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 ドストエフスキーの
 身体的特徴
 
 〇身長
 背はふつうよりも、低い。
 169cm〔28歳時〕。
 ※見た人によって、
 「やや低くて小柄な感じだった」
 「中背」
 「普通よりも、やや高い」
 などの印象の証言
 も、いくつかあり。
 
 
 〇体格
 体格はよく、頑丈。
 肩幅が広く、胸は厚い。
 
 
 〇風采
 「見たところ、たいへん風采(ふうさい)があがらず、小さくて、また醜男(ぶおとこ)でしたが、―以下略―」
 〔晩年のドストエフスキーの「プーシキン講演」を会場内で聴いた一婦人の言。〕
 
 
 〇顔色
 ・病的に蒼白(あおじろ)い。白っぽい。顔の皮膚は弱々しそうで、蒼白い蝋(ろう)のよう。
 ・そばかすだらけの顔〔30代前半〕。
 ・右の頬には、世間によくある種類の疣(いぼ)がついている。
 
 
 〇頭部の形
 大きな頭の形は、古代ギリシャの哲学者ソクラテスのそれに似ていると自他ともに認めていた。
 
 
 〇頭髪
 ・明るい亜麻色(淡い亜麻色。ブロンド色。)。
 ・うすくなっているとはいえ、白髪が一本もない、やわらかそうな細い髪の毛〔52歳〕。真っ直ぐな髪の毛。
 ・こってりとポマードが塗られ、入念に撫(な)でつけられていた。
 
 
 〇額
 縦に垂直に広く、額の上部は突き出て(盛り上がって)いる。皺(しわ)と突起で、でこぼこしている。
 
 
 〇目
 ・灰色(明るい灰色がかっ
 た目。薄色。灰色がかっ
 た青い目。やや赤茶けていた。)。
 「両方の目の色は同じでなく、片方は茶褐色、もう一方の目(右目)はいっぱいに瞳孔が拡(ひろ)がっていて、虹彩(こうさい。=瞳のまわりにある茶褐色の膜。)がなかった」
 〔妻アンナの言〕。
 ・落ちくぼんだ小さな、
 ぎらぎら光る(輝く)両眼。
 
 
 〇鼻
 普通(やや低い)。
 
 
 〇唇
 薄い唇はいつもしっ
 かりと結ばれている。
 
 
 〇耳
 彼は大きな耳を持っている。
 高く厚く、鼻よりも長
 耳である。
 
 
 〇(その他)
 
 ・ちぢれた、まばらな亜麻色の(赤茶けた)長い顎髭(あごひげ)・口髭(くちひげ)。
 
 ・額の左の眉毛の上に小さな傷痕あり。
 
 ・こめかみは鉄槌(てっつい)で叩いたように、くぼんでいる。
 
 ・手のひらや足なども目立って大きかった。
 
 ・身体はいつも真っ直ぐに伸ばしていた〔妻アンナの言〕。
 
 ・服装については、いつも清潔にしていて、センスよく着こなしていた。
 
 ・視力については、氏は、近視だったが〔氏が45歳の時の妻アンナの言〕、
 残されている氏の数多くの写真や肖像からわかるように、氏は、眼鏡は常時はかけておらず、書斎で細かい文字などを読む際などに、眼鏡を使用した。ドストエフスキー文学記念博物館に展示されている遺品の中には、氏が愛用した眼鏡が見られる。
 
 
 ※、以上は、ドストエフスキーと対面した同時代人が書き残した記述、などによる。
 
 
 
  
 
 ドストエフスキーの
 人となり(人物像・性格など)
 
