・by コッキン(計6作)
(更新:24/08/13)
・by 竜之介
(更新:24/08/13)
[7]
「それはおしっこですよ」
名前:コッキン
投稿日時:
09/01/06(火)
更新:24/08/13
「スメルジャコフや、用を足したくなったのでな」
フョードルは二日ばかり前から風邪をこじらせ、ベッドから起きてかわやに行くのもつらいのだった。
「はい、少々お待ちを。おや、しびんが見当たりませんが。おそらくグレゴーリーが洗い場に置いたままにしているのでしょう。ただいま取りに行ってまいります」
「いや、それでは時間がかかる。テーブルの上に空のウォートカのびんがあろう。それでかまわん」
「そうでございますか。ではどうぞ」
と言って、空きびんをフョードルにわたすと,スメルジャコフはついたての陰に退いた。
「ほれ、すんだぞ。わしはしばらく眠ることにしよう。それまで下がってていいぞ」
「かしこまりました,だんな様」
と言うと,スメルジャコフはびんを持ってフョードルの寝室を出た。
それと入れ違うように、そこにアリョーシャが入ってきた。アリョーシャは部屋に入ろうとして、そこにスメルジャコフの声がしたため、中に入るのをためらっていたのだった。
「どうですか、風邪のほうは」
「おう、アリョーシャか。まだだめだ。しばらく治りそうもないよ」
「少しお酒をひかえてみてはどうですか」
「それ以外になんの楽しみもないというのにか? ・・・ふむ、お前だけだよ、わしにそんな忠告をしてくれるのは。ところでわしはあれを外に出してやろうかと思うんだ」
「誰をですか」
「スメルジャコフさ。お前はあれが苦手らしいな。今すぐにというわけではないが、その時がきたら、わしもそれなりのことはしてやるつもりだよ。それ以上のことはせんがね」
「おい、スメルジャコフ」
洗い場に行く途中、ふいに小さな声で誰かの呼ぶ声がしたので、スメルジャコフが振り向くと、木戸が開いてドミートリーが姿をあらわした。
「グルーシェニカは来なかっただろうな」
「今日はお見えになってはおりません」
「本当だろうな。俺にうそを言ったらどうなるかわかってるのか」
と言うと、ドミートリーは少しおどかすつもりでスメルジャコフの髪をつかんだ。
「信じてください、本当にあの方は今日はお見えになってはいらっしゃらないんでございます」
「おや、お前の持ってるのはなんだ? ウォートカのびんなんか持ってどこへ行こうっていうんだ。じじいの部屋から持ち出して、こっそり飲もうっていうんだろう。こっちへよこせ」
「これは違うんでございますよ、ドミートリー様」
「何が違うんだ、下司野郎」と言うとドミートリーはスメルジャコフからびんをひったり、口をつけて飲み出した。
「変わった味だな」
そこへフョードルの寝室を出て、修道院へと帰っていくためにアリョーシャがやってきた。
「ああっ、兄さんそれは・・・」
[9]
「丸太小屋にて」
名前:コッキン
投稿日時:
09/01/06(火)
更新:24/08/13
「丸太小屋にて」(1)
「イワン様はお帰りになりましたの? レモネードをお持ちしましたのに」
「せっかくだから、ここで飲んでおいきなさいよ。マリア・コンドラーチエヴナ」
「あの方はあなたにつらくお当たりになりますのね」
「わたしなんぞあの人から見たら、しらみのようなものですからね」
「それはあの方の思い上がりというものですわ」
「わたしの方でも腹の中で笑ってやっているのだから、おあいこですよ」
「わざわざこんな吹雪の夜に人をいじめに来るなんて」
「わたしはあなたによくしてもらっているから、寂しい思いをせずにいられるんですよ」
「この前もこんな夜でしたわ。あのお話もう一度してください
ましな」
(略)
美しい女とその息子、そして女に拾われて育てられた蛙の娘が住んでいた。
(ここから引用)
蛙の娘が水や薪を運び、男の子がいろんな獣を捕って、暮らしていたんだよ。
あるときのこと、蛙の娘が月夜の晩に水汲みにいった。桶に水を汲んで、天秤棒につけてかつぎあげると、歩きだした。川岸から家にむかって坂道を登っていく途中で、一息いれようとして立ち止まった。そしてふと空を見あげると、月があらわれ、月の上に桶と天秤棒の影と、それにじぶんの影が映っているのが見えた。
