ドストエフスキーの
創作工房

(更新:24/02/04)
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〔事項〕

創作について自身が
語った言葉

 小説の創作過程

 
自身の書く小説について




ドストエフスキーの創作
について

 小説の完成までの日々
の執筆の過程


 
各論者による指摘





創作について自身が語った言葉

小説の創作過程

1.
「私の場合でも、ある場面が頭に思い浮かぶが早いか、待ってましたとばかり、心に浮かんだままに書きくだします。それですっかり嬉(うれ)しくなってしまうのです。さてそれから、数ヶ月、あるいは一年もかかって、それに手を加えます。つまり私はその場面について、一度だけではなく、何度でもインスピレーションを受け直すのです(なぜならば、私はその場面を愛しているからです)。これまでずっとやってきたように、私は何度でもここを 削ったり、あすこへ付け加えたりするのです。そして、正直な話、ずっとよいものができあがります。もちろん、 これはインスピレーションがあっての上です。インスピレーションがなくては、なにひとつできるものではあり ません。」
(1858531日付けの兄ミハイル宛の手紙より。シベリヤ服役の末期頃の言。)

※、「芸術家とはつねに自分に耳を傾け、自分の耳に聞こえたことを自分の心の隅っこに率直な気持ちで書き留める熱心な労働者である。」というドストエフスキーの言葉あり。


.
「正直なところ、私はこれまでに一度だって、金に代えるために、あるいは、あらかじめ期日を切って引き受けたからにはその義務を果たさなければならないという意味で、自分の小説の題材を考え出したことはありません。 私が原稿を書くことを約束したり、前借をして、それを売ったりしたのは、どんなときでも必ず、本当にこれだけは書きたいと思い、また、どうしても書いておく必要があると考える題材が、すでに頭の中にある場合に限られていました。私はいまちょうどそうした題材(注:『カラマーゾフの兄弟』の原型になるものの一部か?)を一つ持っています。それについて詳(くわ)しい話をすることはひかえますが、ただつぎのことだけは申し上げておきます。それは、これほど新しい、しかも完全な、そして独創的なイデー(=理念。考え。)は、私にもいままでめったに浮かんだことがなかったということです。そう申しても、決して不遜(ふそん=思い上がっているさま。)のそしり(=非難。)を受けることはないでしょう。なぜならば、私がいまお話しているのは、ただ小説の題材のこと、つまり、自分の頭の中に形象(けいしょう)化されているイデーのことであって、その制作のことではないからです。制作の結果がどうなるかは、神様だけがご存じです。これまでもたびたびあったように、私はあるいはそれを台無しにしてしまうかもしれません。しかしその一方では、私の内部の声が、インスピレーションが私を見棄(みす)てるようなことは決してあるまいと、強く私にささやいています。」
(1870226日付けの友人ストラーホフ宛の手紙より。すでに『白痴』『永遠の夫』の完成を終えたあとの、『悪霊』連載の前年の言。)




自身の書く小説について

1.
「私は心理主義者といわれている。しかし、それは間違いだ。私は、たんに最高の意味におけるリアリストにすきない。 換言すると、私は人間の魂のあらゆる深淵(しんえん)を描くのである。」
(「ノート」より。)


.
「私は現実について、私独自の見解を持っています。大多数の人々がほとんど幻想的なもの、例外的なものと見なしているものが、 私にとっては、時として現実の本質をなすのです。現象の日常性や、それに対する公式的な見方は、私の考えでは、まだリアリズムではありません。」
(書簡より。)



「ロシア人の生活の形態の膨大な部分が、観察されることもなく、それについて書く歴史家もいないまま放置されている。」
(
『作家の日記』より。)


.
「人びとの生活を考察すること、それが私の第一の目的であり楽しみでもある。」
(
書簡より。)



.「人間は秘密の存在です。この秘密を解かなくてはなりません。一生をこの秘密の解明に費やしたとしても、時間を無駄にしたとは言えない。 ぼくはそういう秘密に取り組んでいるのです。なぜなら、人間になりたいから。」
 (1839816日付けの兄ミハイル宛の、ドストエフスキー18歳の時の手紙の一節。)


.
「わたしは、人間のいびつな、悲劇的な面をはじめて明らかにしたということに誇りを持っています。」
(
「ノート」より。)


.
「現実よりも空想的で意外なものが他にあろうか? 現実よりも真実らしくないものが他にあろうか? 現実が毎日われわれにきわめてありふれたという感じで見せてくれているとっぴなことは、 小説家にも想像のつかぬものである。ときにはどんな空想力によってもまるで考えだせないようなものがある。 それは小説をしのぐおもしろさだ。」
(『作家の日記』より。1876年筆。)

