ドストエフスキーの小説における「人神思想、神人思想」の系譜
人物の系譜としては、
・「人神思想」を持(じ)している登場人物の系譜、
(人神(じんしん)=神のような人。「神」に対抗して、自ら「神」たらんとする人物。)
・「神人思想」を持(じ)している登場人物の系譜、
(神人(しんじん)=人のような神。「神」の意志を体現した、「神」への謙虚な信仰や他者への同情と博愛に生きる人物。)
という相対立する二つの系譜に、分けて見る見方がある。
前者の代表的登場人物として、
・ラスコーリニコフ(『罪と罰』)、キリーロフ(『悪霊』)、イヴァン、大審問官(『カラマーゾフの兄弟』)、
後者の代表的登場人物として、
・ソーニャ(『罪と罰』)、ムイシュキン公爵(『白痴』)、チーホン僧正(『悪霊』)、マカール老人(『未成年』)、ゾシマ長老、アリョーシャ、マルケル、イエス(以上、『カラマーゾフの兄弟』)
が挙げられる。
ドストエフスキーの真意(本意)は、やはり、後者にあったと私も思っていますが、ドストエフスキーの文学のユニークさは、後者のみの宣揚に傾くことなく、後者に対して前者を対峙(たいじ)・対抗させて、前者の論理(正義)も際立(きわだ)たせながらも、前者の帰結(限界や欠点、敗北や挫折など)を最終的に示すことによって、後者の、いっそうの輝き(価値)を読者に示そうとした点にある。
そして、前者の登場人物たちも、心の底では、後者の登場人物たちにも劣らぬほど「神」や「生ける生」を熱烈に求めていて、ある意味では人類愛の持ち主なのであり、彼らは、
・科学的合理主義思想
・社会道徳や宗教道徳に不当にしばられることのない人間の本来的自由や主体性
を重んじるヒューマニズムや個人主義思想に基づき、「神」の支配しているはずのこの現実世界の悲惨という矛盾・宗教道徳への服従が人間性や個人の自由を抑圧していくという事態といったことに合点(がてん)がいかなかったからこそ、既成の「神」や宗教に反抗し対抗したのだ、という面が見られる。(ドストエフスキーの小説の「登場人物の系譜」論に関しては、加賀乙彦氏の捉え方などもあり。)
ちなみに、ドストエフスキーの小説の登場人物のその他の系譜として、
上で挙げた両者を両極にして、
その間に、
・わたし(『地下室の手記』)、アルカージイ(『未成年』)、の系譜
・ゴリャートキン(『分身』)、スタヴローギン(『悪霊』)、ヴェルシーロフ(『未成年』)、の系譜
・イポリート(『白痴』)、コーリャ(『カラマーゾフの兄弟』)、の系譜
・マルメラードフ(『罪と罰』)、ロゴージン(『白痴』)、フョードル、ドミートリイ(以上、『カラマーゾフの兄弟』)、の系譜
・ワルコフスキー公爵(『虐げられた人びと』)、スヴィドリガイロフ(『罪と罰』)、の系譜
・シャートフ(『悪霊』)、クラフト(『未成年』)、の系譜
・ピョートル、シガリョフ(以上、『悪霊』)、の系譜
・ナスターシャ‐フィリポヴナ(『白痴』)、グルーシェンカ(『カラマーゾフの兄弟』)、の系譜
・ナターシャ(『虐げられた人びと』)、アグラーヤ(『白痴』)、カチェリーナ(『カラマーゾフの兄弟』)、の系譜
などが、考えられるだろう。
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