『地下室の手記』を読む
(1〜7)
投稿者:
木精、小寺、清水
(1)
[503]
『地下室の手記』を読む
名前:木精
投稿日時:09/03/08(日)
◆ はじめに
[総合]板で予告しておきましたように、これから『地下室の手記』を集中的に読んでいきます――ただし日本語の訳文で(汗)。
テキストは、メインが江川卓訳(新潮文庫)、サブが安岡治子訳(光文社古典新訳文庫)です。また、貴重な 小寺(coderati)さんの訳業も大いに使わせていただきます。
小寺さん、ロシア語方面のご指導をよろしくお願いいたします! 安岡先生も、ごらんになられていましたら、ぜひともご批評くださいませ。
テキストを精読すること自体が目的ですから、その目的にかなう限り、私の扱っているテーマからいくら外れたレスをいただいても迷惑ではありません。どしどしツッコミを入れてください。
1点、要望です。ここでレスを書くとデフォルトの題名は「RE:『地下室の手記』を読む」等々になります。そのように同じ題名が何行も続くとウザイです
し、わかりにくいので、ご自分でタイトルをつけてくださるようお願いいたします。(なお、本文中で詳しくコメントされない、長ったらしい引用文を題名に掲げることも私は好みません。)
題名の訳し方についての議論はパスします。
地下生活者の手記(米田正夫訳・小沼文彦訳・中村融訳)、地下室の手記(江川卓訳・安岡治子訳)、地下の手記(長瀬隆氏)、寺田透にいたっては床下の手
記……いろいろあって、言っている理屈もそれぞれにわかるのですが、ここでは『地下室の手記』(略称『地下室』)で行かせてください。
慣例に従い、作品前半と後半をそれぞれ第1部、第2部と部で呼び、その下位区分には章を用います。
また、手記の無名の書き手は「地下室人」と呼び、第2部を「ぼた雪の物語」と呼ぶこともあります。
大枠としては、第2部から順に読んでいき、その後、第1部へ戻ります。それ以外の細かい段取りは決めていませんし、事前の準備もストックもゼロの状態で
すので、話が今後どこへ進んでいくやら自分でも皆目わかりません。のんびりと、迂回や道草を楽しみながら読んでいきたいと思います。
では、早速始めましょう。
(2)
[504]
第2部 第1章 虚栄心と屈辱感 (第1回)
名前:木精
投稿日時:09/03/08(日)
第2部の第1章を読みます。(新潮文庫 67〜86 page)
この章で私が取り上げたいテーマは次の3点です。1:虚栄心と屈辱感、2:ネフスキー通りで道を譲る、3:ロシアのロマンチスト。3〜5回に分けてアップします。今回はその第1回です。
ほかにも考えてみたい重要なテーマが2つあります。4:窓から突き落とされる、5:人恋しさ。ここで取り上げるか、後の章を読むときへ先送りするかはまだ未定です。
◆A 臆病者で、奴隷(江川) / 臆病な奴隷(安岡)
江川訳でこの章を読んでいると、1つ気になる矛盾点があります。地下室人は、一方で自分を臆病者だといい、他方では決して臆病者ではないと言います。以下の文を読み比べてみてください。
【1】ぼくは事実、臆病者で、奴隷だったのである。ぼくはこう言っても、ひとつも気恥ずかしいとは思わない。現代のちゃんとした人間は、すべて臆病者で、奴隷であるし、そうでなければならないものなのだ。69p
【2】ぼくが将校に立向っていかなかったのを、臆病のせいだなどとは思わないでほしい。ぼくは、行動の上ではいつもびくついていたけれど、心のなかではけっして臆病者であったためしがない。77p
【1】の「現代のちゃんとした人間」とは、西洋的な知性と教養を身につけたインテリ(知識人)のことです。インテリは臆病者で(国家または社会の)奴隷であり、自分もインテリの一人だと地下室人は自己規定しています。
ところが、わずか8ページ後の【2】では、将校とけんかすることにはびくつくけれど、自分は臆病者ではないのだと声を強めて言います。ベタに読むならこれは明白な矛盾ですが、どう受けとめればよいのでしょう?
また、【2】の文章には奇妙な点があります。
一般に、行動の上でびくつくことこそ臆病者のしるしなのに、「行動はびくついても内心では臆病者ではないんだぞ」という彼の弁明は、そもそも成り立ち得るのでしょうか?