※、ドストエフスキーは、日々新聞の三面記事を読むことを日課として欠かさず、当時の社会で起こった事件や自分の過去の身辺の体験を、しばしば小説の題材や創作の刺激材料にしていますが、ドストエフスキーがそういう方向を取った立場的背景の一つとして、上のようなドストエフスキーの現実観は興味深いです。




ドストエフスキーの創作について

小説の完成までの日々
の執筆の過程

(記:エーメ)

間接的ながら、ドストエフスキーの娘エーメ(幼名リュボフ)が実地に見て、あるいは、母から聞いて伝える、ドストエフスキーの日々の創作生活のパターンについての次のような記述があり、 晩年の『未成年』『カラマーゾフの兄弟』の執筆時の様子をうかがうことができます。


ロシアの大学生は殆(ほとん)ど規律を弁(わきま)えていなかった。時間構(かま)わずに私の父のところへやってきては、仕事の邪魔(じゃま)をした。 彼らを迎えるのを拒(こば)んだことのないドストエフスキーはやむなく夜執筆せねばならなかった。 以前でも、大事な章にとりかからねばならない時には、好んで周囲の世界が寝静まっている時刻に創作した。後には、そんな仕事の仕方が習慣になった。 ドストエフスキーは朝の四時か五時迄(まで)書き、十一時過ぎにようやく起きた。 彼は書斎で寝椅子の上に寝た。―途中、略― 朝食が終(おわ)ると、父は部屋に帰って、すぐさま前夜創作した章を口述するのだった。 母はそれを速記し浄書する。ドストエフスキーがその浄書を推敲(すいこう)しそれに屡々(しばしば)沢山(たくさん)の枝葉をつけ加える。母はもう一度それを浄書し、印刷所に廻(まわ)す。こうして、彼女は夫の労力を大いに省(はぶ)いたのだった。若()しドストエフスキーの妻が速記を学ぼうという考(かんがえ)を起(おこ)さなかったら、彼はあのように沢山(たくさん)小説 は書けなかっただろう。―途中、略― 時々、彼は原稿に極(きわ)めて面白い特徴のある頭や横顔を描いた。母に作品を口述している際、時折(ときおり)彼は口述をやめて、彼女の意見を求めた。母は 批評を差控(さしひか)えて(=遠慮して)いた。新聞雑誌の意地悪い批評は相当(そうとう)彼女の夫を傷つけたから、彼女はそれにつけ加えたくなかったのである。しかしながら、褒()め言葉が月並(つきなみ)になるのを恐れて、母は二三意見を思いきって述べた。 仮()りに小説の女主人公が青い服をきていたとすると、母は、薔薇(ばら)色の服を適当とした。 若()し戸棚が舞台の左側にあるとすると、彼女はそれを右側に置いた方がよいと言った。 彼女は主人公の帽子の型を変えたり、時に鬚(ひげ)を切りとったりした。ドストエフスキーは早速(さっそく)言われたように訂正した。そうすれば妻を非常に喜ばせ得るものと素直に信じていたのである。 ―途中、略―  口述し終わると、ドストエフスキーは私達のところへきて砂糖菓子をくれた。父は砂糖菓子が大好きだった。 本箱の抽斗(ひきだし)に、乾燥花果、海棗(なつめ)、胡桃(くるみ)、乾葡萄(ぶどう)の函(はこ)やロシアで出来る果物(くだもの)のパイをしまっていた。ドストエフスキーは一日中食っていた。時には夜中でさえも。四時頃、私の父は日課の散歩をするために外出した。いつも考えに耽(ふけ)りながら、 同じ道を通り、友人に出会っても気がつかなかった。時々、彼は興味を唆(そそ)る政治上の或(ある)いは文学上の問題を論ずるために仲間の家に行った。 ―途中、略― その頃は、六時に夕食をしたため、九時にお茶を飲んだ。ドストエフスキーは夜のこの時間 に読書に耽(ふけ)り、お茶の後、世間がみんな寝静まってから初めて仕事に取りかかった。 ―途中、略― ドストエフスキーはランプが嫌いで、蝋燭(ろうそく)二本の明(あか)りで書くのが好きだった。 仕事をしながら、盛んに煙草(たばこ)を吹かし、時々とても濃いお茶を飲んだ。 勿論(もちろん)、そんな刺激剤のおかげで非常に遅くまで起きていられたのである。
 
