「作風・手法」論2
(更新:24/02/04)
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金澤 美知子・
川端香男里・金澤美知子著『ロシア文学』(放送大学教育振興会1994年刊)の中の項「ドストエフスキー」より。


ドストエフスキーは人間の心理を描くことにかけては、実に非凡な才能を示した作家である。彼は人間の心の動きを観察し、ある理論に基づいて分析してみせた。それは、
正反対のものへ同時に向かう、という「二重性」の論理であった。彼は愛情の中に憎悪を、感謝の中に憎しみを、神の否定の中に信仰への願望を認め、この矛盾した状態をそのまま受け入れたのである。ドストエフスキーは合理主義的な考え方を嫌い、矛盾や自己分裂にこそ人間本来の姿を見ていた。彼の作品の中では、矛盾に対する明確な解答やカタルシス(=苦悩などの浄化・解消)は与えられない。カタルシスが予感として暗示されている場合でも、彼の作品の面白さは、主人公たちがこの矛盾の中でどのように自己のアイデンティティ(=自己同一性)を保ち続けるか、という点にある。読者が感じる緊張感、ニヤリとしたくなるような滑稽(こっけい)な感じ、あるいは感動は全て、主人公たちのこの奮闘ぶりから来るものなのである。
〔「意見・情報」交換ボードの[97613] に書き込んだ分〕


★金澤美知子氏は、ロシア文学者。現在、東京大学文学部助教授。



アンドレ・ジイド
『ドストエフスキー』(改造文庫。秋田滋訳。1936年初版。)所収の「ドストエフスキー生誕百年を祝い、ビュー‐コロンビエ座において朗読した小演説」の末部(p273p274)より。
※旧仮名遣い・旧表記は、現代表記に改めました。


(=ドストエフスキー)の作中人物は常に生成の途上にあって、陰影というものから十分に脱していない。作中人物の首尾一貫が主なる心遣(こころづか)いであったと思われるバルザックと、この点でドストエフスキーがどれほど大きく違っているか、私はついでに注意しておく。
バルザックはダヴィッドのように描き、ドストエフスキーはレンブラントのように描いた。
  
<注>
・バルザック
フランスの小説家。1759185019世紀前半のフランス社会を活写し、リアリズム文学の頂点を示した。代表作『ゴリオ爺さん』『谷間の百合』。ドストエフスキーは、学生時代より、バルザックに親しみ、22才の時、その小説『ウジェニー・グランデ』を自ら翻訳するなど、バルザックの小説から影響を受けている。
・ダヴィッド
フランスの画家。17481825。ナポレオンの宮廷画家として、当時の画壇に君臨した。フランス革命にちなんだ作品が多い。作品「ナポレオンの戴冠(たいかん)」。
・レンブラント
オランダの画家。16061669。微妙な光の明暗や独特の陰影ある色彩を用いて人間の深い精神性を表現した。


★アンドレ‐ジイド氏(18691951)は、フランスの作家・批評家。代表作は『狭き門』『法王庁の抜け穴』。



岡 潔
『春宵十話』(角川文庫)の「女性を描いた文学者」より。


私の読んだ中では、文学者で女性が本当に描けていると自信をもっていい切ることのできる人は、日本では漱石、外国ではドストエフスキーぐらいではなかろうか。漱石の「それから」にしろ「行人」にしろ本当に面白く読めるが、その一つの理由はそこに出てくる女性が本当に心臓が鼓動しているからだと思う。ドストエフスキーで例をあげれば「白痴」のアグラーヤは本当に生きたものに描かれている。 ―途中、略―  これは本当に生きた女性が描けるためには女性の情緒(じょうちょ)の波がわからなければならないのだが、それが男性である作者には本当にわかっていないということに帰せられると思う。 ―途中、略―  
ではなぜこの二人に女性の情緒の波が描けたのか。この疑問は漱石が「則天去私」を標榜(ひょうぼう)(=掲げ)、ドストエフスキーが諸徳の中でも「謙虚さ」を最も大事にしていることに思い当ったとき、氷解した。なるほどこういう人ならば描けるに違いないと信じ得たことであった。
〔「意見・情報」交換ボードの[97531]に書き込んだ分〕

