キルポーチン著
『ドストエーフスキイのリアリズムの独自性 ― ラスコーリニコフの思想と挫折』
(黒田辰男訳。啓隆閣1971年初版。)の中の「日本語版への序文」より。p2。
ドストエーフスキイには、歴史的なジャンルにおける作品は一つもない。彼の作品における行動は、それらの作品が書かれた時とほとんど同じ年代的期間において展開されている。ドストエーフスキイは、リアリストであったし、自己をリアリストと名づけた。そして未(いま)だ創(つく)られゆく生活の本質、意義および展望の、真実な解明のなかに、リアリズムの最も大きな勝利を見たのである。
★キルポーチン
ロシアのドストエフスキー研究家・文芸学者。
1898〜?。
ドストエフスキーの小説は、たしかに、いずれも、当代小説であり、当時の事件・知られた人物・流行ものを大いに題材とし ている点は、あらためて、認識されるべきでしょう。
作田啓一・筆
「独立我の実験」より。〔1993年刊『ドストエーフスキイの広場』第3号に所収。
p45、p46。〕
人間は個体我のほかに社会我と超個体我をもつ。社会我とは、他者に依存して閉ざされた集団を作ろうとする自我であり、超個体我とは他者から始まって全宇宙へと溶解してゆく自我である。人間は独立我だけでは生きられないので、独立我を社会我か、あるいは超個体我と結びつけようする。思想家としてのドストエフスキーの仕事は、独立我を社会我とではなく超個体我と結びつける生き方の探究であった、と私は思う。しかしこの探究は容易ではなかった。それは人並(ひとなみ)以上に強い独立我が彼に付与されて(=与えられて)いたからである。そのために、独立我だけで生きてゆける可能性はないのかという問(とい)が、重く彼にのしかかってきた。 ―途中、略― ドストエフスキーの一連の思考実験は、ひとりで生きようとする独立我の要求とその失敗を証明する。しかし彼は、独立我が社会我に屈伏する退路を、とうの昔に断(た)っていた。残された道は、独立我を超個体我と結びつけることしかない。その道はムイシュキンやアレクセイ・カラマーゾフ(=アリョーシャ)が歩んでいく道である。この作家がわれわれに示唆(しさ)しているように、人と人との交わりには二種類がある。もしそれが社会我の交わりだけなら、純粋な独立我を維持して破滅するか、それを放棄して社会我に屈伏し精神的に死ぬかの二途(にと。=二つの道。)しかない。しかし、ドストエフスキーは純粋な独立我の思考実験を経て、独立我を超個体我に結びつける道を見いだした。それは人間学としての社会学への極めて重要な寄与(きよ)である。
★作田啓一
社会学者、元・京都大学教授。
1922〜2016。
ドストエフスキーは、神やキリスト(への信仰)を基盤としたあり方を常に頭に置いて、人間や社会のありかたを考えていると私も思うので、上の作田氏の、「我(が)」の立て分けによるドストエフスキー論は、実に興味深いものがあります。
ペレヴェルゼフ著
『ドストエフスキーの創造』(1922年刊(第2版)。長瀬隆訳。みすず書房1989年初版。)の「内容と構成(A)」のp32〜p33、p33、p35、p38、p41、p43、p44、p45、p46より。
ドストエフスキーの作品をひもとくと、最初、諸君は、奇怪な、しかし深く抗しがたい印象、なにやら秘密めいて偶発的な、なにやらファンタスティックにして魔術的な印象にとらえられる。謎めいた人物がチラリと顔を出し、錯綜(さくそう)し模糊(もこ)とした諸関係が提示され、よくは理解できぬ事実が次々と累積(るいせき)される。すべてが暗示の色合いをもたされており、不安な待機の気分にさせられる。諸君の前を一連の事件、人物間の葛藤(かっとう)が通り過ぎる。そこには意味が存在していることを明白に感じ、好奇心とそれをはやく知りたいという焦(じ)れったさのために諸君は熱くなる。諸君の前ではなにやら秘密の地下作業が行なわれており、なにかが準備され、それが近づいてきつつあるのだ……いったい何なのだろう? こうした待機と疑問の感情を、諸君はプーシキンあるいはトルストイを読む場合には体験しない。この印象は、ドストエフスキーの諸作の内容を構成しているものが絵空ごと(えそらごと)や幻想の世界ではなくて、現実であること、しかもまったく日常茶飯(さはん)なそれであることによって、より奇怪なものとなる。 ―途中、略― 彼の作品においては最もリアルな現実が幻想的な色合いを帯びていて、諸君はそれをまったく予期していないにもかかわらず、神秘的な印象にとらえられるのである。この印象の源泉を理解するためには、作品を作るドストエフスキーの方法、作品の構成に目を転じなければならない。 ―途中、略― 言葉の芸術家の大部分の人々とは反対に、彼は出来事を年代(時間)的順序と論理的関連において叙述(じょじゅつ)しない。彼は、出来事の発端(ほったん)については未知のままにしておいて、読者をいきなり事件の混乱のなかに誘導する。彼は生活を、ひとつのモメント(=瞬間的場面)から次のモメントへ、つまり発端から終局へとは展開しない。