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(更新:24/02/06)



アリョーシャという人物について
(
1〜30)

投稿者:
クローバーSeigo
ミエハリ・バカーチンElec
enigma
、ユキ、ぼんやり読者




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[351]
アリョーシャという人物について
名前: クローバー
投稿日時:08/07/17()


はじめまして。
カラマーゾフの兄弟(亀山訳)を最近読んだ者です。
この作品に触れて、いろいろ謎に思ったことがたくさんあるのですが、その中でもアリョーシャという人物像に関して、とても気になることがあります。

まず、アリョーシャにおける「カラマーゾフ気質」とは、どういう点にあるか?ということです。
ドミートリーやイワンには、人間的な良い面・悪い面が両方見えるのですが、アリョーシャには、良い面は多く見えても、悪い面というのが読んでいて見当たりませんでした(欠点のようなところは多々ありましたが・・・)。

そして、もう一つ気になったのが、なぜアリョーシャはリーズに好意を抱いているのか?ということです。
ドミートリー、イワンがそれぞれグルーシェニカ、カテリーナへ好意を抱く理由は読んでいてわかってきましたが、アリョーシャのリーズへの好意はどこからきているのかがわかりません。

みなさんはどう思いますか?



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[352]
RE:アリョーシャという人物について
名前:Seigo 
投稿日時:08/07/18()


クローバーさん、
来訪&書き込み、ありがとさんです。

アリョーシャをめぐるクローバーさんのこのたびの疑問は、もっともな疑問であり、鋭い疑問だと思います。

>アリョーシャにおける「カラマーゾフ気質」
については、本文中で、時に、作者や登場人物により、また、アリョーシャ自身の告白により、時に示唆されているように、アリョーシャのうちにひそむ、
 ・強い情欲
 ・悪行(大悪行)をしてしまいかねない傾向
のことでしょう。

これは、
ドスト氏独自の人間観
(
どんな人間にも情欲や善悪への契機がひそんでいること。また、大天使(大善人)は大悪行を行う人物にも転じ得ること。)
に基づくものであり、また、これらは、予定されていた後編においてアリョーシャに数奇な行動(皇帝暗殺?)や運命(汚辱・女難)をもたらす重要なファクターになるものだったと思われます。


>なぜアリョーシャはリーズに好意を抱いているのか?
については、まず、彼女はアリョーシャにとって幼い頃からの許嫁(いいなづけ)
あり、幼い頃からお互いに親しくしていて、将来結婚していくような仲であったこ
とをおさえておくべきでしょう。アリョーシャは彼女を好きになったというよりは、幼い頃からそういう間柄だということですね。(ただ、彼女はイヴァンに言い寄るよ
うな行動も取っており、続編においてそれまでに一波乱も二波乱もあったと思われま
す。)

また、予定されていた続編において二人は夫婦となり数々の数奇な運命をともにしていくという設定からも、二人はすでに相愛の関係として設定されているということも考えられるでしょう。



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[353]
RE:アリョーシャという人物について
名前:クローバー 
投稿日時:08/07/18()


Seigo
さん、返信ありがとうございます。

>>アリョーシャにおける「カラマーゾフ気質」
> ・強い情欲
> ・悪行(大悪行)をしてしまいかねない傾向
なるほど。たしかにそういった感じはありますね。
そういった点を拾い上げながら、もう一度読んでみたいと思います。

>>なぜアリョーシャはリーズに好意を抱いているのか?
>アリョーシャは彼女を好きになったというよりは、
>幼い頃からそういう間柄だということですね。
そういえば、その設定を忘れていました・・・ しかし、そのような関係があったにせよ、それでも彼女へ何か特別な思い入れのようなものを感じてなりません。
彼女の無邪気さの裏に潜むサディズム(後半での自傷行為を考えるとマゾヒズム)や邪悪さ・残酷さ、時々起こすヒステリー(後半ではアフェクトと言われてま したが)、会話におけるアリョーシャへの批判的な発言。そして、リーズという人物において、よく強調される「足の悪さ」。聖的で誰からも愛されるアリョーシャとは反対的な彼女に、なぜアリョーシャは彼女に愛情を抱いているのか。許嫁かつ幼馴染の関係以外の要因があるようにも思えるのですが・・・

こういう考えについては、いかがでしょう?



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[354]
RE:アリョーシャという人物について
名前:ミエハリ・バカーチン 
投稿日時:08/07/18() 


クローバーさん、はじめまして。

早速Seigoさんが過不足のないレスをつけておられますので、僕自身がこの話題で更に言えることもないのですが、アリョーシャの「カラマーゾフ気質(カラマーゾフシナ)」に関して、在野のドストエフスキー研究者の一人である五島和哉さんが「『カラマーゾフの兄弟』の自然哲学」という論文の中で、興味深い説を展開されていて、何某かの参考になるかもしれませんので、紹介しておきます。

五島さんは、「『カラマーゾフの兄弟』の自然哲学」で、「自然」と日本語訳されている「естество」と「природа」という二つのロシア語の差 異を腑分けしつつ、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で描いた「カラマーゾフ気質(カラマーゾフシナ)」の意味を明らかにしようと試みています。

「ゾシマの遺骸を腐らせたのが、「自然(естество)」で、「自然(природа)」とは書かれていないことに注目すべきである。神に対置される природаとは異なり、естествоは神から独立した盲目無慈悲な存在である。アリョーシャの自失状態は、естествоに気を取られるあま り、природаを見失っていることから起こる」
(五島和哉「『カラマーゾフの兄弟』の自然哲学」要約)

「マルケルの死、ゾシマの回心など作品の重要な場面で描かれる自然との調和のモチーフについて分析する。その結果、人間と対等の関係で描かれる「存在としての自然」が、人間とともに変容しなければならない存在であることが明らかになり、第一章2бで述べた時系列上の「未来の自然」に至るためには、人間と自 然が一体となって神(キリスト)をたたえることが必要であると分かる。人間が自然と調和するための力が、大地の力=カラマーゾフシナである」
(同上)

「アリョーシャの大地への接吻の場面を分析する。この場面における、星(異界)と大地のモチーフを検討していくと、ドストエフスキーの世界観が「認識可能 な世界(大地)」と「認識不可能な世界の根本(異界)」の二つに基づいていることが明らかになる。自然は根本とその変様として、この両者に二面的に存在する」
(同上)

N.ベルジャーエフの考えによれば、神、人間、自然の相互関係(対話)において人間は異界への扉を開く「鍵」の役割を果たす。ドストエフスキーにおい て、人間がこのような「鍵」となりうるのは、ロシア的な両極性の故である。また、このような人間が「鍵」であるとする考えが、ロシア思想(とくに土壌主 義)の伝統を踏まえたものであることが、B.ゼムコフスキーの『ロシア哲学史』によって確かめられる」
(同上)

「以上の考察から明らかになったように、ドストエフスキーの「自然」は一面的には定義し得ない。自然は第一に「神に対置されるもの」であり、現在において 悪しき状態にある自然は神(キリスト)を志向することで変容をめざす「主体」である。一方で、自然はその両極性によって、つねに神と悪魔が戦う「空間」と しての側面も持っている。すなわち、ドストエフスキーの自然に関し、「汎神論的」というような一面的な定義付けは妥当でなく、いくつもの視点から総合的に 考察するのでなければ、ドストエフスキーにおける自然は理解し得ない」
(同上)

――以上、ネット上で公開されている五島さんの「『カラマーゾフの兄弟』の自然哲学」の要約の半分近くを引用させて頂きましたが、五島さんの論を妥当とすれば、『カラマーゾフの兄弟』で述べられている「カラマーゾフ気質(カラマーゾフシナ)」とは、ロシア伝統の「土壌主義」的自然観を背景にして構想された理念であることが了解出来ると思います。

