ドストエフスキーへの評言6
(更新:24/04/24)
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福島 章
『天才のパトグラフィー』(講談社新書。1984年初版。)の第7章「父親体験」の中の「ドストエフスキーの父親憎悪」nop166より。


ドストエフスキーの父親は医師で、地主であったが、暴君であった。彼は、子どもたちに厳しく乱暴な教育を行(おこな)った。子どもは、
強いエディプス・コンプレックスを、つまり強い父親殺しの幻想を抱くことになり、実際ドストエフスキーは少年時代にはずっと父親を殺してやりたいほど憎んでいたと思われる。しかし同時に、幼い心に刻みこまれた父のイメージは、苛酷(かこく)でサディスティックな超自我(注:精神分析学の用語)となって彼の一生を支配する。つまり、無意識からの呼び声として、「お前は悪い子だ。お前は罪を犯した。お前は罰せられなければなにない。お前は幸福や成功にふさわしくない人間だぞ」という呼び声を聴()きつづけていたのである。 このような超自我を頭にいただいた自我が、受動的でマゾヒスティックな性格を持つことは、容易に想像できよう。彼らは苛酷な運命にもてあそばれ、不幸の続くことのなかにかえってひそかな満足をおぼえ、つかのまの幸福や成功がたまたま訪れると、不条理な無意識の衝動に駆()られてそれをだいなしにする。ドストエフスキーの有名な賭博癖や飲酒行動のような自己破戒衝動もその一つである。
 

★福島章氏(あきら・19362022)は、精神医学者。現在、上智大学教授。

異常な犯罪事件に関する手堅いコメントやその温厚なお人柄は、テレビのお茶の間でも知られている。上の文章は、フロイトの有名な論文「ドストエフスキーと父親殺し」の要旨を踏まえて、ドストエフスキーの生涯における父親からの心理的(深層心理的)な影響を指摘した実に興味深い文章であり、家庭環境(両親・兄弟、など)の、個人の性格や生きざまへの影響は意外と大きいということを考慮するならば、この精神分析学的な観点は、ドストエフスキーの生涯の生きざまや氏の小説の傾向の秘密を解くための大事なキーになるのかもしれません。なお、末部の「飲酒行動」という箇所は、ドストエフスキーに関する知識としては、勘違いをされているようです。 
 




内村剛介・
「ドストエフスキー・テーゼ」より。〔『特集=ドストエフスキーその核心』(「ユリイカ詩と批評」6月号。青土社1974年初版。)に所収。〕
 

ドストエフスキーはすぐれて(=特に)エロティックである。いったいありまる性慾(せいよく)とはどういうことか。それを想像することはドストエフスキーの存在の根をもろに想像するといったほどの厚かましいことだろうが、それでは矮小(わいしょう)(=規模の小さい)性慾しか持たぬ者はどうしたらよいのか。彼の妻君の記録などこの際全く当てにならぬ。


★内村剛介(19202009)は、 評論家・ロシア文学者。元、北海道大学・上智大学教授。

上の文章は、内村氏が「ドストエフスキー・テーゼ」と題して、ドストエフスキー理解における自戒を箇条書きふうに列挙した文章の中の一項。ドストエフスキーは、実際、人並み以上の精力(活力・性力)を持っていた人間であり、「ありまる性慾」は、ドストエフスキーが自ら言った言葉を引用したものと思われます。冒頭の内村氏の「ドストエフスキーはすぐれてエロティックである。」には、私は思わず吹き出してしまいましたが、内村氏は上で、「ドストエフスキーの小説は」の意味も含めて、「ドストエフスキーは」と言っているとするなら、上の評言は、いろんな意味合いにおいて、ドストエフスキーに関するおもしろい評言だと私は思いました。 ドストエフスキーの小説の登場人物には、さかんな情欲がしばしば暗示されています。当時の検閲を意識してか、作中で、直接的な性描写は少なく、男女の情交の場面があっても、カットしているか、あるいは未遂か省略的ですが、一方で、省略的なだけに逆に暗示的な内容を持つものとして、それらの場面や表現を捉えることもできましょう。




