過去の投稿記事(28)
(更新:24/05/19)




ドストエフスキーが達
した人間理解
(
1〜14)



投稿者:
Seigo、確かな現実、
ロシナンテ





()

[52]
ドストエフスキーが達
した人間理解

名前:Seigo
投稿日時:08/02/09()


ドストエフスキーは17歳の時に兄ミハイル宛ての手紙で、

「人間は神秘です。その神秘を解かなければならない。その解明にたとい一生かかるようなことになっても、空しく時を過ごしたなどと言うことはないのです。ぼくは神秘に取り組んでいるのです。なぜなら、人間になりたいから。」
(
中村健之介訳)

と述べ、
また、知人への手紙の中で、

「人びとの生活を考察すること、それが私の第一の目的であり、楽しみでもある。」

と述べていますが、
その目標のもとドストエフスキーが生涯をかけて作品や著作等で述べた人間についての理解・洞察を、お互い、挙げていきましょう。


*    *    *



幸福な人間は善良だということ

ページ内の「ドストエフスキーの名言」に早くから挙げてますが、

幸せな時の人間は、美しくて、まわりのものへの愛情にあふれてくる。

(それにしても、喜びと幸福は、なんと人間を美しくするものか!なんと心は愛にわき立つものか!(『白夜』より))

幸福な人間はつねに善良である。
(
※『未成年』の中の「彼らは幸福なときには、二人とも実に善良なんだ(2部第3章の4)の箇所を、訳者小沼文彦氏が一般化して『ドストエフスキーの言葉』に掲載している文。)

というドストエフスキーが述べた命題は、ドストエフスキーの人間理解のうち、自分がもっとも強い感銘を受けたものの一つです。

上の二つのうち、後者は、言い換えれば、

ある人間が善良でないのは彼が幸福でないからである。

という内容も示していて、いずれも、ドストエフスキーの長年の人間観察に裏付けられたものとして、鋭い人間観になっています。




()

[792]
人間は習慣に支配されているということ
名前:Seigo

投稿日時:10/04/21()


・「まったく、習慣てやつは、人間をどんなふうにもしてしまうものなのだ。」
(『地下室の手記』の第2部の7より)

・「習慣というものは実に根強いものです。」
(『作家の日記』より)

・「人はとかく慣れやすいものだ。国家的、政治的関係でもそうだ。習慣が
おもなる原動力なんだ。」
(『カラマーゾフの兄弟』のコーリャの言葉より)

・「それにしても、人間は(劣悪な環境の中でも、慣れていけば)生きられるものだ!人間はどんなことにでも慣れられる存在だ。わたしはこれが人間のもっとも適切な定義だと思う。」
(『死の家の記録』より)

・「大尉、僕の見たところでは、君はこの四年間少しも変わらないね。」
前よりいくぶん優しい調子で、ニコライはこう言い出した。
「ふつう人間の後半生は、ただ前半生に蓄積した習慣のみで成り立つ
と言うが、どうやら本当のことらしいね。」
「なんという高遠な言葉でしょう!あなたは人生の謎をお解きになり
ましたよ!」
なかば悪くふざけながら、なかばわざとならぬ感激に打たれて(彼はこうし
た警句が大好物だったので)、大尉は叫んだ。

(
以上、米川正夫訳。『悪霊』の第2編第2章の1より)

などの言葉が挙がるように(上掲のように『悪霊』の中においてその指摘が多い)、ドストエフスキーは、人間の生活や人生や物の見方における「習慣」というものの影響や功罪について、鋭く観察し注目し洞察していました。特に、上掲の大尉とスタヴローギンの会話の内容は、実感でき、身につまされる思いがします。




()

[809]
善悪に引き裂かれながらどんな人間も〜
名前:Seigo
投稿日時:10/05/23()


善悪に引き裂かれながらどんな人間も尊い感情や性質を内に有しているということ


ドストエフスキーは、晩年に向かうにつれて、どんな人間であっても(特にロシア人において)、その内に、尊い感情や性質を有している(秘めている)という考えを、しばしば述べました。

「どんなに堕落した人間の心の中にも、きわめて高尚な人間的な感情が残されていないものでもない。人間の心の深部は究めつくせないものである。だから頭から堕落した人間を軽蔑してはならない。いや、むしろ反対に、その美点を探し出して更生させてやらなければならない。一般に認められている善悪とか、道徳の標準などはあてにならないものである。」
・「わたしはもちろん、哲学者じゃないけれど、しかしどんな人間でも、見かけよりずっと余計に善良さを持ち合わせて思うね。」

(
以上、『ステパンチコヴォ村とその住人』より。)

「宗教的感情の本質というものは、どんな理性的判断とも、どんな過ちや犯罪とも、またどんな無神論とも、関係のないものなのだ。」
(
『白痴』のムイシュキン公爵の言葉より。)