僕としては、特に、

「神、人間、自然の相互関係(対話)において人間は異界への扉を開く「鍵」の役割を果たす」

という五島さんの要約は、何か深い真実を言い当てている言葉だと感じます。そして、人間をして異界への扉を開く「鍵」たらしめるのものこそ、

「人間が自然と調和するための力が、大地の力=カラマーゾフシナである」

という指摘は、とても刺戟的なのものだと思います。

異界へと通じる自然の扉を開く鍵こそ、人間である――とか言ってみる。

Break on through to the other side



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[355]
RE:アリョーシャという人物について
名前:クローバー 
投稿日時:08/07/20()



ミエハリ・バカーチンさん、返信ありがとうございます。

なかなか興味深く、個人的にも考えさせられる内容の論文ですね。
私も読んでみましたが、少しわからなかったところがあります。

まず、
「イワン、ゾシマの議論ともに、『人間は奇蹟を求めるゆえに信仰するのか、それとも信仰するゆえに奇蹟が起こるのか?』という問いに結びつく。イワンは人 間の自然が、その弱さゆえに奇蹟を求める、とするが、作者自身は信仰ゆえに奇蹟が起きることを幾度か証明しようと試みている。しかし、奇蹟を証明しようと する作者自身の態度が作中で悪魔によってパロディ化されることからも明らかなように、『信仰すれば奇蹟がおこる』と言ってしまうことは無意味である。」
という箇所に関して、後半の部分がわかりません。
なぜ「『信仰すれば奇蹟がおこる』と言ってしまうことが無意味」になってしまうのでしょうか?
作者が「信仰ゆえの奇蹟」を証明しようと試みる態度が悪魔によってパロディ化されたことが、どうしてそのように繋がるのかがわかりませんでした。

次に、
「ゾシマの遺骸を腐らせたのが、「自然(естество)」で、「自然(природа)」とは書かれていないことに注目すべきである。神に対置される природаとは異なり、естествоは神から独立した盲目無慈悲な存在である。アリョーシャの自失状態は、естествоに気を取られるあま り、природаを見失っていることから起こる」
ということに関して、「自然(естество)」と「自然(природа)」の違い(神と対置する存在と、神から独立した盲目無慈悲な存在の違い)が イマイチわからなかったことと、なぜприродаを見失っていることがアリョーシャの自失状態に繋がったのか?という点です。

単に私の知識や語彙力不足からくるものなのかもしれませんが、解説していただけたらと思います。
よろしくお願いします。



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[356]
現実主義者にあっては、信仰が奇蹟から生まれるのではなく、奇蹟が信仰から生まれるのである
名前:ミエハリ・バカーチン 
投稿日時:08/07/21()


現実主義者にあっては、信仰が奇蹟から生まれるのではなく、奇蹟が信仰から生まれるのである(ドストエフスキー)


>クローバーさん

ご返事ありがとうございます。

さて、僕も五島さんの論文の要約を読んだだけなので、五島さんに成り代わって彼の謂わんとしていたことを「解説」することは出来ません。ただ、五島さんの 論は、その要約を読んだだけでも、「カラマーゾフ気質(カラマーズフシナ)」の意味するものを理解する上で、多くの示唆を与えてくれるものだと思います。 特に、

「自然(本性)」

と邦訳されている言葉の含意を念頭に、

「第一部 第一編 五 長老」
「第二部 第四編 五 大審問官」
「第二部 第六編 ロシアの修道僧」
「第三部 第七編 アリョーシャ」
「第四部 第十一編 九 悪魔。イワンの夢」

あたりを読み直してみると、又、色々と新しい発見があるのではないかと思います。

尚、一つ確認しておきますと、

>「自然(естество)」と「自然(природа)」の違い(神と対置する存在と、神から独立した盲目無慈悲な存在の違い)<

に就いては、五島さんは、

・「自然(природа)」=「神と対置する存在」

・「自然(естество)」=「神から独立した盲目無慈悲な存在」

と整理されてますよね。その上で、両者を別つのは、ミハイル・バフチンのいう「対話」というモチーフの有る無しだ――と五島さんは考えられているようで す。対話的に認識された「自然(природа)」は変容可能性を潜在させたものであるのに対して、非対話的に認識された「自然(естество)」は 一切の変容可能性を欠落させた機械的なものである――そのように五島さんは考えられているのではないかと思います。バフチンは、『ドストエフスキーの詩 学』の中で、他者は対話的に関係した時にのみ初めてそのまったき存在を開示する、というようなことを言っています。そして「対話」は、関わり合う双方で 「相互浸透」と「相互変容」を惹起する、そのようにもバフチンは言っていたと思います。

「自然」という概念を盲目無慈悲な機械的なものと看做す考え方に反対したものとして、他に、ドイツ・ロマン派の詩人、ノヴァーリスの言葉も紹介しておきます。

「自然の不変の法則などというのは迷妄であり、極めて不自然ではないだろうか。すべては法則に従って進行するが、しかも何一つ法則どおりに進行するものは ない。法則とは単純な、容易に概観することのできる関係である。われわれが法則を求めるのは便宜のためである」
(ノヴァーリス「花粉」)

所詮は「便宜(=仮説=手段)」に過ぎなかったものを「真理」と勘違いしてしまうのは、人間のよく犯す過ちですが、ドストエフスキーも、次のように言っています。

「たとえ真理はキリストの外にあると数学的に証明するものがあっても、真理とともにあるよりは、むしろキリストとともにあるほうを選ぶ」
(ドストエフスキー「フォンビージン夫人宛書簡」)

ゾシマ(=ロシア)とイワン(=西洋)では、何よりその「自然観」に於いて決定的に違いがあったのであり、ゾシマ(及びドストエフスキー)は、自然の真理 は数学的に証明されるようなものではない、と考えていたのでしょう。そういうドストエフスキーの信念乃至願望が、『カラマーゾフの兄弟』全編でどのように 展開されているのか――という点に着目しつつ再読すると、ドストエフスキーが「カマーゾフ気質(カラマーゾフシナ)」に込めた含意も、また、色々と合点が いくようになるのではないかと思います。

とまれ、クローバーさんの方で又新しい気付きがあったら、いずれ是非拝見させて下さい。



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[398]
RE:アリョーシャという人物について
名前:Elec 
投稿日時:08/08/25()



はじめまして。
『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する
という著書の中で亀山氏が大胆な論を展開されていてとても刺激的でした。
続編へと繋がる物語後半での伏線の指摘や、
アリョーシャという人物に対する鋭い指摘は慧眼だと思いました。未読でしたら是非ご一読を。

アリョーシャという人物の不完全性と完全なものへの希求、さらに現実的な肉欲や社会不満への行動等が続編の物語の中核を成していたでしょうね。

個人的には続編が書かれなかったことによって色々と空想を与えてくれる余地があったのは幸いです。

ただ
三兄弟の中でアリョーシャだけが循環型だということは注意深く読めば見えてくると思います。イワンやドミートリィが一方通行方なのに…

ここにドスト氏の狙いがあったのかな〜とぼんやり考えたり考えなかったりします。。


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[403]
RE:アリョーシャという人物について
名前:Seigo 
投稿日時:08/08/26()


Elecさん、来訪及び書き込み、どうもです。

亀山氏の「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」への関心、及び、続編の内容についての問題意識は、興味深く思います。

その中の、
>ただ
>三兄弟の中でアリョーシャだけが
>循環型だということは注意深く読めば見えてくると思います
>イワンやドミートリィが一方通行方なのに…
の、
 ・>循環型だ
 ・>一方通行方
はどういう意味で使っているのか、今度説明してもらえれば、うれしいです。




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[524]
RE:アリョーシャという人物について
名前:ミエハリ・バカーチン 
投稿日時:09/06/04()



