米川正夫著
『ドストエーフスキイ入門』
(1951年河出書房刊。市民文庫。)
の「ドストエーフスキイ伝」の冒頭より。
※旧仮名遣い・旧表記は、現代表記に改めました。
トルストイを肉の洞察者というのに対して、ドストエーフスキイを霊の透視者と呼ぶのは、かの(=あの)メレジコーフスキーの名批評以来、ロシヤ文学に関する一つの常識のようになっている。彼は生来のてんかん病者として、人生の現象を見るのに常人と全く異なった、ほとんどX光線的な働きを有する感受性を備えている人である。いったん死刑の宣告を受けて、もう何分か後にはこの世から跡を消してしまうものと覚悟しながら、思いがけなく特赦の勅命に接して、いわば死から蘇った人、――墓の中から奇跡的に起き出して来た人である。こうして、聞くさえ身の毛のよだつような恐ろしい体験の後に、この世からの(=この世における)地獄ともいうべきシベリヤの牢獄に懲役囚として、肉体的・精神的に人間の堪え得べきあらゆる苦難を忍び、一方において人間の残忍性、野獣性、悪魔性を、いま一方において、その本質的な善良性・神性を、つぶさに究めた人である。こういう世にも稀な素質と体験を有する彼は、その作品において聖者のごとく博大深遠な基督(キリスト)教的愛を説くと同時に、凄惨、残忍、ほとんど人をして面を反(そむ)けしめるような、殺人や、暴行や、狂憤、憎悪の発作などの場面を描き、さながら読者の神経を虐げて物狂おしい戦慄を強制し、もって自ら快とするような、悪魔的サディストのような半面を有している。そして、作中の人物の殺人者やその不幸な犠牲者たちのどす黒い恐怖や憎悪の苦悶(くもん)を、想像することも出来ないような冷静さと、正確さをもって、微に入り細を穿(うが)ちながら、解剖し描写して、余すところがない。従って、彼の小説は人生の福音書であるとも言われ、また同時に苦痛と呪いに充ちた現代の黙示録とも称され、さらに芸術的病理学の書とも呼ばれている。ドストエーフスキイの芸術が聖典であるか、あるいは、病理学的産物であるか、というようなことは、大して重要性を持たぬ問題である。恐らく、そのいずれをも彼の作中に指摘し得るであろうけれど、重要なのは、ドストエーフスキイがその作中に於(お)いて、この人間世界に厳然として存在していながら、われわれの感受性をもっては捕捉することの出来ない実際を、彼独自のプリズムを通して強烈無比な形に表わし、それをわれわれの目の前に突きつけたことである。ドストエーフスキイの芸術は取材の領域、表現の手法、様式の点から見ても、古今を通じて世界文学に唯一無比の、偉大な驚嘆すべき現象である。ドストエーフスキイの内部世界の深さ、広さ、複雑さは、これまで現れた数え切れぬほどの研究書や批評をもってしても、そのすべてを窮(きわ)め尽くしたと言うには、まだまだ大きな距離が残っている。
★米川正夫
日本で初めてドストエフスキー全集の個人訳を成し遂げたロシア文学の翻訳・研究の大家・功労者。
1891〜1965。
現代のドストエフスキー文学の愛読者・翻訳家・研究家にとって、米川氏の偉業からの恩恵は計りしれない。全訳の大業に裏打ちされた、意外と忘れられている一連の「ドストエフスキー研究及び論」は、今も、傾聴すべきものが多々あると思います。
小林秀雄・筆
「「罪と罰」についてU」
(1951年筆。新訂小林秀雄全集第六巻に所収。)より。
※旧仮名遣い・旧表記は、現代表記に改めました。
評家は猟人(かりうど)に似ていて、なるたけ早く鮮やかに獲物を仕止めたいという欲望にかられるものである。ドストエフスキイも、夥(おびただ)しい評家の群れに取巻かれ、各種各様に仕止められた。その多様さは、殆(ほとん)ど類例がない。読んでみて、それぞれ興味もあり有益でもあったが、様々な解釈が累々(るいるい)と重なり合うところ、あたかも様々な色彩が重なり合い、それぞれの色彩が、互に他の色彩の余色となって色を消し合うが如(ごと)く、遂に一条の白色光線が現れ、その中に原作が元のままの姿で浮かび上がって来る驚きをどう仕様もない。僕が、「ドストエフスキイの生活」を書き終えたのは、もう七年も前である。「今は、不安な途轍(とてつ)もない彼の作品にはいって行く時だ」という文句で、伝記を閉じたのであるが、今、浮かび上がって来る原作の姿は、依然として不安な途轍もないものであり、そういう疑い様がない驚きの念と一向まとまりの付かぬ疑わしい沢山の覚え書きとが、あるばかりだ。僕が勤勉な研究家でない事は確かである。勤勉な研究家なら、こんな為体(ていたらく)にはならなかった筈(はず)である。けれども、怠惰な研究家には怠惰な研究家の特権というものも、あっていい様に思われる。