蛙の娘は、
「月にいけたらどんなにいいかしら」
と思って、歌をうたいだした。
お月さま、お月さまが落ちた
お月さまが伸びた、お月さま
が伸びた
すると月が長いリボンのように伸びてきて、蛙の娘を抱きあげた。蛙の娘が桶と天秤棒をかついで月にいるのは、そういうわけなんだよ。
ところで、家ではかあさんと息子が話をしていたが、そのうちかあさんがこういった。
「あの子はどうしていつまでも帰ってこないのかしら。ちょっ
といって、見てきておくれ、どうしたのかしら」
男の子は立ちあがって、見にいった。ところが岸辺にもいなければ、どこにもいないんだ。ふと見ると、月が暗くなったのに気がついた。月をじっと見ていると、蛙の娘が桶と天秤棒をかついでいるのが見えるじゃないか。
「かあさん、蛙の娘が月にいるよ!」
男の子が叫んだ。かあさんが出てきて、空を見あげると、ほんとうに月に蛙の娘がいるんだよ。
そんなわけで、それからはふたりで暮らすようになったのさ。
いつまでも幸せに暮らしたんだよ。
(『シベリア民話集』岩波文庫「蛙と美しい女」より)
「これあなたが下さった髪留めよ。とってもすてき」
「露店に並んでいた安物ですよ」
「わたしの宝物ですわ」
「そう」
* * *
「丸太小屋にて」(2)
マリアが出ていくと、閉められたドアのノブががちゃがちゃと鳴った。向こうからドアを開けようとしているらしい。けげ
んな面持ちで見ていると、ドアが開き、部屋に入ってきたのはやけに背が低くぼさぼさの髪をした、麻の肌着一枚の若い女だった。
さして不思議なこととも思わず、その女を見ていると、こちらに歩いてきて、目の前に来ると立ち止まった。よだれかけ
のように首から前にかけているぼろぼろの袋から三日月型のパンをひとつ取り、差し出した。
「いらない」と言ってもこちらの手に押し付けるので、パンを取り、袋の中に押し込んだ。女は再びパンを取り出し、こちらに差し出してきたので、それをひったくり、開いたドアのほうに投げつけた。
女はパンを追って部屋の外へ出て行った。ドアを閉めてしまうと、向こう側か
らまたドアノブをがちゃがちゃと回したので、
「出ていけ、このくさい女め」
と言ったとたん、目が覚め、先ほどと同じ姿勢で椅子に座っている自分を見出した。
* * *
「丸太小屋にて」(3)
そのまま暖房のきいた部屋でうつらうつらしていると、目の前に急にひらけた風景があらわれた。
何かのおつかいを言いつけられ、商店からの帰り道を歩いていた。
市の立つ日で、広場にはいろいろな露店が並んでいた。その中で自分と同じ年頃の子供たちが集まっているところがあった。
そばに行ってみると、そこで売っていたのは木で作った何種類かのおもちゃだった。その中で一番人気のあるのが、鶏の卵そっくりのもので、それが真ん中で割れて、中にはちゃんとひよこが入っているというものだった。
しばらくその場にたたずみ、その卵が自分のものになったときのことを想像していた。すると店番のおかみが誰かに声をかけられ、こちらに背を向けた。
私は何も考えず、その卵をとって、歩きだした。おかみは気づき、何かを叫んだ。
私は走りだした。子供たちは私を追いかけ、私は道につっぷした。
子供たちに捕まえられて、店まで戻った時、後ろからふいに
「いくらだ」
という声が聞こえた。
フョードルは卵を私の手に握らせ、屋敷へと歩きだした。後ろをふり返り、私が足をすりむいているのを見て、
「おぶってやろう」
と言って、私をおぶって、その後はもう何も言わず、夕暮れの中を歩いていた。
門の前で私をおろし、そのまますたすたと屋敷の中に入っていった。私は卵を握りしめ、今日のことがグレゴーリーの耳に入らねばいいがと危惧しながら門をくぐると、突然あたりは真っ暗になり、夢から目が覚めた。卵の感触を思い出すように、何もない手のひらを握りしめた。
[92]
「丸太小屋にて」(4)
名前:コッキン
投稿日時:
10/03/14(日)
更新:24/08/13