トーマス・マンの『ゲーテとトルストイ』に次のような文章があります。

「ゲーテはどこかでヴィルヘルム・マイスターを自分の「愛すべき似姿」と呼んでいます。しかしこれはどういう意味なのでしょうか。自分の似姿は愛すべきも のでしょうか。度し難い自惚れに陥っていない限り、人間は自分の似姿を見れば、自己の改善しなければならないところをますます自覚するのではないでしょう か。いや、まさしく自覚するのが当然です。改善と完成化が必要であるというこの感情、即ち自分自身を課題として、道徳的、美的、文化的義務として感じるこ の感情こそが、自叙伝的教養小説、発展小説の主人公のうちに客観化され、一箇の「汝」として対象化され、この「汝」に対して「われ」である詩人が 指導者、形成者、教育者となるのです。この「われ」と「汝」とは一つのものであるけれども、同時に「汝」に優越するものです。かつてゲーテが、自分自身の なかから創りだしたヴィルヘルムを、暗い衝動のなかをうごめいているこの善良な男を、父親のような優しさをこめて「哀れな犬」と呼んでいますが、それほど までに優越するのです。「哀れな犬」――自分とその似姿に対する感情のこもった言葉です。即ち、自叙伝的なパトスそのもののなかに、すでに教育的なものへ の転回が起っているのです」
(トーマス・マン『ゲーテとトルストイ』)

ゲーテがヴィルヘルムに向けていたような眼差しを、ドストエフスキーもまたアリョーシャに向けています。まして、アリョーシャは、その名前をドストエフスキーの夭折した愛児から取られています。アレクセイ・ドストエフスキーは、父親譲りの癲癇の発作で三歳で亡くなりましたが、その痛恨の思い出も、アレクセイ・カラマーゾフが癲狂病みの女の息子だという設定に篭められているのでしょう。更に、息子を幼くして亡くしたドストエフスキーは、その傷心を癒すために、オプチナ僧院を訪れ、ゾシマ長老のモデルとなったアンヴローシー神父と面会し、強い印象を与えられたそうです。

「フョードル・ミハイロヴィチはこの死につよい衝撃をうけた。彼はどういうわけか特別アリョーシャをかわいがっていて、その病的なほどのかわいがりよう は、まるでまもなく失うことを予感していたかのようだった。夫は、てんかん――自分から遺伝したこの病気で坊やが亡くなったことに特に苦しんでいた」
(ア ンナ・ドストエフスカヤ『回想のドストエフスキー』)

「かわいい坊やの死は、わたしの心をゆるがした。だれもがわたしを見ちがえるほど、何ごとも手につかず、ただ悲しんで泣いてばかりいた。ふだんの快活さも いつもの精力もなくなり、かわりにあらゆることに無感動になってしまった。どんなことにも興味がもてず、家事にも、仕事にも、自分の子どもさえど うでもよくなって、三年このかたの思い出にふけるだけだった。夫は、わたしのさまざまな悩み、物思い、それに口にしたことまで、『カラマーゾフの兄弟』の 「信心ぶかい女たち」の章の、子どもを亡くした女がその悲しみをゾーシマ長老に語るところにえがいている」
(アンナ・ドストエフスカヤ『回想のドストエフ スキー』)

「フョードル・ミハイロヴィチは、あたかも心を和らげられでもしたように、目に見えて落ちついて、オプチナ僧院からもどって来た。そして、まる二日すごす ことになったこの僧院のしきたりについていろいろ話してくれた。当時名だかい「長老」アンヴローシー神父には、彼は三度お会いした。一度は群集のなかにま じって、あとの二度は差向かいだったが、神父とかわした話は、彼に深い、心からの感動をあたえた。夫が「長老」に、自分たちをおそった不幸と、わたしのは げしすぎるほどの悲嘆のようすを話すと、長老は、わたしが信心深いかどうかと問うたそうだ。夫がうなずくと、長老はわたしに自分の祝福を伝えるように言っ たという。それと同じ言葉を、のちに小説のなかでゾーシマ長老が嘆き悲しむ母親に語っている。夫の話から、この誰もが尊敬する「長老」がどんなにりっぱな 洞察者であり予見者であるかがよくわかった」
(アンナ・ドストエフスカヤ『回想のドストエフスキー』)

三男アリョーシャ・ドストエフスキーの死と、それによって齎された傷心の救いを求めてオプチナ僧院を訪ねアンヴローシー神父と面会した体験が、 『カラマーゾフの兄弟』の「長老」の章や「信者の農婦たち」の章に色濃く反映されているのです。そしてまさに、「父親のような優しさをこめて」ドストエフスキーはアレクセイ・カラマーゾフという人物を造形し、亡き子がもし健やかであれば斯く育って欲しかったという、一種の追悼と再生の祈りを託しつつ、『カ ラマーゾフの兄弟』を物語ったのだと思います。

『カラマーゾフの兄弟』は、ドストエフスキーの口述を妻のアンナが筆記するというスタイルで書き上げられたそうですが、亡き子の名前を冠した主人公の活躍 を、夫はどのような思いで語り、妻はどのような思いで書き付けていったのでしょうか……。『カラマーゾフの兄弟』執筆自体、ドストエフスキー夫妻にとって、「治癒の奇蹟」を体験するカウンセリング的な営みでもあったのかも知れません。(0605282052分記)



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10)

[525]
おまぬけアリョーシャ
名前:enigma 
投稿日時:09/06/04()


父殺害前と後では、アリョーシャとスメルジャコフの関係が変わっているのではないか?
と想像しています。
実行的愛の執行者をめざすアリョーシャは父の死を防げませんでした。実践的愛が気持ちだけであっていいはずがありません。「結果出せよ」といいたいところです。
一度結果が出せなかったお間抜けなアリョーシャの次の課題は、無実のミーチャを救うことです。アリョーシャがスメルジャコフを真犯人であると確信している なら、アリョーシャとしては、スメルジャコフ本人に自首を勧めるよう働きかけるべきでしょう。それができないなら、アリョーシャの実行的な愛は今度も気持 ちだけの実行的な愛です。
わたしは、アリョーシャはスメルジャコフに接触を試みたのだと想像しています。
事実としての根拠は薄弱ですが、マリアコンドラチェフブナはなぜスメルジャコフの死を一番にアリョーシャに知らせたのか、ということを考えると、少なくと も、アリョーシャは彼女の信頼を得るほどの、彼女との接触があったことは間違いないでしょう。ということは、彼女をつてにして、スメルジャコフとの接触を 試みた可能性を想像できます。たとえ門前払いになったとしても。また、イワンとの三度の面会で進行するスメルジャコフの変化にアリョーシャとの接触の可能 性を想像するのはトンデモ系の解釈でしょうか?自分としては捨てがたい推論だと思っています。



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[526]
RE:アリョーシャという人物について
名前:ユキ 
投稿日時:09/06/05()


アリョーシャについて書かれていたことは☆マーク、書かれなかったことは★でかいてみました。
ちなみにフョードル殺人事件後の一部です。

★フョードル殺害事件の直後、アリョーシャはスメルジャコフから「イワンさまが主犯で私は実行しただけです」とスメルジャコフの自説を一部始終聞く。

☆イワンが五日後帰郷。町中がミーチャ犯人説を疑わっていない中、ただひとり、アリョーシャのみがスメルジャコフが犯人だと断言。(ここで彼が理由を具体 的に言わなかったのは、そこにはイワンのスメルジャコフに対する影響がからんでいるため、イワンを傷つけたくなかったのだと思われる)。

★アリョーシャは再びスメルジャコフに会う。またしても自説を繰り広げ、自分はイワンの思想を実行しただけだというスメルジャコフに、アリョーシャは反論 する。兄ではない、兄自身ではない、たとえ、君を暗にそそのかしたとしても、それは兄ではなく、兄の心に巣食う暗い闇の仕業であって、兄自身ではないの だ、と。ここでアリョーシャはスメルジャコフにこう断言する。「(君がなんといおうと)犯人は兄ではない!」。

