(1)
@モスクワの貧民慈善病院
内の官舎において出生、
A暮らし向きはそれほど豊
かではない正教ヘの信
仰心のあつい中産中流
階級に属する家庭、
B専制君主的な気むずかしい
病院長(元軍医)の父親、
やさしくて敬虔な母親、
幼少期の厳格で敬虔で
教育熱心な家庭環境
C兄弟姉妹や使用人の
多い大所帯の家族構成、
兄ミハイルとの仲のよさ
D読書・朗読を愛好
した家庭環境
(0歳〜11歳)、
E領地を得て小地主となる
(9歳)、
夏季のダーロヴォ
エ村での田園生活
(9歳〜15歳)
F私塾への通い
(11歳〜12歳)、
私立寄宿学校時代
(12歳〜15歳)、
プーシキンをはじめ
文学熱が高まり、内
外の小説を読破
(13歳〜)
@
氏は、元軍医であった父ミハイルが医員(のちに病院長)として勤めるモスクワの貧民街にある、
マリヤ貧民慈善病院
の建物内の職員官舎
で生まれ、
《明?》
病院の敷地内を行き来する貧しい患者たちを目にしながら、少年期を送った
(0歳〜12歳)。
※、
▲ドストエフスキーの生家
A
父ミハイルの年功により、一家は、いちおう、「貴族」の称号は得ていて、のちに領地を持つ小地主にもなったが、氏の一家は、暮らし向きはそれほど豊かではない正教ヘの信仰心のあつい中産中流階級に属する家庭であった。
B
《暗》
まじめで謹厳でありながら、猜疑心が強くて、癇癪(かんしゃく)持ちで、偏屈で気むずかしい性格の▲父ミハイルは、息子たちに病院の校内から外へ出ることも近所の子供たちとつきあうことも禁じるなど、子供たちに厳しい日課やしつけを課した。そういった怒りっぽくて厳格な父に対して、氏は、早くから気をつかい、父親の顔色をうかがいながら少年時代・学生時代を送った。
一方、
《明》
▲母マリヤは、モスクワの中流の商家の娘で、陽気で賢く、気だてのやさしい信心深いロシア正教の信者であった。
C
氏は、四男四女のうちの次男であり、使用人も数多く同居していて、
氏が少年期の家庭は
大所帯だった。
《明》
年子(としご)の
・兄ミハイル(長男・1820〜64)
とは、一卵性兄弟と言われたほど、幼い頃よりいつも一緒に行動していて仲がよく、文学の夢を語り合う仲間であり、よき相談相手であった。
ほかに、
弟の
・アンドレイ(三男・1825〜97)
・ニコライ(四男・1831〜83)
妹の
・ワルワーラ(長女・1822〜93)
・リュボフィ(次女・1829〜1829)
・ヴェーラ(三女・1829〜96)
・アレクサンドラ(四女・1835〜89)
がいた。
次女リュボフィは、ヴェーラと一緒に双子として生まれたが、生まれて数日後に死亡している(7)。
その他、家族と同人数ぐらいの女性の使用人たちが一緒に住んでいて、子供たちの乳母たちや、子供たちの面倒をみる婆やたちも出入りしていた。
※、
弟アンドレイは、のちに、少年期の一家の様子についての貴重な回想記を残している。
[『ドストエフスキー同時代人の回想』(水野忠夫訳・河出書房1966年刊)に所収。]
D
4歳から、母は、氏にアルファベットを教え、
《明》
日々、夜は子供たちを部屋に集めて『聖書』やカラムジン作の物語などを読んで聞かせ、
《明》
使用人たち
(乳母だったアリョーナ・フローロヴナやルケーリヤ、農奴出の召使いの婆やアリーナ・アルヒーポブナ)
が巧みに語るおとぎ話にも子供たちは夢中になった。
《明》
夜の時間帯はやがて一家での文学書の朗読会や読書の時間となり、氏の文学への親しみの下地をつくった。
《明》
10歳の冬にモスクワ大劇場で
シラー作の『群盗』
を観て、モチャ−ロフの名演に深く感動した。
11歳からは父は氏や兄にラテン語や幾何学の予備教育を始めた。
E
9歳の時、父がトゥーラ県の田舎の
