ドストエフスキーの
重要な事跡
(更新:24/08/09)
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ドストエフスキーの生涯には、興味深い事跡が数多くあるが、重要だと思う事跡を、挙げてみた。(投稿ボードへ投稿したぶんです。)


これまで、以下のを投稿。



17歳の時に父ミハイルが領地の農奴の怨みを買って殺されて亡くなったこと。

この父横死の知らせは、モスクワを離れてペテルブルグの陸軍中央工兵学校に入学して2年目だったドストエフスキーに、かなりの衝撃を与えたが、彼を監視し束 縛し、彼が将来進む道も決めていた父がいなくなり、彼が強く希望していた作家になることを、妨げられることなく、その後選ぶことが出来たという点で、ドス トエフスキーの生涯において注目すべき出来事であると思う。自分が作家になることをゆるさない父の死を心の奥底でひそかに願っていたことに気付いていたド ストエフスキーは、そのことに、その後ずっと、罪意識を持ち続けた。このことは、晩年、『カラマーゾフの兄弟』においてイヴァンのこととして取り上げられ ることになる。



27歳の時、「ペトラシェフスキーの会」内のサークルへ参加し活動していたかどで、捕らえられ、予告無しに銃殺刑を言い渡され、処刑の直前に皇帝の特赦の知らせが来て、銃殺による死を免れたこと。

この銃殺刑未遂の体験は、小説『白痴』でも語られている。死を間近に控えた氏の精神状況には興味は尽きないが、一方で、まさに起死回生となった特赦の時の氏の歓喜・安堵の方にも注目したい。これにより、氏は、儲(もう)けものとなった生をその後は本当に大切にしようと思ったに違いない。しかし、このあと、自由を奪われる強制の生活を強いられるシベリア流刑となったことは皮肉と言う他は無い。



45歳の時に、小説『賭博者』を口述筆記によって完成させるために雇ったことで、若い口述筆記者アンナと出会い、彼女を見初(みそ)めて、その後 再婚し、ドストエフスキーは、その後晩年まで、創作の過程の面でも、幸せな私生活の面でも、彼女に大いに支えられたこと。

ドストエフスキーは、銃殺刑を免れた当日に出した兄ミハイル宛の手紙に、「人の一生は――贈物です、人生は――幸福です。」と記しているが、上の二つ目のことと、この三つ目のことは、まさに、この言葉が特に当てはまるのではないだろうか。



28歳の時、シベリア送りの身となり、4年余り、シベリアの地オムスクで囚人たちと監獄・囚役生活を送ったこと。

囚人たちと過ごす監獄内の衣食住の生活環境は劣悪なものだったが、日々の規則的な生活と屋外での肉体労働は、氏に体力づけとそれまでの心の病の治癒を、ある程度もたらしたようだ。表向きは、読み書きや外部との手紙のやりとりは一切許されなかったが、護送中にデカプリスの妻たちから贈られた聖書が流刑中の唯一の座右の本となり、聖書の熟読が行われた。不自由な監獄生活の中、氏は、自身の内で、これまでのことを反省し、自分の将来のことを展望し計画し、いろいろと思索・塾考を行なったに違いない。

そういった悪くはない面もあったが、やはり不自由で難儀な囚役生活に氏がよく耐えて(オムスクに着くまでの護送の間も冬期のシベリアの凍り付く寒さで大変だったと思う)、無事に刑期を終えて、その後、セミパラチンスクでの5年余りの服役を経て、ペテルブルグに帰還し、世間での作家活動への復帰を果たしたことは、立派だった。将来世界の作家になるという志と希望が氏を支えたのだと思う。

氏はその体験を記録小説『死の家の記録』に見事に結実させたが、4年余りの囚人たちとの生活は、後の小説に登場してくる登場人物のモデルや内容・題材(囚人達が語る話もストックしただろう)になったという点でも、意義がある。



最晩年に、長編小説『カラマーゾフの兄弟』が完成し、「ロシア報知」への連載を無事終えて、広く読まれ、好評を受けたこと。

現『カラマーゾフの兄弟』は、予定されていたその続編について種々の議論はあるが、氏の文学・思想・登場人物造形の最終の集大成であり、見事、完成させて、氏は、この作品の完成で己れの生涯の本懐を遂げたと言える。

身近なカラマーゾフ家の家長殺害事件のことを描きながら、そこに、氏が生涯において追及した様々な重要なテーマが盛り込まれていることは、見事と言うほかない。この小説で作者は人類を救おうとしたに違いないと、作家の武者小路実篤氏は語ったが、未来に向けて氏がこの大作に込めたいくつかの大事なメッセージを、私たちは、心して読み取って役立てていく必要がある。



流刑・服役を終えてペテルブルクに帰還してから三年後の40歳の時の626月〜9月に初めて欧州旅行を行い、その体験により欧州社会に幻滅することになったこと。

単身でパリ・ロンドン・ジュネーブ・フィレンチェなどに3ヶ月足らず旅行・滞在したが、カトリック教会が支配し科学技術文明が進展していた欧州社会に対しては、それまでの憧れから、幻滅・批判へと変わってしまったと言える。

特にロンドンでは万国博を見て回り、科学技術の文明の進展ぶりを目()のあたりにして文明社会の将来に危惧を抱いたようだ。

その翌年の2月にこの欧州滞在の見聞記である『冬に記す夏の印象』を発表していて、ドストエフスキーが欧州滞在において感じたこと・思ったことをいろいろと読み取ることができる。さらに、二度目の欧州旅行(638月〜10)の翌年に発表した小説『地下室の手記』には文明社会への痛烈な批判や警鐘が述べられている。



『罪と罰』の制作から、小説の制作は、妻となるアンナ夫人の協力のもと、彼女との二人三脚で行われるようになったこと。

深夜の内容練り・下書き、翌日の彼女との口述筆記、文章起こし・推敲・清書等のその創作の過程・行い方は、娘エーメの見聞を中心に、ページ内のこちらに、まとめています。
(
ロシア制作のドストエフスキーの生涯を描いたドラマ「ドストエフスキー」では、アパート住まいの一部屋でソファーに腰をすえて夫婦で口述筆記を行うシーンが出てきます。こちら38:20〜など。)

思うに、
まず、日々、口述して速記で筆記してもらい、普通の文章に起こしてもらい、推敲を加えたのちに、清書してもらったことは、創作の過程の時間や労力の軽減になったこと、定期的に長編を制作し発表できるようになったことは確かだろう。

人に邪魔されずに集中して内容を練()ることができるように一人になれる静かな深夜に創作したのであろうが、机上に2本の蝋燭を灯して行うこの深夜の時間帯の書斎の場の雰囲気は彼の小説の内容に微妙な影響を与えているだろうし、明け方近くまで起きている夜型の生活は彼の身体の健康にとって好ましくなかったに違いないだろう。

翌日の昼間に愛する妻に向けて口述するという形式も、登場人物の語りは各々の登場人物に乗り移ったような熱い語りになっただろうし、ドストエフスキーの語りの上手さが充分生かされたに違いない。

アンナ夫人は、『白痴』の制作の際など、夫の小説の展開を聞きながら、気付きやアドバイスを述べるなど、口を挟(はさ)んだこともあったらしい。そうなると、夫人は作品の内容にまでも関わったと言えるだろう。

以上の点をはじめ、小説の創作のこの形式・パターンが、彼の創作する小説や彼自身にどういった影響を与えたのか、あらためていろいろと検討してみたい。


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