宇野正美の指摘
( 『罪と罰』について )
〔 『ユダヤで解けるロシア』(三交社1996年初版。)より。p23〜p24。〕
私たち日本人の多くは、この小説をラスコーリニコフという一人の青年の心の苦悶(くもん)として読むだろう。が、 ドストエフスキーは、この小説でロシア人とユダヤ人の葛藤(かっとう)を描こうとしたのである。主人公ラスコーリニコフはまちがいなくロシア人である。そして高利貸の老婆はユダヤ人を象徴している。ロシア人の読者には、この高利貸がユダヤ人を意味していることがすぐにわかったはずである。そして娼婦ソーニャは、ロシア文明を支え続けたロシア正教を表わしていると読むことができる。ラスコーリニコフの苦悩は、そのままロシア人がユダヤ人に対して抱え込まされた葛藤の、象徴的な表現なのであった。
〔「意見・情報」交換ボードの[97年8月17日] に書き込んだ分〕
★宇野正美
国際経済ジャーナリスト。
上の指摘は、なかなか興味深い。
中村白葉の論
( 『罪と罰』について )
〔 ジュニア版世界の文学(全20巻。金の星社1966年初版。現在、絶版中。) の巻1『罪と罰』(中村白葉・伊藤佐喜雄訳。1966年初版。)に掲載の中村白葉・筆 「「罪と罰」と私」より。〕
「罪と罰」は私にとって、初めて本になったなつかしい処女訳です。私が数えて二十五の時でした。その時から今日まで五十四年、その間に私は幾度これを改訳したかしれません。自然、この本に出てくる人物――ラスコーリニコフやソーニャには、私は、親身の人のような親しみを感じています。若気(わかげ)のいたりということもあり、誤った思想的観念におどらされて、殺人という大罪は犯したけれども、根は誠実で優しい心を持っていたラスコーリニコフ。貧しいが故に卑(いや)しい職業に身をおとしながら、心は小児のように純真無垢、ちょうど夏、河原などによく咲いている月見草の、あのはかなげな淡黄色の花のように可憐(かれん)なソーニャ。この聖女の宗教的強さによって、殺人者のかたくなな心もしだいにとけ、遂に心から救われるに至るこの物語は、いつでも襟(えり)を正して読むに堪(た)える傑作です。
★中村白葉
ロシア文学者・翻訳家。トルストイの小説の翻訳の大家
1890-1974。
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