ダーロヴォエ村
を購入し、その翌年には
その隣村チェルマーシニャ
も買い入れ、父は領地と100人余りの農奴をかかえる小地主となる。
チェルマーシニャ村の領地の買収後に屋敷からの出火で、
《暗》
両村は焼失してしまうが(10歳)、
その夏には領地の屋敷は罹災から復興した。
《明》
9歳以降15歳まで、毎年、夏は、母と兄弟たちとダーロヴォエ村を訪れて当地の田園生活に親しんだ。
F
上級学校へ進学する準備として、33年の春から、兄ミハイルとともに、 フランス人スシャールの経営する、
・モスクワ市内の私塾
に通った(馬車で通う)。
(11歳〜12歳)
《明》
この私塾で氏はフランス語を徹底的にたたきこまれ、在学中の1年間でフランス語の読み書きと会話に習熟した。
私塾に通ったのち、兄ミハイルとともに、34年の秋に、チェルマークの経営する、
・モスクワ市内の
私立寄宿学校(中学課程)
に入学し寄宿生活を送った。
(12歳〜15歳)
《明》
氏は少年期からすでに早熟の文学好きだったが、この寄宿学校は、文学教育に熱心で、教師の感化でプーシキンの文学に傾倒し、同じく文学好きの兄ミハイルとともに文学への熱中が始まり、兄ミハイルは詩作にふけり、塾生たちとはつき合いが悪かった氏は、13歳頃からロシア内外の文学作品を次々と読破し始め、散文小説、特に伝奇小説や怪奇小説に心奪われ、将来大作家になることを夢見た。
(13歳〜15歳)
《暗》
37年1月末に決闘でたおれたプーシキンの死を、その一ヶ月後の3月に知り、兄とともに大いに悲しんだ。
(15歳)
(2)
@ペテルブルグで
学校生活を開始
(15歳〜)、
A文学熱がいっそう高
じた工兵学校時代
(16歳〜21歳)、
B母の死去
(15歳)、
C父の死去
(17歳)、
D工兵学校を卒業し(22歳)、
ペテルブルグ部隊工兵団
の製図局に勤務するも、
1年後に辞職し、作家生
活へ入る。
(23歳〜)
@
《明》
37年の5月に、工兵学校入学準備のため、モスクワを離れて初めて首都ペテルブルグに行き、
コストマーロフの経営する、
・私立予備校
に入学し、父から遠く離れた都会ペテルブルグで学校生活を開始した(15歳)。
在学中に、ロマン派詩人シドローフスキーや工兵学校生グリゴローヴィチと知り合い、影響を受ける。
寄宿生活を経て、38年1月に、父の選んだ、
・ペテルブルグの
陸軍中央工兵学校
に入学し、5年間在籍。
(16歳〜22歳)
この学校は、当時の工業系エリート学校であり、主として西部国境地帯の要塞構築要員としての工兵将校を養成することを目的とした学校であった。
一緒に同校の入学試験を受けた兄ミハイルは不合格となって、兄はレーヴェルの工兵部隊に入隊することになり、兄の勤務先が変わった41年4月以降は兄とは離ればなれになり、その後は、兄宛の書簡を書き送ることが始まる。
A
周囲が堀に囲まれた旧ミハイロフスキー宮殿が校舎になっていた学校生活は代数学や築城学の講義を聞き、軍事訓練に明け暮れるもので、
《暗》
氏にとって形式的な学校
生活は苦痛でしかなく、
《明》
日々、宮殿内の寮における夜の自由時間などは、好きな文学や読書に没頭し、バルザック、ジョルジュ・サンド、ビクトル・ユゴー、ホフマン、シラー、シェークスピアなど、ヨーロッパの作家の文学作品を次々と読破した。
入学後にいっそう高じたこの文学熱や教師との関係がうまくいかなかったことなどのため、最初の進級試験で落第をしている。父親の監視の中、学校生活は嫌っていたものの、氏は各教科の勉学には専念し、成績はそれほど悪くはなかった。
41年の8月に野戦工兵少尉補に任ぜられ通学見習生となり(19歳)、
《明?》
寮を出て、市内で同級生と共同の下宿生活を始めたが、
