「作風・手法」論8
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小沼文彦
『ドストエフスキーの顔』(筑摩書房1982年初版)p16p17より。


ドストエフスキーの文学は、われわれに神の存在を知らせる、神について考えさせる文学であると言われている。なるほど、神のことなど生まれて一度も考えたことのないような人たちが、ドストエフスキーを論じる場合には、しごく(=非常に)簡単に神の名を口にする。神を否定するということは、神の存在の重圧に堪()えかねたものの悲痛な叫びであり、窮鼠(きゅうそ)かえって猫を噛()む反抗であるにもかかわらず、あっさりと「神がなければいっさいが許されるのだ」などと言う。この伝(でん。=やり方)でいけば、日本人の大部分にはすでにいっさいが許されていることになってしまう。また百人百様の読み方で、ドストエフスキーはあくまでも神学者で、その作品こそは聖書の注釈書であると主張する人もいる。これには、ドストエフスキーの本領はどこまでも文学であると思っている人たちからは、当然のことながら反論が出るものと思われる。しかしたしかにそう読み取れるほど、ドストエフスキーはわれわれに神をたたえて(=ほめたたえて)やまない。だがそれと同時に、ドストエフスキーの文学は悪魔の文学であるというのも、ひとつの常識になっている。つまり読み方によっては、読者は神を求めずにはいられないようにもなれば、悪魔の思うつぼにはまることにもなるということであろう。

   
★小沼文彦(19161998)は、ドストエフスキー文学の翻訳家・研究家。筑摩書房刊個人訳ドストエフスキー全集がある(19621991年刊)

評論家の
秋山駿(しゅん)氏も、桶谷秀昭氏・内村剛介氏との鼎談「なぜドストエフスキーに向かいあうか」(河出書房新社1978年初版『文芸読本ドストエーフスキー(U)』に所収。p69)で、

ドストエフスキーという人が、僕になにをあたえてくれたかというと、独断ですけれども、この自分の現実の場から考えて、もしか神さまがあるかないかということを考えるとすれば、僕はそれをドストエフスキーから習ったという意味です。ほかのどんな文学からも習わないで、たとえば「君、神様あると思うかい」と問うような文章を、日本人はドストエフスキーから習ったと思うんです。

と述べている。私の場合も、同じであり、ドストエフスキーの文学に接して以来、この世界における神の存在をめぐる問題について、ずっと長く、いろいろ考えさせられてきたように思う。



西谷啓治・述
「ドストエフスキーの人間観」より。p48p49。〔『共同討議 ― ドストエフスキーの哲学、神・人間・革命』 (西谷啓治・和辻哲郎・高坂正顕・唐木順三・森有正による座談形式の共同討議。弘文堂1950年初版。)に所収。 〕
※旧仮名遣い・旧表記は、現代表記に改めました。

