『悪霊』の中の箇所
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更新:24/06/15)
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椎名麟三の論



『悪霊』の中の箇所


スタヴローギン「でも、餓死する者も、女の子を辱(はずか)しめたり、穢(けが)したりする者もあるだろうけれど、それもすばらしいのですか?」
キリーロフ「
すばらしい。赤ん坊の頭をぐしゃぐしゃに叩(たた)きつぶす者がいても、やっぱりすばらしい。叩きつぶさない者も、やっぱりすばらしい。すべてがすばらしい、すべてがです。すべてがすばらしいことを知る者には、すばらしい。 ―以下、省略― 」
  ―途中の7行分、省略―
キリーロフ「
人間がよくないのは、自分たちがいい人間であることを知らないからです。
と彼はふいにまた話しだした。
それを知れば、女の子に暴行を加えたりはしない。人間は自分がいい人間であることを知る必要がある。そうすればすべての人が、一人残らず、即座にいい人間になる。」 
〔『悪霊』の第2部第1章の第5。新潮文庫(江川卓訳)上巻のp371p372。〕


※、米川正夫訳では、上の
人間がよくないのは、自分たちがいい人間であることを知らないからです。
それを知れば、〜
は、
各々、
世間の人はよくない。それは、自分たちのいいことを知らないからです。
もしそれを悟ったら、〜
となっていて、椎名氏は、その米川正夫訳の分を踏まえて下のように言っていると思われる。


椎名麟三の論
〔椎名麟三著『私の聖書物語』(中公文庫1973年初版)より。p36p38。〕

その小説(=小説『悪霊』)は、多くの感動的な場面にみちているが、そのなかでも自分の思想を証明しようとして自殺しようとしているキリーロフを、スタヴローギンというニヒリストの権化(ごんげ。=化身。)のような男がたずねて来たときの対話(注:=上の箇所を含む新潮文庫のP362p374)ほど私の心を打つものはなかった。キリーロフは、小さいときに見た木の葉について話す。それは日光に葉脈がすいてキラキラと美しかったというのである(注:=p371)。スタヴローギンは、それは何の意味だい、とたずねる。勿論(もちろん)意味なんかない。キリーロフは、そう答えて、人間はすべて許されているのだというのである。スタヴローギンは、その彼を追究して、それでは、子供の脳味噌(のうみそ)をたたきわっても少女を凌辱(りょうじょく)してもいいのかとたずねる。それに対してキリーロフは、それも許されている、ただ、
「すべてが許されているとほんとうに知っている人間は、そういうことをしないだろう。」
(※、注:この文そのものは、上に掲げた原文にはない。椎名氏が自分で要約した文章と言える。)
と答えるのである。
私を打ったのは、最後の括弧の部分
(注:=「すべてが許されているとほんとうに知っている人間は、そういうことをしないだろだ。」)
だ。ここには深い断絶がある。「すべてが許されているとほんとうに知っている人間は」と「そういうことをしないだろう」との間にである。
そしてふしぎなことには、この断絶から、何やら眩(まぶ)しい新鮮な光がサッと私の心に射すのであった。この言葉に感動したのは、私だけかと思ったら、日本や外国の作家に実に多い。たとえばジイド(フランスの小説家)なんかが、至福の予感のするものとして、そのドストエーフスキイ論にとり上げているのもこの個所(かしょ)である。だが、考えてみれば、これほどおかしな辻(つじ)つまのあわない言葉はないのである。すべてが許されているとほんとうに知っている人間は、そんな子供を殺したり少女を凌辱(りょうじょく)したりするなんて平気だろうというのなら話はわかるが、そうしないだろうなんていうことはどうしてもわからないのである。だがわからないままにだが、八方ふさがりで生きて行く道を失っていた私には、私の知らない道を暗示している気がして、いつまでも心に残っていたのだった。この「すべてを許されているとほんとうに知っている人間は」が「そうする」ではなく「そうしないだろう」と転換する点に実はキリストが立っているのであり、このような転換はキリストにおいてだけ可能なのだと知ったのはずっと後のことであった。ドストエーフスキイには、理窟(りくつ)で考えてはわけがわからないが、しかし胸を打つ言葉がたくさんある。たとえば苦悩を愛すという言葉がある。フランスの作家ルイ・フィリップは、このドストエーフスキイの言葉をかかげて、この言葉は嘘(うそ)っぱちだが、しかし何となく慰められる言葉だと言っている。言葉そのままの意味では、変質的なグロテスクさを感じさせるものであり、だからまともな人間の言葉ではない気ちがいのたわごとのように見える点は、先刻のキリーロフの言葉と同様である。だから嘘(うそ)っぱちだというルイ・フィリップの言葉に同感である。だがその貧しい靴工の息子であったルイ・フィリップは、そう言っていながら、何となく慰められる言葉だとつけ加えずにはおられなかったのは何故(なぜ)だろう。実は、その苦悩を愛すという言葉の背後にはキリストが立っているからである。キリストにおいてはじめてその言葉は、この世のなかに生きる現実性をもつことが出来るのである。


※、以上の内容は、椎名氏の著『私のドストエフスキー体験』(教文館1967年初版)p48p54でも、少し表現を変えて、詳しく語られている。たとえば、上の「
そしてふしぎなことには、この断絶から、何やら眩(まぶ)しい新鮮な光がサッと私の心に射すのであった。」のあたりは、「この言葉を聞いたときに、何かしら新鮮な、私のまだ知らない「ほんとうの自由」の光が私の心の中にさっと射し込むのを感じるのである。」と、椎名氏は述べている。



★椎名麟三
小説家。19111973

氏はドストエフスキーの影響を強く受けた日本の作家の一人であり、椎名氏による「ドストエフスキー体験」という言い方は有名。 椎名氏は自ら、「僕の文学は、ドストエフスキーによって開眼された。いわばドストエフスキーは僕の文学における最初の教師である。」と言い、のちに、ドストエフスキーの文学を通してキリスト教の奥義にも触れ、組合の活動家を脱してキリスト教の洗礼を受けるに至っている。椎名氏の、上に掲げたキリーロフの言葉の中にはキリストが立っているのだという理解はドストエフスキーの真意なのかどうか、については議論が必要かもしれないが、椎名氏は、ドストエフスキーの文学を、自分はいかに生きるべきかという自己の切実な人生問題に引きつけて真摯(しんし)に読み抜き、そのかけがえのないドストエフスキー体験を著書に告白していった人である、と言える。上の椎名氏の文章を大学時代に初めて読んだ時、私は、『悪霊』の上の箇所に関する椎名氏の受けとめ方、特に、「
ほんとうの自由」という椎名氏の言い方の含蓄に強い感銘を受けた。 『悪霊』の上の箇所は、読者が下手に受けとめてしまうときわめてアブナイ箇所であるわけですが、ドストエフスキーは、キリーロフの言葉の危険性を覚悟しつつ、人間にとって真の「自由」のありかを、読者に深く提起しようとしたのだと思われる。


 

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