《暗?》
ビリヤードやカードゲームなど、遊びに興じ、借金を作ったりしている。
在学中に、最初の創作として戯曲を
・三作ほど
(『メアリー・スチュアート』
『ポリス・ゴドゥノフ』
『ユダヤ人ヤンケル』)
創作し(未完)、41年1月の兄の送別会で仲間の前で朗読している(現存せず)(20歳)。
B
《暗》
モスクワを離れる3ヶ月前の寄宿学校在学中の37年の2月に
母マリヤが病没(15歳)。
生来病身であった母マリヤは、36年の秋ごろから健康が衰えはじめ、翌年の2月に肺結核で亡くなった。
母の死のあと、兄ミハイルとともに、一時期、
・クマーニン家
(母の姉の結婚先
の富裕な商人)
に引き取られて過ごした。
C
《暗?大明?》
モスクワを離れペテルブルグの中央工兵学校に入学して2年目の39年6月に、
父ミハイル横死の知らせを
受け、衝撃を受ける(17歳)。
父ミハイルは、妻マリヤの死後、病院長を辞して子供たちとダーロヴォエ村の領地にひきこもって酒びたりとなり、領地の農奴たちに対する専横により、彼らの恨みを買って領地で殺害されたのだった。
D
43年の9月に中央工兵学校
を卒業(22歳)。
卒業後、
・ペテルブルグ部隊工兵団
の製図局
へ配属されたが、
《明?》
勤務になじめなかった。
その間、
バルザックの小説である、
『ウージェニー・グランンデ』
を翻訳し、雑誌に
掲載された(22歳)。
《明?》
一年後、中尉に昇進後
に職を辞し退役して
作家生活に入った(23歳)。
(3)
@処女作『貧しき人々』で
文壇に華々しくデビュー
(23歳)、
A批評家たちに不評だっ
たその後の作家活動
(24歳〜27歳)
@
《大明》
45年の5月、完成した処女作、
・中編『貧しき人々』
の原稿を徹夜で読んで感動した友人グリゴローヴィチと詩人ネクラーソフにその早朝にたたき起こされて、前途を祝福される。
さらに、その日にこの小説をネクラーソフにすすめられて読んだ当時の有力な文芸批評家ベリンスキーからも絶賛を受ける。
これにより、ドストエフスキーは
文壇に華々しくデビュー
することになった(23歳)。
『貧しき人びと』は、翌46年1月にネクラーソフの総合誌「ペテルブルグ文集」に掲載された。
A
しかし、その後に月刊誌「祖
国雑誌」等に発表した各小説、
・中編『分身』
(46年2月に発表)
・短編『プロハルチン氏』
(46年10月に発表)
・短編『九通の手紙からなる小説』
(47年1月に発表)
は、
《暗》
社会的リアリズムから離れたその夢想性・ファンタジー性により、上記のベリンスキーを初め、批評家たちの手厳しい批評を受けて不評であった。
『貧しき人びと』の成功後、ベリンスキーには思想上の教導を受けていたが、唯物論的な彼の思想とは相容れず、作品の批判を受けたこともあり、
《明?》
やがて、ベリンスキーとは決別となる。(47年春)
《暗》
迎えられた上流社会の文芸サロン(パアナーフ家のサロンなど)も、貴族出の作家たちに小馬鹿にされたり、からかわれたりして、自尊心が強くて自意識過剰のドストエフスキーにはたいそう居心地が悪かった。
(24歳〜27歳)
※、
▲ドストエフスキー26歳
の時の肖像画
(友人のK・A・トウルスキー画)
(4)
@「ペトラシェフスキー
の会」内のサーク
ルへの参加と活動
(25歳〜27歳)、
A逮捕・投獄・特赦(銃
殺刑を免れる)
(27歳〜28歳)
@
そういった中、
氏は、気の合う文学仲間(グ
リゴローヴィチ、ベケート、
マイコフ兄弟など)との
共同生活(23歳〜25歳)を経て、
農奴制度の廃止や裁
判・出版制度の改革など
を掲げる空想的(キリスト
教的)社会主義者たちの集
まりである▲ペトラシェフス