フョードルが父親ならどんなにいいだろう。小さかった頃、自分を見るスメルジャコフの目の中に何らかの意味を感じ取っ
たフョードルが、その淡い期待を打ち消すような視線を返して以来、スメルジャコフはその気持ちを心の奥にしまいこんだ。
フョードルと血がつながっているなどという世間のうわさはてんで信じていなかった。そうであったらどんなにいいだろうとずっと思っていた。カラマーゾフの兄弟たちよ、なぜこの家に帰ってきたのだ。お前たちが帰ってこなければ、私たちは静かな生活を続けていられたのだ。日々の雑用をこなし、手の空いたときを見つけてマリアと語らい、夕げのひと時にはフョードルの酔いにまかせたざれ言を聞き流し、そのあとはしばらく夜空を見上げてから寝床に就く。そんな生活が今も続いていたはずなのに。そんな日々をお前たちは台無しにしてしまった。
『ほら、くさい女の息子が来たよ。店のものをポケットに入れちまわないか、よく見てるんだよ。家でもしょっちゅう殴られてるって話じゃないか、それも銅の杵でさ。は、は、は! 』
『よしなさいよ、かあさん。聞こえてるわよ。ほら、いってしまったじゃないの。いつものパンを買いにきたのよ。買わずに
帰ったらきっと怒られてしまう。持っていってあげるわ。ちょっとぼうや、お待ちなさいよ』
なんて馬鹿だったんだろうね。やっぱりあいつはくさい女の息子だと言われるのがいやで、必要以上に身ぎれいにしていた。
そうすればあんたを遠くへ追いやれると思った。人に馬鹿にされるのがこわくて、あんたの逆のことをすることで身を守れると思ってた。こんな吹雪いてる夜更けに一体どこに寝床を見つけるつもりだろう。ああ、それなのに追い出してしまうなんて。この部屋はとてもあたたかい。熱いお茶もある。このいすに座って、さっきのパンを二つに割っていっしょに食べよう。
縄にしめつけられて声にはならなかったけれど、薄れゆく意識の中で最後の最後にやっとこの一言をささやいた。
「お母さん」
[93]
「兄さん……」
名前:コッキン
投稿日時:
10/03/14(日)
更新:24/08/13
「兄さん、それでお金は借りれたんですか」
「駄目だった」
とドミートリイは答えて、サムソーノフに借金を頼んだ時のやり取りをアリョーシャに語って聞かせた。
(よっぽどせっぱつまっていたのだろう。××につける薬はないというけど、こ
の人はほんとうに……)
「よりによってサムソーノフになんて、兄さんは何かあてでもあったんですか」
「男気をあてにしたんだ」
「……」
「やっぱり駄目だったよ。それでそのかわりセッターのところへ行けと言うんだ」
そしてドミートリイは、やっとの思いで見つけ出したセッターが酔いつぶれて話のできる状態ではなかったこと、セッターの酔いがさめるのを待っているうちに自分もねむりこみ、あやうく一酸化炭素中毒で死にかけたこと、そのあと再びねむってしまい、起きてみるとセッターはまたしても酒を飲み始めていて、結局ドミートリイの努力はなんにもならなかったと説明した。
そしてそのあとホフラコワ婦人の所へも行ったことを話した。
(それにしてもホフラコワ婦人が兄さんのことを嫌っているのを知らなかったの
かなあ)
「百万長者にしてあげるというんだ」
「ええ? どういうことですか」
「金鉱に行けだとさ」
(あの婦人変わってると思ってたけど、金鉱とはねえ。その場の情景が目に浮かぶようだ)
「引出しから銀の聖像を出してきて、俺の首にかけたんだが、金は貸さなかった
よ」と言うとドミートリイは疲れた顔を遠くの町のほうへと向けた。アリョーシャはきりだす言葉の見つからないまま兄の顔を見つめていた。
「なんでも俺の通るのを見るたんびに、これこそ金鉱を見つける歩き方だと思っ
たんだとさ」
その言い方がとてもおかしく思われたので、アリョーシャは今にも吹き出しそうになった。
「なぜ兄さんがそれほど三千ルーブルにこだわるのか分かりませんね。グルーシェニカにしてもお金なんかじゃなく、プッ、あっ、ごめんなさい兄さん、気にしないで、なんでもないんです。別に兄さんのことを……、ワッハッ八ッハ……」
[94]
「ほとばしれ!