一条の白色光線のうちに身を横たえ、あれこれの解釈を拒絶する事を、何故一つの特権として感じてはいけないのだろうか。僕には、原作の不安な途轍もない姿は、さながら作者の独創力の全緊張の象徴と見える。矛盾を意に介さぬ精神能力の極度の行使(こうし)、精神の両極間の運動の途轍(とてつ)もない振幅を領する為(ため)に要した彼の不断の努力、それがどれほどのものであったかを僕は思う。彼を知る難しさは、とどのつまり、己れを知る易(やさ)しさを全く放棄して了(しま)う事に帰するのではあるまいか。彼が限度を踏み超える時、僕も限度を踏み超えてみねばならぬ。何故か。彼の作品が、そう要求しているからだ。彼の謎めいた作品は、あれこれの解き手を期待しているが故に謎めいているとは見えず、それは、彼の全努力によって支えられた解いてはならぬ巨(おお)きな謎の力として現れ、僕にそういう風に要求するからである。僕は背後から押され、目当てもつかず歩き出す。眼の前には白い原稿用紙があり、僕を或(あ)る未知なものに関する冒険に誘う。そして、これは僕自身を実験してみる事以外の事であろうか。
★小林秀雄
昭和期の代表的な文芸・美術評論家。
1902〜1983。
そのたぐいまれな感性知性合わせ持った資質により、取り上げた対象(芸術家・思想家とその作品など)のふところや眼目へと迫っていく批評活動によって、昭和の文芸・美術評論史において一時代を画した達人的人物。氏には、昭和八年から昭和三十年代の終わりにかけて、ドストエフスキーの生涯の研究や、各作品に関する一連の読み込み・評論・著作活動があり、それらは、日本におけるドストエフスキーの文学の読み込みと理解において一つの深い到達を示した労作と言えます。氏は、ドストエフスキーのことを「文学の師」「人生の師」とたびたび告白し、終始ドストエフスキーに対して深い敬愛の念を示しました。氏の研究対象は、その後、ベルグソン・本居宣長ヘと移っていって、氏のドストエフスキー研究は、継続されないまま途中で終わってしまったことが惜しまれます。私は、高校から大学にかけて、氏の全集を読みふけった時期がありましたが、その中でも、ドストエフスキーの文学の深所にまで到達せんとするその取り組みと、その結実としてのドストエフスキー関係の著作からは、大いに影響や刺激を受けてきました。上の文章などは、最初読んだとき、いたく感動し、繰り返し反芻(はんすう)し、ほとんど、そらで覚えているほどです。氏のドストエフスキー論に関する、今後の本格的な再評価が待たれます。
小林秀雄の言葉
より。
ドストエフスキーは矛盾の中にじっと坐(すわ)って円熟していった人であり、トルストイは合理的と信ずる道を果てまで歩かねば気が済まなかった人だ。
★小林秀雄
昭和期の代表的な文芸・美術評論家。
1902〜1983。
近代ロシアの偉大なる二文豪の性格の相違の一面を、巧みに比較して述べていると思います。二人は、同時代の人間でありながら、会うことはなかったとされていますが、お互いに、創作においても、相当なライバル意識を持っていたようです。 (トルストイの『戦争と平和』はドストエフスキーの後期大作群の構想や創作に大きな刺激を与え、『カラマーゾフの兄弟』は、その二年前に完成を終えていたトルストイの『アンナ・カレーニナ』を意識して書かれ、ドストエフスキーの「作家の日記」
には、いくつかの『アンナ・カレーニナ』論が収められています。) トルストイが亡くなる前、最後の家出の直前に読みかけていた本はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』だったそうです。
ドストエフスキーと終生対面することはなかったトルストイですが、(ドストエフスキーの後半生の友人であったストラーホフは、トルストイとしばしば文通をしていて、トルストイはストラーホフを通してドストエフスキーのことをいろいろ知っていたようです。)
ドストエフスキーの作品を通してのトルストイのドストエフスキー評としては、次のようなものがあります。
・「ドストエフスキーは、私にとって、常に貴重な人だった。彼はおそらく、私が多くのことをたずねることのでき、また多くのことに答えることのできたただ一人の人であったろう。 (途中、略) 彼は真にキリスト教的な精神にあふれた人だった。」
(1885年のドストエフスキーの未亡人アンナとの会話より。)
・「ドストエフスキーは孔子か、さもなくば仏教徒の教えを知ったらよかったのだ。そうすればかれは気持ちが安らぎ落ち着いたことだろう。これは大事な点で、みんなこのことを知るべきだ。ドストエフスキーは自分では制御できない肉体をもっていた人だ。かれはあまりにたくさんのことを感じすぎたのだ。しかしかれは、考えることにかけてはだめだった。ドストエフスキーはこんなに読まれているけれども、みんな彼を理解していない。」