            
人間が神でもなく獣でもない限り、人間と人間との交わりには、「人間らしさ」という性格をもった内容が出てくるので、それを踏みはずせば「人でなし」になる、「人間」らしい人間でなくなる、というようなものがある。超人からも人非人(にんぴにん。=人でなし。)からも人間に仕切りをつける枠(わく)がある。そこに人間の正常(ノーマル)的な、また日常的なあり方があるといっていいわけであります。ところが
ドストエフスキーでは、そういう正常的・日常的な人間のあり方から抜け出した人間、埒(らち。=そこを越えることが許されない区切り。)を踏み越えた人間のあり方というものが始終(=初めから終わりまで)問題になっている。彼自身「私はどんづまりまで行く。生涯、私は限界を踏み越えつづけていた。」と書いている。彼は自分自身そういう人間として、そういう彼自身のあり方に立って、人間をそういうあり方のもとで見、また問題にしていると言えます。そこで初めて、虚無の深淵(しんえん。=深いふち。)とか、神とか、人神(じんしん。=神に成りかわろうとする人間。)(あるい)は超人というようなものが、人間の根本的な問題として現れてくる。ドストエフスキーの主要な人間は、いずれも何等(なんら)かの意味で、埒(らち)を踏み越えた人間です。ノーマルでない、その意味で「人間」らしくない人間とも言えます。だから、神と対決する意気込みをもつかと思えば、自分を二十日鼠(はつかねずみ)だと言ったり、虱(しらみ)だと感じたりする。そういう人間が多く出てくる。自殺者、殺人者、犯罪者、或(あるい)は街(まち)の女(=街娼)など、(しか)もそれが普通のそういう者と違って、人並(ひとなみ)はずれた気高(けだか)さを持っている。人間と人間の関係でも、人間的な枠の彼方での触れ合い、いわば魂の底の限界で触れあって、火花を散らすという、そこが一番の問題になっている。とにかく、そういう極限的或(あるい)は超限的な、人間性の上限と下限とを同時に踏み越えたというような、その意味で固定した枠も中心も失ったような人間、むしろ上下二つの相反する中心の間に彷徨(ほうこう)して(=さまよって)いるような人間、そういう人間を出してきて、それで人間の魂の分析をやっているわけで、それで初めて人間の本当のリアリティが捉(とら)えられると考えられたのだろうと思います。

              
★西谷啓治(19001990)は、哲学者。元・京都大学教授。

『共同討議 ― ドストエフスキーの哲学、神・人間・革命』は、刊行は1950年ですが、当時の日本の思想界のすぐれた五人の哲学者・思想家(西谷啓治・和辻哲郎・高坂正顕・唐木順三・森有正)が座談形式で、ドストエフスキーの文学の特徴、その社会思想・宗教思想、その時代背景、ドストエフスキーの生涯とその人となり、ドストエフスキー文学の現代的意義など、ドストエフスキーをめぐるあらゆるテーマを、真っ向(まっこう)から縦横に語り合い論じあった本として、随所に珠玉のドストエフスキー論がちりばめられた、読んで面白くて、読みごたえのある本です。



梅原 猛・筆
「神の問題」より。(『文芸読本ドストエーフスキー(U)(河出書房新社1978年初版)に所収。1971年筆。)


神とは何であるか、人間は神なしに生きられるかどうか。そのような問いが、ドストエーフスキイの中心的な問いであり、すべての人物は、そういう問いを問うための、舞台道具にすぎないのである。もっとも(=とは言っても)、すぐれた小説家ドストエーフスキイは登場人物を、けっして思想のあやつり人物にせず、強い個性と、その内面に矛盾をもった実に生き生きとした人物にせしめては(=させては)いるが。
私は、彼の小説を読むと、彼の問いは、まだ、答えが出されていないと思う。ドストエーフスキイは、神がないという命題と、神があるという命題の谷間に立っていると思う。彼は、おそらく、存在として、神はないという立場にあるのである。イヴァンは存在としての彼の分身にちがいない。
彼自身神を失った文明の中にあった。その文明の恐ろしい帰結を考えつめた人であった。しかし、彼はこの文明の恐ろしい帰結を、知っていればいるほど、彼は、もう一つの命題「神はある」という命題に賭()けねばならなかった。私は、アリョーシャは、彼の当為(=あるべき姿)、あるいは、願望であると思う。アリョーシャの立場に立たねば人類は救われないと彼は、思ったにちがいない。小児(しょうに)の如き天使の心が必要なのだと彼は思うが、現実の彼は、天使より、はるかに悪魔であったにちがいない。彼自身の内面にひそむ、天使と悪魔の深い葛藤(かっとう)を通じて、ドストエーフスキイは「神ありや否(いな)や」という問いを問う。一見、この「神ありや否や」という問いは無用な問いのように見える。日本人は、特に戦後の日本人は、合理的な啓蒙主義を信じて、このような宗教的な問いを無用な問いとしてきた。しかし、この問いこそは、おそらく、今後の人間にとってもっとも根源的な問いなのである。なぜなら、神を否定して、人間自身を神の立場にたたすことによって始まった人間の世界計画は、今はっきり、破綻(はたん)の相(そう)を見せはじめたからである。人間は神を殺して、それ自身、神になることはできない。神を殺した人間の罪障のために、人間は、いかなる罰をこうむるや否(いな)や? こういう歴史的状況の前に、ドストエーフスキイは、もっとも現代的な作家としてわれわれの前にあるのである。


