ドストエフスキーへの評言4
(更新:24/04/24)
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埴谷雄高・
「ドストエフスキーへの感謝と困惑」〔「ドストエフスキー読本」(新潮社版ドストエフスキー全集発刊記念パンフ。 1979年発行。)に所収〕の末部より。


ドストエフスキー ――それは、二十世紀文学のまぎれもない啓示者として、最も感謝すべく、しかもまた、最も困惑すべき重(おも)し石にほかならぬが、私達がこれからその重し石に影形(かげかたち)もなく潰(つぶ)されるか、それとも渾身(こんしん)の力をもってその重し石を傍(かたわら)に携(たずさ)えて歩み得るか、それらは、私達として最初の大殺戮(さつりく)〔※この「大殺戮」は、アウシュビッツの悲劇、日本への原爆投下、スターリン独裁下の大粛清などを指して言っていると思われます。〕を敢()えておこない、また、おこなわれた私達の自己凝視の今後の深さに、ひたすら、かかっている。〔「意見・情報」交換ボードの[9755] に書き込んだ分〕


★埴谷雄高(にやゆたか。19101997)は、作家。

その独自のドストエフスキー体験とドストエフスキー文学に関する長年にわたる深い考察は、氏のライフワークの大長編小説『死霊』へと結晶し、ドストエフスキーに関する多くの著作や論考として残されている。ドストエフスキーの文学を、その政治社会的な側面・形而上学的な側面から捉えて論じることの多かったお一人である。 上の文章で埴谷氏は、ドストエフスキーの無神論的思想が我々に突きつけた、「神」を喪失した「社会・個人」の、(世界の破滅をももたらすほどの実存的な危うさ・恐さ・暴走性を含めた)善悪双方の可能性、のことを指摘しているのだと思います。




清水 正
『ドストエフスキー初期作品の世界』(沖積舎1988年刊)の「はじめに」の冒頭より。


ドストエフスキーの作品が読者に与える影響は余りにも深刻である。ある者は分裂し、自己解体し、地獄に突き堕()とされる。勿論(もちろん)、こういった傾向ばかりを重要視するわけにはいかないが、それでもなお、依然としてドストエフスキーの作品は読者を恐怖の深淵に招くことを止めようとしない。ドストエフスキーの混沌として掴(つか)みどころのない深遠な森で、我々は不可避的に出口を見失う。確かに、ある者は暗闇の世界から一条の光を見出し、それに導かれて神への信仰に到達することもできるであろう。私は決してそれを否定する者ではない。けれどもドストエフスキーの世界を忠実に探検する者は、一条の聖なる光によって救済されることはない。我々が救済されるためには、余りにも多くの知識と果てしのない懐疑とを、ドストエフスキーの森で体験してしまっている。我々が表層の知識と現実に満足し、この地上の大地に幸福者として実存することのできる確固たる基盤は、ドストエフスキーの出現によってまたたくまに崩れ去った。 
― 以下、略 ―


★清水正氏(まさし・1949)は、現在、日本大学学術学部教授。雑誌「江古田文学」編集長、「д文学通信」編集発行人、д文学研究会主宰。

氏は、十代後半からすでに、ドストエフスキー文学の読み込みと全作品の分析を旺盛に始められ、ドストエフスキー作品の構造に関する精緻精細な解釈やドストエフスキー文学の秘められたテーマに対する情熱的な掘り下げでは、現代日本において第一人者のお一人である。清水氏の上の文章は、深刻ぶった誇張された表現なのでは決してなく、その内容は、『地下室の手記』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』が与える「実存」思想や「自由・自意識」の問題にどっぷり浸った読者なら、たしかに、理解できる、心に切実にしみてくる、深刻で身につまされる内容だと言えると私は思いますが、ドストエフスキー文学愛好者は、ドストエフスキー文学の一面が与える、下手をすれば始末に負えなくなる「毒(猛毒)」には、やはり、非生産的に執着し過ぎないよう、十分気をつけた方がいいと、私は思っています。





金子幸彦・
「ドストエフスキー」
〔『ロシヤ文学案内』(岩波文庫別冊21961年初版。)の中の一項。p153。〕より。


彼の初期の作品『貧しき人々』『白夜』などでは、都会の裏町に住む、貧しい人間の心理が異常なするどさをもってえがかれている。
その基調をなすものはこれらの不幸な人々への作者の人間的な同情である。彼は社会主義の理想をロシヤに実現することを夢みて、ペトラシェフスキーの秘密組織に参加し、1849年にとらえられてシベリヤに流された。十年にわたる拘束の生活のあいだに、彼は社会主義と無神論をすて、ふかく宗教的な人間となってロシヤにもどった。そして生活の諸条件の変革の意義と可能性を否定し、人間の不幸の原因やその不幸からの出口を人間の内部に求めるようになる。それは宗教への道である。彼はギリシャ正教のなかに救いを見いだそうとする。彼によれば、人間の苦悩のみなもとは人間のたましいの原罪のなかにひそむものであって、社会制度の諸条件とはかかわりのないものである。人間はなによりもまず自分自身と、そして自分のうちにある悪や罪とたたかい、自分の力で道徳的完成に立ちいたらなければならない。人間の救いは神にある。社会主義の本質は無神論であり、それは神を否定することによって人間の救いの道をとざすのである。徒刑後のドストエフスキーにとって、作品は現実の再現批判をはなれて、作者の形而上学の芸術表現となる。


★金子幸彦氏(19121994)は、ロシア文学者。元一橋大学教授。



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