行動に伴う心理価「びくびく」と、その時点での内面の心意「自分は臆病ではない」とは、背反し合いながらも共存して、「びくびくしながら臆病でない」と
いう奇妙な命題を、しかし正当に主張し得るのでしょうか? ドスト本人はそれを正当な命題として提出しているようですが……。
まず、安岡さんの訳文を読んでみましょう。安岡訳にはこの矛盾に対する解釈が入っていて、整合性のとれた一つの読みに導かれます。
【1】俺はたしかに臆病な奴隷だった。こんなことを言っても、俺は少しも極りが悪いとは思わない。現代のあらゆるまともな人間は臆病な奴隷であるし、またそうであらねばならないからだ。89p
【2】俺がその将校に怖気づいたのは、臆病のせいだとは思わないでもらいたい。実際は絶えず怖気づいてばかりいたとは言うものの、おれは心の中では一度だって臆病者であった例(ためし)はないのだ。99p
この訳では、【1】の「臆病」は「奴隷」の形容語とされて、俺の述語の位置には「奴隷」だけが置かれています。他の個所でも安岡訳は「臆病な奴隷」で一貫していますから、【2】の「臆病者」との矛盾を意識した訳し方なのでしょう。安岡さんは、
【1】の臆病:インテリという社会的身分の属性
【2】の臆病:人格の属性としての性格ないしは心理性向
と、同じ語が異なる位相で使われていると読むわけです。「臆病な」という訳し方が「臆病者」よりもすぐれているかどうかはひとまず措いて、読みとしては一つの見識だと思います。
ただ、社会的身分は個人の人格形成に大きく作用します。身分が「臆病な奴隷」であったら、人格も相応に臆病になるものです。
ところが、地下室人は、身分と人格との相互浸潤を認めていないのか、それとも他の理由によるのか、行為に伴うインテリの臆病さと内心の心意としての臆病でなさとの並存に、何らとまどいを見せていません。
これには次のような見方が考えられます。
1:インテリの臆病さと、臆病でない人格との背反し合う共存
2:インテリの臆病さと、同じインテリの他の属性との背反し合う共存
(その属性は、【1】と【2】ではまだ語られていない)
3:1と2の複合形態(インテリの臆病さ×インテリの他の属性×人格)
2が意味しているのは、インテリという新しい階級が、いまだ社会的に十分安定した心理構造を持って実存していないことです。臆病さとは相互に背反する属性を内部に抱え込んだ不安定なインテリの存立基盤が、地下室人の矛盾した物言いで表象されていることになります。
1と3で考えられる人格の属性(臆病でない)とは、インテリが当時の西洋派に軸足を置くものだとすると、反西洋派の心情を強く持っていることです。イン
テリでありながらも西洋派にはくみすることができず、チェルヌィシェフスキーなどのインテリに対する反発心を強く抱いている。つまり、インテリの自己肯定 と自己否定の共存という何とも複雑な事態ですね。
◆B いまいましい弱気とデリカシー / 際限もない虚栄心
まずは、地下室人自身が、行動に伴う臆病さの理由を説明しているのに耳を傾けてみましょう(江川訳)。
【3】ぼくがそのとき弱気を出した〔=無礼な将校に立ち向かっていって、けんかが仕掛けられなかった〕のも、臆病心からではなくて、際限もない虚栄心からだった。78p
際限もない虚栄心――この作品に頻出する最重要キーワード「虚栄心」が、行動に伴うびくびく心の正体なのだと地下室人は言います。つまり、「インテリの
プライドが、アホな将校とけんかをするような、はしたないまねを許さなかった」ということです。上から目線ってやつですね。
しかし、この虚栄心がインテリの属性にすべて収まるかというと、地下室人の人格属性でもあるように感じられます。どちらか一方へ分類しにくく、さしあたりは、前節末尾の3択のうち、1と2が複合した3の事態として、あいまいに受けとめておくのが無難なようです。
虚栄心・自尊心・誇り・自負心……これら一連の類義語は、本作のみならず、ドスト作品全体におびただしく散在しています。時代とともに、その語義が何らかのニュアンスの変化を伴っているだろうことも予想されます。
まず、ここでは、「臆病心とは似て非なるものとしての虚栄心」という文脈に限定して、この虚栄心の正体を考えてみます。
「(互いに似ているけれども)臆病心ではなく虚栄心」という構文は、本作(1864年)の前作に当たる『虐げられた人びと』(1861年)にも出てきます。
『虐げられた人びと』の語り手の作家イワンは、いやいやながらもワルコフスキー公爵の誘いを受け入れて、ネフスキー通りに交差するボリシャヤ・モルスカヤ街のBというレストランの特別室で夜食をとります。