「しかし、神はロシアを救ってくださるであろう。なぜなれば、いかに民衆が堕落して、悪臭ふんぷんたる罪業を脱することができぬとしても、彼らは神が自分の罪業をのろっておられる、自分はよからぬ行ないをしている、ということを承知しているからである。わが国の民衆は、まだまだ一生けんめいに真理を信じている。神を認めて感激の涙を流している。」
(
『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の言葉。)


上に引用した言葉に、そういった人間観は、うかがわれます。

「神と悪魔が闘っている。そして、その戦場こそは人間の心なのだ。」
(
『カラマーゾフの兄弟』のドミートリイの言葉。)

「その上俺がどうしても我慢できないのは、美しい心と優れた理性を持った立派な人間までが、往々、聖母(マドンナ)の理想をいだいて踏み出しながら、結局ソドムの理想をもって終るという事なんだ。いや、まだまだ恐ろしい事があ
る。つまりソドムの理想を心にいだいている人間が、同時に聖母の理想をも否定しないで、まるで純潔な青年時代の
ように、真底から美しい理想の憧憬を心に燃やしているのだ。いや実に人間の心は広い、あまり広過ぎるくらいだ。
俺は出来る事なら少し縮めてみたいよ。」

(
『カラマーゾフの兄弟』のドミートリイの言葉。)

「この世の中にいる人はみんないい人なのよ。ひとり残さずいい人なのよ。この世の中ってほんとにいいものね。わたしたちは悪い人間だけど、この世の中っていいものだわ。わたしたちは悪い人間だけど、いい人間なのよ。悪くもあればよくもあるのよ……」
(
『カラマーゾフの兄弟』のグルーシェンカの言葉。)

と、人間の心の中では善悪がせめぎあっていることを述べ、人間が悪を行なってしまう存在であることを作中で厳しく指摘しながら、ドストエフスキーは、最終的には、人間に関しては性善説に立ったと言ってよいのではないでしょうか。

 



()

[926]
気位の高い女性は母性本能をくすぐる男性(男の子)が大好きである
名前:Seigo
投稿日時:10/10/31()


気位の高い女性は母性本能をくすぐる男性(男の子)が大好きである。

ドストエフスキーは、このことを洞察していて、小説『虐げられた人びと』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』をはじめ、各小説で繰り返しそのカップルとその男女の様子を描いている。

現代日本の芸能界でも、プライドが高くて気が強い女性芸能人は、守ってあげたい居心地のよい年下の男性と一緒になる傾向があることは衆知の通り。



()

[947]
RE:ドストエフスキーが達した人間理解⇒産まれたばかりの〜
名前:確かな現実
投稿日時:10/11/29()


RE:ドストエフスキーが達した人間理解⇒産まれたばかりの人間は神様です!そうですよ!ネ!

もともと産まれたての人間は、高尚な人間的感情にあふれているイエスキリストみたいな神様みたいな(~o~)心イクオール身体であるとカンガエマス。人間に内蔵されてしまっている高尚さ!!やさしさ!!



()

[948]
RE:人間理解⇒神と悪魔が闘っている戦場こそ〜
名前:確かな現実
投稿日時:10/11/29()


RE:人間理解⇒神と悪魔が闘っている戦場こそ人間の心とは⇔成長過程の他力本願的あらゆる経験です!ネ!

神と悪魔の闘いの戦場という心イクオール身体!!意識的にではなくふりかかってしまう他力本願的経験と対峙するにあたって、自力本願的に、ポジィティブに対処出来ればいいのですけれど、出来ない時が、悪魔の出現率が高い!??




()

[949]
メッキがはげるとは、よい意味に使えば、〜
名前:確かな現実
投稿日時:10/11/29()


メッキがはげるとは、よい意味に使えば、産まれたばかりの人間が持ち得ている善性を垣間見るに至る事!?

神と悪魔の戦場である心イクオール身体はパスカルの如く考えるあしであって、メッキがはげるように、イエスキリスト的神様的心イクオール身体になればよいのです!ネ!



()

[950]
ドムの理想対マドンナの理想悪魔対神↓
名前:確かな現実
投稿日時:10/11/29()


神様を感じている時には、悪魔は出てこないから悪魔的の時には神様的と自分自身側で納得させている正当化がなされてる!??悪魔的な行為は神様的な心イクオール身体が垣間見えるのは、本来人間が産まれたての時にはイエスキリストのように神様のように絶対善であったから!???



()

[951]
メッキがはがれた産まれたての自分自身状態にしておくために⇔愛
名前:確かな現実
投稿日時:10/11/29()


愛し愛される安定感が心イクオール身体に必要!ストレスをなくした平和!人か事か物でもよい!カラ!事物への高度、高尚な転換が出来ない時には人がもちろんいいカラ!




(10)

[952]
そうすると!!??
名前:確かな現
投稿日時:10/11/29()


人のために頑張れる自分となる事が出来る!!イエスキリスト的神様的な状態です!!?知恵が未だ経験によって出来ていない子供は絶対的信頼性のある愛が瞬間の隙間もないくらい必要です!



