米川正夫著
『ドストエーフスキイ入門』(1951年河出書房刊。市民文庫。)の「ドストエーフスキイ伝」の冒頭より。
※旧仮名遣い・旧表記は、現代表記に改めました。
トルストイを肉の洞察者というのに対して、ドストエーフスキイを霊の透視者と呼ぶのは、かの(=あの)メレジコーフスキーの名批評以来、ロシヤ文学に関する一つの常識のようになっている。彼は生来のてんかん病者として、人生の現象を見るのに常人と全く異なった、ほとんどX光線的な働きを有する感受性を備えている人である。いったん死刑の宣告を受けて、もう何分か後にはこの世から跡を消してしまうものと覚悟しながら、思いがけなく特赦の勅命に接して、いわば死から蘇った人、――墓の中から奇跡的に起き出して来た人である。こうして、聞くさえ身の毛のよだつような恐ろしい体験の後に、この世からの(=この世における)地獄ともいうべきシベリヤの牢獄に懲役囚として、肉体的・精神的に人間の堪え得べきあらゆる苦難を忍び、一方において人間の残忍性、野獣性、悪魔性を、いま一方において、その本質的な善良性・神性を、つぶさに究めた人である。こういう世にも稀な素質と体験を有する彼は、その作品において聖者のごとく博大深遠な基督(キリスト)教的愛を説くと同時に、凄惨、残忍、ほとんど人をして面を反(そむ)けしめるような、殺人や、暴行や、狂憤、憎悪の発作などの場面を描き、さながら読者の神経を虐げて物狂おしい戦慄を強制し、もって自ら快とするような、悪魔的サディストのような半面を有している。そして、作中の人物の殺人者やその不幸な犠牲者たちのどす黒い恐怖や憎悪の苦悶(くもん)を、想像することも出来ないような冷静さと、正確さをもって、微に入り細を穿(うが)ちながら、解剖し描写して、余すところがない。従って、彼の小説は人生の福音書であるとも言われ、また同時に苦痛と呪いに充ちた現代の黙示録とも称され、さらに芸術的病理学の書とも呼ばれている。ドストエーフスキイの芸術が聖典であるか、あるいは、病理学的産物であるか、というようなことは、大して重要性を持たぬ問題である。恐らく、そのいずれをも彼の作中に指摘し得るであろうけれど、重要なのは、ドストエーフスキイがその作中に於(お)いて、この人間世界に厳然として存在していながら、われわれの感受性をもっては捕捉することの出来ない実際を、彼独自のプリズムを通して強烈無比な形に表わし、それをわれわれの目の前に突きつけたことである。ドストエーフスキイの芸術は取材の領域、表現の手法、様式の点から見ても、古今を通じて世界文学に唯一無比の、偉大な驚嘆すべき現象である。ドストエーフスキイの内部世界の深さ、広さ、複雑さは、これまで現れた数え切れぬほどの研究書や批評をもってしても、そのすべてを窮(きわ)め尽くしたと言うには、まだまだ大きな距離が残っている。
★米川正夫
日本で初めてドストエフスキー全集の個人訳を成し遂げたロシア文学の翻訳・研究の大家・功労者。
1891〜1965。
現代のドストエフスキー文学の愛読者・翻訳家・研究家にとって、米川氏の偉業からの恩恵は計りしれない。全訳の大業に裏打ちされた、意外と忘れられている一連の「ドストエフスキー研究及び論」は、今も、傾聴すべきものが多々あると思います。
小林秀雄・筆
「「罪と罰」についてU」(1951年筆。新訂小林秀雄全集第六巻に所収。)より。
※旧仮名遣い・旧表記は、現代表記に改めました。
評家は猟人(かりうど)に似ていて、なるたけ早く鮮やかに獲物を仕止めたいという欲望にかられるものである。ドストエフスキイも、夥(おびただ)しい評家の群れに取巻かれ、各種各様に仕止められた。その多様さは、殆(ほとん)ど類例がない。読んでみて、それぞれ興味もあり有益でもあったが、様々な解釈が累々(るいるい)と重なり合うところ、あたかも様々な色彩が重なり合い、それぞれの色彩が、互に他の色彩の余色となって色を消し合うが如(ごと)く、遂に一条の白色光線が現れ、その中に原作が元のままの姿で浮かび上がって来る驚きをどう仕様もない。僕が、「ドストエフスキイの生活」を書き終えたのは、もう七年も前である。「今は、不安な途轍(とてつ)もない彼の作品にはいって行く時だ」という文句で、伝記を閉じたのであるが、今、浮かび上がって来る原作の姿は、依然として不安な途轍もないものであり、そういう疑い様がない驚きの念と一向まとまりの付かぬ疑わしい沢山の覚え書きとが、あるばかりだ。僕が勤勉な研究家でない事は確かである。勤勉な研究家なら、こんな為体(ていたらく)にはならなかった筈(はず)である。けれども、怠惰な研究家には怠惰な研究家の特権というものも、あっていい様に思われる。一条の白色光線のうちに身を横たえ、あれこれの解釈を拒絶する事を、何故一つの特権として感じてはいけないのだろうか。僕には、原作の不安な途轍もない姿は、さながら作者の独創力の全緊張の象徴と見える。矛盾を意に介さぬ精神能力の極度の行使(こうし)、精神の両極間の運動の途轍(とてつ)もない振幅を領する為(ため)に要した彼の不断の努力、それがどれほどのものであったかを僕は思う。彼を知る難しさは、とどのつまり、己れを知る易(やさ)しさを全く放棄して了(しま)う事に帰するのではあるまいか。彼が限度を踏み超える時、僕も限度を踏み超えてみねばならぬ。何故か。彼の作品が、そう要求しているからだ。彼の謎めいた作品は、あれこれの解き手を期待しているが故に謎めいているとは見えず、それは、彼の全努力によって支えられた解いてはならぬ巨(おお)きな謎の力として現れ、僕にそういう風に要求するからである。僕は背後から押され、目当てもつかず歩き出す。眼の前には白い原稿用紙があり、僕を或(あ)る未知なものに関する冒険に誘う。そして、これは僕自身を実験してみる事以外の事であろうか。
★小林秀雄
昭和期の代表的な文芸・美術評論家。
1902〜1983。
そのたぐいまれな感性知性合わせ持った資質により、取り上げた対象(芸術家・思想家とその作品など)のふところや眼目へと迫っていく批評活動によって、昭和の文芸・美術評論史において一時代を画した達人的人物。氏には、昭和八年から昭和三十年代の終わりにかけて、ドストエフスキーの生涯の研究や、各作品に関する一連の読み込み・評論・著作活動があり、それらは、日本におけるドストエフスキーの文学の読み込みと理解において一つの深い到達を示した労作と言えます。氏は、ドストエフスキーのことを「文学の師」「人生の師」とたびたび告白し、終始ドストエフスキーに対して深い敬愛の念を示しました。氏の研究対象は、その後、ベルグソン・本居宣長ヘと移っていって、氏のドストエフスキー研究は、継続されないまま途中で終わってしまったことが惜しまれます。私は、高校から大学にかけて、氏の全集を読みふけった時期がありましたが、その中でも、ドストエフスキーの文学の深所にまで到達せんとするその取り組みと、その結実としてのドストエフスキー関係の著作からは、大いに影響や刺激を受けてきました。上の文章などは、最初読んだとき、いたく感動し、繰り返し反芻(はんすう)し、ほとんど、そらで覚えているほどです。氏のドストエフスキー論に関する、今後の本格的な再評価が待たれます。
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