ドミートリー浴尿伝説」
名前:コッキン
投稿日時:
10/03/14(日)
更新:24/08/13
ドミートリーはいつものように生垣を乗り越え、例のあずまやに行くために走っ
ていた。
やがてあずまやに近づき、その手前二間ほどのところにきた時、急に足が地を離れ、すごい勢いで地面にたたきつけられ、そのまま気を失ってしまった。
一方アリョーシャも一刻も早く兄ドミートリーに会うため、きのう兄と語り合ったあのあずまやにやってきた。
だがそこにミーチャの姿はなく、アリョーシャはきのう自分がすわっていた方のベンチに腰かけ、ミーチャがやってくるまで待つことにした。
よそにいい人 でてきても
あなたのほかには
よそにいい人 でてきても
ほかには 愛せない
突然どこか非常に近くでギターの伴奏を伴って、なんとも妙な歌声が聞こえた。
「素敵な歌だわ。あなたってほんとにいろんな歌を知っているのね。わたし、歌
なんて教会で聞く讃美歌ぐらいしか知らないもの。『あの空はどうして青いので
しょう』とか『もし君が涙をかくせなくなったなら』とかね」
「わたしゃ、讃美歌なんぞ聞きたくもありませんね、マリヤ・コンドラーチエヴナ」
「あら、どうして」
「教会が嫌いだし、そもそも神さまなんていやしないんだから、讃美しようがないじゃありませんか」
「そうなんですの、パーヴェル・フョードロウィチ」
「まあこんなふうに考えてごらんなさいましな、マリヤ・コンドラーチエヴナ。もしかりに聖書に書かれているとおり、この世のすべての生き物がたった一人の神によって生かされているのだとしてですね、その神さまは本当にそれら一つ一つに目を向けていられるものでしょうかね。我々一人一人のことをちゃんと把握できているのでしょうか。この世には一体どれだけの生き物がひしめき合って暮らしていることか、わたしが神さまだとしたら、ただもうあまりに数が多いという、ただそれだけの理由で、そんな有象無象はうっちゃって、自分はどこかの山の中にでも引っ込んじまいたいと思いますよ。あ、ちょっと失礼」
スメルジャコフが立ち上がって、アリョーシャのいるあずまやの方に歩いてくるので、アリョーシャは何が始まるのだろうと、どきどきした。
スメルジャコフは柱の陰にいるアリョーシャの方を向いて立ち止まった。そしてアリョーシャは勢いよく水の流れる音を聞いた。音がやむとスメルジャコフはアリョーシャに背を向け、元の場所に戻った。
「いやまったく神を信じないのは敬虔ではないなんて、全然でたらめですよ。わ
たしに言わせりゃ、自分は神に見守られているなんて思っていることの方が人間
の傲慢だと思いますね」
「わたしにはそういう難しいことは分からないけれど。でも、あなたのような頭のいい人がそう言うのなら、そうかもしれませんわね。ねえ、でもそんなことよりか、また歌ってくださいましな」
わかっているよと 笑わずに
嘘でもいいから 深刻ぶって
深刻ぶって
たまには 涙で抱き抱きしてよ
(『嘘でもいいから』 奥村チヨ )
「そろそろ行かなきゃ。もしドミートリー様が来たときに私がいなけりゃ、なぜ見張っていなかったと言って、どんな目にあうか分かりませんからね」
「残念だわ。また素敵な歌を聞かせてくださいな。ではごきげんよう」
