えかねて自殺を思うほどに深く罪を意識し、それだけまた一層へりくだって神にすがる。彼女のなした行為はラスコーリニコフのと形は同じでも意味は全く異なる。それは同じ所に立って、右と左と正反対の方向に目を向ける。彼女は汚穢(おじょく。=汚辱。)の中にいながら、汚穢になずまず(=なじむことなく)その目は汚穢を通して神を見ていた。ラスコーリニコフが、彼女の中に自分の罪の決定を見てこれを恐れながらも、なお絶えず彼女の静かな朗(ほがら)かな目を見ていたいと願ったという、その目の静かな朗かさは、それが常に神を見ているからのものである。

         

★吉村善夫
元信州大学教育学部教授。   



< ムイシュキン公爵 > 
(
 『白痴』 )

1.
川喜田 八潮
ムイシュキン公爵論
〔川喜田八潮著『脱「虚体」論』 (日本エディタスクール出版部1996年初版。)より。p128p130。 〕


ドストエフスキーの主人公の中でキリスト教的な性格をもった人物、たとえば『罪と罰』のソーニャであるとか、『白痴』のムイシュキン公爵であるとか、そういう主人公の特色というのがあります。つまり、魂の飢()えを抱え込んだ、孤独な罪びととしての人生を強()いられている人物が出てきて、そういう人物を強い磁力でひきつけるような、ある
ギリシア正教の理念を体現する主人公というのがいる。彼らは、アリ地獄のような業苦(ごうく。=自己の宿命によって受ける苦しみ。)の中でもがいている不幸な罪びとをひきつけて、ちょうど母親が赤ん坊をふところの中に包み込んで、頭をなでながら眠らせてやるような形で癒(いや)してやろうとする。そういう役割を担った人物が何人か出てくるわけですが、その中でドストエフスキーが最も野心を燃やして、現代のキリストたらんという意図をもって創(つく)ったのが、『白痴』のムイシュキン公爵です。このムイシュキンという人物は、たしかにイエス・キリストにはよく似ているとおもうんです。キリストの再来というイメージでドストエフスキーが創造した。その創造が失敗だったとは私は思いませんけれども、アリョーシャと比べますと、いかにも病的で、ひ弱な感じを与えるわけです。ムイシュキン公爵は、不幸な罪びとたちをひきつけて癒(いや)そうとするんですけれども、決して、本当の意味で彼らの力になることはできないわけです。己れの神を信じられない、人生を呪(のろ)っている人物の心を浄化して、ひとりの晴ればれとした健康な人間として人生に立ち向かうことができるように、助力を与えてやることができるかというと、決してできない。逆に、そういう病者たちの魂に無責任に干渉し、甘えさせ、よりかからせていこうとします。そうなると、公爵自身も本当の意味で、ひとりの健康な生活人として人生に立ち向かっていく力をもっておりませんので、その病者たちの業苦(ごうく)の全重量が彼の方にのしかかってきて、その圧倒的な重みでおしつぶされていくほかはありません。結局、神を信じられずにもがいている不幸な男女たちとムイシュキンが、いわば一緒になって奈落(ならく)の底に転落して破滅していくという、抽象的にいいますと、そういうふうな<心中(しんじゅう)>の構図が『白痴』という作品のイメージであるわけです。そして、それはまさにキリスト的な場所だとおもうのです。()める凍(こご)えた魂を、母親が泣き叫ぶ子どもを憐(あわ)れむのと同じような心持ちで、ひたすら包み込んでいく。そして、子どもをぬくめながら、その飢えたる魂で、自分の魂もまた蝕(むしば)まれ、共に破滅していく。そういう構図なんですね。ムイシュキン公爵の愛には、このように、<生身>の自分や他者の人生を滅ぼしていかざるをえない、ある痛ましい<虚無>の匂いがたちこめています。それは、イエスの生きざまの中にも漂うものです。
 
      

★川喜田八潮
わきたやしお。評論家。
1952
〜。

上の川喜田氏のムイシュキン公爵論は、ムイシュキン公爵という人物についての忌憚ない鋭い批判となっていて、考えさせられるものがある。

   

2.
勝田 吉太郎
ムイシュキン公爵論
〔勝田吉太郎著『ドストエフスキー』
(
潮新書43。潮出版社1968年初版。)P131より。〕


ムィシキン公爵(=ムイシュキン公爵)は、モラリスト(=道徳家。)である。人間を善人ヘと教化し、人間性が本質的に善であることを悟らせ、彼らの生を神的な至高の生へと向上浄化させるよう説得しなければならない――このようにムィシキンは考えた。しかし彼の崇高(すうこう)な企図はついに挫折し、彼は身を滅ぼしてしまう。


