ドストエフスキーと聖書
(1〜11)
投稿者:
Seigo、清水
(1)
[285]
ドストエフスキーと聖書
名前:Seigo
投稿日時:08/05/04(日)
ドストエフスキーと聖書という題で、
・ドストエフスキーが所持していたのはどういった聖書であったか
・ドストエフスキーにおける聖書
・ドストエフスキーの作品における聖書
などを中心に意見や気付きがある人は述べてみて下さい。
* * *
ドストエフスキーは、聖書を座右の書とし、旧約聖書のヨブ記を心の支えとし、新約聖書はヨハネの福音書やヨハネ黙示録に注目し親しんでいます。
ドストエフスキーは聖書の預言書における未来への予言の箇所や終末論・再臨論にも注目していた。
また、「聖書占い」もしばしば行なっている(その占いはけっこう当たった)。
ドストエフスキーの作品は、聖書に登場する人物や聖書の内容が下地になっている場合があり、聖書の文脈から作品を見ていこうとするドストエフスキー研究者も少なくはない。
ドストエフスキーが所持していた聖書や当時のロシアの聖書については井桁貞義氏による研究報告あり。
(2)
[315]
芦川進一著 『罪と罰』における復活 ─ドストエフスキイと聖書─
名前:清水
投稿日時:08年04月12日
この数日時間をみつけては表記のドストエフスキイ論を読みつづけている。この著作は「罪と罰」について、ラスコーリニコフの金貸し老婆殺しという表の事
件の展開と、その下を流れる「ラザロの復活」をめぐる深層の物語の二重構造を明らかにしていく。それは芦川氏が、「罪と罰」に構造的に織り込まれた聖書の 意味に着目することによってドストエフスキイ文学と聖書の深い連関性を我々に開示して来るものである。氏は「罪と罰」の中に、イギリス産業革命を始めとした西欧近代化の途上で近代資本主義とそれを押し進める社会に内在する暴力(氏は人間に対するこの暴力のことを宗教的範疇のこととしては、悪魔・バアルと
言っているのが独創的である)を見抜いたドストエフスキイとそこからの人間存在の真の「復活」の意味を見いだそうとしている。
私自身、直感的に感じ最も本質的な内容だと思い続けてきたドストエフスキイ文学のキリスト教・聖書的側面を芦川氏の著作によって実際に著作の上で読むこ
とができるのは、望外の喜びである。善きサマリヤ人、ガリラヤのカナ、ラザロの復活など馴染みの言葉が登場するのにも親近感がある。田舎からペテルブルグ に上り、学生になったとうざのラスコーリニコフの性格の一側面の説明にシルレル(シラー)精神という単語が多用されるのが、少し気になる点ではある(シラー精神に対するまとまった説明が欠けるため)。しかし、シラー精神やヨハネ黙示録などに対する知的刺激も再喚起される事も含めて、自分にとっては最近で
は稀有で出色なドストエフスキイ評論との出会いであった。今後、この本への関心が上がることを願う。
(3)
[316]
兄妹のシラー精神
名前:清水
投稿日時:08年04月20日
読み進める内に、芦川進一氏は「『罪と罰』における復活 ─ドストエフスキイと聖書─」で、シラーその人について語ったり、シラー精神の文学史的な解説
はあえて行ってはいないが、ラスコーリニコフに於けるシラー精神については、繰り返し説明しているのが解ってくる。そもそもシラー精神とは何かの、文学上 の意味は読者が共通に持っていることを前提にして、より重要な「罪と罰」の中のシラー精神に言及しているわけだ。
芦川氏が謂うには、ラスコーリニコフとドゥーニャの兄妹二人は育った家で父親の影響下、「美と崇高なるもの」そして「名誉」と「理想」のため には命も惜しまないという「シラー(シルレル)精神」を深く身につけて育った「同じ畑のイチゴ」であった。(同書p47)ここに、はっきりとシラー精神の 内実と兄妹の内なる意味が明らかにされている。
その上で、氏はシラー精神の限界に言及する。