                 
★岡潔(よし・19011978)は、「多変数理論」などで世界的に知られる数学者。『春宵十話』を初め、その類まれな直感的感性が生かされた数多くの名随筆集も残している。



渋谷大輔・
『哲学・思想がわかる』(日本文芸社1996年刊)の項「アウグスティヌス」より。p54


「人間を自由にする神の恩寵(おんちょう)の助力なしに、自分だけの力で人間が正しく生きようとするとき、人間は罪に打ちのめされる。しかし人間は自由意志によって、この自由にする解放者を信じ恩寵を受け入れることができる」(アウグスティヌスの言葉) 
まるでドストエフスキーの大小説からエッセンスだけを取ってきたような、美しい言葉だ。
〔「意見・情報」交換ボードの[97722]に書き込んだ分〕


★渋谷大輔(1968〜。)は、高校教師・進学塾講師。ドストエフスキーが考えていた人間観や宗教観には、アウグスティヌス・パウロ・親鸞などのそれと似かよっている点が多分にあると、私も思っています。



中村健之介
『ドストエフスキー人物事典』(朝日選書399。朝日新聞社1990年刊。)の中の項「貧しい人たち」のp9より。


ドストエフスキーは、歴史の大きなうねりや広い舞台を、それにふさわしい視野をもってとらえて再現してみせる歴史小説家の才能は持ち合わせていない。人生の困難を克服して事をなしとげた努力家の生涯を共感をこめて書き上げる伝記作家の体質も、やはりドストエフスキーの生来の文学的素質とは異なる。かれの小説の主人公たちの多くは、初期後期を問わず、弱者や劣等者や病者である。世間からはマイナスにしか評価されないそういう病者、敗者、脱落者、ときには異常者たちが、いかにそれなりに人間として熱情的に、劇的に、複雑に、豊かにそれぞれの生を営んでいるか、「持たざる者」が持たざるがゆえにいかに劇的で「ファンタスチック」な思いを抱いているか、それをドストエフスキーは飽()かず書き続けた。そこに、彼自身もいたからである。
〔「意見・情報」交換ボードの[97728] に書き込んだ分〕


★中村健之介氏(1939)は、ドストエフスキー文学の研究家・翻訳家。現代日本の代表的なドストエフスキー研究家の一人。現在、東京大学教授。



ベルジャーエフ
『ドストエフスキーの世界観』(斎藤栄治訳。ベルジャーエフ著作集の第2巻。白水社1960年初版。)より。
〔『文芸読本ドストエーフスキー(T)(河出書房新社1976年初版。)にも、その中の一部分を所収。下の引用は、そのp175にあり。〕


自由はドストエフスキーの世界観の中心点に立つ。そして彼の最も内奥(ないおう)のパトス(=常にとらわれているいる根強い思い)は、自由のパトスである。 ―途中、略― ドストエフスキーは自由のなかにおかれた人間の運命を探求する。彼の興味をひくものは、自由の道をふんだ人間のみ、自由における人間の運命、および人間における自由の運命のみだ。彼の長編小説はすべて人間の自由の悲劇であり、試煉(しれん)である


★ベルジャーエフ(18741948)は、ロシアの哲学者。

上掲の氏の著『ドストエフスキーの世界観』は、名著との誉れが高い。氏に対しては、ドストエフスキーの文学を自己の独自のキリスト教的立場から解釈し宣揚し過ぎているきらいがあるという批判はあるものの、上の指摘のように、「自由」という観点からドストエフスキーの文学を見ていこうとする氏の立場は、ドストエフスキーの実際の本意に沿っていて、きわめて大事な視点だと思う。