(11)

[953]
絶対な愛に愛し愛される人が〜
名前:確かな現実
投稿日時:10/11/29()


絶対な愛に愛し愛される人が存在!事!もの!って見つけたら恐いもの知らずの楽園が建設された事と同値?

人間は思考が変化しないと生き生きと生きていけないという生物学的な意味あいから、愛する対象が絶対的でなかったり愛する対象が絶対的事物とも固定化出来ず、盛者必衰ゆく河の流れはとも共通なのでしょう。自身の力で人のために頑張れる心と身体を保っておくことは至難の業です。いつも不断なき試行錯誤が付き纏います!心身ともが疲労しないと、人のために頑張っているという実感が湧きずらい事もあります!!ネ!!




(12)

[997]
RE:ドストエフスキーが達した人間理解
名前:ロシナンテ
投稿日時:12/02/03()


「ドストエフスキーの内奥の信念を最もよく示しているのは、次の言葉である。――『万人万物にたいして罪を負う、このことをおいておのれの救霊は望まれない。おのれを救いえなくしては、他を救うこともできない。他を救うことによって、おのれをも救うであろう』。こういう要請をもって、この作家は、内的必然によって起こるのでなしに外部から人間にもたらされるいかなる外来的救済をも、超克したのである。苦悩を身に負うことによって救いを見いだす、というドストエフスキーの見解が、教会の教義と一致しないのは明らかであり、この点をこれ以上くわしくべる必要はないだろう。
「ドストエフスキー―宗教的思想家―」ワルター・ニック著実存主義叢書p163〜p164

上に引用した言葉は単に苦悩神秘主義的なドストエフスキーの人間観ではなく、それ以上に生命(生)そのものを愛することの裏面としての苦悩として捉えることができるのではないでしょうか。であるが故に万人万物に対して罪を負うという必要性が生じるのでしょう。
それはつまり、裏を返せばドストエフスキーが達した生命(生)の尊厳を愛する人間観だといえるでしょう。




(13)

[1063]
RE:ドストエフスキーが達した人間理解
名前:確かな現実
投稿日時:14/03/10()


つまり、『白痴』での、ロゴージンの人間形成が、そうであったのですね!




(14)

[1064]
極端性・・・『皆!そうよ!!』同情のこ・と・ば。
名前:確かな現実
投稿日時:14/03/11()


ふと、気が付いたことですが。

自分流の解釈でありますが。

ロゴージンは、熱中するという性格さえ持っていなければ、普通の人生を送れ
たということでしょうね。

確か、どこかに、『ロゴージンが熱中のようなものさえ、持っていなかったら
、ロゴージンのお父様のように、人生を送れたのになぁという、溜息のような小説の箇所がありましたね。

ロゴージンは、与えられた環境の人生を、そのままに、そのままのレールで過
ごすことが出来たのですね。少しの困難は、人生だから、遭遇するかもしれないけれど、その都度その都度、修正修復しながら、結局は、いい人生であった

ぁ〜〜と、人生をおくれたことでしょうね。

朱色ならば、朱色っぽい人生。
橙(だいだい)色ならば、橙色っぽい人生。
ーーーーーーー>を、同心円状で、連続曲線状で、微分可能な人生曲線状で、

難なく遅れた筈でありますね。

誰にも、迷惑かけることなく、親戚、周囲の人間などが、「予想出来得る人生
の範囲内で、遅れたことでしょうね。

ストレス、病気も、自身も周囲の人も、予想範囲内の出来事であった筈ですね。

======ところが、問題勃発です。======

人間とは!複雑にできているのですね。
ドストエフスキー氏がおっしゃっているように。

単純に出来ている人間もいるのかなぁ!?

この場合に、以下のように定義しましょうね。
@複雑な人間……自分自身、自分を知っている周囲の人間が予想をしない
生き方を結局してしまう人間のこと

A単純な人間……自分自身、自分を知っている周囲の人間が予想可能な
生き方を結局している人間のこと

問題勃発は、「熱中する性格」に起因したロゴージンの行動からの、『白痴』
の小説の成り行きでありますね。

=*==**===***=*****=***===**==*=*=

(感想)
「熱中症」は平凡なわたくしにも、重い圧力でのしかかっておりますね。

「熱中症」は私自身も、不安を感じます。

健康にも寝不足、やりすぎ、遊びすぎ、勉強しすぎ…など心配事が、熱中症に
は付き纏(まと)いますね。

ですが、趣味でもなんでも好きだとやめられませんね。
『熱中症』でありますから。

やりすぎる勉強、やりすぎる遊び、やりすぎる研究、やりすぎる新たにきがつ
いた生活方針…などに、日頃、一瞬一瞬、翻弄されていますね。精神も肉体も『くたくた』でありますね。

『くたくた』に気が付かないか、本人がわかっていても、止められないか、
「苦悩と充実」がその場所にはあるのか、は、わかりませんが。

つまり、「絶望と歓喜」でありますね。

ドストエフスキー氏の小説でおっしゃる「人間の謎」でありますね。

『ロゴージンは、あんなに苦労しなくてもよかったのに!!』