★梅原猛(19242019)は、日本の古代史研究家・哲学者・劇作家。

上の梅原氏の考えは、私がドストエフスキーの主要小説を読みつつ抱(いだ)くようになった問題意識をそのまま言ってくれているようで、大いに共鳴するものがありました。「神とは何であるか、人間や社会は神なしに生きられるかどうか。」という問いこそ、ドストエフスキーが生涯執着し続けた根本の問いなのであり、当時の他の作家や思想家が執着して問うことがほとんどなかったこの問いこそ、混迷の中にある現代社会の我らが、もっと取りあげて問うていくべき大事なテーマであるように思います。
梅原氏は、 「ドストエフスキーと神」(河出書房新社刊『ドストエフスキー全集』第19巻の「月報」に所収。)においても、同趣旨の考えを論じています。



川喜田八潮
『脱「虚体」論 ― 現在に蘇るドストエフスキー』(日本エディタスクール出版部1996年初版)より。p66p67


ドストエフスキーのユニークさは、実は、アジア型のデスポット
(=独裁者)の位置に自らをなぞらえるイヴァンやシガリョフ(注:『悪霊』の登場人物)、さらには、彼が生み出してきたさまざまな悪魔的な人物たち、たとえば、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーとかニコライ・スタヴローギンのような無神論者たちの内面に着目し、その内部を、人間へのどす黒い<嫌悪(けんお)>と世界の<不条理性>に色どられた暗黒の相(そう)においてとらえられているという点にあります。つまり、ドストエフスキーは、大審問官の思想によって象徴される課題を、一見、政治思想の問題であるかのように取り扱っておりますけれども、実はそうではなくて、そういう政治思想の形で<自己表現>を行わざるをえなかった無神論者たちの、個人的な人生の<不幸>の問題、あるいは魂の病理の問題として煮()つめてゆくことで、問題の核心を全く別の<次元>に置き換えてみせるわけです。ここに、大審問官の挿話が与える異様に生々しい<感触>の秘密があるのです。つまり、もしこれがただの政治思想の問題として提出されただけならば、その範囲の問題でしかないわけですね。これまで私たちが検討してきた事柄で、すべての問題は片づいてしまうわけです。しかし、ほんとは、そういうアジア的なデスポティズム(=専制政治)の社会を構想せざるをえなかったイヴァンという主人公の、無神論者としての荒寥(こうりょう。=荒涼)とした内面がはらんでいる問題性というものを、<時代の病理>の象徴として提出するというところにこそ、ドストエフスキーの真面目(しんめんもく。=本領)があるわけです。

★川喜田八潮(かわきた・やしお。1952〜。)は、評論家。

マルクス主義の考え方に、「
存在が意識を決定する。」〔=その人が日頃どういう考えや思いを持つか(=意識)は、その人の生活環境や身分(=存在)によっている場合が多い。〕という鋭い見方がありますが、川喜田氏の上の、無神論的な登場人物たちが無神論的な壮大な思想を抱くようになった背景(彼らの生い立ちや彼らの「生」自身の内の問題点)をこそ見ていくべきだとする見方は、ドストエフスキーの小説における無神論的な登場人物及びその思想(さらにはドストエフスキー自身の思想)を理解していく場合の、きわめて大事な観点だと私も思う。作者ドストエフスキーも、実際、作中でしばしば、彼らの生い立ちを重視して読者に詳しく説明することをしており、そのあたりの彼らの生の問題点や社会的背景といったことを十分意識しつつ、ドストエフスキーは彼らの言動を描いているように思う。


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