スメルジャコフ達はアリョーシャに気づくことなく帰っていった。
再びあずまやの周囲を静けさがとりまいた。アリョーシャはゾシマ長老の病気や、ミーチャの父に対する暴行等々による心労からか、ベンチに腰かけたまま、うとうとしはじめた。
しばらくしてどこからか誰かの呼び声が聞こえた。
「おーい、おーい。誰かいないか」
(あれ、なんだかミーチャの声のような気がするけど)
「兄さん? どこにいるの?」
「アリョーシャか。俺の天使! ここだ、助けてくれ」
声のする方へ行ってみると、ミーチャのいるのはあずまやのそばにある古井戸
の穴の中だった。もうずっと使われておらず、かなり土砂が堆積して、さいわい
底は浅いようだった。
ドミートリーはアリョーシャの手につかまり、器用に背中と足を井戸の壁面に押し付けながら地上に上がってきた。
「ふう、とんだ目にあったもんさ。ずっと気を失っていたんだよ。お前いつここ
へ来たんだい」
「一時間ぐらい前かな。ここに来れば兄さんに会えるかと思って」
「そうか。くそ、いつの間にかびちょびちょになっちまった。俺の寝てたあいだににわか雨にやられたらしい」
「え、ええ。そうみたいですね……」
[95]
「庵室にて」
名前:コッキン
投稿日時:
10/03/14(日)
更新:24/08/13
「お見受けしたところ、きょうはお加減が悪そうですね」
「ええ、きのうからずっと足がひどく痛んで、夜もよく眠れませんでしたのでな
……」
「ぼくがこうしてテーブルに顔を向けたままでいるのを気になさらないでください」
「構いません。あなたもやはりお加減がよろしくないのでしょう」
「いえ、人の顔を見ると笑わずにはいられないのです」
「……」
「ところであなたは聞きましたか。つい先日近くの寄宿学校に男が入っていって
子供を何人も切り殺したとか」
「知っております。なんでも取り押さえられたときに『しんどい』と言ったそうで。私はそれを聞いたとき、あなたのことを思い出したのですよ」
「ぼくのことを。それはどういったわけで」
「私自身なんであなたのことが思い浮かんだのか、そのときは妙な気がいたしま
したが、今あなたを目の前にするとなんだか合点がいった気になっております。
共通するものがあるのでしょうな」
「つまり僕も狂人であると」
「理性と別のところから発した命令を実生活で行為化してしまうのが狂人という
のなら」
「ふむ」
「例えばあなたがガガーノフさんの鼻をつまんで広間の中を引きまわしたとき、
あなたはいてもたってもいられずそうしてしまった。自分がしていることは明瞭に自覚しているのだが、なんでそうしているのかは分からない」
「なぜならそれは『理性とは別のところから発せられた命令』に従った行為だか
ら、というわけですか」
「何かお話があるのではありませんか」
「一体何をしにここへ来たのだろう。忘れてしまいました」
「お母様はお元気ですか」
「ええ。僕は母の顔をまともに見れないのです」
「笑ってしまうからですか」
「顔を見たとたん、刃物をつかんで切り殺してしまうのではないかと思って」
「……」
「はは、冗談ですよ。そろそろおいとましましょう」
「またお越しください」
(俺ならやりかねんという顔つきだったな。ちょっ、呪わしい心理学者め!)