 私の気付きも含めて、諸家が指摘するドストエフスキーの人となりについて、以下、(1)〜(12)を挙げた。
 
 
 (1).
 氏は、躁・鬱(そう・うつ)や「てんかん」の持病などによる、「明・暗」の気分の変化が激しい人だった。
 「明」の気分の時は、明るくやわらかな気分になり、誰にでもやさしくなって「全人類を抱きしめたい」という欲求がわいてくるのだが、「暗」の気分になると、なにもかもが不快で、陰鬱でとげとげしい気分になり、楽しそうな人を見るとわざわざ毒のあることを言いたくなる、といったふうで、その結果、罪悪感や時に自殺衝動にも襲われるといった、ままならぬ「気分の分裂交替」に悩まされた。
 [以上は、中村健之介著『ドストエフスキーのおもしろさ』p80〜p81より。]
 
 
 (2).
 氏は几帳面で清潔好きであった。服や身の回りの物は、いつも、こぎれいにし、整理整頓されていた。
 自宅にいる時も正装していて、シャツの襟(えり)と袖口(そでぐち)は、つねに雪のように真っ白だった。
 兄の没後に兄の負債の多くを引き受けた時や週刊新聞『市民』の編集長を一年間担当した時などは、与えられた仕事や責務は、責任を持って細かく几帳面にやり抜く人間だった。
 一方で、
 賭博や恋愛や思索の場合など、物事にいったん熱中したとなると、徹底的に行ない、限度を越え極端までいかなければ止(や)まないような面もあった。
 
 
 (3).
 氏は、自意識過剰の気味があり、青年期を中心に、社交の場や知らぬ人の対面においては、意識し過ぎ緊張し過ぎで、しばしば態度や言動がぎこちなく、抑制がきかなくて失笑を買う振る舞いや挙動も多かった。
 自尊心・うぬぼれの強い氏は、自分や自分の作品が、他人からどう思われ、どう批評されているか、を常にたいそう気にしていた。
 自分は人から嫉妬されているのではないか馬鹿にされているのではないか、といった被害妄想意識も強かった。
 
 
 (4).
 ドストエフスキーは日頃笑うということがほとんどなかった、とする小沼文彦氏の指摘もあるが、親しい身内の間では、彼は、くつろいでいることが多く、しゃれや冗談を言ったり、茶目っ気もあった。
 大の子供好きであり、幼児のあやしもうまく、子供や若い女学生から、不思議と好かれた。
 
 
 (5).
 氏は、謙虚で寛容な人間でありながら、一方で、猜疑(さいぎ)心や嫉妬心が強かった。
 社交の席で、妻アンナが他の紳士と談笑しているのを見たとなると、氏は、嫉妬(猜疑)の心に苦しめられた。(これは、氏が自分の妻子をたいそう愛していたことの裏返しとも言える。)
 また、他人から一度受けた侮辱を氏は長く忘れず、ツルゲーネフとの場合のように、機会を見つけて、のちに執念深くその仕返しをしている。
 
 
 (6).
 氏は、お人好しで、友人の言葉を信じ、頼まれた依頼は断りきれず多くを受け入れ、困っている人には、惜しみなく施しや親切を提供する世話好きで人情家であった。
 女性には甘いフェミニスト・女性崇拝の傾向もあった。
 氏は学生時代から浪費癖があって借金につねに追い回されていたことは知られているが、父や兄の死後、氏が多くの養うべき親族かかえて、彼らの無心に対して、氏は、断りきれず、金品を提供した、ということも、一原因だったようである。
 個人雑誌を刊行している間、老若男女の購読者から送られてきた手紙には、すべてきちんと返事を書き、彼らの身の上相談にもいろいろと親切にのってあげている。
 