キー主宰の「ペトラシェフス
キーの会」内のいくつかの秘
密結社のサークルに接近し、
《暗?》
彼らの勉強会・社会革
命活動に参加し始めた。
(47年2月〜)。
その間、
・フェリエトン『ペテルブルグ年代記』
(47年4月・6月に発表)
・中編『おかみさん』
(47年10月・12月に発表)
・中編『弱い心』
(48年2月に発表)
・短編『ポルズンコフ』
(48年2月に発表)
・短編『正直な泥棒』
(48年4月に発表)
・短編『ヨールカ祭りと結婚式』
(48年9月に発表)
・中編『他人の妻とベッドの下の夫』
(48年12月に発表)
・中編『白夜』
(48年12月に発表)
・長編『ネートチカ・ネズワーノワ』
(49年1月・2月・5月に発表)
を、「祖国雑誌」等に発表している。
A
ところが、
それらの急進的サーク
ルに関わっていたかどで、
《暗》
49年4月23日に会員全
員とともに突如逮捕され(27歳)、
《暗》
▲ペテロ・パヴロフスク要塞
の8ヶ月間に渡る投獄を経て、
(その獄中で、
・中編『小英雄』
を執筆している。)
《大暗》
予告なしに▲銃殺刑の宣告
を受け、セミョーノフスキー
練兵場で銃殺刑の直前ま
でいった時、
《大明》
皇帝の特赦の勅命が処刑場
に到着して、直前で銃殺刑を
免れた(12月22日、28歳)。
※、
ペトラシェフスキーの会の活動
やメンバー、逮捕後の取り調
べや軍法会議での判決、 銃
殺刑前後のことについ
ての資料や情報は、
・『ドストエフスキーとペト
ラシェフスキー事件』
(原卓也・小泉猛共編訳。
1971年集英社初版。)
・『ドストエフスキー裁判』
(N・F・ベリチコフ編・中村
健之介編訳。北海道大学
図書刊行会1993年初
版。現在市販中。)
に詳しい。
※、
銃殺刑直前の様子や
その時の心境は、
小説『白痴』の第1編
の第5(新潮文庫では、
上巻のp108〜p111)
で、主人公のムイシュ
キン公爵の口を借り
て詳細に語られている。
(5)
@シベリアの地オムスク
での監獄・囚役生活
(28歳〜32歳)、
Aセミパラチンスク
での服役生活
(32歳〜37歳)、
B人妻マリヤとの恋愛、
(32歳〜)、
マリヤとの結婚生活
(35歳〜)、
Cペテルブルグへの帰還を
果たし、作家活動を再開
(38歳〜)
@
その特赦後、ただちに、
《大暗》
シベリア流刑送りの身となり、冬季の一ヶ月に渡る苛酷な護送ののち、
《大暗?》
四年余りに渡って、
▲シベリアの地オムスクの収容所で、
囚人たちと、劣悪な環境のもと、過酷な囚役の監獄共同生活を送った。
(28歳〜32歳)
常時足かせを付けられた囚人たちとの共同の監獄・囚役生活の間、
《大暗?》
表向きは、読み書きや外部との手紙のやりとりは一切許されなかった。
《明》
護送中にデカプリスの妻たちから贈られた聖書が、流刑中の唯一の座右の本となった。
《暗》
監獄内の囚人達との共同の衣食住(特に寝床)の生活は劣悪であったが、
《明》
日々の規則的な生活と屋外での肉体労働は、氏に体力づけとそれまでの心の病の治癒を、ある程度もたらした。
※、
流刑中の囚人たちとの共同生活のことについては、 小説『死の家の記録』(新潮文庫)や出獄後に兄ミハイルに宛てた手紙(54年2月22日付けの手紙)に詳しい。
A
《暗》
その後、5年余り、オムスクよりさらに東南の辺境の地セミパラチンスクで、一兵卒としてシベ リア国境警備の軍職に服役した(32歳〜37歳)。
この時期には、
《明》
自分の部屋が与えられて読書や執筆をする自由や時間はあった。
その間、軍務免除とペテルブルグへの帰還の嘆願書を繰り返し提出している。
B
セミパラチンスクでの服役中、
《明》