[96]
「飲屋にて」
名前:コッキン
投稿日時:
10/03/14(日)
更新:24/08/13
「確かにキリストは偉いさ。それは誰もが認めるだろうよ。だけどそれが彼の死
後二千年の世界にいる俺に何の関係があるのかね。たとえばもし俺が川でおぼれた子供を助けたとしても、その子供の子々孫々にまでお礼を言ってもらおうとは思わんよ。キリストは実在したに違いないが、神ではないよ。勝手に周りの人間が決めつけ、それが今まで続いているだけではないのか。俺にとっての関心はキリストではなく、なぜ人は神を必要としているのかということだね。ああ、その
答えが『大審問官』さ。もうこうなりゃ全部言ってしまおう。人間の95%はた
だの材料だ。馬鹿な羊なのさ。羊には羊飼いが要る。人間は長い歴史の中で羊飼いに一番適任な人間が現れるのを待ち続け、そしてついにキリストなる人物が登場したというわけだ。ところでおまえは何の疑問も持たないのかね。何でキリス
トの姿でなきゃならんのさ。神なら神でそれらしい独自の外観で現れてくれたら
分かりやすいのじゃないか。『なぜ神の子キリストは人間なのか』。答えも何も
ありはしない。もともと神なんていないからさ。キリストはただの人間。それだけだよ。それより問題は信仰という言葉に秘められたマジックだ。これがマジックでなくてなんだと言うんだい。俺にはこの世界がキリストという書き割りの前で人類全部が信仰という芝居を演じているように思えて仕方がないんだ。そしてときおりこのキリストの書き割りの向こう側には今まで誰も見たことのない澄み切った世界があるような気がするんだ」
「でも今のままだと兄さんはその書き割りの向こう側を見る前にどうにかなって
しまうんじゃないかって思うんだけど」
「どうしてだい」
「なんとなく。それに信仰というマジックって一体何のことなの」
「それは俺にもはっきりは分からないんだ。それについて考えると頭がこんぐら
がってきてしまう」
「もう考えないほうがいいですよ」
「心配してくれてるのか、アリョーシャ。でも俺は考えを改める気はないぜ。大
丈夫だ。俺はおまえが思っているよりもずっと健康なんだ」
「本当にキリストを必要としているのはその95%の羊ではなくて兄さんのような人ではないかな」
「ふむ。だがアリョーシャ、この話はこれで終わりだ。今度はもっと別なことを
話そう。そうだ、小さかった頃の思い出話だ」
「ええ、それがいいですね」
「元気でな、アリョーシャ」
「さようなら、ワーニャ」
(『元気でな』だなんて、まるでどこかにいってしまうような言い方だったけど、気のせいだろうか)
[107]
「イポリートの失態」
名前:竜之介
投稿日時:
10/05/10(月)
更新:24/08/13
これに近いシーンが作中
にあったわけではありま
せんが、想像により発
展したものとして…
「イポリートの失態」
レーベジェフが外出した後、公爵は二日ぶりに一人きりになれた事を、心から喜んだ。まったくの所レーベジェフは、公爵が何度も訴えるのにもかかわらず、
部屋をうろつくのを止める事なく、挙句の果てには、もういい加減使い古して表面が剥がれ落ちた椅子と、二本の酒瓶を持ち出して部屋に居座った程である。公 爵は呆れ顔でだんまりとしていたが、このままではイヴォルギン公爵まで顔を出しかねぬし酒の事には少し触れねばならぬ、「いい加減にしてくださいよ。君の
親切が今の私には不必要だと、まだ気が付かないのですか」と一言苦言を呈した。するとレーベジェフはいつもの調子で胸を叩き、時々振り返りながらもそろり そろりと爪先立ちで出て行くのであった。その表情はまるで、公爵には自分の高潔なる気遣いがまだ理解できんわいと言わんばかりだった。
もう一度きたら、今度こそ何とかしてしまおうという固い決意を抱いた時、レーベジェフはひょろっと顔を出し、四時間ばかり出かけてくる、ヴェーラも誰もいなくなるが問題はないかとたずねに来た。
「ええ、お構いなく。私はもう健康ですから、自分で自分の望むことが出来ますよ」
公爵は笑顔を禁じえなかった。レーベジェフはその表情の真意を悟ったらしく、ぶつぶつ言いながら出て行った。というわけで公爵は今、この広いパーヴロフスクの別荘の中で一人である。