公爵「私と夜食をなさるのがおいやなんですね! それはむしろ滑稽ですよ。失礼ですが、それはなんというか……不愉快なこだわりだ。実につまらない自尊心じゃありませんか。身分の違いを意識なさっているのでしょう、いや、きっとそれに違いない。あんまり私を傷つけないでください」(新潮文庫381p)
ここにも自尊心(≒虚栄心)が出てきます。イワンは作家ですから、まさにインテリの自尊心がやり玉に上げられています。その自尊心について、イワン自身は次のように弁明しています。
【4】「あなたはある女性 〔ナターシャ〕 の利害を見守っておられるから、私がこれから喋ることをお聞きになりたいでしょう?」と公爵は毒々しい微笑を浮べて付け足した。
「そのとおりです」と私はたまらなくなって相手の言葉をさえぎった。……「そのとおりですよ、公爵。そのためにここへ来たのです。でなければ……こんな夜ふけにこうして坐ってはいなかったでしょうよ」
でなければあなたとは絶対に付き合わなかったでしょう、と私は言いたかったのだが、そうは言わずに言葉を変えたのは、臆病のためではなく、私のいまいましい弱気とデリカシーのためであった。たとえ相手がそれに価する人間であっても、またいくらこちらが乱暴なことを言ってやりたくても、一人の人間に面とむかって乱暴な言葉を吐くことはなかなかできないものである。(同383p)
同じ構文「臆病ではなくて○○」を使いながらも、両作では○○の部分が変化しています。
『虐げ』:臆病のためではなく、私のいまいましい弱気とデリカシーのためであった
『地下』:臆病心からではなく、際限もない虚栄心からだった
前者は、インテリのプライドを、弱気という否定性とデリカシーという肯定性の混合物としてとらえていますが、後者では100%否定的なものに変化します。
とはいえ、前者においても、それらが「いまいましい」と形容されることで、作家イワンがインテリとしての自己のプライドに嫌悪を抱いていることが知れ、
地下室人と近い距離にいる人物であることを予想させます――かれがインテリのデリカシーをかなぐり捨てて自暴自棄になると、地下室人が生まれてくるかのよ うに。
したがって、作家イワンのいう【4】「弱気とデリカシー」のうち、弱気はそのまま地下室人の【2】「いつもびくついていた」に受け継がれ、デリカシーは価値を反転させられて、【3】「際限もない虚栄心」に貶価されたことになります。
地下室人の虚栄心の実質成分はインテリ特有のデリカシーであり、それが自己否認されて虚栄心と呼ばれているわけですね。しかも、この虚栄心は、行動に伴うインテリの弱さと絶えずセットのものとして提示されています。
ここまで来て、A節で指摘した臆病に関する矛盾に、ある程度の見通しがつくようになりました。
地下室人が「自分は行動の上では臆病だけど、内心では臆病ではない」と言うとき、それが意味しているのは、「自分は、活動家がばっこする今日のがさつな
社会生活の中ではデリケートに過ぎて、弱気(≒臆病)になってしまうけれど、それは人格属性としての臆病さとは性質を異にするインテリ階級の宿命なのだ」 ということです。
まだ十分な解とは言えませんが、とりあえずこの程度にして、先へ進みましょう。
◆C 奴隷と自発的服従
引用【1】の「ぼくは事実、臆病者で、奴隷だった」を初めとして、本作における「奴隷」という語の読みはやっかいです。
ドストは、この語を、戦争に敗れて敵の捕虜になる場合のように、他者への受動的屈服(による自己の明け渡し)という文脈では用いていません。その逆に、
他者へ自発的、能動的に服従する(ことによる犠牲的な自己捨身の)さまを、自由民に隷属する身分たる奴隷になぞらえる使い方がもっぱらなされています。最 終的には、その自発的な服従にマゾヒズム的な快楽すら見出しているのです。
以下、「奴隷」の用例を幾つか拾って検討してみましょう。ここでは、3人の訳のうち、奴隷という語を最も忠実に奴隷と訳していると見られる小寺さんの訳文を借ります(実際のところはどうか知りません)。
○クレオパトラは自分の女奴隷の胸に金の針を突き刺すのを好み、女たちの悲鳴や身もだえに快楽を見いだしたと言う。1-7
これは奴隷という語の本来の用法で、奴隷の苦痛に対して主人が快楽を感じています。そして、ドストがこの語を喩として用いる際には、以下に見るように、奴隷と苦痛/主人と快楽の対立関係がさまざまに攪乱されています。
○僕は滑稽に見えることを病的に恐れ、それで外面に関してはすべてにおいて決まりごとを奴隷のように崇拝した。2-1
ここでは、慣習を初めとする世間の「決まりごと」に対する地下室人の極端な自発的服従のさまが、ありふれた言い回しですが、奴隷に見まがうばかりと評されています。その服従によってかれの社会的評価は上がりも下がりもしないのに、滑稽を恐れるあまり、地下室人は自己の意思を放棄して、慣習に隷属する奴隷