人妻マリヤと恋愛に陥り(32歳〜)、
《明》
アル中の小役人だった夫イサーエフが亡くなった後に結婚(35歳)。
《明》
町に地方検事として赴任してきたブランゲリ男爵との親交もあった(33歳〜)。
※、
この時期のドストエフスキーの様子は、ヴランゲリ男爵がのちにまとめた回想記に詳しい。
[『ドストエフスキー同時代人の回想』(水野忠夫訳・河出書房1966年刊)に所収。]
C
《大明》
59年、退役が許されてセミパラチンスクでの服役が終了し、トヴェーリ(ペテルブルグの南西、モスクワの北にある町。今のトヴェリ市(旧カリーニン市)。)に移る(3月)。
剥奪(はくだつ)されていた諸権利を回復し、ペテルブルグに住むことも許され、足かけ10年ぶりにペテルブルグに帰還し、世間での作家活動への復帰を果たした。
(12月)(38歳)
《明》
この年59年の3月、11月・12月に、喜劇ふうの
・長編『伯父様の夢』
・長編『スチェパンチ
コヴォ村とその住人』
を雑誌「ロシアの言葉」「祖国雑誌」に発表して文壇に返り咲いた。
続いて、60年・61年に
《明》
・シベリア流刑体験記の
長編『死の家の記録』
・長編『虐げられた人びと』
を新聞「ロシアの世界」や自分たちが編集の雑誌「時代」に連載した。
(6)
@妻マリヤの死、
(42歳)、
兄ミハイルの死
(42歳)、
A三度の欧州旅行
(40歳・41歳・43歳)、
『地下室の手記』の発表
(42歳)、
アポリナーリヤ・スー
スロワとの愛人関係
(41歳〜44歳)、
B若い口述筆記者アンナ
と再婚しアンナは生涯
のよき伴侶となる
(45歳〜)、
『罪と罰』が発表され
で世界的名声を得る
(45歳)、
もうけた子供達のこと
@
最初の妻▲マリヤとの夫婦関係は、
《暗》
結婚直後の氏の癲癇(てんかん)発作や、肺の病を得た彼女のヒステリー性の性格などのために、まもなく冷めてしまい、彼女は、長期の転地療養もむなしく、
《暗》
肺病を悪化させて、氏の看病の中、病没(64年4月)(42歳)。
その三ヶ月後には、
《暗》
よき相談相手であった最愛の兄ミハイルが病気で亡くなり、兄の莫大な借財や彼の遺族の扶養を引き受けるなど、
《大暗》
64年(42歳)はドストエフスキーにとってまさに厄年と言える年だった。
A
妻マリヤの療養の間、
2回の欧州旅行(40歳、41歳)での西欧文明の体験(幻滅体験)の影響をもとに、作風の転換作とみなされる、
・中編『地下室の手記』
を発表(64年3・4月)。
その間、
《明?》
新進の若い女性▲アポリナーリヤ・スースロワとの愛憎のからんだ愛人関係もあったが(41歳〜44歳)、
スースロワとの欧州での密会体験などにもとづき、66年10月に
・中編『賭博者』
を発表している。
ドストエフスキーはこの時期、以下のように、欧州へ3度、旅行している。
1度目の欧州旅行
(62年6月〜9月)(40歳)
は、社会復帰してから三年目の40歳の時、単身でパリ・ロンドン・ジュネーブ・フィレンチェ・ローマなどに3ヶ月足らず旅行・滞在。ロンドンでは、ゲルチェンに会い、万国博を見て回った。
その翌年の2月に欧州見聞記である、
・『冬に記す夏の印象』
を自分たちが編集の雑誌「時代」に発表した。
2度目の欧州旅行
(63年8月〜10月)(41歳)
は、この年から肺病が重くなった妻マリヤ(最初の妻)をウラジミールに転地療養させていた氏は、愛人スースロワとともに2ヶ月間、パリ・ローマなどで過ごす。 先発していたスースロワを追ってパリに向かう途中のヴィスバーデンで賭博場で一時5000フランを儲(もう)け、この時以来、ルーレット熱にとらえられる。
3度目の欧州旅行
(65年7月〜10月)(43歳)