☆で、後日、まだイワンがミーチャが犯人だと思っている段階で「犯人はあなたじゃありません」というあの有名?なフレーズをアリョーシャがイワンに対して 発する。びっくりしてイワンが「おれじゃないことくらいわかってるさ。じゃ、誰が犯人なんだ? おまえの考えだと」というとアリョーシャは直接は答えずに 「僕はこの言葉を一生をかけていったのです。犯人はあなたじゃありません!」と。おそらくこの言葉に何かを感じ取り怪訝に思ったイワンがスメルジャコフの ところへいくのではないかと察したアリョーシャはイワンに「今日、何かがあったときには僕のこの言葉を思い出して下さい!」という。(スメルジャコフの家 にいくことによって自分も犯罪に加担していると聞かされるイワンの苦悩を察してであろう。先回りの励ましである)

☆はたして、そのままの足でイワンはスメルジャコフの家に行く。スメルジャコフは(おそらくアリョーシャやまた違う日のカテリーナとの接触、また病気など さまざまな要因が重なり)疲れきっており、イワンに対しても「あなたはなにも心配なさることはないんですよ。もうお帰り下さい。犯人はあなたじゃないんで すから。(←傍点)」という。この「犯人はあなたじゃありません」は傍点がついていることから、この言葉はスメルジャコフが誰かの何かの発言をそのまま応 用したもの、つまり、アリョーシャの「犯人は兄ではない」というものをそのままオウム返しにイワンに反したと解釈することができる・・のではないか。それ が証拠に、その直後の文は<アリョーシャの言葉が思い出された>。

★その後、おそらくアリョーシャは何度かスメルジャコフに自分の勝手な思い込みでフョードル殺害にいたり、イワンやミーチャは全く関係ない、と法定で証言 させようとしたに違いない。しかし、それは叶わず、スメルジャコフは自殺する。で、そのengimaさんが、おっしゃる説をそのまま借りますが、当時、スメルジャコフにしばしばあいに行っていたアリョーシャだからこそ、スメルジャコフが死んだとき、マリアは本人の言葉を借りれば「まっ先に」アリョーシャに 知らせたのであろう。



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12)

[527]
横道にそれて、『だれにも罪を着せぬため、自己の意志によってすすんで生命を絶つ』について
名前:enigma 
投稿日時:09/06/06()


いやあ驚きました。棄てがたい推論だなんていって考えるのをさぼっていたら、具体的なものが出てきたので あわててしまいました。ユキさん仕事が速い。実はわたし、スメルジャコフがよく解らないんです。それもあって棚上げにしてたんですが、せっかくの機会なの でよく考えてみます。自分の考えるポイントは、スメルジャコフの変化です。この変化にアリョーシャが関連しているのでは?ということです。三回目には神様 のことまで口に出すようになりますからね。しばしお時間下さい。

>おそらくこの言葉に何かを感じ取り怪訝に思ったイワンがスメルジャコフのところへいくのではないかと察したアリョーシャはイワンに「今日、何かがあったときには僕のこの言葉を思い出して下さい!」という。<
ここの所、納得しました。ついでにここから派生して考えたこと。
三度目のイワンのスメルジャコフ訪問の動機に、イワンのスメルジャコフに対する殺意があることを指摘しておきたいと思います。二回目の訪問の時にスメル ジャコフに対する殺意は露わになり、三回目の時には沈静していますが、それでもイワンは最後にスメルジャコフに殺意を表明します。
アリョーシャがイワンのこの殺意に気づいていたかどうかによって、上の言葉は具体的なことを暗示しているようにもとれます。イワンのスメルジャコフ殺害を未然に防ぐこと、です。
スメルジャコフ自身はこのイワンの殺意を強く意識していて、次の言葉は、それを前提として発せられたものです。

『だれにも罪を着せぬため、自己の意志によってすすんで生命を絶つ』

この罪という言葉はヒョードル殺しと結びつけて考えられますが、
それはまったくの誤解です。
この罪とは、イワンのスメルジャコフ殺害における可能性としてあったイワンの罪です。
こう解釈しないとこの遺書はつじつまが合わないものになります。
イワンに対するスメルジャコフの強烈な皮肉がこめられています。
「親父の死をそそのかしたのに今更動揺している奴が、今度はおれのことを殺すなどといっている。どうせ口だけだろう。それなら殺すということをもう一度見せてやろう」。
この動機におされて、スメルジャコフは自殺しました。
余談になりました。

出かけなければいけないので。本日はこれにて。。。



(
13)

[528]
追記
名前:ユキ 
投稿日時:09/06/06()


昨日の文は最後の方眠くて文章が微妙ですみませんでした(誤字脱字等)。

昨日書きたかったのは、<確かにアリョーシャはスメルジャコフと会っている>ということです。
ちなみに比較的重要だと思われるのに、ドストが書かなかったフョードル殺害後から裁判にいたるまでのシーンのうち、二つが

☆カテリーナ、スメルジャコフを訪問、と
☆アリョーシャ、同じくスメルジャコフを訪問。

ではないかと。
カテリーナの場合も一切そのシーンは書かれていないのにもかかわらず、ドストはあえてそれを隠すことはせず、カテリーナがイワンとの口論の際に言うセリフ「あたし、あの男(スメルジャコフ)に会いに行ったのよ!!」で、読者にそうと知らせています。

アリョーシャの場合は、直接的ではないにせよ、アリョーシャが事件後、グルーシェニカの家でスメルジャコフに関して言うセリフ「あの男はいま重病で寝てますよ。事件以来病気なんです。本当に悪いようですよ」から推測することができるのではないかと。なぜなら、そのときアリョーシャが発した<いま>という言葉、そのときの三兄弟の関係を見ていると、イワンやミーチャは(脱走の計画をアリョーシャには秘密にしていたこともあって)アリョーシャに対してそっけな い態度でほとんど
会話等はなかったと言うし(ちなみにこの後から三兄弟は近づきになるのである)、アリョーシャにスメルジャコフの<いま>の様態を知らせる<誰か>の存在 などいないように見受けられるし、ここは素直にアリョーシャは自分でスメルジャコフに会ってきてそしてその姿をこの目で見てきた、と受け取るのが自然では ないかと。上記のセリフにしたって、あたかも自分で見てきたかのような印象を受ける平然とした口ぶりである。誰かから伝え聞きしたなら「あの男は重病で寝 てるってきいたけどな。ひどく悪いっていう話だよ」的な言い方をするのではないかと。ただ、このあたりのセリフのニュアンスに関しては原文を読んでないので邦訳から察することができる範囲の推測にすぎませんが。(ロシア語ができたらなぁ・・)



(
14)

[529]

戦士アリョーシャなら
名前:enigma 
投稿日時:09/06/06()


>ユキさま

ご指摘のグルーシェンカとの会話の部分、いわれて気がつきました。最低限、マリアコンドラーチェブナからの伝聞であるとは、考えられますね。しかもマリア の所まで行けば、スメルジャコフの部屋に入る障害は極めて少ないように思います。イワンは簡単に入室しています。ガリラヤのカナの後、アリョーシャは押すべ きところはきっちり押す人間になりました。戦士アリョーシャです。たぶんスメルジャコフの部屋に入ったのでしょう。以上考えると、ユキさんの指摘のとおり、直接あってスメルジャコフを見た、というのは十分ありです。
また、第三回目の訪問時に、この時のイワンの直接の目的は、カテリーナがスメルジャコフを訪問したかを確認することでしたが、その事実を問われると、スメ ルジャコフはその問い自体を蔑むようにせせら笑います。カテリーナの訪問などより重要なことがある、といっているようですが、それはカテリーナよりも重要 な人物の訪問について、なぜこの男は問わないのだろう、といっているようにもとれます。



(
15)

[530]
enigmaさんの文に続き
名前:ユキ 
投稿日時:09/06/06()


ですね!