(ゴーリキーが聞いたトルストイの言葉。ゴーリキー『レフ・トルストイ』より。)
★小林秀雄
昭和期の代表的な文芸・美術評論家。
1902〜1983。
神西 清編
『ドストエーフスキイ読本』
(1956年河出書房刊。河出新書。)
の「まえがき」より。
ドストエーフスキイの世界は、複雑ではあるが、決して雑多でも多様でもない。彼は単なる風俗作家でもなければ、いわゆる自然派の作家でもない。いわばもっとも純粋な意味での観念的な作家なのだ。といって、ある特殊な観念を手軽に主張したり宣伝したりするひとでもない。むしろはなはだ徹底した懐疑家であり、熱烈な実証主義者であった。であるからドストエーフスキイの世界では、どんな観念にしろ、決して先験的に提出されたり、あるいは無条件に擁護され、主張されたことがない。ある定立(テーゼ)はかならず反立(アンチテーゼ)を予想し、ある綜合はかならず分裂をふくんでいる。してみればその世界から、ある一つの観念を取り出してみようなどという試みは不可能である。何ごともすべて相対的な姿のままで示さないかぎり、ドストエーフスキイという作家は死んでしまう。その作品のリアリティも、みんな化石してしまう。 もう一つの特色は、観念的な作家にはよくあることだが、彼の世界には、主題や性格の多様さが案外に乏しい。ドストエーフスキイは、決して主題や性格の変化や多彩さの意味で豊かな作家ではなかった。それらのものを見きわめる力の深さ、鋭さの点で豊かな作家なのである。だから彼の主要な作品群を有機的にではなく、ただその筋書なり、主な登場人物のシチュエーションなりからばかり眺めると、それそれの作品の表情は、意外に似かよってくるのである。
★神西清
ロシア・フランス文学の翻訳家・研究家、小説家。
1903〜1957。
氏はチェーホフの戯曲の名訳家で知られるが、昭和11年三笠書房刊のドストエフスキー全集では、「永遠の良人」などの訳を担当し、上記のドストエフスキーの作品中の箇所や肉声のエッセンスを抄録した『ドストエーフスキイ読本』なども編集し、ドストエフスキーの文学に関してすぐれた知見を持っておられた翻訳家のお一人である。
中村 健之介著
『ドストエフスキー人物事典』
の「あとがき」のp466より。
人間は過敏な内面感覚ゆえに、存在の不快、苦痛をかかえている。生きていることに安らぎがなく、不愉快で、原因不明の敵愾心(てきがいしん)が絶えず湧(わ)いてくる、その不快感や疎外感の解消、世界との和解感の回復、敵愾心から歓(よろこ)びへの脱出、つまりドストエフスキーの言う「死せる生」から「生ける生」への転換が、ドストエフスキーの中心の問題であった。人間が絶えず不安と恐怖に襲われ、内から湧いてくる苛立(いらだ)ちや憎悪をかかえ、そこから逃れたいと常に願っている。そのような人間存在そのものが、ドストエフスキーの根源のテーマなのである。ドストエフスキーの文学はいわゆる教養主義的文学ではない。それは人間の不安や苦痛という普遍的で具体的な事実に根ざし、個々の人間の生存の現実と直接深くかかわっている文学なのである。ドストエフスキーの持つ現代性の核心はここにある。
★中村健之介
従来見失われがちだった「ドストエフスキー・その文学・その周辺の事柄」の諸面やドストエフスキーの等身大の実像を、精力的に紹介し啓蒙してこられたドストエフスキー文学の研究家。現代日本の代表的なドストエフスキー研究家のお一人。現在、東京大学教授。
1939〜。
中村氏は、ドストエフスキーは「思考・哲学」型の作家というよりは、むしろ「気分・感覚」型の作家であり、また、作中の登場人物にも、しばしばドストエフスキーの自己の投影・分身として、「気分・感覚」型の人物が多く見られる、という視点に立ち、ドストエフスキーは19世紀後半の都会ペテルブルグに生きる「いびつで、悲劇的な」「死産児」のような人間の姿を作中に描き続け、彼らが自己の蘇生を求めて「生ける生」へと立ち返ろうとする苦闘ぶりこそ作品の重要な眼目になっている、ということを一貫して主張されています。江川 卓氏・清水 正氏によるテキストの重層的解読の作業とともに、中村氏の一連の啓蒙的労作は、ドストエフスキー研究家・愛好家が必ず目を通しておくべき必読書になってきています。
中村 健之介著
『ドストエフスキー人物事典』
(朝日選書。1990年刊。)
より。
画一化と管理統制による幸福論に対するドストエフスキーの嫌悪は、生来のもので、感覚あるいは体質と言ってよい。ドストエフスキーは、予定されたり、定められたりして、変更がないということ、あるいは、二二が四のようにそれ以外ではないということには、我慢がならない体質なのである。