は、妻マリヤが氏の懸命の看病もむなしくモスクワで病没した年の翌年の65年7月から3ヶ月余り、再び、ヴィスバーデン、コペンハーゲンなどで、スースロワとの恋愛やルーレットに熱中。賭博にふけって一文なしになった宿先で、『罪と罰』を起稿。コペンハーゲンから旅船で帰国。
B
《明》
中編『賭博者』の原稿締切期限に間に合わせるために、口述筆記者▲アンナ(25才も年下)を雇い、『賭博者』を25日間で完成させた(66年10月)。
その後、氏の小説の執筆形式は深夜に書斎で練った構想や本文の部分下書きを記した「創作ノート」 に基づいて、彼女と協力しての口述筆記となる。
てんかん発作に見舞われる時期は記憶が一時失われることが多いので、氏は、 創作の維持のためにも、構想や思いつきをノートにメモすることを日頃から心がけていた。
《大明》
66年1月から雑誌「ロシア報知」に
・長編『罪と罰』
の連載が始まったが、その末部(第6部の7節以降の分)は、アンナとの口述筆記の助けを借りて創作され、連載は12月に完結し、かなりの成功をおさめた(45歳)。
《大明》
その口述筆記者アンナを見そめて、『罪と罰』の連載終了の翌年2月に
彼女と結婚(再婚)(45歳)。
結婚後10日にして早くも、
《暗》
アンナも夫の癲癇発作を目(ま)の当たりにすることになるが、
《大明》
彼女は、かしこい寛容な良妻として、氏の生涯の終わりまで氏に忍耐強く仕えた。
《暗》
氏の最初の妻マリヤには、パーヴェルという連れ子(男の子)があり、氏はその出来の悪い連れ子に生涯手を焼いている。
《暗》
最初の妻マリヤとの間には子供はできなかった。
一方、
《明》
氏の二番目の妻アンナの間には四人の子供をもうけたが、
《大暗》
そのうちの二人を、その幼少期に失っている(46歳、56歳)。
子煩悩(こぼんのう)であっただけに、子を失った氏の悲しみは、悲痛を極めた。
《明》
氏は、結局、生涯に一男一女(長男フョードル・次女リュボフィ)を残した。
※、
妻マリヤ・妻アンナ・愛人スースロワとのことは、
『ドストエーフスキイ
の三つの恋』
(スローニム著、
池田健太郎訳。
角川書店1959年初版。)
『ドストエフスキー伝』
(アンリ・トロワイヤ著、
村上香住子訳。中央
公論社1982年刊・中央
文庫1988年刊。)
『ドストエフスキーの
恋人スースロワの日記』
(ドリーニン編・解説、中村
之介訳・解説。みすず書
房1989年初版。)
に詳しい。
(7)
@生涯にわたる浪
費癖と借金生活、
賭博への熱中
(41歳〜49歳)
A妻アンナとの欧州滞在
(45歳〜49歳)、
『白痴』『悪霊』の執筆
(47歳〜51歳)、
長女ソフィアの死
(46歳)、
@
金銭管理の無頓着さや浪費癖などにより、
《明》
経済状況が比較的安定した晩年の時期を除いて、
《暗?》
生涯、債鬼に追い回される。
氏の有名な賭博癖(41歳〜49歳)は、
《暗?》
この欧州での放浪生活中にさらに嵩(こう)じることになる。
欧州滞在中、ハンブルグ、バーテンバーデン、ヴィスバーデンなどにある賭博場に通っている。
だが、
《明?》
氏の賭博癖は、欧州からの帰国後には、期するところがあったのか、なんと、ぴしゃりと止(や)んでしまった(49歳)。
A
アンナとの結婚の二ヶ月後より、債権者や夫側の係累(亡き兄ミハイルの未亡人や先妻の連れ子など)をのがれて、
《明?》
妻アンナを伴い四年二ヶ月余りにわたって欧州で滞在・放浪生活を送った
(45歳〜49歳)。
67年4月にペテルブルクを出発し、順に、
・ドイツのベルリン、ドレス
デン、バーデンバーデン、
・スイスのジュネーヴ、
・イタリアのミラノ、フィ
レンチェ、ヴェニス、
さらに、
・オーストリアのウィーン、