★勝田吉太郎
政治思想学者(専攻は、ロシア政治思想史)。元京都大法学部教授。
19282019



< アグラーヤ > 
(
 『白痴』 )

1.
EH‐カーのアグラーヤ論
EH‐カー著『ドストエフスキー』(松村達雄訳。筑摩叢書。筑摩書房1968年初版。)より。p206。〕


アグラーヤは、ドストエフスキーの女主人公のうちでも他と比べるもののないほど人の心を惹()く女である。この女は、
ドストエフスキーの全作品のうちでも、いかにも生き生きと描かれている唯一の清純無垢な女性である。この女とその両親のモデルとおもわれるものについては、すでにこれまでに充分述べておいた。この娘と母親との間には微妙な性格の類似があって、それは一見したところあきらかでないが、深く知れば知るほどますます明瞭になってくる。そういうことは現実ではよくあることだが、小説ではめったにみられないことだ。この二人の根本的な特徴は、ひるむことのない正義感で、そのために妥協とか中庸(ちゅうよう)の道といったことに彼らは我慢できない。それに彼らには一種の「はにかみ」といったものがあって、これが彼女らのきわめて寛容な気持ちを自由に発揮することを不可能にしている。ドストエフスキーの比較的客観的な人物のうちで、この二人は最も魅惑的で、まったく生き生きとした人物である。

        

EH‐カー
イギリスの政治学者・外交官。
18921982。  




< ナスターシャ‐フィリポヴナ >
( 『白痴』 )

1.
JM‐マリ
ナスターシャ‐フィリポヴナ論
JM‐マリ著『ドストエフスキー』
(
山室静訳・アポロン社1960年初版。) より。p96p97。〕
 


ナスターシャのような女に救いなどないのだ。あるべきわけはないのだ、現世(げんせ)での救いは彼女にもホザンナ(=讃歌。)を叫ばしめ、悪が彼女の上に加えた暴行を讃(たた)えさせるかもしれない。彼女も胸の底ではそれをよく弁(わきま)えている。彼女の受けた悪は彼女を孤立させた。あらゆる男性の手は彼女の反抗をよび、彼女の手はあらゆる男性に逆らう。よし(=仮に。)和解がムイシュキンのような純潔なこころによって差しのべられようとも、彼女はそれに屈しないで、むしろおのれの傷をいつくしむに傾くのは当然である。たとえそれが可能だったとしても、彼女には幸福を受ける権利はなかったし、それはだいいち不可能だったのだ。彼女はそのことをよく知っている。彼女は誇りが高く、自分の知識に尊大(=いばってえらそうな態度をとるさま。)になっている。おのれの傷痕(きずあと)を誇り、苦難を誇りとしている。われわれの憐憫(れんびん。=かわいそうに思うこと。)は、ムイシュキンのそれすら、彼女にとっては侮辱にほかならない。それは彼女から偉大さを奪うものなのだ。彼女は終生(しゅうせい。=一生。)(けが)された純潔の化身(けしん)であり、そんなことをされるよりも砥石(といし)をその頸(くび。=首。)に懸けられて海中に投げこまれたほうがましな悪の化身(けしん)である。彼女はその悪を赦(ゆる)そうともせず、忘れ去ることもできない。彼女に定められた大きな任務は、おのれの傷を記憶し切開して、苦痛が堪()えがたくなるまでその傷口に手を突っこむことである。だが、重荷は背負いぬける程度を越えている。人間の血肉はその重荷のもとで困憊(こんぱい。=疲れはてるさま。)しなければならぬ。彼女が疲れはてるにつれて、誘惑が迫ってきた、慰められ忘れ去って、ホザンナ(=讃歌。)と叫びたい誘惑が。たとえほほえみの涙をうかべた弱々しい声であろうとも、唇を顫(ふる)わせ、あの暗い忘れがたい眼をうるませて「赦してあげますわ」と囁(ささや)きたい誘惑が。――こうして記憶の苦痛を捨て去って、もう一度全一(=完全な統一ある一体。)に帰るために。彼女のうるわしい(=美しくて気品のある。)頭をムイシュキンの胸に寄せると、彼の腕は女を抱いて、眼は幸福と悲哀の涙に溢(あふ)れているのだ。――こうした小さな者の一人が慰められる幸福と、一人の女が失神してその十字架を放棄した悲しみとに。
―以下、略―


JM‐マリ
イギリスの文筆家。
18891957




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