不思議な事に、レーベジェフが居た時はあれだけ孤独を望んでいたくせに、とうとう一人きりになると心細く感じてきた。コーリャでもこないかしらん、多少
うるさくても良いからあの婆・・リザヴェータ夫人はベルを鳴らさないかしらと足をぶらぶらしていると、けたたましくベルが鳴った。
公爵は半ばスキップ交じりに階段を駆け下り、ロビーへと向かった。その途中でベルは弱弱しくからんと音を立て、訪問者はいまや扉が開くのを待ち構えてい
るようであった。公爵はもうドアまであと三歩という所で、なぜか訪問者はイポリートではないかと思った。扉を開けると、果たしてその通りであった。
イポリートは赤みがかった顔色をし、肉付きも良くなって、以前ほど痩せてはいなかった。もう二月ほど会っていなかったので、公爵はてっきり彼は死んだと思っていたのである。だが周囲の誰も彼のことを話題にしないので、あえて聞きかねていた。
「公爵、体調はいかがです?」彼はいつものように嘲笑的な笑みを口の端に浮かべながら、かすれた声でたずねた。
「ええ、もう大分良くなりました。君こそどうです?近頃まったく姿をみかけませんでしたが…」
「実は僕、あなたの所を訪問しなくなったちょうどその頃に、主治医を変えたんですよ。それで再診やら、病気の進行はどうやら検査が色々と忙しかったので
す。それではっきりした事があって、こうして伺ったのですが…」彼は公爵と共にロビーを歩きながら、素早く周囲に目を走らせた。「レーベジェフはどこで す?」
「今外出中なんです」公爵は解放された自由を身に感じつつ、ぷっと吹き出した。
「あなたは今笑いましたね。とすると、彼が不在であることに何か愉快な点を見出されたわけですね?結構ですとも、僕もちょうど、あなたと二人きりで話し
たかったのです…。ところで、公爵の治療中ずっと彼が付きっ切りでいたそうですが、本当ですか?コーリャから聞きましたよ」
「その通りです」公爵の喜びの笑みは、瞬時にほろ苦いものへと変わった。
「ああ、そんな事はどうでもいい。それより僕は話したい事があったんです。レーベジェフの話で腰を折られましたが(実の所彼から話し出したのである)……僕はもう少し、長く生きていけるそうですよ」
「何ですって?」公爵は思わず身を引いてしまった。
「そう驚かれる所をみると…僕の発言が思いもよらなかったわけですね……いやいいですとも、僕は誰かに喜んでもらおうなんて毛頭考えていやしないんだか
ら。ただコーリャはウラーと言ってはしゃぎ回りましたけどね、口外しないようにと念を押しておきましたよ。僕の病状は主治医を変えた事で真実に明らかに なって、実は外見ほど深刻な状態でない事がわかったんです。どうやら僕は、あと半年は生きられるそうですよ。僕の使ったあのピストルこそ、いい恥さらし
だったわけですね」
「イポリート、私は嬉しいですよ。君は誰にも喜ばれないで良いなんていいましたが、どうしてそんなにネガティブに考えるんです。生きることは喜びじゃありませんか、神様は君がもう少し生きることをよしとされたんですよ」
「神?どんな神ですか?」イポリートはさっと青ざめて、口をゆがませた。今にも爆発しそうに思えた彼の形相に、公爵はあわてて、彼の口へと手をやって塞いだ。イポリートはびっくりして、公爵をじっと見つめ、そのまま黙り込んだ。
「ところで君は、もし自身の余命延長が喜びでないとすれば、一体どんな用事で来たんですか?」イポリートに椅子を勧めながら、公爵はやや強めの語調で述べた。話題を早く転換し、彼の気を紛らわそうと思ったからである。
イポリートはにやっと笑った。「僕があの弁明の中で、読書の断絶を語ったことを覚えておいでですか、公爵?」
「覚えています。どうせもう少しで死ぬのに、ものを知って何になる?というあの箇所ですね」
「そうです。しかし僕は、医師からの真実を伝えられたあと、猛烈に読書をし始めたんですよ。あなたはまさかこれを、僕が生きる気力を取り戻したため
だ、なんて解釈なさらないでしょうね。もちろん違います、僕はどちらにしたって死ぬんですから。さっきあなたはネガティブに考えると僕をとがめましたが、 あなたには死を直前に控えた者の気持ちなど理解できないでしょう」