★中村健之介
ドストエフスキー文学の研究家・翻訳家。現代日本の代表的なドストエフスキー研究家の一人。現在、東京大学教授。
1939〜。
ドストエフスキーの性格の一面が鋭く指摘されています。中期の小説『地下室の手記』の前半の主人公「私」の傾向を要約すれば、上の文章のようになるのでしょう。ドストエフスキーのこういった性格は、しつけの厳しかった父親から押しつけられた規律・監視ずくめの幼少年期の家庭生活に対する反動として生じたとする説もあるようです。
アルベール・カミュ著
『シーシュポスの神話』
〔佐藤朔・白井浩司訳。新潮世界文学49「カミュ(U)」に所収。〕
の中の文章「キリーロフ」(p374〜p381)の冒頭より。
ドストエフスキーの主人公たちは、だれもが、人生の意義について自問している。その点でかれらは現代人だ。つまり、かれらは滑稽(こっけい)になることをおそれない。現代的感受性と古典的感受性とのちがいは、古典的感受性は道徳的問題によって養われるが、現代的感受性は形而上学的問題によって養われるという点にある。ドストエフスキーの小説では、人生の意義如何(いかん=いかなるものか)という問いは、極限的な解答、――人間の生存は虚妄(きょもう)であるか、しからずんば(=そうでないならば)永遠であるか、そのどちらかだという極限的な解答しかありえぬほど激烈な調子で提起される。もしドストエフスキーがこの問題の検討だけで満足していたら、かれは哲学者となったであろう。しかしかれは、こうした精神活動が人間の生活のなかでもちうるさまざまな帰結を明示する、この点でかれは芸術家なのである。
★アルベール‐カミュ
フランスの作家・劇作家・批評家。代表作は『異邦人』『ペスト』。
1913〜1960。
氏は、ドストエフスキーの小説の主人公たちが糾弾するこの世界の「不条理」性ということに、大いに共鳴し刺激を受けた作家だと言える。ただし、不条理なこの現世における救いを最終的には宗教の世界に求めたドストエフスキーのあり方に対しては、安易なものとして、氏は断固として受け入れず、拒否の態度を取り続けた。氏の作品『転落』とドストエフスキーの小説『地下室の手記』の類似は、研究者によってしばしば指摘されている。ちなみに、氏は、演劇作家として、「カラマーゾフの兄弟」「悪霊」(1959年上演)を脚本化し、その二作を自ら舞台で演出した。(劇「カラマーゾフの兄弟」では、自ら、イヴァン役を演じた。)
アンドレ・ジイド著
『ドストエフスキー』
(改造文庫。秋田滋訳。1936年初版。)
に所収の「ビュー‐コロンビエ座における連続六回講演」(p14〜p15)より。
※、旧仮名遣い・旧表記は、現代表記に改めました。
真の芸術家は、自分が制作する時には、常に自分自身のことについては半ば無意識である。彼は己(おの)れがいかなるものであるかということを確然(かくぜん)と(=たしかには)知ってはいない。彼はただ、自分の作品を通し、自分の作品により、自分の作品を書いてしまった後にのみ、己れというものを識(し)る(=知る)ようになるのである。ドストエフスキーは決して己れを知ろうとはしなかった。彼は夢中になってその作品の中に己れを打ち込んだ。己れの書物の各人物の中に彼は没入したのだ。それゆえ、作中人物のひとりひとりの中にドストエフスキーが再び見出されるのである。われわれは、やがて、彼が自分の名でものを言うと、甚(はなは)だ不手際であるが、逆に、彼自身の観念が自分の生かす人物の口を借りて述べられる時には、非常に雄弁になることがわかるであろう。これらの人物に生命を与えて、彼は存在するのである。彼はその人物のひとりひとりの中に生きているのだ。そして、その人物の多様性のうちに己れを委(まか)せ切ってしまうことが、第一の効果として、彼自身の矛盾を擁護(ようご)することになるのである。私はドストエフスキーほど、撞着(どうちゃく=前後に言ったことのつじつまが合わないこと)・矛盾に富む作家を知らない。ニーチェに言わせたら、「反対性」に富んだ作家である、とでも言うだろう。彼がもしも小説家でなくて哲学者であったとしたら、必ずその観念を整(ととの)えようとしたに違いない。そんなことをしたら、彼の最もすぐれたところを、われわれは見失ってしまったに違いない。
★アンドレ・ジイド
フランスの作家・批評家。代表作は『狭き門』『法王庁の抜け穴』。
1869〜1951。
氏はドストエフスキーの文学に早くから傾倒していたジイド氏は、講演活動を中心に、フランス文壇にドストエフスキー文学の重要性を初めて本格的に啓蒙することに貢献しています。氏の小説『贋金(にせがね)づくり』とドストエフスキーの小説『未成年』との類似が研究者によって指摘されています。上の「ドストエフスキーは、まさに、小説の中で生きた、と言える。それによって、ドストエフスキーは、自己の内にせめぎあう対立や矛盾を、損なうことなく維持し、また、豊かにしていくことができた。」