として振る舞います。
このありふれた喩がしかし非凡なのは、極度に病的なさまに対してそれが使われているためです。単に「主人がみずから進んで奴隷になる」だけならどうということはありませんが、地下室人の過度の自発的服従には、奴隷の属性としての苦痛が抜け落ちています。
次の例は、地下室人がリーザに「まるで本を読んでるみたい」に話しかける言葉の中に出てきます。
○水飲百姓は農場で働く、それだって何から何まで奴隷というのじゃない、それにまた自分には期限があることも知っている。だが君に期限があるのか? ちょっと考えてごらんよ、君はここに何を差し出した? 何を奴隷にした? 心だよ、心、そんな権利もないのに、君はそれをからだと一緒に奴隷にしたんだ! 自分の愛を冒涜せよと誰ともわからぬ酔っ払い相手に差し出したんだ! 2-7
リーザは売春婦ですから、彼女がその身分に身を落としたことは奴隷の原義に沿っているように見えますが、かれの話を最初から読んでいくと、それだけでは足りない含意に気づきます。
かれはリーザに向かって、「手おくれにならないうちに、思い直せよ。まだ間に合う。きみはまだ若いし、顔もきれいだ」(143p) と前置きした上で奴隷の話を持ち出します。「まだ間に合う」、つまり、かれはこの話の流れの中では、リーザを宿命的な不可抗力によって売春宿に売られ、も
はやそこから脱出不能の娘とは見ていません。
「君はここに何を差し出した? 何を奴隷にした? 心だよ」――かれのこの言葉に従うなら、リーザの心を奴隷にしたのは、売春宿に心を「差し出した」彼
女自身です。たとえ話の上だけにもせよ、リーザが今、奴隷の境遇にあることを、地下室人は彼女の自発的な《心の自己放棄》とみなしているのです。
○世のワーゲンハイム先生(訳注 1864年当時、ペテルブルグの新聞にさかんに広告を出していた歯科医)をすべて味方につけても、なおかつ諸君は自分の歯の完全な奴隷だという意識 1-4 (江川訳23p)
『地下室』で私が最終的に読み解きたいと願っている命題、「歯痛は快楽である」が語られる段落にも「奴隷」が使われています。虫歯の痛みに快楽を感じる奴隷! この例が、本作における究極の「奴隷」の用法でしょう。
この奴隷には主人に相当する存在が見当たらず(「敵はどこにもいない」)、歯痛の奴隷となった人間の前で、歯痛という「22が4」の自然法則は「涼しい顔」をしています。
地下室人は社会の外見における奴隷ですし、リーザは(地下室人の見立てによれば)社会へ心を売り渡した内面の奴隷ですし、歯痛にうめく人間は「22が4」という自然法則の奴隷です。
この隷属関係をドストは否定的なものと見ているのでしょうか? 歯痛の例からいうかぎり、それは人間からの否定や肯定を超えた、所与としての人間の実存
様態のプロトタイプです。そして、世のワーゲンハイム先生が歯痛を取り除こうとする合理主義者ならば、地下室人やリーザは、そんなことをしても無駄だとば かりに、そのプロトタイプに自発的に従う人間です。
ドストは、自発的服従による自己の奴隷化を、世のワーゲンハイム先生とは異なり、否定的なものと見ていない節があります。むしろ逆に、その肯定性の相を
救い出そうとしていると見られる記述が『虐げられた人びと』にあります。《虐げられた人》である父ニコライ・セルゲーイッチの一人娘ナターシャは、ワルコ フスキー公爵の息子アリョーシャに対する自分の恋情を、幼なじみの作家イワンに向かってこう言い募ります。
【5】「……それでも私は喜んであのひとの奴隷になるわ。自発的に奴隷になるわ。一緒にいられるのなら、あのひとの顔を見ていられるのなら、あのひとにどうあしらわれても辛抱するわ! あのひとがほかの女を愛したって構わないような気がする。それが私の目の前で起ることなら、私がそばにいられさえしたら……。」新潮文庫65p
◆D 小まとめ ――勇敢な奴隷
私は1回でアップする文章の上限を10キロバイト(5,000字)にしていますが、もうその上限をはるかにオーバーしていますので、ここまでの考察に、急いで小まとめをつけておきます。
【1】ぼくは事実、臆病者で、奴隷だったのである。(江川訳)
【1】俺はたしかに臆病な奴隷だった。(安岡訳)
C節の奴隷の考察に従うと、私は、日本語の訳文として難解ではあるものの、ドストの語法をよりよく反映しているのは江川訳だと思います。
「臆病」も「奴隷」もインテリの属性ではありますが、両語にこめられたドストの思いは正反対の方向を向いているように思われるのです。つまり、臆病はイ
ンテリの自己保身をあらわす属性として否定的な価値を帯び、奴隷はインテリの自己捨身をあらわす属性として肯定的な価値を帯びているのではないか?