 
 (7).
 氏は、自分の志を許さない環境にありながら、やがて来る解放をめざして黙々と実力をたくわえる、そういう努力家の面があった。
 それと同時に、氏は少年時、両親から「フェージャは火の玉だ」といわれていたが、一度(ひとたび)こうしようと決めると実行するときは、無謀と見えるほどいさぎよく大胆にその道へ踏み出して迷いを見せない。後に何度か人生の窮地の立たされたときも、氏の、この堅実な努力家であり、かつ、大胆な行動家の面がはっきりあらわれる。
 (以上は、中村健之介氏の指摘。)
 氏は、「猫の活力」と自ら称する、ずば抜けた肉体的活力や精神力を持っていて、逆境に強く、逆境の中でこそ逆に、氏は、希望を燃えたたせ、底力を見せて、自己の真価を発揮している、という面がある。
 『罪と罰』『白痴』『悪霊』に見られる、ドストエフスキー的と言える「小説の創作力」は、頻繁なるてんかん発作に苦しめられながら、放浪・窮迫の中で、集中され発揮されている。
 
 
 (8).
 氏は、管理統制・画一化された中で、予定されたり定められたりして変更がないということ、あるいは、二二が四のようにそれ以外ではないということには、我慢がならない体質だった。
 (以上は、中村健之介氏の指摘。)
 また、氏は、一方の極に安易にすぐに行きついたりすることをあえて敬遠しようとした。作中にもしばしば現れる通り、幸福恐怖症の傾向があった。
 そういう点で、氏は、つねに、物事を、理性や合理主義で裁断することを好まず、物事を、その内なる矛盾・対立のまま捉え、自己のうちの二重性をあえて引き受けて、その板挟(いたばさ)みに常時苦悩し引き裂かれつつも、結果として、この世界や人間のうちの善悪の深淵をうかがい、善への憧憬を失わず、この世の物事を豊かに見、自己の内面を豊かに深めていった人だと言える。
 
 
 (9).
 氏は、自分の過去の罪ある行為に対する罪意識が人一倍強く、それらに対する罪意識に長く苦しんだ。
 が、一方で、普通の人なら胸にしまいこんでおく自己の過去の罪ある行為を、知人に臆面(おくめん)もなくあっけらかんに話してまわる性癖(せいへき)もあった。一種の露出症があったとする指摘もある。氏は、人に、好んで自分の過去の身の上話をした。
 苦悩・苦痛の価値も認めるなど、氏には自虐的なマゾヒズムの傾向があったと言える。
 氏は、苦悩を自ら求めるというロシア人の才能を踏まえて、犯した罪やエゴイズムに陥ってしまう罪は、当人のその後の苦悩を通して、相殺され・浄化される、また、幸福は苦悩を通して獲得される、という考えを持っていたようである。
 
 
 (10).
 氏は、「思考・哲学」型の作家(人間)というよりは、むしろ「気分・感覚」型の作家(人間)だった。
 (以上は、中村健之介氏の指摘。)
 ※、この中村氏の指摘には私は全面的には賛同しかねますが、やはり、ドストエフスキーの一面として、大事な指摘だとは思う。
 
 
 (11).
 氏は、夢想家の傾向があった。特に孤独で自閉的な生活が続いた氏の青少年期は、幼少期に聞かされた聖書の話・古今東西の小説の読書・青年期の空想的社会主義の友愛の思想などの影響のもと、一人、夢想にふける傾向が強かった。
 氏の小説からうかがえる氏の心の限りないやさしさや、人間間(かん)における友愛・ゆるしの思想は、氏の先天的な資質のほかに、氏のそういった夢想にふける傾向からも醸成(じょうせい)されてきた、とも言えるのではないかと思う。
 
 
 (12).
 「ドストエフスキーについて人々が言っている特徴のなかで癲癇(てんかん)性格に合致しないものを探すのがむずかしいくらい、ドストエフスキーは典型的な癲癇性格者なのである。」
 〔精神科医でもあった作家加賀乙彦の言葉〕
 
 
 
 
  
 
 ドストエフスキーの
 好み・趣味・特技
 
 (1).
 氏は、自分の見た夢の「夢判断」や、聖書を適当に開いて行う「聖書占い」を好んだ。
 創作の合間や精神的に不安定な時などには、「ピラミッド(トランプの一人遊びの一つ)」に熱中した。
 