あと、なぜ小説を読む限りではアリョーシャがスメルジャコフに対し感情的に無関心であるかのような印象を受けるのか、これまでかなり疑問だったのです が・・アリョーシャが誰に対しても見せる態度<僕は決して誰をも批判しない>をスメルジャコフに対しても同様に貫いていただけだったのではないか、という 気がします。アリョーシャはあの淫蕩なフョードルに対しても、許婚を裏切るミーチャに対しても、批判めいたことは一度だって云わなかったはずです。だか ら、スメルジャコフのあの暗い思想に対しても、アリョーシャは感づきながらも批判することは極力抑えており、それが無感情、無関心に一見思えるかのような 態度になっていたのではないかと。

結局、アリョーシャは当初よりある程度犯罪を予見していたし、事件後は犯人を知っていた、ということになるのではないかと。彼が事件前に何とかして兄たち を救わなければと思って奔走していたという事実は<スメルジャコフがこのカラマーゾフ家の混乱した状況に乗じて、ミーチャやイワンを巻き込んで何かを企ん でいる>ということを伝えようとしていたように感じます。犯罪を予見しはじめたのは、やはり長老の言葉「兄たちを助けてあげなさい」「下の兄に会ってやり なさい」(だったかな?)だと思われる。この時点で、フツーに考えて客観的に問題となっていたのは、フョードルとミーチャのグルーシェニカと金をめぐって の争いだけであり、長老がイワンにまで言及するのはおかしいとアリョーシャは感づき、そして、スメルジャコフとイワンの不気味な相互関係に思い至ったはず ではないか、と。アリョーシャは最初の家族の会合の席でスメルジャコフとイワンとの神に関する否定的な意見を聞いて知っていたはずだし、イワンの「毒蛇が 毒蛇を食うだけだ」発言も心にひっかかったはずです。
あと、神に否定的で不遜なスメルジャコフはアリョーシャの手にあまり、どうやって救うべきかわからなかったと思うけど、それでもアリョーシャは<人を批判 しない>という自分の哲学にのっとってスメルジャコフの人格の批判は決してしなかった・・・その客観的に見てクールな態度が、数日前までの私のアリョー シャ観<天使ぶってるけど・・本当は召使を人間とも思わない偏見に満ちた人間なんじゃないのか>という誤解につながっていたと思います。

しかし、今はそのアリョーシャ観撤回!!

アリョーシャは天使でもなく、偏見人間でもない・・・。ただ<人を決して批判すまい>と誓い、真実、誰をも批判しなかった至極自分に真面目な青年です。大 体、あの淫蕩なフョードルに対してすら批判めいたことを口にしなかったのですから・・スメルジャコフの不遜さに対しても、何か彼なりの判断があったのだと 思います。<彼は僕たちほど恵まれていないんだ。僕の恵まれた境遇の尺度で彼を判断してはいけないんだ。だけど、彼がイワン兄さんに与える影響は・・これ は困ったな・・どうにかして二人を遠ざけることはできないものか>みたいな。

まとまってなくてすみません。


(16)

[531]
アリョーシャの目的
名前:enigma 
投稿日時:09/06/07()


>アリョーシャが誰に対しても見せる態度<僕は決して誰をも批判しない>をスメルジャコフに対しても同様に貫いていただけだったのではないか、という気がします。<
そのとおりだと思います。事件後そういうスタンスで彼にアプローチしたのでしょう。

スメルジャコフを召使いとして扱うアリョーシャの態度については、まずドストエフスキー自身が、主人と召使という身分をなくすことを考えているわけではなく、そのままの関係で平等であることができるという平等観を持っていたことを押さえておく必要があると思います。
また、アリョーシャがスメルジャコフに冷淡であるという前に、スメルジャコフがアリョーシャを馬鹿にしていて寄りつかなかった(彼はイワン以外みんな馬鹿にしています)ということもお忘れなく。

ゾシマが会うように命じたのはミーチャでした。でもアリョーシャは3度もそのことを忘れてしまいます。(これは何を意味するか?というのもアリョーシャの本質を考えるのに重要です。)

私はアリョーシャを生身の人間として考えています。

アリョーシャが善をめざす人間であることは間違いありません。
だけどそれはあることの派生としての彼の態度であると考えます。
善を含むけれど、アリョーシャはもう少し敷衍的なことを追求していて、普通、そのことと善を行うことは矛盾しないけれど、まれに齟齬が生じたとき、善を追求することは、二次的なものとして横に置かれる。
かれは、そのことを追求することに没頭するあまり、とのことはどうでも善くなる。
(ミーチャに会うことを忘れたのはそのためだと考えられないでしょうか?)
議論を単純化していうと、アリョーシャは善人ではありません。
彼は没頭型の人間です。没頭する対象が、世間的利害を超えているために、中立的で、影の薄い存在に見えるだけです。

アリョーシャは、止むに止まれない衝動に促されて、学業を途中放棄して、この物語の場に登場します。
その衝動はなんだったのか?彼は何をもとめていたのか?そこに答えがあるように思います。

>ユキさま
何かお考えがあったらお聞かせ下さい。



(
17)

[532]
瞑想家としてのアリョーシャとスメルジャコフ
名前:ミエハリ・バカーチン

投稿日時:09/06/07()


ユキさんとenigmaさんの、いきなり核心に迫っているかのようなアリョーシャ論、非常に刺激的です。理論や思想に眩まされず、テキストを丁寧に読むことの大切さを改めて知らされる思いです。

アリョーシャとスメルジャコフの関係に就いて、僕も以前書いたことがあるので、その文章を(少し訂正して)、以下に再投稿させて頂こうと思います。

   *  *  *

アリョーシャに就いて書かれている箇所をパラパラ読み返していたところ、

「このころの彼はたいそう美男子でさえあり、中背で均斉のとれた身体つきに、栗色の髪、いくらか面長とはいえ端正な瓜実顔、間隔の広くあいてついているダークグレイの目はかがやきを放ち、きわめて瞑想的な、そして見るからにたいそう落ちついた青年だった
(「長老」)

とか、

「アリョーシャには、これまでのような生き方が、ふしぎな、不可能なものにさえ思われた。聖書にも、『完全でありたいと望むならば、すべてを分け与え、わ たしに従え』と記されている。アリョーシャは自分自身に言った。『《すべて》の代りに二ルーブルを与えてお茶を濁したり、《わたしに従う》代りに礼拝式に 通うだけにすることなんぞ、僕にはできない』ことによると、幼い日の思い出のうち、母が彼を礼拝式に連れて行ってやることのできた、この町の郊外の修道院 にまつわる何かが、残っていたのかもしれない。あるいはまた、癲狂病みの母が彼を抱いて聖像の方にさしだしたとき、聖像の前におちていた入日の斜光も、作 用しているかもしれない。瞑想的な彼がこの町へきたのは、もしかすると、ここにはすべてがあるのか、それとも二ルーブルにしかすぎないのかを確かめるため にだけかもしれない。そして、修道院であの長老にめぐりあったのだ……」
(「長老」)