西欧世界から生まれた啓蒙主義精神・シルレルの精神も、たとえ如何に多くの人々の心を動かす美徳を持とうとも、その根には自己中心の個人主義が宿 り、いつの間にかヒロイックな自己絶対化と生命の疎外に陥る危険性を持たざるを得ない。(同p262)ナポレオンもそれを元に「ナポレオン理論」を生み出 し、貧者からさえ血を啜っている蚤のような金貸しの老婆のような存在は殺されて当然だと考えたラスコーリニコフも自己絶対化の陥穽に落ち込んでしまった。
西欧に君臨するバアル(悪魔)もこのような西欧精神の行き着く先に生まれた弱肉強食の原理と体制の象徴である限り、それへの「精神的抵抗と否定」を打ち
出す力が同じ西欧の精神から生まれることは有り得ないとして、芦川氏はラスコーリニコフに生じてくる別のものを明らかにする。その力の作用は、冬の終わり を経て初春に咲き始める花々や木の芽の芽吹きのような「復活」にも例えられるであろう。
(4)
[317]
バアル(悪魔)に対する「精神的抵抗と否定」
名前:清水
投稿日時:08年04月27日
芦川進一氏に沿えば、「死」と「腐臭」そして「一本の葱」わずかこれだけが、ドストエフスキイにおける「復活」描写の基本的な要素であり、この単純素朴な道具立てこそドストエフスキイのリアリズムと宗教的認識構造を貫く最大の鍵であり魅力と言える。
この点で『カラマーゾフの兄弟』における「ガリラヤのカナ」は既に『罪と罰』における「ラザロの復活」にその根を持ち、約20年の歳月をかけて行われた
ドストエフスキイの『罪と罰』から『カラマーゾフの兄弟』に至る宗教的認識の深化の過程には、一貫したしかも簡潔なアイデンティティが貫いていたとも言え る。そしてその20年の距離とは、新約ヨハネによる福音書では11章「ラザロの復活」から同2章「ガリラヤのカナ」にさかのぼる認識の深化の過程、ア
リョーシャの言葉でいえば“喜びの奇跡”からもう一つの“喜びの奇跡”に向けての旅だった。その旅から共に浮かび上がってくるものとは、「死」と「腐臭」 と「一本の葱」、そしてこれらを通して獲得される「永遠の命」と喜びのアイデンティティとも言える。「ラザロの復活」を通してソーニャが示す宗教的認識と
覚醒のドラマとは、ドストエフスキイ文学の出発点でもあり到達点でもあったと言える。そしてこのドストエフスキイの旅を貫くアイデンティティこそ、西洋社 会を支配するバアル(悪魔)に対する「精神的抵抗と否定」の闘いを貫く原点でありまた、究極の勝利への鍵であるとも言えるであろう。(「『罪と罰』における復活 ─ドストエフスキイと聖書─」p204)
(5)
[318]
ポルフィーリィの「善きサマリヤ人」的側面
名前:清水
投稿日時:08年05月10日
芦川進一氏の「『罪と罰』における復活 ─ドストエフスキイと聖書─」を通して私は、
人が善の側に入り、善の領域にゆるぎなくとどまる契機に、「善きサマリヤ人」的行為が後押しすると確信しつつある。いうなれば「黄金の夕焼け」的飛び込みである。
ラスコーリニコフに対するポルフィーリィには、単にこの青年の内に自分の過去の似姿としてのシラー的青年像を見いだした共感による好意だけではなく、ラス
コーリニコフの中に命を賭してでも世界を変えようとする革命家あるいは殉教者の若々しく激しい魂の鼓動を聞き取った感動さえ存在すると言っている。ラスコー リニコフに自首を勧め、更に「苦しみを受け入れ」て「太陽」になるように励ますポルフィーリィの中にあるものとは、ただシルレル青年と向き合う法の番人と
して体制の中での、自称「一丁上がり(ザコーンチュヌィ)」の中年官吏の姿のみではない。自分のなし得なかった人生との激しい対決、世界の大胆な変革への 切り込みをこの青年に託す一人の真摯な人がいると言う。
「ひとたびあのような一歩を踏み出したのなら、そのまま踏ん張るのです。そこにこそ正義があります。そう、そして正義が要求することを実行なさい」
「あなたには、神が生を用意してくださっているのです」