・チェコのプラハ
などに滞在し、
再び、
・ドイツのドレスデン
を経由して、
71年7月にペテルブ
ルクに帰還。
この欧州での滞在・放浪生活の間に、
・長編『白痴』
を「ロシア報知」に連載・完成し、
(68年1月〜69年2月)
・中編『永遠の夫』
を「黎明」に発表し、
(70年1月・2月)
・長編『悪霊』
が「ロシア報知」に連載された。
(71年1月〜)
欧州放浪の一年目、
《大暗》
初めて得たわが子である長女ソフィアが生後三ヶ月目にして肺炎で死亡(46歳)。
この欧州滞在生活は、妻の母から送られてくる送金やロシアの出版社から送られてくる前払いの稿料によってかろうじて支えられていたが、賭博への出費などで、食事代にこと欠く日々もあった。
※、
欧州滞在中の生活のことは、
・『アンナの日記』
(木下豊房訳。河出書
房新社1979年刊。)
・『回想のドストエフスキー』
(アンナ著・松下裕訳、筑摩
書房1973・1974年初版。)
に詳しい。
(8)
@ジャーナリストとしての個人
雑誌の出版や言論活動
(40歳〜43歳、
51歳〜52歳)、
A『作家の日記』の発行
(55歳〜59歳)
@
氏には雑誌の編集者・ジャーナリストとしての才もあり、
後半生は、
《明?》
文学・政治評論雑誌である、
・「時代(ヴェレーミャ)」
(兄ミハイルとの共同編集。同雑誌の社会評論部の主幹であったストラーホフとはこの後、終生、氏の良き友及び思想形成の良き議論相手となった。)
・「世紀(エホーパ)」
(兄ミハイルとの共同編集。)
・「市民」
(メシチェルスキー公爵が刊行していた保守派週刊誌。1年4ヶ月ほど編集長を任せられる。)
の編集にも従事し、
(40歳〜43歳、51歳〜52歳)
A
晩年は、
《明?》
月刊の個人雑誌である、
・「作家の日記」
を中心に、時事問題・社会問題への発言も活発に展開した
(55歳〜59歳)。
氏には、当時のロシアの対外戦争(露土戦争)をめぐって、戦争の役割・価値を語り、大義ある戦い、聖戦として、戦争を称揚し賛美する発言あり。
※、
ドストエフスキーの対外戦争に関する独自の見方や考えは、
『作家の日記』77年4月号の中の、
・章「戦争はかならずしも災厄ではなく、ときには救いでもある。」
・章 「流された血は救ってくれるか?」
での発言に見ることができる。
(ちくま学芸文庫の「作家の日記(巻4)」のp278〜p291。)
著作として、
上記の雑誌「時代」に、
・評論『ロシア文学論』
(61年1月)
・フェリエトン『ペテルブルクの夢』
(61年1月)
・中編『いやな話』
(62年12月)
・欧州見聞記『冬に記す夏の印象』
(63年2月)
上記の雑誌「世紀」に、
・中編『鰐』
(65年3月)
を発表している。
(39歳〜43歳)
月刊個人雑誌の「作家の日記」には、短編小説・中編小説として、
・『ボボーク』(73年)
・『キリストのヨルカに召さ
れし少年』(76年1月)
・『百姓マレイ』(76年2月)
・『百歳の老婆』(76年3月)
・『宣告』(76年10月)
・『おとなしい女』(76年11月)
・『おかしな人間の夢』(77年4月)
・『現代生活から取った暴露小
説のプラン』(77年5月)
が掲載された。
(51歳、54歳〜55歳)
(9)
@スターラヤ・ルッサでの親
子水入らずの家庭生活、
『未成年』の連載
(54歳)、
『カラマーゾフの兄弟』
の連載
(58歳〜59歳)、
A療養で夏季にドイツの
エムスに滞在
(52歳、53歳、
54歳、58歳)、
次男アレクセイの急死
(56歳)
B中央社交界への出入り、
プーシキン講演の栄光
(59歳)
@
《明》
