ドストエフスキーの簡略「年譜」
(更新:24/11/06)
( )は年齢(満年齢)。月日はロシア暦。
青は重要事跡。
茶は作品・著作の発表・連載。
※〜は社会の出来事。
事跡 |
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1821 |
モスクワに誕生(10/30)。父は貧民慈善病院に勤める医師で、幼少年期は病院内の職員官舎で生活を送った。兄弟や使用人が多い大所帯だった。 |
1825 |
※ニコライ1世が即位。 |
1831 |
父が買ったトゥーラ県の小領地で毎年夏は過ごすようになる。はじめて農村や自然を知ることになった。 |
1834 |
モスクワ市内の私立寄宿学校(中学課程)に入学し2年半余り寄宿生活を送り、教師の感化でプーシキンの作品をはじめロシア内外の文学に熱中した。 |
1837 |
母、病没(2月)(15)。 |
1838 |
中央工兵学校に入学。文学熱は一層高まった。 |
1839 |
父、領地で農奴に殺害される(17)。 |
1843 |
中央工兵学校を卒業し、工兵局製図室に勤務(8月)(21)。 |
1844 |
勤務になじめず辞職・退役(10月)。 |
1845 |
完成した処女作『貧しき人びと』が絶賛され、文芸批評家ベリンスキーに才能を認められて作家としてスタートを切る(5月)(23)。 |
1846 |
中編『貧しき人びと』発表(1月)。 |
1947 |
ペトラシェフスキー主催の集まりを知り、その会合に出席する(2月)。 |
1848 |
会のユートピア社会主義思想に共感を深め、その会合にも繁く参加。 |
1849 |
会員と共に逮捕・収監(4月)。 |
1854 |
刑期満了(2月)。 |
1855 |
イサーエフが死去(8月)。以後、マリヤに求婚を続ける。 ※ニコライ1世崩御によりアレクサンドル2世が即位(1月)。 |
1856 |
中尉に昇進(11月)。 |
1857 |
未亡人マリヤと結婚(2月)。つれ子あり。 |
1859 |
退役が許されて服役が終了し、トヴェーリに移住(3月)。 |
1860 |
長編『死の家の記録』連載(9月〜)。 |
1861 |
兄ミハイルと雑誌「時代」発刊(1月)。 女子大生スースロワと知り合う(12月)。 |
1862 |
初めての欧州旅行(6月〜9月)。ロンドンで万博を観る。 |
1863 |
雑誌「時代」発行停止(5月)。 |
1864 |
雑誌「世紀」発刊(1月)。 |
1865 |
中編『鰐』発表(3月)。 |
1866 |
中編『賭博者』を速記者アンナの助けのもと完成させる(10月)。 |
1867 |
アンナと結婚(2月)(45)。 |
1868 |
長女ソフィヤ生後3ヶ月で病没。 |
1869 |
次女リュボフィ誕生。 |
1870 |
中編『永遠の夫』発表。 |
1871 |
帰国(7/8)(50)。以後賭博癖止む。 |
1872 |
『悪霊』連載を再開・完結(11月・12月)。 |
1873 |
「市民」の発行を始め(1月)、「作家の日記」連載(1月〜12月)。 |
1874 |
「市民」の編集の職を辞す(4月)。 |
1875 |
次男アレクセイ誕生。 |
1876 |
月刊個人雑誌「作家の日記」の刊行が始まる。 |
1877 |
『カラマーゾフの兄弟』の構想開始。 ※露土戦争(4月〜翌年3月・ロシアの勝利で終わる)。 |
1878 |
次男、小児てんかんで病没(5月)。 |
1879 |
長編『カラマーゾフの兄弟』連載開始(1月)。 |
1880 |
プーシキン記念祭でプーシキン講演。聴衆に熱狂を与える (6月)。 |
1881 |
肺動脈破裂による出血でペテルブルグの自宅にて急逝(1/28)(59)。 |