これは息子を世に送り出す父親の別れの言葉、手塩にかけた若き修道士を殉教の旅に送り出す長老の愛情に満ちた送別の辞とさえ比されるべきものである。ラ
スコーリニコフに対して発せられた、「新しきエルサレム」と「神」と「ラザロの復活」を信じるかという三つの問いには、ポルフィーリィの存在の底から発せられた真撃な問いであったと考えるべきである。ラスコーリニコフに対する彼の言葉と姿勢の全ては、宗教的磁場あるいは神話的空間でなされる青春讃歌であり
祈りに似たものさえある。ここにはこの青年を地上での裁きから、神の裁きと赦しの場へと解き放とうとしている予審判事ポルフィーリイもいるとさえ言っても よい。そしてこの予審判事の背後にはそのまま、ラスコーリニコフを産み出した作者ドストエフスキイの心と、彼に託す夢が素直にかいま見られるとも言えるの
ではないかとしている。(同書p331〜2)
ラスコーリニコフに自首を勧めその罪の軽減を計らい、彼をシベリアでの八年の流刑へと送り出したのはポルフィーリィだった。私はそれらの行為に、ポル
フィーリィの内なる「善きサマリア人」を見る。しかもポルフィーリィだけにとどまらず、「善きサマリヤ人」の精神は、「罪と罰」において、あのスヴィドリ ガイロフの中にさえも最後に萌すのである。次回はその事を述べたい。
(6)
[319]
スヴィドリガイロフの「善きサマリヤ人」的側面
名前:清水
投稿日時:08年05月11日
スヴィドリガイロフへのドストエフスキイのデッサン。
「情欲の荒れ狂う衝動。上へ下への煮えたぎり。自己抑制の困難さ。押さえがたい、痛みの感覚に到るまでの情欲。嘘の発作。数多い後ろ暗い所業。幼い子供(N・B殺された)、拳銃自殺を望んだ…」(「創作ノート」の後半(三稿))
数多い後ろ暗い所業─ には、確たる証拠が挙がっているのではないが、火のないところに煙は立たない式の噂も多い。ペテルブルグでいかさまカルタ師となり、淫蕩生活に耽り、十四歳そこそこの「唖で聾」の少女を陵辱し死に追いやった。借金が嵩み債務監獄に収監された。いっしょになった女地主マルファの領地の下男フィーリカを死に追
いやった。住み込み家庭教師ドゥーニャを追うべく妻のマルファを毒殺、ペテルブルグに上ってきた等々。
拳銃を発射してドゥーニャは去った。豪雨の中、最後の夜を夜通しずぶ濡れになりながら彷徨したスヴィドリガイロフ。そんな彼に命の最後の瞬間、ソーニャに対して「善きサマリヤ人」的側面が顕れる。
さて、びしょ濡れになって部屋に戻るや彼がした最初のこと。それは金と証券類をかき集め、隣室に住むソーニヤを訪問することだった。嵐で「街を流す」ことができないソーニヤは、カペルナウーモフの四人の障害を持つ幼い子供たちを集めてお茶を飲んでいるところだった。この「聖なる集い」を訪れたスヴイドリ
ガイロフは、ソーニヤに三千ルーブリの五分利付公債を提供する。彼女がラスコーリニコフを追いシベリヤに行くに必要とされるだろう金額である。まずはこの 要件を済ませて、彼は言う。
「さようなら、ソフィヤ・セミョーノヴナさん! 生きているのですよ、そういつまでも生きているのですよ。あなたは他の人の役に立つ方なのですよ」
ソーニヤに対するスヴイドリガイロフの好意はこの時初めて表現されたものではない。三日前にソーニヤの義母カチェリーナが死んだ折にもスヴイドリガイロ
フはその葬式費用の一切を引き受け、実際に法要から式次第の全てを一人で取り仕切ってやっている。それのみか、彼は残された三人の子供たちの養育の世話も 引き受け、更にはこの時ソーニヤの救済までラスコーリニコフに約束してやっているのだ。「『罪と罰』における復活 ─ドストエフスキイと聖書─」で、芦川
進一氏はスヴィドリガイロフのソーニャに向ける好意に、彼が隣室で盗み聞きしたソーニャの新約聖書「ラザロの復活」朗読(ラスコーリニコフに対する)の出来事を上げている。(同書p231〜237)
(7)
[326]
ソーニャとその父
名前:清水
投稿日時:08年05月18日