というジイド氏の指摘は、創作を行う作家ならではのドストエフスキー及びドストエフスキーの文学に関する深い洞察であると思う。
吉村善夫著
『ドストエフスキイ ― 近代精神超克の記録』
(新教出版社1965年初版。)
の「序」より。
ドストエフスキイをキリスト教的思想家ないし(=あるいは)文学者とする通俗的な見解ほど、ドストエフスキイの真意にもとる(=背く)ものはない。けだし(=思うに)ドストエフスキイの全努力は、キリスト教の信仰からそのような通俗的キリスト教をことごとく清算してこれを純化するところにあり、超人論や人神論のような彼の独特な思想はまさにその清算の悩苦(=苦悩)にほかならないのであるから。私はドストエフスキイを理解するにあたって諸家(しょか)のすぐれた研究に教えられたことの少なくないことは言うまでもないが、しかしそのもっとも根本的な点においては聖書をその最善の鍵、というより唯一の鍵とした。あるいは逆に、ドストエフスキイに教えられつつ聖書を読んだ、と言ってもよい。すなわち私はドストエフスキイの意図が現実の世界における聖書の真理の解明にあったと考えるのである。それゆえに私は、極限すれば、文学者ドストエフスキイを何よりもまずキリスト教神学者であり、彼の文学作品を何よりも聖書の注釈書である、と考えている。
★吉村善夫
元信州大学教育学部教授。
1910〜1993。
氏には、ドストエフスキーや夏目漱石の文学とその思想を、独自のキリスト教的立場から捉えて論じた独自のすぐれた著作があります。上の文章の前の箇所で、従来のドストエフスキー研究家にはしばしば「キリスト教信仰に対する的確な理解の欠如」が見られることや、「その信仰の的確な理解なしに彼(=ドストエフスキー)の思想をつかむことは、およそ不可能のわざとせねばなるまい」ということを、氏は強調しています。特に、上の文章の中の「ドストエフスキーの文学作品は、聖書の注釈書(あるいは、パロディー)という面がある」という指摘は、すべての作品がそうだとは言えないでしょうが、ドストエフスキー文学の大事な一面を突いている言えます。
森 有正著
『ドストエーフスキー覚書』
(筑摩叢書。筑摩書房1967年刊。森有正全集巻8。)
の「あとがき」より。
私の心はまったくかれに把(とら)えられた。神について、人間について、社会について、さらに自然についてさえも、ドストエーフスキーは、私に、まったく新しい精神的次元を開いてくれた。それは驚嘆すべき眺めであった。私にとって、かれを批判することなぞ、まったく思いも及ばない。ただ、かれの、驚くべき巨大なる、また限りなく繊細なる、魂の深さ、に引かれて、一歩一歩貧しい歩みを辿(たど)るのみである。
★森有正
哲学者。1911〜1976。
氏は、ドストエフスキー及びドストエフスキーの小説に終始敬愛の念を持ち続けた日本の近現代の哲学者の一人である。 氏のこの著『ドストエーフスキー覚書』は、哲学者らしい概念的説明もしばしば見られるが、ドストエフスキーから与えられた「愛」「自由」といった近現代社会の切実なテーマを、各小説の内容や登場人物の言動を豊かに深く分析しつつ、真摯(しんし)に論じたドストエフスキー論として、名著の誉れの高い書である。
ベルジャーエフ著
『ドストエフスキーの世界観』
(斎藤栄治訳。ベルジャーエフ著作集の第2巻。白水社1960年初版。)より。
ドストエフスキーの作品は極めて高度にディオニュソス的(=動的・激情的・生成的な混沌さを有しているさま。)である。ディオニュソス主義は悲劇を生む。なぜならばディオニュソス主義はただ高揚された人間性を示すからであり、こうした光景に接した後では、一切のものが色褪(あ)せたものに見える。それは別の宇宙、別の世界を訪ねたあとで、測定され、組織されたわれわれの世界、三次元のわれわれの空間に帰ってくるようなものである。ドストエフスキーを入念に読むことは、人生の一事件であって、精神はそこから火の洗礼を受ける。ドストエフスキーによって作られた宇宙に生活したひとは、まさに存在の未聞の形態の示現を見たのである。なぜならばドストエフスキーは何よりもあらゆる形態の沈滞と硬化に対立した偉大な精神の革命家であったから。
★ベルジャーエフ
ロシアの哲学者。1874〜1948。
埴谷雄高・筆
「ドストエフスキーへの感謝と困惑」
〔「ドストエフスキー読本」(新潮社版ドストエフスキー全集発刊記念パンフ。 1979年発行。)に所収〕
の末部より。
