ドストエフスキーの
ゆかりの地・旅行地

(更新:23/07/11)
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(
).

〇ペテルブルク
(ペテルブルクは当時の名。後の名はレニングラード、現在の名は、サンクト・ペテルブルク。北欧のフィンランドに近い、ロシアの北西にあり。)

は、氏が学生時代と後半生を過ごした都市であり、以下などがある。

・ドストエフスキー文学祈念博物館
(ドストエフスキー記念館)(  )
息を引きとった晩年のアパート。客間・書斎や遺品はそのままの形で残っている。1971年開館。
この博物館のすぐ近くに
ドストエフスキーの像(  )
があり。

・アレクサンドル・ネフスキー修道院(  )
修道院内の墓地には、
胸像を正面にすえた氏の墓( 1 )
があり。

・ネフスキー街、センナヤ広場、
ネヴァ河、

(
小説『罪と罰』の舞台となった。
)


一方、

〇モスクワ
は、氏が生まれ、満15才まで過ごしたところであり、以下などがある。

マリヤ貧民慈善病院
父の勤めていた病院。この病院は今も物理関係の研究所として残っている。

・ドストエフスキー博物館(   )
(マリヤ貧民慈善病院横の宿舎)跡に建てられた三階建てアパートの一階にある。
ここには
ドストエフスキーの記念碑(立像)(  )
があったが、現在は、移されて、旧マリヤ貧民慈善病院前の庭園内にあり。

ドストエフスキーの銅像(  )
ロシア国立図書館の前面にある。



(
).

生涯における他
のゆかりの地や場として、以下などが、ある。

ダーロヴォエ村
モスクワから約150キロ南のところにあった父の領地内の田園地。氏の10歳の時から、毎夏、氏は、家族の者たちや農奴たちと、そこでの田園生活を楽しんだ。領地内の農奴によって父が殺害された地でもある。氏は、晩年、この地を訪れている。

ペテロ・パヴロフスク要塞
非合法サークルへの参加のかどで28歳の時逮捕されてから、仲間たちと一緒に8ヶ月の間拘留されて取り調べを受けた場所。彼らは、アレクセイ半月堡の中の暗い独房に閉じこめられた。ペテルブルク市内。

セミョーノフスキー練兵場
ペテロ・パヴロフスク要塞での取り調べの後、氏が銃殺刑未遂を受けた公開処刑場。ペテルブルク市内。現在は、ピオネール広場になっている。

オムスク
氏が流刑になったシベリアの流刑地。ウラル山脈から800キロ東の地。
オムスクには、
ドストエフスキー文学博物館
・ドストエフスキーの像
があり。

セミパラチンスク

オムスクでの囚役を終え、引き続いてシベリア国境警備の軍職に服役した地。
オムスクよりさらに700キロ東南のステップ地帯にある僻地(へきち)。最初の妻となったマリヤとこの地で出会うことになる。
※、セミパラチンスクには
・ドストエフスキーの博物館
あり。

スターラヤ・ルッサ(  )
53歳の時に安く借り受けた別荘があった地。ペテルブルクの200キロ東南にある美しい自然に恵まれた避暑地として、晩年、氏は、この地で親子水入らずで規律ある生活を送った。
長編『未成年』は、この地で構想され執筆された。
※、過ごした別荘は、現在、
・ドストエフスキー記念館
になっている。
記念館のそばには、
・ドストエフスキーの銅像
あり

エムス(  )
晩年、氏が肺の病(主に咳止め)の療養のためにしばしば滞在した鉱泉地。ドイツにある。
1874
6月〜8月、18755月〜7月、18767月〜8月、18797月〜9月の計四回滞在している。1874(52)の滞在の折には、
「エムスでの療養日誌」を書き残している。



(
).

氏は、若い頃から、欧州への旅行にあこがれていて、
妻アンナとの45歳からの四年余りにわたる欧州への放浪・滞在以前にも、三度ほど、欧州に長期の旅行・滞在をしている

1度目の欧州旅行
社会復帰してから三年目の40歳の時、単身で
パリ・ロンドン・ジュネーブ・フィレンチェ(=フローレンス)などに3ヶ月足らず旅行・滞在。ロンドンでは万国博を見て回った。帰国後、欧州見聞記『冬にしるす夏の印象』を記した。

2度目の欧州旅行
41歳の夏、この年から肺病が重くなった妻マリヤ(最初の妻)をウラジミールに転地療養させていた氏は、愛人スースロワとともに2ヶ月間、
パリ・ローマなどで過ごす。先発していたスースロワを追ってパリに向かう途中のヴィスバーデンで賭博場で一時5000フランを儲(もう)け、この時以来、ルーレット熱にとらえられる。

3度目の欧州旅行
妻マリアが氏の懸命の看病もむなしくモスクワで病没した年の翌年である43歳の7月から3ヶ月余り、再び、
ヴィスバーデンコペンハーゲンなどで、スースロワとの恋愛やルーレットに熱中。賭博にふけって一文なしになった宿先で、『罪と罰』を起稿。コペンハーゲンから旅船で帰国。

4度目の欧州旅行
妻アンナとの4年余りにわたる欧州滞在・放浪。

45歳の春にペテルブルクを出発し、順に、ドイツの
ベルリン・ドレスデン・バーデン・バーデン(  )、スイスのジュネーヴ、イタリアのミラノ・フィレンチェ・ヴェニス、さらに、オーストリアのウィーンチェコのプラハなどに滞在し、再びドレスデンを経由して、49歳の春にペテルブルクに帰還。
この外国生活は、妻の母から送られてくる送金やロシアの出版社から送られてくる前払いの稿料によってかろうじて支えられていたが、賭博への出費などで、食事代にこと欠く日々もあった。氏は、欧州滞在中、
ハンブルグ、バーテンバーデン、ヴィスバーデンなどにある賭博場に通っている。

欧州への旅行・滞在中は、氏は、学生時代に設計製図を修めただけあって欧州の知られた建造物に関心を示し、また、美術館・演奏会・図書館にも足しげく通ったが、同時に人間観察に明け暮れ、上記の『冬にしるす夏の印象』では、気のきいたパリ人評や鋭い西洋文明批判が窺(うかが)われる。

晩年、ドストエフスキーは中東やアジアに関心を向け、コンスタンチノプールとエルサレムへの旅行を予定していたが、実現せずに終わった。



(
).

氏は、下宿生活をしていた青年期(19歳〜27)には、7度も下宿をかえており、
所帯を持つことになっても、生涯、自分の家と呼ぶべき住まいを持たず、借家住まいのアパート暮らしや借り受けた別荘暮らしを通した。
シベリアから戻って、亡くなるまでの約21年間のペテルブルクに在住中も、11回も引っ越しをしている。
アパートの住まいは、いつも建物の角の間借りを好んだ。



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