マルメラードフとは、自らの飲酒癖が招いた赤貧ゆえにその圧倒的多数の大衆が構成する社会からさえこぼれ落ち、それどころかそこから「箒で掃き出され」
(「罪と罰」第一編中村白葉訳、岩波文庫p24〜p50)ようとする最下等の失格人間であり敗残者である。しかしこの「豚」のような卑劣漢が今、その行き場のないどん底で神とキリストからの「憐れみ」を求めている。「だって人間、誰かに憐れんでもらわなきゃならんのです」。このような絶対の卑劣漢にも果たして天からの憐れみと赦しは与えられるのか。マルメラードフのこの「最後の審判」への願望は、「行き場のない」どん底の人間から発せられた完全に理不尽な
願望であり破廉恥な夢想と言うしかない。芦川進氏「『罪と罰』における復活 ─ドストエフスキイと聖書─」によれば、さて「憐れみ」という概念は不思議な ものである。マルメラードフの救済願望をその余りもの破廉恥さと理不尽さゆえに「憐れみ」の対象とはならないとして否定するならば、「憐れみ」の本来の絶
対性は自己破綻することになってしまう。ソーニヤとの出会いの前になされるラスコーリニコフとマルメラードフとの出会い、ここには生来の善意とシルレル的 な人類愛の精神を土台とする「憐れみ」に生きてきた現代青年ラスコーリニコフの、新たな「憐れみ」への希求との出会い、キリスト教的救済観念との出会いが
含まれている。(同書p146〜)
ラスコーリニコフは馬車に轢かれたマルメラードフを住まいに運び込み、医者と司祭とを呼ぶよう手配する。ソーニヤが「仕事」の場から駆けつけ、彼女が初めてラスコーリニコフの視線の内に入るのはこの時だ。しかし彼女は父の死の場にあっても、本来のつつましさと娼婦となった己の身への恥とから目を伏せて敷
居をまたぎ、部屋の隅の陰に身を隠したまま別れを告げる番を待っている。娘に気づいた父は赦しを請おうと起き上がる。しかし彼は床に転げ落ち、遂には娘の 腕に抱かれて息を引き取る。マルメラードフの「終末」とは、馬車に胸をつぶされ血にまみれた悲惨な死であり、彼が夢見ていた光輝に包まれた神と再臨のキリ
ストによる荘厳な「赦し」の場とは程遠かった。しかし娘のソーニヤが父を胸に抱きしめ、愛と憐れみの心の内に静かにその死を看取ったのである。そしてこの 光景の全てを目撃するラスコーリニコフがそこにはいる。
ソーニヤは父マルメラードフの名がラスコーリニコフから出るや突然口ごもりながらも囁く。
「わたし、ちょうど今日、見たのです」
「誰を?」
「父を、です。わたしは通りを歩いていたのです。すぐそこで、街角です。九時でした。すると、父がまるで前を行くような気がしたのです。そうです、まさに、まるで父のような気がしました。わたし、母のところに行こうかと思ったくらいでしたから……」
マルメラードフは娘を継母カチェリーナのヒステリーに曝し、また飲酒の果てに家族を田舎からペテルブルクに連れ出し、更には「行き場のない」赤貧状態に
陥れたばかりか、その末には娘を「黄色い鑑札」の女へと追いやった。しかも娘が三十ルーブリで自らを売った夜、この父は悲しみを抱えつつも酒に酔い潰れ、 床に横たわったままその悲劇の一切を傍観しているだけの卑劣漢でしかなかった。この父が今自らの腐臭の漂う墓場から立ち上がり、街を流す娘の前に現れ、た
だ彼女の先を歩いている。娘ソーニヤの眼に捉えられたこの父マルメラードフの姿とは、彼によって追いやられた「行き場のない」生の現場、貧困と悲痛の極 で、なお父を憐れみその死を悲しみ腐臭に心を痛める彼女が自らの心に受け容れ結んだ愛の心像であったと言うべきであろう。娘の「憐れみ」と「赦し」の眼差
しが捉えた父の姿、これこそ「豚にも等しい」「獣の貌と形を宿した」破廉恥漢マルメラードフが希求した神の「憐れみ」と「赦し」の具体的な実現の貌であり イコン(聖像)だったとも言えるかもしれない。だがこれ以上にマルメラードフの復活の姿として相応しい形が他にあろうか。ここにこそ腐臭の中から起きあがった「ラザロの復活」の姿があり、ドストエフスキイのリアリズムが描いた永遠の相貌の一つがあると言えよう。それは弱々しく力ない姿のようでありながら、ソーニヤの愛の心眼が確かに捉えた不動の静けさに満ちている。(同書p162)