もっとも、江川のように訳したところで私の言う微妙なニュアンスは出ませんが、少なくとも、両語が並列されている方が、「臆病な奴隷」と1句にまとめてしまうよりもよさそうに感じます。
ちなみに、小寺さんの訳文は、江川のように両語を並列した訳し方と、安岡訳と同じ「臆病な奴隷」とが混在しています。これは原文をお読みの方にお尋ねしたい点ですが、原文においても両方の言葉遣いが混在しているのでしょうか?
今の私の理解では、今回検討した語圏においてドストが打ち出したかったのは、「臆病な奴隷」ではなく、正反対に、ナターシャ(『虐げられた』)・リーザ(『地下室』)・ソーニャ(『罪と罰』)に見られる「勇敢な奴隷」像だったのではないかと思います。
しかし、彼女たちのようには自己を犠牲にしなかったという意味で、地下室人はまさに「臆病な奴隷」です。かれは自己捨身に至らず、「際限もない虚栄心」の頂上にとどまり続けます。その意味で、安岡訳にも捨てがたい魅力がありますね。
インテリ一般の説明としては江川訳が、個人としての地下室人の説明としては安岡訳がふさわしい感じです。
そして、かれの虚栄心が他者によって否認されると、この作品のもう一つの最重要キーワード「屈辱感」が生まれます。虚栄心と屈辱感の弁証法――それが地下室人の存在そのものです。次回は、この弁証法を中心にして見ていくことにします。
(この項、続く)
(3)
[505]
臆病者
名前:小寺
投稿日時:09/03/08(日)
江川訳の「臆病者」のところ、すべて「臆病者」でした。
был трус и раб:「臆病者で、奴隷だった」です。
無用に混在した訳文などご披露して失礼しました。
(当時としては一所懸命だったものの)今となっては見直さなければならないことが明らかな訳文を見直す余裕がなくて・・・
今後の展開を期待しています。
(4)
[506]
何の、誰の、奴隷
名前:清水
投稿日時:09/03/08(日)
木精さん、第1回目読みました。地下室人の輪郭が明らかになっていきそうな、期待を持たされますね。読みながら感じたのは表題に関してです。当該の章では地下室人は自分自身の奴隷であり、勤め先とか社会すべての奴隷のように思われます。クレオパトラの女奴隷
は胸に金の針を刺される恐怖と痛みはありますが(想像的には、何かのきっかけでクレオパトラに殺されるかもしれない所までいくが)、女主人からみごとな葡 萄の実を貰える折りもあるかもしれません。何よりも、完全に無視されたり鼻もかけられない他の女奴隷とは、あきらかに違った存在だと、自らを意識すると考
えられます。世間的にソーニャ(『罪と罰』)の境遇は奴隷といってさしつかえないもので、実際客の奴隷のわけですが、ソーニャは自分自身を「客の」奴隷だ とは決して規定していないのではないかと私には思われます。
(5)
[508]
「臆病者」と「奴隷」 ほか
名前:木精
投稿日時:09/03/09(月)
小寺さん、さっそく「臆病者」の原語をご確認くださり、ありがとうございます。
恐らく、小寺さんの訳文は、意訳が最も少なくて構文にも忠実なものではないかと見ています。ドスト本人が言葉を書きつけていく際のリズムや息づかいが感
じられる印象です。江川訳、安岡訳で足りないところはまた小寺さんの訳文をお借りしますので、何なりとツッコミを入れてください。
C節で小寺さんの訳文を複数引きましたが、1カ所、「ワーゲンハイム先生」という歯医者の固有名を小寺さんは伏せて訳しておいででした。私は、こういう固有名、さほど嫌いじゃありませんので、この1文だけは江川訳に差しかえさせていただきました。
ただ、「ワーゲンハイム先生」と書いたら、当時のペテルブルグ市民にはその意味がすぐわかっても、モスクワ市民はどうだったのでしょう? 当時の新聞事
情がどうなっていたのか知りませんが、ペテルブルグとモスクワの双方で発行されていた新聞(もう全国紙ですね)は当時あったのでしょうか? それとも、ペ テルブルグから新聞が全国へ郵送されていたのでしょうか?