連載の一年間の中断があったものの小説『悪霊』の連載が再開されて72年12月に完結した後は、収入も生活も安定し、73年の春にテルブルグの南にある、
▲スターラヤ・ルッサ
に別荘を設けて、避暑の時期には、ペテルブルグのアパートを離れて、その地で過ごした。
《明》
親子水入らずのその幸せな家庭生活の中で、
・『未成年』
・『カラマーゾフの兄弟』
の創作
・個人雑誌「作家の日記」
の執筆
などの創作・執筆の生活を送った。
A
氏は、晩年、医者のすすめで、肺の病(主に咳止め)の療養のために、
74年6月〜8月、
75年5月〜7月、
76年7月〜8月、
79年7月〜9月、
の計四回、夏季に家族から離れて、一人でドイツの保養地(鉱泉地)である▲エムスに滞在した。
(52歳、53歳、54歳、58歳)
滞在中は、医師の指示に従ったプログラムのもと、ホテルに宿泊して知り合いもおらず単調な生活を送った。
74年の滞在の折には、
・「エムスでの療養日誌」
を書き残した(52歳)。
その間、
《大暗》
次男アレクセイが、三歳にして(遺伝と思われる)てんかん発作を起こして急死
という大きな悲しみもあった(56歳)。
B
氏は、晩年は、中央の社交界にも頻繁に出入りし、文学の夕べなどで、しばしば自作の作品の朗読を行い、聴く人たちを魅了していたが、
《大明》
80年6月のモスクワの
プーシキン記念祭では、
「プーシキン講演」
を行い、熱狂的な喝采を受ける(59歳)。
このプーシキン講演で、氏は、プーシキンの文学の予言的優秀性を取り上げつつ、ロシア人の全人類的なすぐれた資質とその使命たるべき世界的同胞愛の実践を壇上で演説し、聴衆に熱狂と感動の嵐をひき起こした。
※
この「プーシキン講演」の草稿は、
・『作家の日記』
(ちくま学芸文庫の『作家
の日記』では、
巻6のp31〜p67。)
に収められている。
(10)
@『カラマーゾフの兄弟』
の完成
(59歳・80年11月)、
A持病の肺気腫の悪化に
よって自宅で肺が出血
を起こし、そのまま病床
に就き、三日後に逝去
(59歳・81年1月
の25日〜28日)、
盛大な葬儀
(59歳・81年2月1日)
@
プーシキン講演を行なっ
た5ヶ月後の80年11月に、
「ロシア報知」に
『カラマーゾフの兄弟』
の終章が発表されて、
《大明》
・大作『カラマーゾフの兄弟』
のいちおうの完成を見た。
《明》
翌年の81年1月には
・『作家の日記』の新シリーズ
の発行再開に取り組み、
さらに、
『カラマーゾフの兄弟』の続編
の執筆にも大いに
意欲を表明していた。
A
《暗》
氏は晩年、しだいに悪
化していく肺気腫の病
に悩まされていたが、
《暗》
『作家の日記』の新シリー
ズ第1号の原稿を印刷
所に届けた81年1月25日
に、自宅で自分で家具を
動かした際に突如、肺
動脈破裂によって
肺から出血し、失神を
引き起こし、そのまま
病の床に伏した。
病床では聖書占いをし
て自身の死が間近であ
る予感を述べている。
病床に就いた日から三日
目の1月28日の夜の
20時38分に、
《明》
妻子や知人に
看取られながら、
《暗》
ペテルブルグの自宅の
書斎のベッドで息を引
き取った(59歳)。
※、
▲死の床のドストエフスキー
▲ドストエフスキーのデスマスク
※、
▲晩年に住んだアパート
氏の葬儀は、まれに
みる盛大さで行われた。
2月1日、自宅から出
棺し、埋葬地の
▲アレクサンドル・ネーフス
ー修道院に向かう道々、
《明》
学生や乞食たちも含めた約
三万人の人々が沿道に押し
寄せ、棺のあとに従った。
※、
アレクサンドル・ネー
フスキー修道院にあ
る▲ドストエフスキーの墓。
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