「どこなのかな、あのラザロについては?」
「ラザロの復活についてはどこかな? 探してくれないかな、ソーニヤ?」
棺の中で腐臭を発する父を墓地の礼拝堂に安置した後、ソーニヤは客を取るべく出た街角でその父の姿を見かけるという体験をした。しかし、彼女はこの意味
を計りかね、脳裏に「ラザロ」という言葉が浮かんだとは一切記されていない。父に関する一連の体験は、未だ彼女の心に確かに納められるまでには至っていな い。ところがこの時、親友だったリザベータのもたらした新約聖書を手に取ったラスコーリニコフの口から、しかも信仰とは無縁で神への偏見と敵意に固まるか
のように見えるこの青年の口から、「ラザロの復活」という言葉が出てきたのである。父マルメラードフにまつわる様々な一連の出来事、昨夜の死から腐臭へ、 そして夕刻の墓地への移送、更には先ほどの街角での目撃まで、二日間にわたった出来事が、ラスコーリニコフから発せられた「ラザロの復活」という言葉に
よって一気に聖書的磁場に引き寄せられ、一つの「物語」に結晶するのであった。
P.S.
投稿日時:08年05月18日
芦川進一氏の「『罪と罰』における復活 ─ドストエフスキイと聖書─」の、自分流の読み取りと、要旨の整理を続けているところですが、原著の何十分の一に
も満たないものです。是非とも、原著にお目通しいただきたい。また、「ラザロの復活」など、新約聖書で直接あたっていただければ、よりいっそうの感興が湧くと存じます。
「ラザロの復活」は日を経た死者の復活談として線の太い話ですし、状況的には腐臭も確実に漂っているような話でしょうが、ここには、イエスを親しく知る
人たちの彼に対する強い「信頼」の情が示されていると思われます。また、キリスト教とは別にして、忘れがたい人の死後の胸中への蘇りや、夢での再会などに も近い感がします。
(8)
[342]
ラスコーリニコフの「善きサマリヤ人」的側面
名前:清水
投稿日時:08/06/15(日)
ラスコーリニコフの下宿先のザルニーツィナ夫人が裁判で証言し明らかにした事実。彼女によれば、まだ皆
が五辻街の住居に住んでいた頃、ある夜火事の起こった際にラスコーリニコフは燃え盛る火の中に飛び込んでゆき、自らは火傷を負いながら二人の幼な子を救出 したという。もう一つの事実は友人ラズミーヒンが明らかにしたもので、大学時代のラスコーリニコフは肺病にかかった学友を支えるためになけなしの金を半年
にわたって与え続け、更にこの友人の死後残 された父親についてもその入院から葬式に至るまで一切の面倒を見てやったという。
酔いつぶれたマルメラードフを住まいに連れて帰り、一騒動の後ラスコーリニコフがそこを立ち去ろうとする時。マルメラードフによって追い込まれた家族の
貧窮ぶりを実際に目の当たりにし、この青年は見て見ぬふりしたままそこを立ち去ることができない。彼は持ち合わせの全てをそっと窓際に置いて立ち去る。持 ち合わせの「全て」といっても、それは金貸しの老婆から受け取った釣り銭でしかなかった。しかしそれでもこの時のラスコーリニコフにとって、この数10カ
ペイカはなお暫らくの間は必要不可欠の生活費として彼を支えてくれるはずのものだったのだ。
ラスコーリニコフの性格の奥深くには何よりもまず生来の善意、それが動物であれ人であれ、目の前で苦しむものの姿を目にすると黙って通り過ぎることので
きない優しさが存在している。老いた痩せ馬殺害の夢を始めとして『罪と罰』の中にはこのことを示すエピソードに事欠かない。そこでは彼のいまだ汚されるこ と のない瑞々しく純真な幼な心が脈打ち、その幼な心に捉えられた神も生きている。