遠丸 立・
「ドストエフスキー論について」より。〔特集「ドストエフスキー」(現代のエスプリNo.164。至文堂1981年刊。遠丸立編集・解説。)に所収。〕


ドストエフスキーの魅力、それはやはり
多面的な、多層的な、生活を反照した(=反映している)多面的な、多層的な、作品、湖のような広大なひろがりと海溝(かいこう)のような深い暗いよどみを持つ内容、にあるだろう。いいかえるなら、彼自身がひきずっているなにか肉眼では明視しえぬ薄暗さ、つまり彼の存在そのものに内在する朦朧(もうろう)の気、に由来する妖(あや)しい力、からくるといい切っていいのだと思う。これは見方によれば、十九世紀後半の帝政ロシヤの暗さであるかもしれない。ドストエフスキーのひきずっている暗さは、それと通脈する(=相通ずる)ものであるかもしれない。そしてさらにいえば、ここにもうひとつの問題が胚胎(はいたい)する(=生じて、始まる)のだ。すなわち彼のまわりには最大級に多数の論者が蝟集(いしゅう)(=群がり)、それぞれの関心の命じるまま、この作家の最深部のエッセンスを食いちぎろうと努めたけれども、多面体を誇るこの作家のあらゆる面、あらゆる窪(くぼ)みを現在せせりだしている(=突っついて、明るみに出すことに成功している)とは残念ながらいえそうもないという事情である。洋の東西をつうじて書かれたドストエフスキー論は実に厖大(ぼうだい)な数量にのぼるけれども、この作家の有するいくつかの面については、まだあまり触れられていないという実情があるのだ。もちろん私は私自身読んだかぎりでの論についていっている。そういう限定を付さなければならないと思う。それはまたいかにドストエフスキーが、多面的、多層的、要素をうちぶところふかく(内懐深く)隠しもっていたかを逆証していることにもなるだろう。まだまだこの複雑な作家には未照明のまま残されている部分がある。その部分にあたらしい光を当てる作業は、今後のドストエフスキー論にとり可能でもあり、必要でもあるのだ。


★遠丸立(おまる たつ。1926〜。)は、 文芸評論家・詩人。

多面性・多層性を有するドストエフスキーの作品の謎(難解さ)や暗さは、ドストエフスキーという人間の存在自体の内奥にある不明なもの、当時のロシア社会を背景とした、ドストエフスキーの生涯における、さまざまな特異な、生活体験(人生体験)・感覚や思索や精神の行使、などの反映であり、それらをもとに、独自に形成(醸成)されたものではないか、といった指摘は、鋭くて、非常に大事な指摘だと私は思いました。ドストエフスキーのうちの、まだ十分には触れられていない・解明されていない、大事なキーだと思われる面・分野・要素に関して、私自身注目しているそれらは、いくつかあることはあるのですが、自他によるそれらの指摘・それらの研究や解明が、今後、待たれます。