ドストは『地下室』をモスクワで書いています。『虐げられた人びと』冒頭のドイツ人の店内のシーンでも綴じ込まれたドイツ語新聞が置いてあったり、渡欧
時のドストはロシア語新聞を読みふけったりしていますから、当然、ペテルブルグからモスクワに送られた新聞をドストは読んでいたことになりますね。
すると、ワーゲンハイム先生はいわば《全国区》の歯医者さんだったんですね。といっても、モスクワ市民が歯痛を我慢しながら列車に乗って、ペテルブルグのワーゲンハイム先生の医院まで通うはずがないだろうとは思いますが……。
さて、インテリの臆病とプライドの関係については、あんなに長く書いた割に、私たちにとって当たり前の常識的な結論しか出てこず、我ながらがっかりしています。A節とB節については、次回以降、もっと端的に語り直してみます。
他方、もう一つの意図だった、ドストの思考の型を取り出そうとする試みからすると、まだまだ書き足りません。ここでとりあえず「思考の型」というのは、
「臆病ではなくて○○」のような、ドスト個人に固有の定型句のことです。第1回では『地下室』と『虐げられた』を比べましたが、同じ「臆病ではなくて ○○」を『未成年』からも見つけていますし、他の作品にもあるはずだと推測しています。(他の作品で同じ構文があることにお気づきの方、ぜひともお知らせ
くださいね。)
思考が何年たっても無意識のうちに同じ構文をたどってしまうこの一種の反復強迫は、思考が或る(同じ)限界状態にぶち当たって倒れるときの、思考の《身
体》とその痛みをあらわすものだと私は見ています。それが、「臆病ではなくて」です。そこには、思考が他者から聞き届けられず、もはやそれ以上先へ進めな いことに対する苛立ちと抗議が込められています。そして、それ自体はさしたる意味を持たず、他者を否認するだけの反復強迫=「臆病ではなくて」の後で語ら
れる言葉が、注目すべき本心の告白です。
私が立てたトピック「イワンの「すべては許される」について」は、今、休眠状態ですが、再開する予定もないではありません。
「神がいなければ(不死への信仰がなければ)、すべては許される」
この文も、上でいう思考の型としての反復強迫を含む定型句となっていて、「PならばQ」という条件法の構文は、他の作品でも重要な箇所であらわれます。この同一構文の実例をひと渡り眺め終えたところで、あのトピックを再開できればと思っています。
さて、清水さんからは、『罪と罰』のソーニャについて貴重なコメントをいただきました。
C節の「奴隷と自発的服従」のテーマは、最後がしり切れトンボになってしまい、意を尽くせませんでしたし、D節の小まとめは、さらに雑ぱくな文章になってしまいました。
『罪と罰』はこれからまた何度目かの再読をしたいと思っていますが、娼婦という身分そのものにドストが果たして焦点を当てているかどうかは、読みの一つのポイントになると思います。
私がD節において、ソーニャを、娼婦ではない『虐げられた』のナターシャ、『地下室』の娼婦リーザと並列させたのは、娼婦という身分からは離れて、女性一般の「自発的服従」の形態の共通性を見定めたいとの思いからです。
いずれリーザの物語を読む段になったら詳しく考えてみたいテーマですが、D節を補足する意味でごく簡単に説明します。
『虐げられた』におけるナターシャのアリョーシャに対する恋情、そして地下室人の家に出向いていくリーザのまっすぐな思い、さらにはソーニャがラスコー
リニコフにつき従ってシベリアまで行くこと、こうした男性に対する関係の中には、共通の、勇敢な自発的服従=奴隷化の動きが見られるのではないか、という のが私の真意です。
この時代のドストは、女性のこうした自発的服従を肯定的にとらえていますが、後年には懐疑が混入してきます。たとえば『未成年』のソコーリスキー老公爵は、アルカージーに向かってこう語っています。
「いいかな、きみ、女どもの生活というものは、たといどんなきれいごとを並べてもだ、要は――誰に服従したらよいかということの永久の探索にすぎんのだ
よ……いってみれば、服従の渇望というやつだな。おぼえておきたまえ、きみ―― 一人の例外もなしにだよ」新潮文庫上巻57p
この皮肉は、実際、『カラマ』の女主人公カテリーナに適用され、カテリーナはドミートリーとイワンの間でその恋情を引き裂かれ、ひとりの男性を選び取ることができません。
『地下室』当時のドストの、喩としての「奴隷」という語の基準点は、C節【5】に引いた『虐げられた』におけるナターシャの「自発的に奴隷になるわ」
だった、というのが今の私の見方です。『地下室』に見られる「奴隷」の用法は、C節【5】からの応用例ないし変奏であると私は見ているのです。
ちなみに、ナターシャの「自発的に奴隷になるわ」というセリフを近代哲学用語で言いかえれば、それこそ、[伝言/雑記]板でも最近話題になっている「(近代的な)主体 subject になる」ということです。「いや、全然違うぞ」とも言えますが……(笑)。
なお、自分の読みで気になっている点を1つ。
B節【4】に引いた『虐げられた』の引用中、「いまいましい弱気とデリカシー」という句について、私は、「いまいましい」を「弱気」と「デリカシー」の
双方を修飾する語として読みましたが、もしかすると、「弱気」だけを修飾し、「デリカシー」にはかかっていないかもしれませんね。原文に当たれば判明する のか、原文でも修飾の仕方がわかりにくいのか、お暇があって気の向く方がおられましたら、お教えください。
最後に、ボード違いのレスで恐縮ですが、ka さん、ペテルブルグの地図サイトをお教えくださり、感謝です! あのサイト、すばらしいです。もう手放せません!