彼は真中の諸モメントを取りあげ、過去の出来事の幕を徐々に開きながら終局のモメントへと赴(おもむ)き、そこに至ってはじめて発端のモメントを示す。 ―途中、略― ドストエフスキーの諸作が私たちのうちに喚起する秘密性と幻想性の印象は、それが準備された条件に先立って事件が描かれ、諸人物間の関係が当の諸人物より先に、その行動が性格よりも先に描かれることによって生ずるのである。まさにそれゆえに行動は幻想的になり、関係は紛糾(ふんきゅう)し、出来事は偶然的なものと思われることになる。実際には、そこには秘密性、紛糾、偶然性はない。作者の物語の方法がそのような外見を与えるにすぎないのだ。 ―途中、略― ドストエフスキーは描写と性格づけに深入りするのが嫌いだった。彼は行動のまさに最中に、随伴的に、人物たちの口を通じて必要な描写と性格づけを挿入し、そうすることによって行動を発展させるのである。 ―途中、略― ドストエフスキーは作品に「記録」あるいは「文通」の形式を与えようする傾向があるが、 ―途中、略― 記録作者――それは物語を行動から始める長編小説家にはまことに打ってつけの手法なのだ。 ―途中、略― ドストエフスキーにおいては事実が次から次へと目まぐるしい迅速(じんそく)さをもって積み重ねられる。劇を用意した事前の全過程が、作者によって劇よりも前には描出されず、行動の発展につれて随伴的にのみ描かれるために、そこには行動を遅滞させるものはなにもない。 ―途中、略― 見よ、その『戦争と平和』において、生活がいかに淀(よど)みなく、悠揚(ゆうよう)かつ重厚に流れ、しかるにドストエフスキーの『悪霊』あるいは『カラマーゾフの兄弟』においては、それがいかに熱病的に迅速に波立っているかを。トルストイにおいては行動の展開は数ヶ年にわたっている。たいするにドストエフスキーにおいては行動が展開されるのは数日間である。そしてこれはトルストイがその創作において歴史家として振るまい、一定のモメントが数ヶ年にわたっていかに準備されたかを提示すべく努めるのにたいし、ドストエフスキーが歴史と係(かか)わることがきわめて少なく、全身をモメントの諸事件に集中しなければならぬ記録作者として行動しているためなのだ。
★ペレヴェルゼフ
ロシアの文芸批評家・文芸学者。
1882〜1968。
ペレヴェルゼフ氏は、革命後、モスクワ大学教授として、ソ連の中央文芸界で活躍した文芸批評家であったが、1929年から1930年にかけて、その学風がスターリン派から批判を受け、1956年のスターリン批判以後に名誉回復されるまで、中央のアカデミーから追放されることになった。1912年に初版が出た上書は、第4版の刊行後54年ぶりの1982年にソ連で復刊されたが、訳者の長瀬隆氏も、もっとはやく日本で翻訳されていたら、と惜しがっているほど、すぐれたドストエフスキー文学論書として近年注目を集めている名著である。この書の中でも、上に挙げた本文を含む論文「内容と構成(A)」は、読者の多くが読みつつ印象として受けるドストエフスキーの小説の特徴とその原因を、ストーリーの展開や描写法の観点から鋭く指摘し明快に説明したものとして、私も、初めて読んだ際、大いに感服させられました。本文中で「諸君」と呼びかけているように、学生を前にしたおこなわれた講義か講演の形式を持った本ですが、一読の価値あるドストエフスキー論書と言えるでしょう。
木原武一著
『名作はなぜ生まれたか』(木原武一著。同文書院1993年初版。)の「ドストエフスキー」のp180、p183〜p184より。
フョドル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキーの魅力はどこにあるのか。ひとことでいえば、その暗くて熱いところに彼の魅力がある。彼はいわば、闇のなかでぎらぎら燃える火である。いったんそれを目にした者は、そのとりこになる。 ―途中、略― 研究者によると、ドストエフスキーの小説に登場する人物の四人に一人は神経症におかされているという。たしかに、いつもぶるぶる震(ふる)えていたり、顔がすぐ赤くなったり青くなったりして、どこか異様な感じの人たちがたくさん出てくるが、妙なことに、読み進むうちに彼らに親しみが感じられてくるのである。たぶん、それはこういった人物を通して、ほとんどすべての人間の抱く苦悩や歪(ゆが)みなどが語られているからでもあるが、しかし、それだけてはない。作者ドストエフスキーがすべての登場人物に熱い想いを注ぎ込んでいることがひしひしと感じられるからでもある。ここが、ロシアのもう一人の文豪トルストイがドストエフスキーと決定的に異なるところである。トルストイは小説の登場人物を冷たい目でながめ、分析し、批判し、威厳をよそおう人間の失態をあばこうとする。ところが、ドストエフスキーは、人間の心の奥深くに閉じこめられた悲痛な叫び声に耳を傾け、いつも醜態を演じてばかりいる小役人の中にもひそむ人間の尊厳を描き出そうとする。
★木原武一
きはらぶいち。評論家。
1941〜。
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