内村剛介編著
『ドストエフスキー』(「人類の知的遺産 51」。講談社1978年初版。)p12p13より。


ドストエフスキーという作家・思想家は、ロシヤにとってもけっして解りやすいものではないのである。ドストエフスキーを解らない、いや解りたがらない、というまともなロシヤ人がけっこう少なくないし、これはこれで重要な問題をはらんでいる。好き嫌いだけについてみるならばロシヤ人のほぼ半数はドストエフスキー嫌いだと言っていいほどだ。トルストイなら解るし好きだというのが大方のほんねである。 ―途中、略―  人間は真実を見たがらないものだし、とりわけ、おのれの恥部に関する真実は見たがらないというのがロシヤ人のドストエフスキー嫌いの最大の理由であろう。
〔一部は、「意見・情報」交換ボードの[97531] に書き込んだ分〕


★内村剛介(19202009)は、評論家・ロシア文学者。氏は、敗戦後11年間にわたってロシアに抑留され強制収容所生活を強いられた体験を持つ。上書における氏のドストエフスキーに関する解説や見解は、ドストエフスキーをつねにドライにクールに眺め評していく姿勢に貫かれていて、ドストエフスキーの文学を熱っぽく称揚することの多い古今のドストエフスキー論者の中では、実にユニークな論者のお一人である。 本国のロシア人はドストエフスキーの文学や思想をこれまでどう受けとめてきたのかということは、我々には興味の尽きない関心事であるが、ロシア通の内村氏の上の指摘は、我々が頭に置いておくべき情報であるように思われます。



望月哲男・
「ドストエフスキイの特色」より。〔『ロシア文学史』(東京大学出版会1986年初版)に所収。p212。〕

ドストエフスキイの文学はトルストイのそれとならぶ十九世紀ロシア・リアリズムの輝かしい高峰をなすが、リアリズムの対極にあるロマン主義やシンボリズムとの結びつきも深い。彼の創作を代表する長篇小説群は、複雑なプロット、精確な時代背景、さまざまな階層に属する主人公たちが織りなす社会的な一大パノラマ、各主人公に個有の多様な文体、生きた心理描写など明瞭なリアリズムの特徴をそなえている。しかし、この作家は初期の作品から一貫して幻想的なもの、怪奇なもの、特に人間の内部の世界、意識下の世界に強い関心を示してきた。写実的な要素が優位に立っている後期の作品でも、頻繁に夢、幻視、狂気などの幻想的な要素を導入し、好んで人間の極端な情熱の物語を描き、メロドラマ、冒険小説風の筋立てを愛用し、主人公たちにさまざまの思想的・宗教的理念を分与して象徴的な小説世界を作り上げた。この独特の方法を評者たちは、「魂のリアリズム」「幻想的(ファンタスティック)リアリズム」「ユートピア・リアリズム」「浪漫的(ロマンテイック)リアリズム」「象徴的(シンボリック)リアリズム」などの名で呼び、作者自身は「最高の意味のリアリズム」「最も純粋な、幻想的なものにまで到達したリアリズム」と呼んだ。彼は「現実」を凝視しつつその背後にもうひとつの世界を見、現実のただなかに幻想的なものを見るのである。


★望月哲男(1951)は、ロシア文学者。  



N-hiro

「伝言・雑記」板への書き込み[98214]より。


ドストエフスキーの小説には、ストーリー性というものを無視したような作品がいくつかあると思います。だからつまらないというんじゃなくて、だからこそ面白い。大きなテーマを伝えるためには、細かいストーリーなど気にしていられなかったのでしょう。
読者としては、彼の作品を読むときはストーリーを楽しむというよりも、その大きなテーマをドストエフスキーとともに共有できることに楽しみを見出す。少なくとも僕はそうですね。

    
N-hiro(1978)は、大学生(物理学専攻)



伊藤 整
『文学入門』(光文社1954年初版)p142より。


ドストエフスキイの小説においては、人間の心が善から悪にかわり、悪から善にかわる、というその変化と心の戦いのあいだに筋が進行する。それは古い小説においての、善人と悪人がたがいに相手を打ち負かそうとして戦いあう、というあつかいと同質のものである。つまり、古い小説では、善玉と悪玉の対立で物語が書かれたが、新しい小説では人間の心の中の、愛情や我欲の対立と変化を描くことが小説だというふうに考え方も書き方も変(かわ)って来たのである。


★伊藤整(19051969)は、作家・文芸評論家。


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