年度がわりの3〜4月はしごとがいそがしくなるため、第2回(まだ何も書いていません)をいつアップできるか未定です。最悪、来月になるかもしれません。
みなさまも、この季節はおいそがしいことと存じます。体に気をつけて(私は高血圧に気をつけて)、何とかこのシーズンを乗り切りましょう。
(6)
[511]
二つの臆病について
名前:小寺
投稿日時:09/03/14(土)
『地下室の手記』と『虐げられた人びと』の「臆病」にちょっとした違いがあるようですので、書いておきます。
『地下室の手記』の「臆病」はтрусостьという言葉です。[504]で木精さんが引用されている【2】の文章をみてみましょう(とりあえず江川訳)。
【2】ぼくが将校に立向っていかなかったのを、臆病のせいだなどとは思わないでほしい。ぼくは、行動の上ではいつもびくついていたけれど、心のなかではけっして臆病者であったためしがない。
原文では:Не думайте, впрочем, что
я струсил офицера от трусости: я никогда не был трусом
в душе, хотя беспрерывно трусил на деле
「立ち向かっていかなかった」はструсил、「臆病」はтрусости、「びくついていた」はтрусил、「臆病者」трусом、すべて根は同
じことばです。極端な話、僕が臆病しちゃったのは臆病だからではない、という感じ? だから、「笑うのは待ってほしい」という文がつづくのではないかと思います。
一方、『虐げられた人びと』の「臆病のためではなく」の「臆病」はというと、боязньです。これは、「臆病」と重なる部分があり、ここでは「臆病」が適切かもしれませんが、「恐れ」が普通の訳語です。
なお、「いまいましい弱気とデリカシー」は、проклятой моей слабости и деликатности。「いまいましいわたしの弱気とデリカシー」。私も「いまいましい」が両方にかかると思いますが、ロシア語のよくわかる方におまかせしたいと思います。
(7)
[512]
臆病ではなく……恐怖(ラスコーリニコフ)
名前:木精
投稿日時:09/03/21(土)
「僕が臆病しちゃったのは、臆病だからではない」
小寺さんのこの「極端な」訳、いいですねえ! 意味内容ではなく、指示記号にもそれ固有の表情があり、作品の読みはその表情と意味とがまざり合ったとこ
ろでなされますから、字づらのもたらす印象も決して二義的なものではないと思います。この訳は、ことばの表情をうまく際立たせていて、目からうろこでし た。
ドストが生きた、貴族の時代から知識人の時代への移行期は、それまで貴族の言葉だったロシア語が、知識人の言葉へと再編成されていく過程に当たります。
(それと並行して、「国家語」としてのロシア語が、それを普及する学校制度を通して民衆の間にも浸透していきます。)しかし、貴族階級に属さない草創期の 知識人は、自己に固有の言葉をいまだ確立しておらず、貴族の言葉で自己を語るという間尺の合わないナラティブを余儀なくされます。そのちぐはぐさが、小寺さんの極端訳によってあらわになったと思います。
上の訳文は、結局、「臆病は臆病ではない」という文に還元されます。その破格の構文が意味するのは、「知識人の臆病さは、貴族の言語で指さされるところの臆病とは別物である」ということです。(新しい時代の新しい)臆病は(古い時代の古い)臆病ではない。
そして、地下室人の語りがこうした破格の構文をとらざるを得ないのは、新興知識人に固有の臆病さを的確に指さす言葉が、地下室人の使う古い貴族のロシア語には存在しないためです。
上の訳文から私が連想するのは、『未成年』の小貴族ヴェルシーロフが、ソコーリスキー若公爵に向かっていう「真の意味のすぐれた人々の階級」としての貴
族のことです。ヴェルシーロフは、後にアルカージーとの対話で、ロシアにはそうした貴族が千人ほどいると解説しています。しかし、若公爵は、そんなものは 貴族ではなくフリーメーソンにすぎないとこきおろしています。(第2部第2章2)
ヴェルシーロフは「知識階級」という語も使っており、今日の「知識人」を念頭に置いていることは疑いありません。「知識人階級こそ真の貴族だ」という
ヴェルシーロフの言説にも、「貴族は貴族ではない」という同じ破格構文が内包されています。それは、ロシアの知識人が階級としての自己の存在を主張するまでに成長してきたこと、そして、伝統的な貴族階級への挑戦と闘争の意志がはっきり自覚されていることを物語っています。
では、『虐げられた人びと』の語り手の作家イワンはどうでしょうか?