アンリ・トロワイヤ
『ドストエフスキー伝』(村上香住子訳。中公文庫1988年刊。)p728p729より。


ドストエフスキーは、偉大な善意の人でありながら、つまらない意地(いじ)のわるさも捨て切れず、大きな犠牲的な行為をしていても、ちまちまとしたエゴイズムにこだわり、崇高(すうこう)な感情を理解しているのに、卑(いや)しい悪から抜け出せない。そういった両面を持っていた人なのだ。 だが悪の面は、彼も抑制していた。自分では手を下さなかったが、自分の小説の主人公たちが犯すサディスティックな犯罪を夢みていた。彼はその考えに取り憑()かれ、そそのかされた。そこで彼はそれを小説のなかにぶちまけたのだ。そのとき舌を巻く才筆をふるったとしても、それは彼のなかにある人間的脆弱(ぜいじゃく)(=弱さ)、美しさ、そういったものが大事に保たれていたからに他ならない。彼の普遍性を支えていたものは、知性ではなく、心だったのだ。彼がスタヴローギンは<悪魔>で、ムイシキン(=ムイシュキン公爵)は<聖人>だとはきめつけられなかったのも、もとはといえば、彼のなかにその両方に対して五分五分(ごぶごぶ)の、まったく同等の意識を持っていたからだ。彼の意識の二重構造は、ドストエフスキー文学のすべてを貫いている。淫乱(いんらん)な肉欲の世界と自己放棄の高い精神性のあいだでゆれうごき、既成の秩序と思いがけない新たな秩序のあいだて迷っている。だがそれでも彼はその選択を拒(こば)んでいる。となると、この穏(おだ)やかなキリスト教徒の平和主義者が中東戦争を説こうが、癲癇(てんかん)病みの幻想家がその小説に現実的なデテール(=詳しい細部)をぎっしりつめこもうが、驚くに値しない。ドストエフスキーは、彼の小説の主人公同様に分身を持っていたからだ。 現実の問題を彼が提示したとしても、けっしてその結論をわれわれに押しつけてはこない。 ドストエフスキーの文学は、回答ではなく、ひとつの問いかけなのだ。 ―以下略―
〔上の末部は、「意見・情報」交換ボードの[987110621]に書き込んだ分〕


★アンリ・トロワイヤ氏(19112007)は、 ロシア生まれのフランスの小説家・伝記作家。




森 和朗
『ドストエフスキー 闇からの啓示』(中央公論社1993年初版)p36より。


ドストエフスキーは神秘的な宗教思想家と見られがちだが、
近代の科学技術が人間に突きつける問題を彼ほど鋭く洞察した人がいるだろうか。「二二が四という方程式」の天文学的な射程を、おそらく彼は直感的に見通していたであろう。
 

★森和朗氏(かずろう。1937〜。)は文筆家。元NHK国際局チーフ・ディレクター。

上書は、現代科学技術文明・現代社会の状況に関する予言的洞察を示したドストエフスキーの言説を引用しつつ、現代管理社会に鋭い批判・警鐘のメスを入れた快著。上の「二二が四という方程式」は、ドストエフスキーの小説『地下室の手記』で、主人公の「わたし」が近代の科学的合理主義性格を端的に評した表現。 → 新潮文庫の『地下室の手記』のp52の末行。(他に、p50p52p55p59)
              




黒澤 明の言葉
『黒澤 明』(現代書館1996年初版。橋本勝/文・絵。)で紹介されている黒澤氏の言葉より。
「ドストエフスキーのどういうところに傾倒するのか」という質問(聞き手:清水千代太)に対する黒澤氏の発言(『キネマ旬報』19524月上旬号掲載のインタビュー)

                  
あんなやさしい好ましいものを持っている人はいないと思うのです。それはなんというのか、普通の人間の限度を越えておると思うのです。それはどういうことかというと、僕らがやさしいといっても、たとえば大変悲惨なものを見た時、目をそむけるようなそういうやさしさですね。あの人は、その場合、目をそむけないで見ちゃう。一緒に苦しんじゃう、そういう点、人間じゃなくて神様みたいな素質を持っていると僕は思うんです。
(以上は、「意見・情報」交換ボードで、1998129日に有容赦さんから情報提供されたものです。)

            
★黒澤明氏(19101998)は、映画監督。

黒澤氏は、
「ドストエフスキーは若い頃から熱心に読んで、どうしても一度は(映画化を)やりたかった。もちろん僕などドストエフスキーとはケタが違うけど作家として一番好きなのはドストエフスキーですね。更に僕はこの写真(注:映画「白痴」のこと)を撮ったことによってドストエフスキーがずいぶんよく判ったと思うのだけど。」
と述べていて、氏は、ドストエフスキーの小説に早くから親しみ、映画製作の面でもドストエフスキーの文学から大きな影響を受けていたことで知られる。ドストエフスキーの『白痴』を映画化した黒澤氏の映画「白痴」は、海外でも評価が高い。

黒澤氏には、

「その小説を読んでボロボロ涙が出る小説は、ドストエフスキーの小説以外にはあまり見当たらない。」(趣意)

という言葉もあり、ドストエフスキーの小説を身を持って読んでいたことがわかります。


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