ドストエフスキーへの評言2
(更新:24/04/24)
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神西 清
『ドストエーフスキイ読本』(1956年河出書房刊。河出新書。)の「まえがき」より。

ドストエーフスキイの世界は、複雑ではあるが、決して雑多でも多様でもない。彼は単なる風俗作家でもなければ、いわゆる自然派の作家でもない。いわばもっとも純粋な意味での観念的な作家なのだ。といって、ある特殊な観念を手軽に主張したり宣伝したりするひとでもない。むしろはなはだ徹底した懐疑家であり、熱烈な実証主義者であった。であるからドストエーフスキイの世界では、どんな観念にしろ、決して先験的に提出されたり、あるいは無条件に擁護され、主張されたことがない。ある定立(テーゼ)はかならず反立(アンチテーゼ)を予想し、ある綜合はかならず分裂をふくんでいる。してみればその世界から、ある一つの観念を取り出してみようなどという試みは不可能である。何ごともすべて相対的な姿のままで示さないかぎり、ドストエーフスキイという作家は死んでしまう。その作品のリアリティも、みんな化石してしまう。 もう一つの特色は、観念的な作家にはよくあることだが、彼の世界には、主題や性格の多様さが案外に乏しい。ドストエーフスキイは、決して主題や性格の変化や多彩さの意味で豊かな作家ではなかった。それらのものを見きわめる力の深さ、鋭さの点で豊かな作家なのである。だから彼の主要な作品群を有機的にではなく、ただその筋書なり、主な登場人物のシチュエーションなりからばかり眺めると、それそれの作品の表情は、意外に似かよってくるのである。

★神西清氏(19031957)は、ロシア・フランス文学の翻訳家・研究家、小説家。

氏はチェーホフの戯曲の名訳家で知られるが、昭和11年三笠書房刊のドストエフスキー全集では、「永遠の良人」などの訳を担当し、上記のドストエフスキーの作品中の箇所や肉声のエッセンスを抄録した『ドストエーフスキイ読本』なども編集し、ドストエフスキーの文学に関してすぐれた知見を持っておられた翻訳家のお一人である。




中村 健之介
『ドストエフスキー人物事典』の「あとがき」のp466より。

人間は過敏な内面感覚ゆえに、存在の不快、苦痛をかかえている。生きていることに安らぎがなく、不愉快で、原因不明の敵愾心(てきがいしん)が絶えず湧()いてくる、その不快感や疎外感の解消、世界との和解感の回復、敵愾心から歓(よろこ)びへの脱出、つまりドストエフスキーの言う「死せる生」から「生ける生」への転換が、ドストエフスキーの中心の問題であった。人間が絶えず不安と恐怖に襲われ、内から湧いてくる苛立(いらだ)ちや憎悪をかかえ、そこから逃れたいと常に願っている。そのような人間存在そのものが、ドストエフスキーの根源のテーマなのである。ドストエフスキーの文学はいわゆる教養主義的文学ではない。それは人間の不安や苦痛という普遍的で具体的な事実に根ざし、個々の人間の生存の現実と直接深くかかわっている文学なのである。ドストエフスキーの持つ現代性の核心はここにある。

★中村健之介氏(1939)は、従来見失われがちだった「ドストエフスキー・その文学・その周辺の事柄」の諸面やドストエフスキーの等身大の実像を、精力的に紹介し啓蒙してこられたドストエフスキー文学の研究家。現代日本の代表的なドストエフスキー研究家のお一人。現在、東京大学教授。

中村氏は、
ドストエフスキーは「思考・哲学」型の作家というよりは、むしろ「気分・感覚」型の作家であり、また、作中の登場人物にも、しばしばドストエフスキーの自己の投影・分身として、「気分・感覚」型の人物が多く見られる、という視点に立ち、ドストエフスキーは19世紀後半の都会ペテルブルグに生きる「いびつで、悲劇的な」「死産児」のような人間の姿を作中に描き続け、彼らが自己の蘇生を求めて「生ける生」へと立ち返ろうとする苦闘ぶりこそ作品の重要な眼目になっている、ということを一貫して主張されています。江川 卓氏・清水 正氏によるテキストの重層的解読の作業とともに、中村氏の一連の啓蒙的労作は、ドストエフスキー研究家・愛好家が必ず目を通しておくべき必読書になってきています。



アルベール・カミュ
『シーシュポスの神話』〔佐藤朔・白井浩司訳。新潮世界文学49「カミュ(U)」に所収。〕の中の文章「キリーロフ」(p374p381)の冒頭より。

ドストエフスキーの主人公たちは、だれもが、人生の意義について自問している。その点でかれらは現代人だ。つまり、かれらは滑稽(こっけい)になることをおそれない。現代的感受性と古典的感受性とのちがいは、古典的感受性は道徳的問題によって養われるが、現代的感受性は形而上学的問題によって養われるという点にある。ドストエフスキーの小説では、人生の意義如何(いかん=いかなるものか)という問いは、極限的な解答、――人間の生存は虚妄(きょもう)であるか、しからずんば(=そうでないならば)永遠であるか、そのどちらかだという極限的な解答しかありえぬほど激烈な調子で提起される。もしドストエフスキーがこの問題の検討だけで満足していたら、かれは哲学者となったであろう。しかしかれは、こうした精神活動が人間の生活のなかでもちうるさまざまな帰結を明示する、この点でかれは芸術家なのである。

★アルベール‐カミュ(19131960)は、フランスの作家・劇作家・批評家。代表作は『異邦人』『ペスト』。

氏は、ドストエフスキーの小説の主人公たちが糾弾するこの世界の「不条理」性ということに、大いに共鳴し刺激を受けた作家だと言える。ただし、不条理なこの現世における救いを最終的には宗教の世界に求めたドストエフスキーのあり方に対しては、安易なものとして、氏は断固として受け入れず、拒否の態度を取り続けた。氏の作品『転落』とドストエフスキーの小説『地下室の手記』の類似は、研究者によってしばしば指摘されている。ちなみに、氏は、演劇作家として、「カラマーゾフの兄弟」「悪霊」(1959年上演)を脚本化し、その二作を自ら舞台で演出した。(劇「カラマーゾフの兄弟」では、自ら、イヴァン役を演じた。)

 


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