 
 (2).
 氏は、飲酒は好んだが、酔いつぶれるほどの大酒は、生涯、差し控えていた。
 氏は朝食持に、健康によいとみなして、黒パンをかじりつつ、ウォートカ(小麦を発酵させて作った自家製ウォッカ)を少し口に含んで飲む習慣があった。妻アンナの証言では、氏は晩酌でもウォートカをグラスに一杯ずつ飲んでいた。
 外国滞在中は、ブドウ酒やビールを飲むのを好んだ。
 父からの遺伝からか酒に弱くはなかったようだが、父の二の舞は踏むまいと、生涯、 飲酒に関しては度を越すことは決してなかった。
 〔以上は、箕浦達二氏の文章「ドストエフスキーと酒とタバコと」などより。〕
 
 氏は、お茶(紅茶)が大好きだった。
 
 氏は、甘い食べ物(アイスクリーム・砂糖菓子・甘い果物など)を好んだ。
 果物は、梨(グルーシャ)が大好物だった。
 書斎の抽斗(ひきだし)に果物やお菓子を常時しまっておいて、夜間の創作の合間に、
  しばしば、間食(氏には、間食の習慣があった)として、それらを食した。
 
 ヘビースモーカーでもあった。
 
 氏の創作は、深夜に行われ、欧州旅行中の宿舎や書斎での仕事中は、考えることがあると部屋の中をぐるぐる回り、さかんに濃い紅茶・濃いコーヒーを飲み、巻きタバコを吹かした。
 
 
 (3).
 氏は、音楽や絵画の鑑賞も好んだ。
 欧州滞在中は、頻繁に美術館や演奏会を見に聴きにいっている。
 氏は音楽に詳しくて、交響曲や歌劇を好み、ベートーヴェン・メンデルスゾーン・ロッシーニ・モーツァルトの曲を好んで聴いた。(ワグナーの曲は嫌いだった。)
 青年期には、音楽家が登場してくる中編の音楽小説『ネートチカ・ネズワーノワ』を書き残している。
 氏は、気分や機嫌がいい時には、好きな歌をよく口ずさんだ。
 欧州滞在中に各美術館で観た、
 ・ハンス‐ホルバイン作「イエス・キリストの屍(しかばね)」(スイスのバーゼル博物館)
 ・クロード‐ロラン作「アキスとガラテヤ」(ドイツのドレスデン美術館)
 ・ラファエロ作「システィナのマドンナ」(ドイツのドレスデン美術館)
 を初め、感銘や衝撃を受けた絵画は、氏の小説の中で、重要なテーマを示すものとして使われ、また、作中で、登場人物を、ある知られた肖像画に見立てることも行なっている。
 『悪霊』においては、ステパン氏の容姿が詩人クーコリニクの石版刷り肖像画(新潮文庫上巻のp27)に、
 『カラ兄弟』においては、スメルジャコフが画家クラムスコイ作の「瞑想する人」に、
 見立てられている(新潮文庫上巻のp239)。
 氏は、上のラファエロ作の絵「システィナのマドンナ」を、ことのほか愛し、
  知人からもらったその複製を書斎の壁に掲げて、朝な夕な、眺めるのを好んだ。
 氏は、ダンスもうまく、特にマズルカが好きで、子供たちとよく、家で元気よく上手に踊った。
 
 
 (4).
 氏は、朗読や演説がうまくて、アジテーター(扇動家)としての才能があり、しばしば「文学の夕べ」
  などの場に招待されて、自分の小説の箇所などを巧みに朗読して、聴く人を魅了した。
 晩年のモスクワでの「プーシキン記念祭」における記念講演は、神がかり的な熱の入った演説として、 聴衆を、感涙と相互の和解の渦(うず)にひきいれた。
 