とかいう文章を再発見しました。特に二番目の「すべてを分け与え」るか否かの判断をつけるために、故郷の町に帰ってきた、という説明は、

「彼はときおり家の中や、あるいは庭や往来でさえも、立ちどまって、物思いに沈み、十分くらいそのままたたずんでいることがあった。人相見なら、 彼を見つめて、ここには思索も思考もなく、ただ一種の瞑想があるだけだ、と言うことだろう。画家のクラムスコイに『瞑想する人』という題の傑作がある。冬 の森の絵で、森の中の道に、ぼろぼろの外套に木の皮の靴をはいた百姓がたった一人、ひっそりと淋しい場所で道に迷ってたたずみ、物思いに沈んでいるように 見えるのだが、べつに考えごとをしているわけではなく、何かを《瞑想して》いるのだ。とんと一突きすれば、その百姓はびくりとして、夢からさめたようにあ なたを見つめるだろうが、何もわからないだろう。たしかに、すぐ我に返りはするが、何をたたずんで考えていたのかとたずねても、きっと何一つ思いだせない にちがいない、だが、その代り、瞑想の間いだいていた印象はおそらく心の内に秘めていることだろう。その印象は彼にとっては貴重なものであるし、きっと、 意識さえせず知らぬ間にそうした印象を彼は貯えてゆくはずだ。なぜ、何のためにかは、もちろん彼にはわからない。永年の間に印象を貯えた末、ことによる と、彼は突然すべてを棄てて、巡礼と魂の救いのためにエルサレムへおもむいたり、あるいはふいに故郷の村を焼き払ったりするかもしれないし、ひょっとする と、その両方がいっぺんに起るかもしれない。瞑想家は民衆の中にはかなり多い。きっとスメルジャコフもそうした瞑想家の一人だったのだろうし、おそらく彼 もやはり、自分ではまだ理由もほとんどわからぬまま、貪婪に印象を貯えていたのにちがいない」
(「スメルジャコフ」)

というスメルジャコフの性格を説明した文章と対比的な関係にあると思われます。アリョーシャもスメルジャコフも、ともに、癲癇気質であるだけでなく、「一切捨身か否か」即ち「信仰か犯罪か」の究極の問いを胸中に抱いた「瞑想」的な青年として描かれているのです。瞑想家とは、両極端な、究極的な身の処し方しか出来ないタイプの人間なのです。そして、「瞑想」とはおそらく世界の無意味さとの無言の対峙のことなのだと思います。

少年時代以来、世界の無意味さとの無言の対峙の中で、人生は生きるに値するか否かという「究極的な問い」をアリョーシャとスメルジャコフは胸の裡に抱くよ うになっていたのではないでしょうか。そして、人生が生きるに値するとしたら、答えは二つしかない。すなわち、信仰の道に入るか、或いは、犯罪に身を委ね るか。無意味な人生に意味付けする方法としては、信仰か犯罪の二つしかありません。社会規範という偽りに充ちた虚構を排した上で世界を凝視すれば、選択肢 はこの二つしかありません。母親譲りの聖痴愚的な一切の虚構を受け付けない瞑想的な眼差しで世界を凝視め続けて来たアリョーシャとスメルジャコフは、信仰 によって世界を意味付けるか、犯罪によって世界を意味付けるか、そのクロスロードの上でずっと迷い続けていたのではないかと思います。そして、胸中の「究 極的な問い」に、アリョーシャはゾシマ長老によって答えを与えられ、スメルジャコフはイワンによって答えを与えられました。

元々非常によく似た瞑想的性格の持ち主であるアリョーシャとスメルジャコフを決定的に頒つのは、アリョーシャの場合、アリョーシャの胸には母ソフィアの美 しい面影が宿っていて、又、その母の面影に導かれるように、ゾシマ長老という、自分の究極的な理想を体現する人物と出会うことが出来たということで、一 方、スメルジャコフの場合、優しい母親の思い出もなく、虐待の中で育ち、孤独な瞑想の中で貯えてきた裡なる印象に初めて言葉を与えてくれた人物は、「神は 無い、全ては許される」と言い放つイワン・カラマーゾフでした。実に、劇的な対比です。

碧巌録に「放曠随縁」という言葉がありますが、アリョーシャとスメルジャコフの運命を頒ったのは、まさに「縁」であったのかも知れません。

取りたてて、アリョーシャがスメルジャコフより秀れた資質を持っていたわけではない。ただ、関係性の関数である人間という不可思議な存在が、いかに「縁」 によってその運命を左右されるものであるか――そういうドストエフスキーの深い溜息がアリョーシャとスメルジャコフの対比に託されているのかも知れませ ん。そして、アリョーシャとスメルジャコフの対比の裡に、

「キリスト教は環境の圧迫を十分に認めて、罪人に憐憫を声明しながら、しかも、環境に対する戦いを人間の道徳的義務とする、そして、どの辺で環境が終り、どこから義務が始まるかという境界を人間に示すのである」
(『作家の日記』一八七三年・三「環境」)

という、どこからどこまでが「環境」(=縁)で、どこからどこまでが「義務」(=精神の自由)であるかを、ドストエフスキーは小説的に表現しようとしたの ではないかと思います。ドストエフスキーにあっては、「信仰」とは、あくまで「精神の自由」と同義であったことは、『カラマーゾフの兄弟』を心を込めて読 めば、誰にでも解ることです。

「環境」とは要するに「知識と体験」のことです。一方、「義務」とは「想像力」のことです。

「知識と体験」だけに拘っていては、『カラマーゾフの兄弟』は理解出来ません。自分の「知識と経験」を超える「未知の世界」(=異界)が総体としての「現 実」を成立させているのだ――そういう気付きが、『カラマーゾフの兄弟』を読解する上での最重要のポイントではないかと思います。
060529日投稿)


 *   *   *

スメルジャコフこそアリョーシャの分身に他ならない――という<仮説>で書いてみた文章でした。

ところで、ユキさんの、

「アリョーシャは天使でもなく、偏見人間でもない・・・。ただ<人を決して批判すまい>と誓い、真実、誰をも批判しなかった至極自分に真面目な青年です」

というアリョーシャ像、これもまさに、スメルジャコフの遺言、

『だれにも罪を着せぬため、自己の意志によってすすんで生命を絶つ』

という言葉と見事に対応していますね。スメルジャコフもアリョーシャと同じように「誰をも責めまい」という格率に従って生き、そして死んだのでした。ア リョーシャとスメルジャコフという好対照をなす一対の瞑想家の関係を主軸に、『カラマーゾフの兄弟』という小説は構成されているようです。

アリョーシャとスメルジャコフは、実はお互いにあまりに似すぎていて、言葉を交わすまでもなく、お互いが心の中に抱いている「究極的な問い」に就いても先 刻承知の関係だったのかも知れません。だからこそ、彼らはあらためて深く関わる必要が最早なかったのでは? ――そんな風にも思いました。

あいつには 言葉はいらないさ
黙っているだけで 心がかよう♪

(おぼたけし/美しき狼たち)



(
18)

[533]
RE:アリョーシャという人物について
名前:ユキ 
投稿日時:09/06/07()


enigmaさんの

「アリョーシャは、止むに止まれない衝動に促されて、学業を途中放棄して、この物語の場に登場します。
その衝動はなんだったのか?彼は何をもとめていたのか?そこに答えがあるように思います。」

について。

確かに。これは多分大多数の読者が<アリョーシャは風変わりだからだろう>というテキトーな理由で深読みせず、スルーしていた部分だったのかもしれないですね!

今即興で考えてみた可能性としては・・アリョーシャは母を苦しませた父が許せなかった・・しかし、それは彼の善を目指す性質、全ての人を赦し愛したいとい う宗教心とは相いれず、彼は苦しんだ・・
<全ての人を赦したい・・しかし、僕は赦せるだろうか・・母をあんな目にあわせた父を赦せるだろうか・・口先では 赦せるかもしれない・・でも、本心から赦せるだろうか・・。それに、神・・。こんな理不尽な世界を創った神を赦せるだろうか・・愛し続けることができるだ ろうか・・だって、罪のない母はあんな目に会ったのだ・・>と。
そんなときに彼が知ったのが、ゾシマ長老だった。で、<ヨブの物語>のような思想を知り(実際にヨブの物語を長老の口から聞くのは後のことだとしても、そ の類の思想は聞かされていたと思う)、自分が幸福なときだけでなく、神が理不尽に思える時期でさえ、憎しみを超えて神(ひいては人、父親等)を愛すること こそが真実の<愛>であると知り、その思想こそが、自分の苦悩を解決してくれる唯一無二の一条の光に思えて、学業を中途放棄して僧院に入ったのかもしれま せん。

しかし、これはもう一度熟読してみて可能性を再構築する余地がありますね。正直、その箇所は斜め読み程度しかしていないので。。でも、これさえ分かれば、なんてゆーか、その後のストーリーの謎めいた箇所がかなりクリアになってくるのではと、期待大です!!!

