< アルカージイ >
( 『未成年』 )
1. 清水孝純のアルカージイ論
〔 清水孝純著『道化の風景 ― ドストエフスキーを読む』 (九州大学出版会1994年初版。)のp183〜p184、p193〜p194より。〕
語り手アルカージイ・ドルゴルーキーには、実に愛すべき、独特のユーモアがある。何となく滑稽なのである。思うに、それは、彼の極めてナイーブな感受性の動き方から来ている。その境遇にもかかわらず、彼の裡(うち。=内)の、無垢(むく)な生活感覚は、いささかも損(そこ)なわれていない。しかし、そのユーモアは、単にそれだけに由来するものではないだろう。この青年の中には、一種独特な倨傲(きょごう。=自分を偉いと思い、相手を見下す態度。)があり、それが彼自身の繊細な心情、含羞(がんしゅう。=はにかみ。)に充(み)ちた感受性と衝突してかもす、ちぐはぐな行為の錯誤(さくご。=思い違いによるずれ。)の中に、その源が潜(ひそ)む。 ―途中、略― グロスマン(注:ロシアのドストエフスキー研究家)は、『未成年』を教養小説と規定している。アルカージイには、確かに教養小説の主人公らしく、ラスコーリニコフに比して、鋭さはないが遥(はる)かに柔軟な感受性と、素朴さがあるのであり、それによって彼は、外界との接触で得たものを自身に取り入れ、常にその観念を訂正してゆく。彼の有している生来のユーモアとは、そのようなところにも感じられる相対感覚に他ならない。道化性(注:この「道化」という語は、清水氏独自の意味合いを持つ語。)とは、まさに、そうした相対感覚に根ざすものだろう。アルカージイが、自分の孤独の理想を、亀の甲羅の中に閉じこもることに譬(たと)えた時、その表現の誇張と幼さの中に、既に彼自身一種の力(りき)みと、その背後に潜(ひそ)む予感、いわばそういう理念(イデア)は持ち切れないだろうという予感があったといえるのではないだろうか。彼のそういう表現を通して、思わず読者は微笑する。少なくとも、その微笑は、この青年の、そういった本質に触れるものを含む。青年は、得(え)てして、自分の経験を早急に絶対化し、一般化し勝ちなものである。さらにまた、過敏な感受性の持主は、自分の裡(うち)なる欲望を、素直に表面にあらわすことに照れるし、羞(は)じらう。ここから、彼の思想は、矯激(きょうげき)な(=言動などが極端に激しく、反社会的な)形をとる。あるいは、表現として、全く逆の形をとる。青年の孤独志向は、一見愛の拒絶と見えながら実は愛に対してのその注文の厳しさ、純粋さの裏返しの表現である。アルカージイの人物像としての瑞瑞(みずみず)しさは、そういう思春期特有の心情を、彼が誠実にみつめ、出来る限り正直に、率直にその告白において表現しようと試みたところにある。そして、それは見事に成功したといえるだろう。それを可能にしたのは、人間としての本来的な善良さに裏打ちされた上述の相対感覚だったろう。
★清水孝純
しみずたかよし。元・九州大学教授、元・福岡大学教授。
1930〜。
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