「作風・手法」論3
(更新:24/11/16)
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川喜田八潮
『脱「虚体」論』(日本エディタスクール出版部1996年初版。)の「序にかえて」より。


ドストエフスキーは、現在ではさっぱり読まれない作家になってしまいました。精緻(せいち)(=細かいところまで行き届いた)心理描写と日常の細部にわたる煩瑣(はんさ)(=くだくだしい)風俗描写を特色とする十九世紀リアリズム小説の手法によって書かれ、
錯綜(さくそう)する謎めいた人間関係と大仕掛けなロマンの枠組みをもつドストエフスキーの作品は、それだけでも、めまぐるしく回転する現在の産業社会の強迫的なリズムに追い立てられている私たちにとって、相当にまだるっこしいしろもの(=もの)です。おまけに次から次へと登場する「常軌を逸(いっ)した」病的な人物たちによる、独特の神経症的な葛藤(かっとう)の持続によって構成されたドストエフスキー作品の粘着的な時間は、疲労しきった現代人の神経をチクチクと苛(さいな)み、重苦しい<不安>をおぼえさせるのです。読まれなくなったのも無理はありません。特に活字離れがいちじるしい若者たちにいたっては、現代の日本の優れた作家の作品すらほとんど読まないという状況です。何を好んで、疎遠な(そえん。=縁遠い)十九世紀の、それもロシアの作家のぶ厚い小説などに取り組んだりするでしょうか。しかし、ドストエフスキーの作品は、現在でもなお、私たちにとって生々しい意味をもっているのです。いや、それどころか、その現在的な意義はますます痛切なものになってきている、といってもよいくらいです。それは、ドストエフスキーが、近代の病理(=病気の原因や経過についての理論)の根源を最もシンプルにわしづかみにしてみせたばかりでなく、それを超えるような生活思想者のまなざしというものを創造しえた数少ない文学者のひとりだからです。


★川喜田八潮
かわきた やしお。評論家。
1952
〜。

上の文章の末部の「それを超えるような生活思想者のまなざしというものを創造しえた」の内容に関しては、上書の本論で詳しく論じられているので、上書『脱「虚体」論』の本論を読まれることをおすすめします。この本は、ドストエフスキーの登場人物の生のありさまを、我々現代人の生のあり方の「反面教師」として批判的に捉えて論じていて、いろいろ考えさせられることの多い感動の名著だと思います。




サマセット‐モーム
『読書案内』(西川正身訳。1997年岩波文庫。)の中の項「ドストエフスキー」のp82p83より。
 

ドストエフスキーの人物は、自然の暗黒な力と共通なものをもっている。
彼らは普通の人間ではない。情熱的で、極端に精神的で、痛ましいほど敏感で、極度の苦悩を経験することができ、何事についても並はずれていて尋常(じんじょう。=普通のあり方であるさま。)ではない。彼らは神のために悩み苦しむ。その行動は、まるで精神病院の狂人のそれである。だが、彼らの常軌を逸(いっ)した行動は何かふしぎな意味をもっていると考えられ、そして彼らが、かように(=このように)苦悩を通して自己の本性を暴露(ばくろ)しているのは、じつは人間の魂のもつかくされた奥底と、そのおそるべきさまざまな力とを明らかに示しているのだ、ということをしみじみと思わないではいられない。

 
★サマセット‐モーム
イギリスの作家。
18741965

ドストエフスキーの小説の作風や登場人物の性格に関するモーム氏のクールな批評は、『世界の十大小説』(西川正身訳。1997年岩波文庫。全2冊。)の下巻に所収の「ドストエフスキーと『カラマーゾフの兄弟』」のp221p224あたりでも、うかがえます。



佐藤泰正・
「ドストエフスキイと近代日本の作家」より。p173。〔『ドストエフスキーを読む』(佐藤泰正編。笠間書院1995年初版。)に所収〕


ドストエフスキイ(=ドストエフスキーとその文学)
我々にとってひとつの鏡であり、我々はそこにいやおうなしに、かけねのない(=差し引きのないありのままの)己れの姿を映し出すことになる。


★佐藤泰正
近現代文学研究家。梅光女学院大学文学部教授。




埴谷雄高・
「読者と作中人物」〔『ドストエフスキイ論集』(埴谷雄高作品集10。河出書房新社1987年初版。)に所収〕より。p230p231


世界文学のなかでもドストエフスキイの作中人物の魅力は一種独自的で、その熱病にうかされるような戦慄(せんりつ)の深さに比肩(ひけん)し得るものはほかにない。私達はドストエフスキイの作品を読みはじめてふとわれにかえると、眼前の一冊の小さな書物のなかに主人公や他の人物達と肩を押しあってはいりこんでいて、
読むものと読まれるものとのあいだの距離がまったくなくなっているのに気づくのである。ところが、この第一の没入の時間が過ぎて、やがて再び不意に頭を擡(もた)げて思わず部屋のなかを見廻(みまわ)してみる第二の瞬間がやってくると、単に自身がこの小さな書物の暗い袋小路(ふくろこうじ)に立っているだけでなく、何時(いつ)のまにか作中の主人公自身になりきって激しく息づいていることに気づいて愕然(がくぜん)とする。さながらひとつの渦(うず)にまきこまれるように、私達の前に置かれた一冊の書物とその作中人物のなかに私達が忽(たちま)ちどっぷりとのみこまれてしまうのは、ドストエフスキイが私達の前に展(ひろ)げているのが、一つの物語でも一つの性格でもなく、ただひとつの苦悩する精神だからである。私達は一つの物語や一つの性格を眼前にいわば客観的に眺めているのではない。私達は、一つの苦悩する精神の渦(うず)のなかに投げこまれて、何時(いつ)しか自身の上に同じ重荷を負って歩きだしてしまうのである。あらゆる読者が、ドストエフスキイの書物を前に置いて、ここに自分のことが書いてあると思う理由は、そこにある。或()る読者にとってはラスコーリニコフとは自分のことであり、また、他の読者にとっては、ムイシュキンはあまりに自分に似過ぎていて怖(おそ)ろしいほどかもしれない。そして、また、第三の読者は、自分がスタヴローギンとなって動いていることを絶えず感じつづけているに違いない。そこにあるのは、まさしく、自分のことである。ドストエフスキイのなかの自身と読者のなかの自身が、この眼前の一冊の書物のなかのひとりの人物を媒介(ばいかい。=仲立ち。)としてこれほどの狂いなき相似(そうじ)をもって重なっている例は、世界の文学史の中でも稀(まれ)である。多くの文学者が或()る物語の語り手であったり、自己の体験の告白者であったりするときに、ドストエフスキイはひたすら自己の精神の探求者たることに終始(しゅうし)した。鋭い心理の襞(ひだ)も厳密な推論の積み上げも、すべて、ドストエフスキイに於()いては、精神の大きさを築く支柱として駆使(くし)されている。そこにあるのは、精神の大きさのみである。その点に於()いて、ここにいる私がかしこ(=あそこ)にいる彼であり、また、そこにいる汝(なんじ)であるという主体性にドストエフスキイほど徹底しつくした作家はほかにいない。
 

★埴谷雄高
にや・ゆたか。作家。
1910
1997

                       


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