またenigmaさんの意見もお聞かせ下さい!(てか、ほんと、enigmaさんは鋭い読みをされてるなと思います!!)

ミエハリさん。

「スメルジャコフこそアリョーシャの分身に他ならない」

私も、実はそれをジャストに思ってしまったところでした。
イワンやミーチャが地上的なタイプ(個人を見捨てることができず、全体をもって世界を把握することが出来ない)のに対し、スメルジャコフやアリョーシャは 脱・地上的です。アリョーシャの思想が個人の利害より全体のソレを優先させる思想だとは思っていましたが、どっちかといえばスメルジャコフもそれに近いの ではないかと。イワンも自分の父親に関してだけは<あんな親父が女遊びや酒に金を使うより、おやじを殺してその金をもっと有益なことに遣う方が社会のため だ>的な思想を持っていたとは思いますが、あくまでも思想の上だけで、実行には至らない思想、机上の空論、全体論者(←こんな言葉あるのか知りませんが。 笑)を気取っているだけ・・だと思います。

また、アリョーシャとスメルジャコフの性格の共通点は、ミエハリさん指摘のとおり、<瞑想的>なとこだとも思いますが、また、女性に関しての態度もかなり 似通っていると思います。ミーチャやイワンが女性に対する愛憎で四苦八苦しているのに、スメルジャコフ&アリョーシャは、びっくりするくらいクールです。 二人とも女性に対して異性としての関心を示すようなシーンはなかったかと。アリョーシャがリーズに向かって言う「好きですよ」は、全人類を愛し、全人類に 向かって言う「愛している」を、その時、たまたまリーズと言う一人の女性に人類愛を投影させて「好きですよ」と言っている気がしてなりません。まあ、これ は考えすぎでしょうか。純粋にアリョーシャはリーズが好きだったとは思いますが、その「好き」は他の誰か別の女の子でも代替可能な「好き」な気が・・。ス メルジャコフも、別にマリア本人が嫌いとかそういうわけではなくて「女は嫌い」という思想をたまたま偶然その時マリア本人に投影させて、マリアが好意的に 言いよってきているにも関わらず、そっけない態度を貫いたのではないかと。だから、別にマリアだけに関心がないわけではなく、その関心のなさは他の女でも 代替可能だったわけです。(←あ、この日本語変かな。苦笑)

でも、傾向、性格パターンとしてはスメルジャコフとアリョーシャは確かに似ていますね!!
自分にとっては新しすぎる発見でした。

ところで、事件後、スメルジャコフにアリョーシャは会っていた、といったような<読み>は、自分にとっても刺激的で斬新で、それでいて、確証の持てる<読み>だったわけですが、古今東西のカラ兄読者の中には既にフツーにその<読み>を発見していた人もいたかとは思います。世界各国にドスト文学の研究者はお られるだろうし、そういった人たちはアリョーシャとスメルジャコフに関してどういった見解を持っているのか、また、まだ私たちは踏み込めてない、先の enigmaさんの問いや、アリョーシャがスメルジャコフを訪問したことに関して、それがどういった内容のものだと推測しておられるのか、知りたい!!! と切に思います。

とまれ、私は、実はロシア文学に何らの知識も持ってなく、世界はおろか日本のドスト論、カラ兄論等も読んだことは階無なので、それらを読んでみなければ・・と思いました。(・・出来るかな?)

P.S
『だれにも罪を着せぬため、自己の意志によってすすんで生命を絶つ』
これも、深読みする価値のある言葉ですね! 考えておきます!


(19)

[534]
RE:アリョーシャという人物について
名前:enigma 
投稿日時:09/06/07()


アリョーシャとスメルジャコフを瞑想的であるということで似た資質を持ったものだというのは重要な指摘だと思います。
条件がかなえばスメルジャコフはアリョーシャ的な存在になったという仮説は、スメルジャコフの悪としての存在を偶然的なものしてしまいますが、ほんとに偶 然的であったのだと思います。スメルジャコフが何らかの種類の究極的悪である、というようなシンボリックな本質論はわかりやすいが、しかし、この小説の意 図をはずすもののように思えてきました。
「カラマーゾフ」という小説自体がある意味、必然性というよりも偶然性によって事が進行しているという側面もあります。
スメルジャコフのフョードル殺害自体が、偶然の結果であり、スメルジャコフ自身がその偶然性を計算に入れていました。ミーチャが来なければ事件は発生しないだけのことである、というようなことをスメルジャコフは述べています。
また、ミーチャの立場からいえば、ほとんど偶然によって他人の罪を被ってしまっています。
偶然性は、あったかもしれない他の事態を想定させます。同時にその自体に直面している他者と自分が入れ替わる可能性を示唆しています。
アリョーシャは自分がスネギリョフだったらと想像します。この自分が他者と入れ替わる可能性の果てに、あらゆる人の罪は自分の罪であるという究極の認識が あるのかもしれません。そこには自分がスメルジャコフであったらということも含まれていて、だからアリョーシャはだれも責めないのでしょう、つまり責める とすれば自分を責めることになります。以上のことは私の推論で実感を伴った了解ではありません。推論であるにもかかわらず、これらのモチーフを分身と言う 言葉で括ると納得しやすいものになってしまいますが、わたしは納得しやすいことを目的としていないので、それは保留します。

アリョーシャとスメルジャコフの分岐点はミエハリさんのご指摘のとおり<子どもの頃の美しい記憶>があったかどうかです。
私が想像するのは、死せる母親の生きているがごとき映像記憶が頻繁に現れるなら、その経験の繰り返しによって人はどんな結論に達するかというようなことで す。学校時代からのアリョーシャの瞑想の主題はこの母親の記憶に集中していたと思われます。また、この物語の舞台にアリョーシャが登場した動機もこの母親 の記憶に関わるものです。
神と不死について、アリョーシャはイワンと逆の方向をもつ問題意識を持っていた、イワンが神はいないのに神無しでは人間はやりきれない、というジレンマに 陥っていたとすれば、一つの仮説として、アリョーシャは母の映像記憶によって不死があるとしか思えない、という謎を解明したかったのだと思います。

また、『だれにも罪を着せぬため、自己の意志によってすすんで生命を絶つ』
は、イワンに対する憎しみのシニカルな表現であると理解しているので、ミエハリさんとは意見が異なります。ただ、このスレッドのモチーフとは異なりますので、深追いしません。



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20)

[535]
君と僕は似たもの同士♪(遠藤賢司/ボイジャー君)
名前:ミエハリ・バカーチン 
投稿日時:09/06/08()



>ユキさん

僕もドストエフスキー論をそんなに沢山読んでいる訳ではないので、かつてフョードル殺害後のアリョーシャとスメルジャコフの接触の可能性を指摘した人がい るかどうかは知りません。もしかしたら、江川卓氏が『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』で、そんな指摘をしていたかも知れませんが、十年以上前に一度読んだ きりなので、記憶が曖昧です。

