「作風・手法」論1
(更新:24/03/31)
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ミハイル・バフチン
『ドストエフスキーの詩学』(1929年初版・1963年増補改訂版。望月哲男・鈴木淳一訳・ちくま学芸文庫1995年初版。)より。
※、
青字にした箇所は、バフチンが強調している箇所。赤字にした箇所は、キーワードとされる語句。


それぞれに独立して互いに融()け合うことのないあまたの(=多くの)声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニー(注:多声楽)こそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。彼の作品の中で起こっていることは、複数の個性や運命が単一の作者の意識の光に照らされた単一の客観的な世界の中で展開されてゆくといったことではない。そうではなくて、ここではまさに、それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま、何らかの事件というまとまりの中に織り込まれてゆくのである。実際ドストエフスキーの主要人物たちは、すでに創作の構想において、単なる作者の言葉の客体であるばかりではなく、直接の意味作用をもった自(みずか)らの言葉の主体でもあるのだ。したがって主人公の言葉の役割は、通常の意味の性格造型や筋の運びのためのプラグマチックな(=実用的な)機能に尽きるものではないし、また(例えばバイロン(イギリスの詩人・劇作家)の作品におけるように)作者自身のイデオロギー的な(=独善的な)立場を代弁しているわけでもない。主人公の意識は、もう一つの、他者意識として提示されているのだが、同時にそれは物象化(ぶっしょうか=物的現象化)され閉ざされた意識ではない。すなわち作者の意識の単なる客体ではないのである。この意味でドストエフスキーの主人公の形象(けいしょう)は、伝統的な小説における普通の客体的な主人公像とは異なっているのである。ドストエフスキーはポリフォニー小説の創造者である。彼は本質的に新しい小説ジャンルを作り出したのだ。それゆえ彼の作品はどんな枠にも収まらない。つまり我々が従来ヨーロッパ小説に適用してきた文学史上の図式はいずれにも当てはまらないのである。
[以上、第1章「ドストエフスキーのポリフォニー小説および従来の批評におけるその解釈」のp15p16より。]


ドストエフスキーの世界には、弁証法も二律背反も確かに存在する。実際彼の主人公たちの思考は、時として弁証法的であり、あるいは二律背反的である。しかしあらゆる論理上の因果律は、個々人の意識の枠内にとどまるものであって、彼らの間の出来事レベルの相関関係を支配するものではない。ドストエフスキーの世界は本質的に個の世界である。彼はあらゆる思想を個人の立場として把握し、描いている。だから個々の意識の枠内においてでさえ、弁証法や二律背反の系列は、単に抽象的な要因としてあるに過ぎず、それは全一的で具体的な意識の別の様々な要因と分かちがたく絡(から)み合っているのである。この受肉した具体的な意識を通して響く全一的な(=独立した統一ある全体を保っているさま。)人間の生き生きとした声の中でこそ、論理系列は描かれる事件の総体に参加するのである。思想は事件に引き込まれることによってそれ自体が事件をはらむものとなり、特別な《イデエ=感情》、《イデエ=力》としての性格を獲得する。そこからドストエフスキーの世界における《イデエ》の比類ない独自性が生み出されるのである。もしこのイデエが、事件としての意識の相互作用から切り離され、モノローグ(=相手を想定しない独白。ダイアローグ(=対話)の対語。)的に体系づけられた文脈に押し込められてしまうなら(かりにそれがもっとも弁証法的な文脈であったとしても)、イデエは不可避的にその独自性を喪失し、出来の悪い哲学的な主張と化してしまうであろう。
[以上、第1章「ドストエフスキーのポリフォニー小説および従来の批評におけるその解釈」のp21より。]


ドストエフスキー創作においてもまた、当然のことながら、カーニバルの伝統は面目を一新して生まれ変わっている。そこでは、伝統は独自の意味づけを施され、他の芸術的要因と結びつき、これまでの章で明らかにしようとしたような、彼特有の芸術的目的に奉仕しているのである。カーニバル化はそこでは、ポリフォニー小説のあらゆる特性と有機的に結びついているのだ。
[以上、第4章「ドストエフスキーの作品のジャンルおよびプロット構成の諸特徴」のp320p321より。]


『罪と罰』を始めとするドストエフスキーの長編のどれを取っても、そこでは例外なく対話の徹底的なカーニバル化が行なわれている。
[以上、第4章「ドストエフスキーの作品のジャンルおよびプロット構成の諸特徴」のp335より。]


