各小説論2
(更新:24/02/04)
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清水孝純の論
(
 
『地下室の手記』について )
〔清水孝純著『道化の風景 ― ドストエフスキーを読む』 (九州大学出版会1994年初版。)の「序」より。〕


いわば、
ドストエフスキーの、近代人としての自己認識がそこに(=『地下室の手記』主人公の人物像の中に)定着されたといえる。地下室という、魂の暗室ともいうべき深所において紡(つむ)がれた巨大なコンプレックスの塊(かたまり)、それは自閉的な自意識の空間で、そのシニシズム(=物事に対する冷笑的な態度。)を宇宙の創造者にむけて不断に噴出させてやまない。その自意識の肥大においては、神をも毒付(どくづ)きながら、しかし、その自卑(じひ。=自分を卑下すること。)において自身を地下室の鼠(ねずみ)のごとくみなす、この自閉的な空間においては、主人公の自意識は、その両極を無限に循環するにすぎない。しかし、その循環によって、主人公のたぐり寄せるのは、近代人の一切の問題といっていいかもしれない。いわば神を失った場合の人間の無限の頽落(たいらく。=頽廃し堕落していくこと。)の可能性、コンプレックスの生み出すサディステックな残虐性、と同時に奇妙な自己処罰の要求、かと思えば自己の絶対性の主張もそこに共存する。ドストエフスキーは、いわばレトルト(=フラスコの口を横に倒した形の実験器具。)で蒸溜(じょうりゅう)したごとき自意識の問題性をここで抽出(ちゅうしゅつ)したのだ。
しかし、このような自閉的空間に人間はいつまでも存在するわけにはいかない。こうして、いわば絶対を求めての旅立ちが後期の巨大な作品群において開始される。


★清水孝純(たかよし。1930〜。)は、元・九州大学教授、元・福岡大学教授。

上の文章は、『地下室の手記』の主人公が陥っている状況と動向のことを、近代の人間のそれとして、鋭く洞察していて、感銘深いものがあります。        



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