ドストエフスキー ――それは、二十世紀文学のまぎれもない啓示者として、最も感謝すべく、しかもまた、最も困惑すべき重(おも)し石にほかならぬが、私達がこれからその重し石に影形(かげかたち)もなく潰(つぶ)されるか、それとも渾身(こんしん)の力をもってその重し石を傍(かたわら)に携(たずさ)えて歩み得るか、それらは、私達として最初の大殺戮(さつりく)〔※この「大殺戮」は、アウシュビッツの悲劇、日本への原爆投下、スターリン独裁下の大粛清などを指して言っていると思われます。〕を敢(あ)えておこない、また、おこなわれた私達の自己凝視の今後の深さに、ひたすら、かかっている。〔「意見・情報」交換ボードの[97年5月5日] に書き込んだ分〕
★埴谷雄高
はにやゆたか。作家。
1910〜1997。
その独自のドストエフスキー体験とドストエフスキー文学に関する長年にわたる深い考察は、氏のライフワークの大長編小説『死霊』へと結晶し、ドストエフスキーに関する多くの著作や論考として残されている。ドストエフスキーの文学を、その政治社会的な側面・形而上学的な側面から捉えて論じることの多かったお一人である。
上の文章で埴谷氏は、ドストエフスキーの無神論的思想が我々に突きつけた、「神」を喪失した「社会・個人」の、(世界の破滅をももたらすほどの実存的な危うさ・恐さ・暴走性を含めた)善悪双方の可能性、のことを指摘しているのだと思います。
埴谷雄高著
『ドストエフスキイ―その生涯と作品―』
(NHKブックス31。日本放送出版会1965年初版。)
のp10、p14より。
私達が歴史の大きな流れをすこし注意して眺めてみれば、二十年くらいの周期として、ドストエフスキイ熱とでもいうべき異常な傾倒の時代がやってくるのに気がつきます。―途中、略― そのように周期的にたち帰ってくるドストエフスキイという作家の目立った特徴をあげてみれば、まず、成長する作家ということに気づきます。
★埴谷雄高
はにやゆたか。作家。
1910〜1997。
ドストエフスキーに対する上の「成長する作家」という埴谷氏の評は、つとに有名。同書のp14では、「時代を越え、場所を越えて成長する作家」と言い換えている。
清水 正著
『ドストエフスキー初期作品の世界』
(沖積舎1988年刊)
の「はじめに」の冒頭より。
ドストエフスキーの作品が読者に与える影響は余りにも深刻である。ある者は分裂し、自己解体し、地獄に突き堕(お)とされる。勿論(もちろん)、こういった傾向ばかりを重要視するわけにはいかないが、それでもなお、依然としてドストエフスキーの作品は読者を恐怖の深淵に招くことを止めようとしない。ドストエフスキーの混沌として掴(つか)みどころのない深遠な森で、我々は不可避的に出口を見失う。確かに、ある者は暗闇の世界から一条の光を見出し、それに導かれて神への信仰に到達することもできるであろう。私は決してそれを否定する者ではない。けれどもドストエフスキーの世界を忠実に探検する者は、一条の聖なる光によって救済されることはない。我々が救済されるためには、余りにも多くの知識と果てしのない懐疑とを、ドストエフスキーの森で体験してしまっている。我々が表層の知識と現実に満足し、この地上の大地に幸福者として実存することのできる確固たる基盤は、ドストエフスキーの出現によってまたたくまに崩れ去った。
― 以下、略 ―
★清水正
しみずまさし。現在、日本大学学術学部教授。雑誌「江古田文学」編集長、「д文学通信」編集発行人、д文学研究会主宰。1949〜。
氏は、十代後半からすでに、ドストエフスキー文学の読み込みと全作品の分析を旺盛に始められ、ドストエフスキー作品の構造に関する精緻精細な解釈やドストエフスキー文学の秘められたテーマに対する情熱的な掘り下げでは、現代日本において第一人者のお一人である。清水氏の上の文章は、深刻ぶった誇張された表現なのでは決してなく、その内容は、『地下室の手記』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』が与える「実存」思想や「自由・自意識」の問題にどっぷり浸った読者なら、たしかに、理解できる、心に切実にしみてくる、深刻で身につまされる内容だと言えると私は思いますが、ドストエフスキー文学愛好者は、ドストエフスキー文学の一面が与える、下手をすれば始末に負えなくなる「毒(猛毒)」には、やはり、非生産的に執着し過ぎないよう、十分気をつけた方がいいと、私は思っています。
金子幸彦・筆
「ドストエフスキー」
〔『ロシヤ文学案内』
(岩波文庫別冊2。1961年初版。)
の中の一項。p153。〕より。