ラスコーリニコフの屋根裏部屋をラズミーヒンに伴われた母と妹が再訪し、更にそこをソーニヤが訪問した時のことである。ここで(三篇四章)ソーニヤはラ
スコーリニコフが自分と同じく貧困の極にいる青年であることを初めて知る。「あなたは昨日、私たちに全てを下さったのですね!」。ソーニヤの この感動は、直ちにラスコーリニコフの母と妹にも伝わる。「墓場(棺)」と母が呼んだこの部屋に一瞬の内に「光」が輝き始めた。ラスコーリニコフの生来の
善意が放った光が一度その道を失い、ソーニヤを介して起り、遠くシベリヤの地で再び輝き始めるドラマ、それが『罪と罰』であるとするならば、そのドラマの 新たな出発点であり中心の一つは「墓場(棺)」と呼ばれたこの屋根裏部屋のこの瞬間である。ソーニヤがシベリヤまでラスコーリニコフを追い彼の「信念の更
生」を導くことになる原点には、彼女がこの青年の内なる心根の優しさを発見し感動する具体的かつ決定的な瞬間があったのである。(芦川進一氏の「『罪と 罰』における復活 ─ドストエフスキイと聖書─」河合文化教育研究所 2007.12 p267)「墓場(棺)」たる屋根裏部屋でソーニヤが青年の内に流れるこの善意と優しさの水脈、生来の熱い血の鼓動を「善きサマリヤ人」の血の鼓動として
聴き取った瞬間、二人は永遠の絆で結ばれたのである。それはソーニヤがこの青年のいわばイエスなき「善きサマリヤ人」の血を、自らの内なる「善きサマリヤ 人」の血と同根のものとして受け止めた瞬間であり、改めてこの屋根裏部屋のソーニヤの発見と感動こそが二人の間に生まれる「愛」の具体的な原点であった。
(9)
[343]
いかさま師スヴィドリガイロフ、勝負師ソーニャ
名前:清水
投稿日時:08/06/15(日)
芦川進一氏の「『罪と罰』における復活 ─ドストエフスキイと聖書─」(河合文化教育研究所 2007.12, p214〜5,p234〜5)によれば、スヴィドリガイロフが抱える根本的な問題とは、自分の欲望や「情欲の衝動」あるいは情熱の対象に対して正面から誠意をもって立ち向かうということをせず、ペテンで誤魔化すということである。スヴイドリガイロフの根にあるものとは、いかさまでありペテンであり、カルタ
においてのみならずおよそ彼の言動の一切は人をペテンにかけ自分の快楽の用に供せしめようとの、あるいはそこから人間の究極の本質もいかさまでありペテンであることを暴露し嘲笑しようとのモチーフで一貫していると見てよいだろう。ラスコーリニコフが生来の善良さと潔癖さに基づいて「高きもの」への希求を人と
世界とにぶつけるタイプの人間であり、そこから世界史を支配する少数の権力者たちが恣意的な横暴をふるい、その下では多数の平凡な人々が苦しみ消費されて ゆくだけの現実に対して「否!」を投げつけずにはいられない「シルレル」的青年であるとすれば、スヴイドリガイロフとはこの青年に劣らぬ醒めた世界認識を
持ちつつも、結局は自己の内なる欲望の確かさのみを信じその欲望を専ら貧欲に消費する者であり、またその追求においては手段を選ばぬ稀代の「いかさまカル タ師」であると言うことが出来るであろう。彼が「ニヒリスト」であるとするならば、その意味はまずはこのような人生と世界に対する彼のペテン師的姿勢その
ものの内にあると考えなければならないであろう。世界の究極の善意を問い、果てに世界を支配する力を自分のものとしようとするに到った青年と、世界の究極 の虚偽を証し、世界を自分の快楽に供せしめようとする男。この対照に『罪と罰』が持つ一つの緊張の源があると言えよう。
スヴィドリガイロフに関連して「ペテン師」「いかさまカルタ師」という角度から照明を当てる時、隣室からスヴィドリガイロフの耳に飛び込んで きたソーニヤとは、「行き場のない」絶体絶命の人生で、しかも既に殆ど九分九厘は負け勝負に追い込まれた窮境の中で、遥か1900年以上も昔のパレスチナ の片田舎ガリラヤ出身の男イエスと神に賭け続ける「勝負師」そのものということが出来るだろう。その彼女が狙うものとは神という目に見えぬ定かならぬもの