★ミハイル・バフチン氏は、ロシアの文芸学者。18951951

氏の著作は、没後の1960年代になって相次いで陽()の目を見て刊行されるや、内外の学会の注目を集め、その中でも、この『ドストエフスキーの詩学』(1929年刊。1963年に増補改訂版が出る。)で、氏は、ドストエフスキーの文学の、

・「ポリフォニー小説」という
性格(ポリフォニックな性格)

・「カーニバル性」「イデエ
(
=思想・観念・理念)」が表
現されていく芸術性

といったことを検証・指摘し、この説は、1960代半ば以降現在までのドストエフスキー文学研究における研究の視点や方法論に大きな影響を及ぼしてきた。その説と理論に対しては、検討を要する点もいくつかあるとする批判者も存在してはいるが、この説は、今後のドストエフスキー文学研究においても、一つの大事な基礎的理論として生命を保っていくことは間違いないと言われている。


上で挙げた箇所などで述べられているキーワードに関して、正確な理解はまだ不十分ながら、自分なりに、以下に、おおざっぱにまとめてみた。


〇ドストエフスキーの
小説における
「ポリフォニー性」

ドストエフスキー自身の諸面の分身としての各小説の各登場人物が、作者と肩を並べるほどの互いに対等な独立した人格的存在として、作中において自己の思想(観念)や思いを互いに言葉で表出しあい、相手や他者を意識したその互いの発話・対話・討論・事件という関係性の中で、未来に向けて、各自己が自己というものや自己の思想や内面を、相互に、あくまで未完結的に発展的に、あらわにし、さらにまた、見出し、確認していく、といった性格のこと。


〇ドストエフスキーの
小説における
「カーニバル性」

『白痴』第1部の末部、『カラマーゾフの兄弟』第2編における僧院での会合・第8編のモークロエ村でのどんちゃん騒ぎ、『罪と罰』第2部のマルメラードフ家でのお通夜の場面
などに見られるように、異質な登場人物同士が、一堂に数多く集まってきて、道化役の人物たちを中心とした、時に、常軌を逸(いっ)した、ちぐはぐな、無遠慮な振る舞いや会話のやりとりによって、場が、やんやと醜悪にあるいは陽気に盛り上がっていく中において、神聖高尚なるものや悲惨なる場面の「卑俗化・神聖化・笑い飛ばし・外し・パロディー化」等が行われ、やがて、喧噪(けんそう)と活気に満ちた彼らの祝祭(カーニバル)に劇的な終結やお開きがおとずれる、といった性格のこと。


〇ドストエフスキーの小説によっ
て伝えられる
「イデエ」の独自性

ドストエフスキーの小説におけるそういった「ポリフォニー性」「カーニバル性」という芸術的形象を通して、その小説の創作動機としてドストエフスキーの頭の中に抱(いだ)かれている中心的な思想や理念が、展開的・非完結的に、作者の中でもさらに豊かに深められ、読者にも伝えられていくという性格のこと。



バフチンのドストエフスキー論に関しては、次の論文・文章などが、理解の助けになります。


・訳者望月哲男氏による「解説」
(
上掲の『ドストエフスキーの詩学』のP571p579)
各章の内容について親切に要領よく解説しています。


・新谷敬三郎・筆
「バフチンとドストエフスキー」
〔『特集=ドストエフスキーその核心』(ユリイカ詩と批評6月号。青土社1974年初版)に所収。〕


・内村剛介・筆
「「方法」から「存在」へ―バフチン」
〔『ドストエフスキー』(「人類の知的遺産51」。講談社1978年初版。)p349p351。〕

・柄谷行人・筆
「ドストエフスキーの幾何学」
(
講談社学術文庫『言葉と悲劇』1993年刊に所収。)

・柄谷行人・筆
「無限としての他者」
(
『探求T』講談社1986年刊に所収。)

・大江健三郎著
『新しい文学のために』(岩波新書。1988年初版)p175p183

・清水孝純著
『ドストエフスキー・ノート―「罪と罰」の世界』(九州大学出版会1981年初版。)p15p17

・清水孝純著
『道化の風景―ドストエフスキーを読む』(九州大学出版会1994年初版。)の「序」。

・阿部軍治編著
『バフチンを読む』(NHKブックス818。日本放送出版協会1997年初版。)の中のp29p86



バフチンに関するネット上のページや記事。

・「THEBAKHTINCENTRE
(
バフチーン研究センター
の公式ページ。
ただし、英文のページ。)
(情報提供:湯本さん)


 

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