彼の初期の作品『貧しき人々』『白夜』などでは、都会の裏町に住む、貧しい人間の心理が異常なするどさをもってえがかれている。その基調をなすものはこれらの不幸な人々への作者の人間的な同情である。彼は社会主義の理想をロシヤに実現することを夢みて、ペトラシェフスキーの秘密組織に参加し、1849年にとらえられてシベリヤに流された。十年にわたる拘束の生活のあいだに、彼は社会主義と無神論をすて、ふかく宗教的な人間となってロシヤにもどった。そして生活の諸条件の変革の意義と可能性を否定し、人間の不幸の原因やその不幸からの出口を人間の内部に求めるようになる。それは宗教への道である。彼はギリシャ正教のなかに救いを見いだそうとする。彼によれば、人間の苦悩のみなもとは人間のたましいの原罪のなかにひそむものであって、社会制度の諸条件とはかかわりのないものである。人間はなによりもまず自分自身と、そして自分のうちにある悪や罪とたたかい、自分の力で道徳的完成に立ちいたらなければならない。人間の救いは神にある。社会主義の本質は無神論であり、それは神を否定することによって人間の救いの道をとざすのである。徒刑後のドストエフスキーにとって、作品は現実の再現批判をはなれて、作者の形而上学の芸術表現となる。
★金子幸彦
ロシア文学者。元一橋大学教授。
1912〜1994。
W・ニック著
『ドストエフスキー』
(信太正三・工藤喜作訳。理想社1964年初版。)
のp25より。
彼(=ドストエフスキー)は、ニヒリズムの意義を同時代人の誰よりも早く、そして鋭く認識していた。虚無主義的な人間の出現と関連する問題ほどに、彼を強く惹(ひ)きつけ、刺戟(しげき。=刺激)し、震駭(しんがい。=驚いて震え上がらせること。)さした(=させた)問題はほかにない。彼は、そうした人間を、決して、一時の文学的な流行の型として評価したのではなく、彼の天才的な炯眼(けいがん。=物事の本質を見抜く鋭い眼力。)をもって直(ただ)ちにその全意義において把握していたのである。宗教哲学的に考察すれば、彼の思考の中心を占めているものは、虚無主義であり、そこに彼は自己の時代の巨大な問題を見た。それゆえ、幾度も繰りかえし新たに彼はその問題と取り組んだのである。虚無主義の問題との対決が、ドストエフスキーの文学作品に独特な性格を与えている。
★W・ニック
プロテスタント系統の教会史家。
久山 康・筆
「ドストイエフスキイの魅力」より。
[土曜会発行「ドストエフスキー研究」(「学生の読書」第5集。1965年刊。
に所収〕
私は、ドストイエフスキイの作品を通して、自分の心に芽生えていたニヒリズムを、その究極の深さにおいて開示されるとともに、その底を割って開かれる雄大荘厳な宗教の世界に出逢わされたのである。これは私の生涯にとって決定的な意味を持つ事柄であった。
★久山康
くやま・やすし。哲学者。元関西学院大学教授。西宮市の「土曜会」(「ドストエフスキー研究」発行)の元主宰。
久山氏は、別な文章で、
「ドストイエフスキイの作品のなかには、今日のニヒリズムと最も深く対決して、そこに高次の生命の世界を開き示すたぐい稀(まれ)な偉大な思想が展開されている。」
とも述べています。
新城和一著
『ドストイエフスキイ―人・文学・思想』
(愛宕書房1943年初版)
の「序言」のp14より。
※旧漢字は、現代の漢字に書き改めました。
ドストイエフスキイの独自性は、透徹な直感を以(もっ)て霊肉の秘密を掴(つか)み出して、人生を精細に観察し解剖したのみでなく、彼には民族及び人類の運命に対する神経質な焦慮(=あせって気をもむこと。)があり、彼が霊肉の辛辣(しんらつ)な(=手厳しい)争闘(そうとう。=闘争。)の中に、常により高きものに憧(あこが)れ、厭(あ)くなき渇望を以(もっ)て苦しい葛藤(かっとう)の中に神性を探し求め、外部及び内部のあらゆる障碍(しょうがい。=障害。)と悪戦苦闘をしながら、遂(つい)に宇宙の魂に味到して(=を十分味わいつくして)、海の如(ごと)き広き愛の領域に肉迫した(=間近まで迫った)点にあるのである。―途中、略― ドストイエフスキイが人類愛に到達するまでには、永い苦しい争闘の過程を踏まなければならなかった。彼もまた我々と同じく、肉と本能とに弄(もてあそ)ばれて人生の迷路を永い間、さ迷ったのである。
★新城和一
しんじょう・わいち。大正期から戦後にかけてドストエフスキー文学の紹介・啓蒙に活躍したドストエフスキー研究家。
元法政大学フランス文学部教授・陸軍士官学校フランス語教官。
1891〜1952。
氏は、特に、大正期に、雑誌「白樺」に、ドストエフスキーの文学や生涯のことを連載して、大正期における白樺派の文学者らのドストエフスキー理解に大きな影響を与えた。上の文章は、戦時中特有の誇張された美文調もやや感じられますが、「ドストエフスキーは、霊肉・善悪との永く苦しい闘争の中、より高いものへのあこがれを失わず、その闘争の末、人間の内の神性・宇宙の魂・人類愛という高い境地にまで到達していったのだ」という指摘は、ドストエフスキー(の生涯)のことをよく捉えている指摘だと私は思いました。