作家イワンの「いまいましい弱気とデリカシー」(新潮文庫383p)という告白について、「いまいましい」が「弱気」だけでなく「デリカシー」にもか
かっているのか、私が疑問に思ったのは、作家イワンはヴェルシーロフのいう「知識階級」としての自覚にはまだ到達しておらず、デリカシーというセンチメン タリズムに酔う、未熟な段階にとどまった人物かも、との思いがよぎったためです。
そうであるとすると、作家イワンから地下室人への転身には、もう一歩、大きな飛躍が必要になります。しかし、小寺さんのご指摘のように、「いまいまし
い」が「デリカシー」にもかかっていて、かれがデリカシーへの自己陶酔からも醒めているのだとすれば、あとは、イフメーネフ夫妻とその一人娘ナターシャへ のかれの愛が不可能になってしまいさえすれば、地下室人が誕生すると言ってよさそうです。
とはいえ、作家イワンは、イフメーネフ夫妻とナターシャに対する愛を消し去ることのできない純朴な田舎者の青年です。かれのその愛ゆえに、アリョーシャ
に対するナターシャの《赦し》としての愛を主題として描き得たのであり、この作品が人道主義の系譜に連なるものとして読まれるのも、かれの愛をベースにし てです。
そうした愛を失っている地下室人と作家イワンとは、等質の知識人性を共有しながらも、その隔たりはまだ依然として大きいと言えそうです。
他方、ヴェルシーロフのいう知識人の共同体(=新しい貴族階級)もまた、地下室人の孤独とは無縁です。地下室人は、知識人でありながらも、ロシアの千人
の同志との結びつきを全く予感していません。他者に向かって、自分の存在を《知識人》として認めさせるいかなる権威も持っておらず、社会的な地位を持たな い余計者として、孤立無援の状態にあります。
その意味で、地下室人を知識人だと言い切ってしまうのは言い過ぎですが、しかし、ヴェルシーロフを初めとする後代の知識人の孤独は地下室人のそれと等しい。つまり、原‐知識人といったところでしょうか。
知識人の臆病ならぬ臆病は、ドストの反復強迫的な定型句として、「臆病ではなく○○」を生んだと私は言いました。細部にこだわり過ぎると思われるかもしれませんが、このこだわりにはそれなりの理由があります。ドスト5大長編の入り口に位置するのが、まさにこの定型句だからです。
ここは『地下室』のトピックですので深入りはしませんが、『罪と罰』の冒頭を2ページだけ読んでみましょう。まず1ページ目(米川訳)。
……青年は(家主の主婦の台所の)そばを通りすぎながら、一種病的な臆病な気もちを感じた。彼は自分でもその気もちを恥じて、顔をしかめるのであった。下宿の借金がかさんでいたので、主婦と顔を会わすのが怖かったのである。
もっとも、彼はそれほど臆病で、いじけ切っていたわけでなく、むしろその反対なくらいだった。
ラスコーリニコフもまた、地下室人と同じ構文「臆病ではなく○○」を生きていることがわかります。ページをめくると、青年は、《一切の人》に会うことは
「恐れ」ながら、《家主の主婦》は決して「恐れなかった」と紹介されています。これも地下室人と同じですね。そして注目すべきは、次の内的独白です。
『あれだけのことを断行しようと思っているのに、こんな下らないことでびくつくなんて!』奇妙な微笑を浮かべながら、彼はこう考えた。『ふむ……そうだ……一切の事は人間の掌中にあるんだが、ただただ臆病のために万事鼻っ先を素通りさせてしまうんだ……これはもう確かに原理だ……ところで、いったい人間は何を最も恐れてるだろう? 新しい一歩、新しい自分自身の言葉、これを何よりも恐れているんだ』
ここでラスコーリニコフは、地下室人の無為の世界に別れを告げ、臆病を克服する行動の世界に身を踊らせます。
「新しい一歩」、彼にとってそれは老婆殺しでしたが、その動きをヴェルシーロフに架橋するなら、知識人を社会階級として形成するための第一歩のことです。そして、「新しい自分自身の言葉」とは、古い貴族の言葉ではなく、知識人みずからのロシア語のことでしょう。
さらに、それこそが知識人の最も恐れていることだと言われるときの恐怖心――それが知識人に固有の新しい臆病さの正体なのだ、と言われているように読めます。
ドスト5大長編は、定型句「臆病ではなく○○」によって、その始まりを告げるように思われます。臆病ではなく、今までこの世に存在しなかった知識人固有の新たな恐怖、しかし、その恐怖の中へ一歩踏み出すことから5大長編の世界が開幕します。
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