ドストエフスキー関連「へぇ〜」情報
(1〜5)
投稿者:
Seigo
(1)
[278]
ドストエフスキー関連「へぇ〜」情報
名前:Seigo
投稿日時:08/05/04(日)
ドストエフスキー及びその作品に関する、また、ドストエフスキーに関連する人物や事柄の、
「へぇ〜」情報
(意外だった情報、今まで意外と認識度が低かった事柄、トリビア情報)
を見つけたり知っていたら書き込んでみましょう。
関連性の大小を問わず、何でもけっこうです。
各人が付する【へぇ〜度】の最高度は10とします。
(2)
[279]
氏の体格・身体の頑強さのこと
名前:Seigo
投稿日時:08/05/04(日)
ドストエフスキーは、背丈は170cm前後(見た感じではもっと低かったと証言する人もいる)で小柄だったが、胸は厚く肩幅も広く腕っ節も太く手のひらや足なども目立って大きくて、筋肉質の頑丈な身体をしていた! 運動神経や運動センスも悪くはなかった!
【へぇ〜度・7】
夜の営みの方も絶倫だった。
身体の頑強は、陸軍中央工兵学校時代には日々軍事訓練に明け暮れて
いたことに加え、流刑地のシベリアのオムスクで、日々の肉体労働によってさらに身体が鍛えられたためと自ら述べている。
晩年は病気も増えて体力は少なからず衰えたようだが、自分の身体のへこたれないバイタリティぶりを自ら「猫の活力」と呼んでいた。
晩年は毎日起床後に化粧室で石鹸をたっぷり使って念入りに自分の身体を洗った。自宅に居てもいつも正装だった氏の上着の下に隠されていた頑強な身体、、。
(シャートフのあの腕っ節やスタヴローギンの非凡な身体は、氏自身のことを幾分か写していると言えるのかもしれない。)
てんかんの発作時には氏は意識を失ってドッーと倒れ、のたうちまわるので、氏の顔や身体には生傷が絶えなかったそうだ。
頭髪は晩年に至るまで淡い亜麻色で白髪が全く無かった。
氏は、ダンスがうまくてビリヤードも好み、射撃の腕前はプロ級であり、運動神経はそれほど悪くはなかった。
氏(細足フェチだった)は50歳代になっても(結婚時は45歳)性の営みはお盛ん・絶倫で、若妻のアンナを屡々(しばしば)たじたじにさせた。
(一方で、顔の皮膚は弱々しそうで蒼白い蝋(ろう)のようで、顔色の方は病的に蒼白くて白っぽかった、などのことは、氏の容姿の病的な弱々しさを印象づけてきたものなのだろう。)
(3)
[280]
氏は甘党だった
名前:Seigo
投稿日時:08/05/04(日)
ドストエフスキーは、甘いお菓子や果物が大好物だった。書斎の机の引き出しには常時甘い果物やお菓子を入れていて仕事の合間に間食していた。
【へぇ〜度・4】
そのためなのか、氏は、虫歯を得ていた。
(4)
[281]
江川卓氏の氏名のこと
名前:Seigo
投稿日時:08/05/04(日)
ドストエフスキー文学の翻訳及び研究の大家、故・江川卓(たく)氏の、氏名「江川卓」は本名でなくてGHQの目から逃れるために付けたペンネームだとのこと。中国の揚子江(=江川)で酒を呑んだらうまかろう(=卓)、という思
いから付けたとのこと。本名は馬場宏。
【へぇ〜度・6】
戦後まもなくして付けたペンネームであり、当時日本では、反共活動家への
GHQのレッドパージが行われていて、仲間とともにロシア文学の研究や翻
訳を続けていた氏(終戦時18歳)はGHQに目を付けられないためにペンネ
ームで研究活動をした。「中国の揚子江(=江川)で酒を呑んだらうまかろう
(=卓)」という思いから付けたとのこと。本名は馬場宏で、父はロシア文学者
であった外村史郎(父もペンネームを使用?)こと馬場哲哉。父の影響で(一家
は終戦まで朝鮮にいた)少年時からロシア語の習得に親しみほとんど独習で
18歳の時(終戦時)にはすでにロシア語を高度にマスターしていた。(そのた
め、大学はロシア語の課程を修める必要はなく法学部(東大)に進学してい
る。) 終戦時に氏はなんとか日本に戻れたが父はそのままソ連兵によりソ連
に連行されて収容所で亡くなっている。
ちなみに、元読売巨人軍のエース・江川卓(すぐる)と同姓同名であること
は、両人の知名度が高くなった時期(1980年代)も重なり、当時よく話題とな
った。(両名は、もちろん、無関係。)
(5)
[785]
氏は近視で書斎では眼鏡を使っていた。 作中には〜
名前:Seigo
投稿日時:10/04/05(月)
ドストエフスキーは近視だった。書斎で細かい文字などを読む際などに眼鏡を使用した。
【へぇ〜度・4】
ドストエフスキーは、残されている氏の数多くの写真や肖像からわかるように常時は眼鏡はかけていなかったが、近視だった。(そのことは、氏が45歳の時の妻アンナが証言している。兄ミハイルの方は、眼鏡をかけた肖像が残っていて、眼鏡は常時使用していた。)
書斎で細かい文字を読む際などに眼鏡を使用した。
(ペテルブルグのドストエフスキー文学記念博物館に展示されている遺品の中には、氏が愛用した眼鏡が見られる。)
人前では眼鏡はかけなかったのは、強度の近視では無いのでかける必要もなっかのでしょうかね。それとも、自分には眼鏡は似合わないと思っていて眼鏡は人前
ではかけなかったなどの理由も考えられるのかな? 何か事情が?(てんかんの発作の際のことを考えて平常はかけていなかった?)
なお、
作中の登場人物で言えは、『カラ兄弟』で、スメルジャコフが、珍しく眼鏡をかけていたシーンというのがあったと思いますが、眼鏡を常時かけている登場人物や眼鏡のことが題材となっていて印象的な場面もすぐには思い浮かばず、ほとんど登場しませんかね。
【へぇ〜度・6】
(トルストイの小説では、眼鏡をかけた登場人物として、『戦争と平和』のピエールがいます。ロシア版映画『カラ兄弟』では、イヴァンは配役は眼鏡をかけていますが、作中ではイヴァンは眼鏡はかけているという描写はありませんね。)
登場人物の造形においては、氏は、眼鏡ということは、あまり、頭や意(い)になかったということなのかな? 当時のロシアでは眼鏡は流行ということもなかった(十分な普及もしていなかった?)? また、人々も人前では眼鏡をかけることを好まなかった? あるいは、当時のロシア人は近視の人が少なかった? ( 眼鏡の歴史も含め、このあたりのことは、いつか、調べてみたいです。)
|