「理解できない所か、私はそうした話を聞いたことがあるのです」公爵はつい、深い物思いに沈みかけた。「しかしこの話は、止しましょう。大分長いですし、今の君にはむしろ不愉快なくらいだろうから。それよりも、君は一体何を読み始めたんですか?」
イポリートは何か思い当たることがあったらしく、右手を頬に当てながら、しばらく口を閉ざしていた。がふいに、何か栓でも切れたような勢いで喋りだし
た。「こうした読書熱というのは、青年期には非常に活発なものですが、ともすると一夜ほどで力尽きてしまうこともありますね。そうすると昨夜の全てがまる で白昼夢か何かのように舞い降りてきて、物語全体がぼんやりとしてしまうのです。そうかと思えば非常に緻密に、鮮明に思い起こすことができる時もありま
す。僕はある恋愛悲劇の物語を読んでいたのです…そう、最近の流行作家のものですが、どうしてどうして、中々的を得ていますよ。僕は流行を追う大衆精神に 甚だ飽き飽きしていて、死と共にこうした難儀からおさらばできるのは、むしろ嬉しいくらいなんです、公爵。だから僕は決してこの本を、新聞の一面記事で掲
げられ、かのトルストイが激賞していたのを理由に読んだんじゃない。僕は自分で読みたいから読んだだけで、決して周囲に感化されたわけではありませんよ、 だって僕はあと少しの人生なんだから、今更流行を気にしたところで無意味ですからね。おや、どうやらあなたはご存知ないようですね。あなたも時勢に暗い人
だ…。この作品の中にもやはり、末期状態の青年が出てきて、色々と騒動を起こすんですよ。ただ彼の話すことはなるほど、中々筋が通っていますが、単なる一 般論に過ぎない。覚えたての言葉を使いたくてたまらないように見えますよ。要するに滑稽なんです。僕はこうした陳腐な輩を見ているのが、おかしくてしょう
がないんですよ。彼はある人物に、相手が独創的でないことを辛辣に伝えるんですが、そういう彼自身こそ、もっとも凡庸なんです。彼は自分が凡庸で余命いく ばくもないのが癪で癪でしょうがないから、ただわめき散らしただけと見えますね、はっは!」
「君はその話を相当気に入ったと見えますね」
「そりゃそうですとも。ああいう生意気な小僧っ子は、誰かがひっぱたいてやらねばなりませんよ。彼もやはり、僕と同じように弁明なるものを用意して、奇態を演じるんです。まるで喜劇ですよ!」
イポリートは口から微かなあわを吹きながら、長々としゃべり続けた。もう一時間は語り、大方話し終えたろうと思ったとき、公爵はふとこう尋ねたのである。
「君がそんなに夢中になった作品には、一体なんと言う名が付されたのですか?」彼はどこか、胸のざわつきを覚えた。
「これだけ人々にも話題にされ、内容も明らかにしているのに、あなたって人は…。いいでしょう、あなたも一度は耳にしたと思いますがね、トーストエフスキイの『白痴』という長編小説です」
「ああっ!」公爵は両手で顔を覆った。イポリートは怪訝そうな顔で眺めるのであった。
「どうしたんです?一体何が恐ろしいんです?」
噴出すのを必死でこらえる公爵の顔には、今までに見たことがないほど深刻な苦悶が浮かんでいる。二分の沈黙が流れ、イポリートは、こいつは解せないという面で、下唇を噛んだ。
「もしご都合がよければ、あなたにお貸ししますよ。もっとも、読み終えるまでに僕が死んじまうかもしれませんが。生きていたら感想を聞かせてくださいよ」
イポリートは外套の内ポケットから、厚みのある本を取り出した。公爵は返事もせず震える手を差し出したが、こみ上げる感情の余り手をひっこめた。「いや、止しましょう」
読者はもうとうにお気づきであろう。凡庸は凡庸をこき下ろす、これが又もや繰り返されてしまった。イポリート、彼はどこまでも喜劇を演じてしまう青年
である。これだけ下らない話に余白を用いたとあらば、しかるべき結末が期待されるわけだが、当然筆者にそんな技量はあるはずがない。話はもう閉じることに しよう。無駄に長すぎたようである。
これだけ話を聞いたからには、礼儀として一度目を通すべきだと訴えるイポリートに、公爵は最後、次のように述べたのであった。
「本当に結構です。私は読みたくないんです。君のその姿を観ているだけで、私は十分ですから…」
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