 
 (5).
 氏は、むずかる赤子や子どもたちをうまくあやす才能を持っていた。
 子どもたちに不思議と好かれた。
 
 
 (6).
 欧州滞在中の氏のルーレット狂は有名だが、最初は金銭上の窮迫から一攫(いっかく)千金を目当てに カジノ通いを始めてルーレットの魔力に魅せられたことによるものだったが、一方で、氏のルーレット狂と
  氏の創作意欲とは相関関係にあったようであり、当時は、あり金全部をルーレットですってしまうまで は氏は小説が書けず、ルーレットで、あり金をはたいてしまうと、やっと何か重荷から解き放たれたように、氏は創作意欲が出てきて小説を書き始めるというあり様であった。妻アンナも、そのあたりのことを
  心得てか、夫の創作がすすまない時は、貧窮にあっても家財や衣服まで質入れして金を工面して、 夫をむしろ急(せ)かせてまでカジノに送り出すといった具合であった。このルーレット狂は、欧州からの帰国後の50歳以降には、ぴたりと止(や)んでいる。
 
 若い頃は、玉突き(ビリヤード)やカードやドミノといった賭け事にも、熱中している。
 駒ゲームとして、チェスも好んだ。
 
 
 (7).
 氏は、筆まめであり、所用でわが家の妻子から離れている間は、その行(い)った先々から、 ひまさえあれば、妻アンナや我が子にあてて、妻への変わらぬ愛や自分のさみしさを赤裸々に述べ
  妻子の様子をうかがう手紙を書いて送っている。
 知人や出版社への手紙は、金銭の無心や前借りを請(こ)うたものがやたらに多いが、
  近況や創作の構想の状況など、氏の身のまわりのことも、こまめにつづっていて、 氏の書簡は、「日記」を残すことのなかった氏の、日々の生活上の出来事や心境を報告している貴重な書になっている。
 氏の研究者の多くは、氏の書簡の上手さ(芸術的価値)を低く評価しているが、氏自身は、しばしば、自分は手紙をうまく書くことは苦手だ、と自ら告白している。
 
 
 (8).
 氏は、若い頃から、古今内外の小説の読書を中心にして、大の読書家であり、 この読書好きの傾向は、生涯引き続いた。
 また、世間の事件に対して常に関心を持ち、新聞の三面記事を丹念に読むことを日々欠かさなかった。
 
 
 (9).
 氏は、学校で受けたドイツ語・フランス語をもとに、20歳台初めまでに外国語では、ドイツ語とフランス語を習得していて、ヨーロッパの小説や著作を原書やドイツ語訳・フランス語訳で読むことができた。ただし、英語は、生涯、習得する機会を持たなかった。
 
 
 
 
  
 
 ドストエフスキーの持病
 (更新:25/10/17)
 
 (1)
 
 
 ・遺伝とみなされている「癲癇(てんかん)」の持病に生涯悩まされ、苦しんだ(25歳?〜晩年)。 
 生涯、てんかんを、四百〜五百回起こした(平均して、月に一、二回。ひどい時期には一週間に一回。)とされている。
 
 何らかの心の衝撃を受けた直後や、自分の結婚式のあとなどの幸福感につつまれている時期や夜中(睡眠中にも)に、しばしば、てんかんの発作に見舞われている。
 
 てんかんの発作の前は、気分の高揚が続き、創作も活発に行われ、てんかんの発作が始まる直前には、数秒間にわたって自己の生命(意識)が愉悦・調和あふれる浄福感に包まれるという神秘的な至高体験を氏は体験している。
 ただし、この神秘体験は、『白痴』などに描かれたものとして、ドストエフスキーの「創作」に過ぎない、と断定する医学者の研究報告もあり。
 