の存在とその神が与える「憐れみ」と「永遠の命」。そしてこの人生の賭場に臨むに当たって彼女が手にする唯一の掛け金とは神の究極の善意に対する信頼の み。控えめで「柔和で静かな」この女性が、実は人生における「一切か無か」の最も大胆不敵な勝負に生きる女性でもあるのだ。ラスコーリニコフからの苛酷な
審問の前に立たされても、神への信頼の一点でそれらの問いを撥ね返すソーニヤ、この捨て身の体勢で人生への勝負に賭けるソーニヤのような人物こそが真の 「勝負師」であり、決して「いかさまカルタ師」というような名をもって呼ばれることはないであろう。この夜スヴイドリガイロフの全神経はラスコーリニコ
フの言葉に集中すると共に、いつの間にかソーニヤの人生に対する姿勢、神への信に一切を託し生きる彼女の姿勢そのものにも釘付けとなっていったと考えても 不自然はない。一言で言えば、この夜スヴィドリガイロフはソーニヤから深い感動を与えられた可能性が大なのである。
(10)
[345]
彼方からの力
名前:清水
投稿日時:08/06/22(日)
ソーニヤの生は自己犠牲の生である。ラスコーリニコフに渡した糸杉の十字架が象徴するように、彼女の生
は神の究極の善意に対する絶対的な信頼と、その神への信頼を十字架に到るまで貫いた、イエスに対する信頼との二重の信頼を基にする。そしてここにドストエ フスキイの中心思想が具体的に表現されていると考えられる。つまり西欧とロシアを支配するバアル(悪魔)に対する「抵抗と否定」の姿勢とは、歴史に現われるナポレオン的な力によって表現されるのでなく、むしろ逆にこの地上で最も虐げられた者、弱き者が示す愛と憐れみの自己犠牲の生にこそ最も強くその力を表すという逆説である。それは「屠られた子羊」としてヨハネの黙示録の中心にある逆説でもあった。世の不条理と悲惨さの中で、ラスコーリニコフは自らの内なる善意を放棄し、神や世界への「なぜ」という問いと抗議に向かい、結局は自らをもう一つのナポレオンとして立てるという自己絶対化の道をとった。ソーニヤ
はこれとは逆に、神の究極の善意への確信、言い換えればその愛と憐れみへの絶対信頼に立ち、自らを無とし愛と憐れみの業に静かに徹する。この点で彼女は、 十字架上に磔殺されるに到るまで神への絶対信頼を貫き、つまりは人間への愛と憐れみを貫いたイエスの姿、「屠られた子羊」の姿とも重ねられる存在なのであ
る。先の「勝負師」という言葉を用いるならば、ソーニヤとはイエスに倣い神の究極の善意に一切を賭けた「屠られた子羊」という名の「勝負師」だった。ラス コーリニコフの「なぜ」の問いに正面から答える力を持つのは、ソーニヤに他ならない。我々は『カラマーゾフの兄弟』において、ラスコーリニコフの「なぜ」
の問いをイエスの「荒野の問答」と重ね、世界と人類の歴史を向こうに置いて壮大な神義論的問いを展開するイワンと出会う。その鋭利で深刻な問いに立ち向かうのはアリョーシャであるが、既に我々はこの対決の原構図を『罪と罰』のラスコーリニコフとソーニヤとの問答の内にほぼ完全に目撃していると言えよう。
ソーニヤをこのようなイエスと神への絶対の信頼に導いた人として、我々は改めてその父マルメラードフに注目しておくべきであろう。この娘を娼婦の身に追
いやり、更には彼女から飲み代までせびって死んでいった男、この卑劣漢がいかに聖書に親しんでいたかは、酒場で彼がラスコーリニコフに語り聞かせる話から 十分に伺われる。中でも彼が語る再臨のキリストによる「最後の審判」、これは卑劣漢としての彼の人生からでなければ紡ぎ出されない神からの憐れみと赦しへ
の希求の痛切な表現である。それは酒臭い息の中から表明される言語道断の希求であり夢想でありながら、ズバリ的をついたキリスト教的救済論ともなってい る。神の救いなどに全く値しない「豚たち」、しかしこの自分たち「豚」をこそ、実は憐れみと救いの対象とされ最後に声をかけて下さるのが神なのだ。この逆