(注:小説『虐げられた人々』の登場人物の語っている言葉であるが、 ドストエフスキーは「自分のこれから書く物語のことをあれこれ思案するとき、 いつも部屋の中を行ったり来たりするのが大好きだった。」) 来る日も来る日も、規則正しい単調な同じ生活が スタラーヤ・ルッサ(=ドストエフスキーが晩年にいくどか長期間過ごした別荘地。)で続いていた。  ―以下、略―
〔エーメ・ドストエフスキー著『ドストエフスキー伝』(高見祐之訳。アカギ書房1946年初版。) の中の「家庭におけるドストエフスキー」より。p173p174175p176177。〕


※、上の各箇所を含む上書の「家庭におけるドストエフスキー」の章は、 晩年のドストエフスキーの家庭での生活ぶりが、娘の視点から、生き生きと伝えられていて、 一読に値します。このエーメ‐ドストエフスキーの著『ドストエフスキー伝』は、 研究者の間では、その記事内容の事実性について、ドストエフスキーが亡くなった時 彼女はまだ12歳足らずであり、空想に基づいた記述もみられるとして、あまり信頼がおけない、とする評判があるようですが、身近な人間が見た(母を初め、家族の者から伝え聞いて編んだ)ドストエフスキー伝として、 ありがたい貴重な記述も多々見られることもたしかでしょう。 戦後間もない頃の訳本なので、図書館か古書店で入手する必要があります。



各論者による指摘

以下は。コーナー「全般へ
の評言」「「作風・手法」論 」
に掲載のぶん。


1、

真の芸術家は、自分が制作する時には、常に自分自身のことについては半ば無意識である。彼は己(おの)れがいかなるものであるかということを確然(かくぜん)(=たしかには)知ってはいない。彼はただ、自分の作品を通し、自分の作品により、自分の作品を書いてしまった後にのみ、己れというものを識()(=知る)ようになるのである。ドストエフスキーは決して己れを知ろうとはしなかった。彼は夢中になってその作品の中に己れを打ち込んだ。己れの書物の各人物の中に彼は没入したのだ。それゆえ、作中人物のひとりひとりの中にドストエフスキーが再び見出されるのである。われわれは、やがて、彼が自分の名でものを言うと、甚(はなは)だ不手際であるが、逆に、彼自身の観念が自分の生かす人物の口を借りて述べられる時には、非常に雄弁になることがわかるであろう。これらの人物に生命を与えて、彼は存在するのである。彼はその人物のひとりひとりの中に生きているのだ。そして、その人物の多様性のうちに己れを委(まか)せ切ってしまうことが、第一の効果として、彼自身の矛盾を擁護(ようご)することになるのである。私はドストエフスキーほど、撞着(どうちゃく=前後に言ったことのつじつまが合わないこと)・矛盾に富む作家を知らない。ニーチェに言わせたら、「反対性」に富んだ作家である、とでも言うだろう。彼がもしも小説家でなくて哲学者であったとしたら、必ずその観念を整(ととの)えようとしたに違いない。そんなことをしたら、彼の最もすぐれたところを、われわれは見失ってしまったに違いない。
〔ジイド著『ドストエフスキー』(改造文庫。秋田滋訳。1936年初版。)所収の「ビュー‐コロンビエ座における連続六回講演」(p14p15)より。〕


2、
ドストエフスキーは厖大(ぼうだい)な「作家ノート」を残している。その克明な記述によっても、彼が謎めいた夢遊の状態で書いたわけではないことはあきらかだろう。にもかかわらず、ドストエフスキーほど、心霊術でいう「霊媒(れいばい)」の助けをかりて書いたにちがいない、といった印象を与える作家はいないのだ。彼の作品は、聖者にとっての「黄金伝説」(→下の注)とひとしく、みえざる天使が口述筆記をしたかのようだ。しかし同時に、そこにはまたしばしば、しごく(=たいそう)人間的な顔がまじりこみ、突如としてなまみのドストエフスキーが顔を出す。―以下、略― 
〔池内紀・筆「最後のビザンチン人」より。〔『特集=ドストエフスキー』(現代思想1979年6月号。青土社刊。)に所収。p146。〕


3、
(=ドストエフスキー)は自分にとり憑()いた悪霊どもを小説のなかで形象(けいしょう)化して(=ある形にして)、それらを一つずつ祓(はら)(=そのけがれ・罪を除き去って清める)

ルネジラール著『ドストエフスキー ― 分身から統一へ』より。織田年和訳『地下室の批評家』(白水社1984年初版)に所収。p50。〕〕  


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