荒 正人編著
『ドストエーフスキイ』
(河出ペーパーブックス。河出書房新社1963年刊。)
の「編者のことば」より。
ドストエーフスキイなしには、ロシア文学は存在しない。ドストエーフスキイなしには、現代の文学は存在しない。――いや、ドストエーフスキイなしには、人類の精神的成果は存在しない。少なくとも、その一半(いっぱん。=半分。)は失われるであろう。ドストエーフスキイは、ホメーロス(古代ギリシャの詩人)、シェイクスピアなどにつづく、人類の栄光である。実存の深淵と同時に、天上の秘密をかいま見たこの天才の業績は、おそらく「聖書」にのみ匹敵しうるものであろう。「聖書」は、神の言葉を集めたものだが、ドストエーフスキイの世界は、一人の巨人が築きあげたものである。
★荒正人
あらまさひと。文芸評論家。
1913〜1979。
内村剛介著
『ドストエフスキー』
(「人類の知的遺産 51」。講談社1978年初版。)
のp13より。
ドストエフスキーは不埒(ふらち。=言動が限度を越しており、けしからぬこと。)で、色っ気の過多な、そして娑婆っ気(しゃばっけ)の多い男である。「不埒(ふらち)」とは埒(らち。=そこを超えることが許されない区切り。)を踏み越え法に外(はず)れることであろう。読者に対してもそうだ。彼はここでも埒(らち)を越える。俗悪といえるほど読者を気にする。エンターテイナーとしてサーヴィスこれつとめる(=サーヴィスにつとめる)のだ。ジャーナリストのいい面・悪い面を兼ね備えている。臭気(しゅうき)を悪く放つ男でもある。この臭気を彼は生涯気にかけた。
★内村剛介
評論家・ロシア文学者。元、北海道大学・上智大学教授。
1920〜2009。
内村剛介・筆
「ドストエフスキー・テーゼ」より。
〔『特集=ドストエフスキーその核心』(「ユリイカ詩と批評」6月号。青土社1974年初版。)に所収。〕
ドストエフスキーはすぐれて(=特に)エロティックである。いったいありまる性慾(せいよく)とはどういうことか。それを想像することはドストエフスキーの存在の根をもろに想像するといったほどの厚かましいことだろうが、それでは矮小(わいしょう)な(=規模の小さい)性慾しか持たぬ者はどうしたらよいのか。彼の妻君の記録などこの際全く当てにならぬ。
★内村剛介
評論家・ロシア文学者。元、北海道大学・上智大学教授。
1920〜2009。
上の文章は、内村氏が「ドストエフスキー・テーゼ」と題して、ドストエフスキー理解における自戒を箇条書きふうに列挙した文章の中の一項。ドストエフスキーは、実際、人並み以上の精力(活力・性力)を持っていた人間であり、「ありまる性慾」は、ドストエフスキーが自ら言った言葉を引用したものと思われます。冒頭の内村氏の「ドストエフスキーはすぐれてエロティックである。」には、私は思わず吹き出してしまいましたが、内村氏は上で、「ドストエフスキーの小説は」の意味も含めて、「ドストエフスキーは」と言っているとするなら、上の評言は、いろんな意味合いにおいて、ドストエフスキーに関するおもしろい評言だと私は思いました。
ドストエフスキーの小説の登場人物には、さかんな情欲がしばしば暗示されています。当時の検閲を意識してか、作中で、直接的な性描写は少なく、男女の情交の場面があっても、カットしているか、あるいは未遂か省略的ですが、一方で、省略的なだけに逆に暗示的な内容を持つものとして、それらの場面や表現を捉えることもできましょう。
小沼文彦著
『随想ドストエフスキー』
(近代文芸社1997年初版)
のp9〜p10より。
ドストエフスキーは、現代に生きつづける作家である。ロシア大革命、第一世界大戦、第二世界大戦によって、ドストエフスキーの夢と理想は無残に打ち砕かれてしまったかに見えるが、その作品はいずれの国においてもますます多く読まれ、彼についての研究書、論文のたぐいはいまだにそのあとを断たぬばかりか、いよいよその数は増えるばかりである。それは百年後の今日にあっても、ドストエフスキーの予言的性格がますますその色彩を濃くし、彼の提起した問題はいまだ解決されぬままに、問題として残され、われわれにその解決を迫っているからにほかならない。
★小沼文彦
ドストエフスキー文学の翻訳家・研究家。筑摩書房刊の個人訳ドストエフスキー全集がある。
1916〜1998。
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