 一方、発作が起こると顔・叫び声ともに悲惨な様相を呈し、そのあとには朦朧(もうろう)状態、次に、 意識を失った睡眠状態に陥り、その仮死状態ともいうべき間にそのまま自分は死ぬか狂うかしてしまうのではないかという死や発狂への恐怖感に、氏は、しばしば、とらえられている。発作が起こってから数時間後に意識が戻ってからも、一週間は、頭痛や頭の混乱を初め、仕事に手がつかない憂愁で気がめいる虚脱状態が続き、温めていた小説の内容や知人の名前など、過去の記憶が一時失われるという困った状態も生じた。
 てんかんの発作によって、氏は意識を失ってドッーと倒れ、のたうちまわるので、氏の顔などには、生傷が絶えなかった。後期の大作群は、てんかん発作を恐れつつ、てんかん発作を間において、創作されている。
 
 ドストエフスキーに見られる諸性格や創作の営みは、氏のこの癲癇体質の影響が大きい、とされている。
 
 ※、
 ドストエフスキーのてんかん発作の実際については、 結婚後10日にして妻アンナが目のあたりにした夫の「てんかん」発作の様子として、
 
 ・アンナ・ドストエフスカヤ著『回想のドストエフスキー(上・下)』の第4章
 
 に詳しく記されている。
 その箇所は、加賀乙彦著『ドストエフスキー』(中央公論新書。1973年初版。市販中。)のp64〜p67で引用・解説されている。
 小説中に描かれたものとして、
 
 ・『白痴』の第2編の5の中の分(新潮文庫の上巻のp419〜p421、p435〜p436)
 ・『悪霊』の第3編の第5章の5の中の分(新潮文庫の下巻のp394〜p396)
 
 などで詳しく描写している。
 
 
 (2)
 
 ・少年期(15歳)には、咽喉(いんこう)を病み、発音不明瞭、声が出なくなるという事態を招いたこともあった。
 
 ・53歳ごろから、肺気腫(はいきしゅ)の病を得た。都市ペテルブルグの環境や煙草の吸いすぎが原因とされる。
 晩年は、喉(のど)の病に苦しめられ、 咳やぜんそくにもしばしば見舞われ、しだいに身体も衰弱し、しばしばドイツの鉱泉地エムスで療養するも、
  最期は、肺気腫の悪化による出血(肺動脈破裂)が氏の命取りになった。
 
 この病のために、調子が悪い時は、ぜいぜいと息をつきながらの、声がしわがれる話しぶりになった。(ロシアのテレビドラマでは、この話しぶりの様子が描写されている。)
 
 
 (3)
 
 ・学生時代や青年期には、自閉的な文学青年の常として、顔の肌つやが悪くて、てんかん体質からくる、しばしば見舞われる強い鬱(うつ)状態・神経過敏・妄想、不規則な生活を続けていることからくる、神経の不調や神経症(心気症)の症状があった。
 
 ※、24歳の時の氏を三ヶ月の間診察治療した医師ヤノフスキーの診断によれば、当時の氏には、 腫脹(この病はその間、治療された)、神経症からくる頭痛を伴うめまいや発作、 神経質な人によくある不規則で早い脈拍、 といった症状が見られた。
 
 ・氏は、青年期に、時に幻覚幻聴に見舞われ、それが小説に大事なヒントを与えるということもあったが、氏は晩年に至るまで長きにわたって、「opii banzoedi」という睡眠剤の常用者だったことが知られている。 この薬は、アヘンを含んでおり催幻作用も持っていた。
 〔 以上は、中村健之介著『知られざるドストエフスキー』のp207より。〕
 
 
 (4)
 
 ・氏は、青年期、妻マリヤの看護にあたった時期(42歳の冬。この時期には、てんかんの連続や膀胱炎にも苦しんだ。)
 
 ・欧州滞在中(44歳)には、坐って仕事ができないほどの痔(じ)の病気(痔による出血)にも苦しんでいる。
 
 ・甘い食べ物が好きだった影響か、『地下室の手記』にも言及があるように、生涯、歯痛にも苦 しんでいる。(ドストエフスキーは、中年期からすでに、「部分入れ歯」を使用していた。)
 
 
 
 
 
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