説的な救済願望はただ自分の卑劣さを正当化するための自嘲的なレトリーク、酔っ払いのマルメラードフ節だったというよりは、自分で自分を扱いかねる卑劣漢 の「行き場のない」悲しみと絶望の底から発せられた叫びだったのだ。
このような父親に触れ、父親が破滅の底からもなお仰ぎ見る神、そしてイエス・キリストとその赦しについて、ソーニヤは彼女なりの想いを育んでいったので
あろう。事実、父親によって追いやられた「行き場のない」状況の中でも、最後の拠りどころをただ神に置き、自らはイエスの十字架に到る生、「屠られた子 羊」の生に倣いつつ、自己犠牲の生に徹し、神からの究極的な憐れみと赦しとをただつつましく待つソーニヤの姿勢は、基本的にはそのまま父マルメラードフの
救済観と裏返しに重ねられるものである。そこからはラスコーリニコフが陥った自己思想の絶対視とかプライドへの固執とか、世界と人間とについて高みから裁き弾劾しあるいは救おうというシルレル的な姿勢が出て来ることばない。人生の絶対の窮境からこそ、神の究極の善意を信じ待ち望むという救済観を共有するこの親と娘にとって、人間を支えその生きる苦しみと悲しみと過ちとを憐れみ、そして赦しを与えてくれる絶対の力、究極の善意とは人間の内から出てくるもので
はない、人間の彼方から恵まれる力なのである。このような意味で、ソーニヤは「星」を見詰める人であり、その意味で彼女こそ真の「シルレル的なるもの」の 精神を宿す人であり、真の「善きサマリヤ人」と言えよう。
(芦川進一「『罪と罰』における復活 ─ドストエフスキイと聖書─」(河合文化教育研究所 2007.12
p276〜8より)
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糸杉の十字架(ラスコーリニコフの聖書)
名前:清水
投稿日時:08/06/22(日)
シベリヤ……茫漠たる大河の河岸。高い岸からは、広々とした周囲がひらけた。遠い向こう岸の方から、微かな唄声がつたわってきた。そこには、日の光の漲った、果てしもない草原に、遊牧民の天幕が、やっと眼にとまるくらいの点になって、ぽつぽつ黒く見えていた。そこには自由があった。そしてここの人々とは似もつかぬ、まるでべつの人々が生活していた。そこではまるで、時そのものまでが歩みを止めて、恰もアブ
ラハムとその牧群との時代がまだ過ぎ去っていないかのようであった。
(「罪と罰」終編p341 中村白葉)
「一緒に、苦しみましょうよ。一緒にね、十字架を負いましょう!」
ソーニヤはリザベータから貰った鋼の十字架を自分が持ち、ラスコーリニコフには自分自身の糸杉の十字架を手渡す。ラスコーリニコフにはこの時彼がソーニヤ
の渡そうとした十字架を実際に受け取るのはそれから四日後のこと、いよいよ彼が警察署に自首する直前のことである。しかし彼がこの十字架を真に心に受け止 め、自分の「信念」とする用意ができるのは、それから更に一年近くが過ぎたシベリヤでのことだ。そしてこの時でさえ、彼はベッドの枕の下に隠してあった聖
書を初めて取り出すだけである。ラスコーリコフがこの糸杉の十字架の意味を心から理解し受け容れ、そして自らの十字架を背負って歩み始めるのは更にはるか 後のこと、聖書と取り組み、その中に記されたことの真の意味を理解して初めて可能となることであろう。彼の「信念の更生」とは、そのような気の遠くなるような未来の時間の幅の中で行われる贖罪の旅であることが提示され、『罪と罰』は終わるのだ。ここにあるのは人間の魂の変貌に必要とされる時間というものの
力を誤魔化すことなく見詰めるドストエフスキイの厳しいリアリズムである。
(芦川進一「『罪と罰』における復活 ─ドストエフスキイと聖書─」(河合文化教育研究所 2007.12
p275より)
*芦川進一氏のドストエフスキイと聖書は今回で終了です。
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