ただ、読書というのは、基本的に、その時その時の、作者と読者のタイマン勝負ですから、研究者や誰かが既に同じような発見をしていたとしても、自力で気付 いた発見の価値が減ずることはないと思います。自分では真剣に作品と向き合わず、学者から仕入れた知識で理解したつもりになっているような性根の腐った人 間より、一切研究書の類いを読まずに作品のみに向き合って読みを深めるという姿勢こそ、読書の本道をいくものだと思います。僕がユキさんの『カラマーゾフ の兄弟』について書かれる文章を読んで、気持ちよく、啓発されるものが多々あるのは、とにかく、作品そのものをとても丁寧に読んでいる人だな、と感じさせ てくれるからです。


>ユキさん、enigmaさん

さて、「分身」という言葉は、たしかにドストエフスキー文学を語る際あまりに手垢に塗れたクリシェではありますし、enigmaさんの仰る通り過度の一般 化で個別の事象をかえって見にくくする弊もあるので、この言葉を使うのはやめて、「似たもの同士」という言葉を使おうかと思います。アリョーシャとスメル ジャコフは、実は「似たもの同士」だった。

「似たもの同士」の関係性って、現実で考えても、また独自のドラマがありますよね。似た者同士は、会った瞬間に、一言も言葉を交わす前から、直観的に相手 は自分と同類だ、と見抜いたりするものです。こういう関係の二人の間で、一体、どんな言葉が交わされ得るのか? 核心的な事柄を巡っては、説明的な言葉は 二人の間では不要でしょう。お互いに相手の考えを知り抜いているもの同士の間で、本気で交わされるダイアローグとしては、ドストエフスキー作品だと、ラス コーリニコフとスヴィドリガイロフの対決や、スタヴローギンとキリーロフの対決などがありますが、フョードル殺害後、もしアリョーシャとスメルジャコフが 面会していたとしたら、ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフの対決乃至スタヴローギンとキリーロフの対決のような、傍目には殆ど禅問答のような対話が展 開されていたのかも知れません。何が起ころうとも、誰のことをも責めることなく、最終的な責任の一切を我が身に引き受けるつもりで生きている二人の間で交 わされた言葉は、静かな、しかし異様にハイテンションなものだったのではないでしょうか。

ひとたび「信仰」を選び取ったアリョーシャが不屈の闘士であったように、ひとたび「犯罪」を選び取ったスメルジャコフもまた不屈の闘士であったのだと思い ます。お互いに、意を決した以上、最早心変わりすることがないことも、二人はよく知っていた。神を否定したスメルジャコフを変心させるものがいるとしたら スメルジャコフ自身以外になく、しかし神という究極の他者を拒絶した以上、最早スメルジャコフに回心も救済もないことをアリョーシャはよく知っていた。す べての責を我が身に負う決意をしている者が自殺する時の遺書には、

『だれにも罪を着せぬため、自己の意志によってすすんで生命を絶つ』

という言葉以外書かれ得ないでしょう。この言葉は、実はスタヴローギンの遺書に書かれた言葉と同じものですが、スタヴローギンもまた神を否定し犯罪による世界の意味づけを選んだ「不屈の闘士」でした。

アリョーシャの信仰の立脚点は、

『僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる』

というものでしたが、これはスメルジャコフの遺書の言葉と正反対の信念を語っていないでしょうか。神を否定したスメルジャコフには、「ほかの人が自分のために乞うてくれる赦し」も最早なかったのでした。

こう考えてくると、ドストエフスキーの考えていた信仰とは「目に見えない関係性への揺るぎない信頼」といったようなものだったのかなと思えてきます。そし て、信仰がない状態とは、目に見えない関係性への信頼からの疎外であり、「自分のためには、ほかの誰も赦しを乞うてくれはしない」という確信ということに なるでしょうか。これは、この世界に存在するのは自分だけである、という感覚に繋がるように思います。徹底的に関係性から疎外されれば、一切の他者は物化 します。一切の他者が自分の恣意によってどうにでも意味づけられるマテリアルにしか見えない世界――スメルジャコフの住んでいた世界は、そんな地獄のよう な世界だったのではないでしょうか。

こういうスメルジャコフに対して、アリョーシャは何を言えたでしょうか。スメルジャコフの決意を確認した後にアリョーシャに出来ることは、ただ、スメルジャコフのために静かに祈ることだけだったのではないでしょうか。

「……諸兄よ、わたしはこれを明確に言えないのが残念だ。だが、地上でわれとわが身を滅ぼした者は嘆かわしい。自殺者は嘆かわしい! これ以上に不幸な者 はもはやありえないと思う。彼らのことを神に祈るのは罪悪であると人は言うし、教会も表向きは彼らをしりぞけているかのようであるが、わたしは心ひそか に、彼らのために祈ることも差支えあるまいと思っている。愛に対してキリストもまさか怒りはせぬだろう。このような人々のことを、わたしは一生を通じて心 ひそかに祈ってきた。神父諸師よ、わたしはそれを告白する、そして今でも毎日祈っているのだ」
(ゾシマ長老の遺言)

ゾシマ長老の遺言の最終節「地獄と地獄の火について。神秘的な考察」は、スメルジャコフを念頭に読むと、よりいっそう胸を打つものになるように思います。

以上、色々と考えているうちに、アリョーシャとスメルジャコフの間には、一種の「友情」のようなものすら成立していたのではないか――そんな風にも思えて きました。多くの言葉を交わせばお互いの理解が深まるという訳でもないですしね。そんじょそこいらの百万語のべたついた友情ごっこに勝る男と男の魂の語ら いが、アリョーシャとスメルジャコフの間にも、実はあったのかも知れません。

アリョーシャが学業を放棄して、故郷に探し求めたものとは、勿論「信仰」=「目に見えない関係性への揺るぎない信頼」」の根拠だったのだと思いますが、その根拠としての、亡き母の面影の意味に就いてのenigmaさんの解釈は、かなりの説得力があります。

故郷に帰ってきたアリョーシャが最初にやったことは、亡き母の墓参りでした。墓前に佇むアリョーシャの胸中に去来していたのは、果たして、いかなる思いだったのでしょうか?



(
21)

[536]

名前:ユキ 
投稿日時:09/06/08()


enigmaさん、ミエハリさん、

かなり自分的に、この<なぞ解き>興味深くなってきました。
この物語は大体が結構短期間だけの話なので、テキストをたどれば、かなり具体的にアリョーシャがスメルジャコフを訪問した日などが割り出せるのではないか(それも、午前・午後レベルまで)と思っています。

またご教授ください!!!!

あと、enigmaさんが書かれていましたが、<
私が想像するのは、死せる母親の生きているがごとき映像記憶が頻繁に現れるなら、その経験の繰り返しに よって人はどんな結論に達するかというようなことです。学校時代からのアリョーシャの瞑想の主題はこの母親の記憶に集中していたと思われます。また、この 物語の舞台にアリョーシャが登場した動機もこの母親の記憶に関わるものです。
神と不死について、アリョーシャはイワンと逆の方向をもつ問題意識を持っていた、イワンが神はいないのに神無しでは人間はやりきれない、というジレンマに 陥っていたとすれば、一つの仮説として、アリョーシャは母の映像記憶によって不死があるとしか思えない、という謎を解明したかったのだと思います。


とのことですが、そこに父親に対する感情は何ら関わってなかったのでしょうか。私はアリョーシャが父親について<本当は>どう思っていたのか知りたいです。父親に会う前、会った時、死んだとき・・等々。アリョーシャの父に対する感情は全く読めないです。
みなさんがどう考えておられるのか、大変興味深いです。


☆☆
あと、このスレッドとは無関係ですが、スメルジャコフとアリョーシャの類似性が気になってくると、今度はイワンとフョードルの類似性が気になってきまし た・・。スメルジャコフは後半、「御兄弟の中で、イワンさまが一番大旦那さまに似ていらっしゃいます。そっくりですよ」と発言しているし、イワン自身も 「おやじはだらしない子豚同然だったけど、考え方だけは正しかったよ」という、意味が深いのか浅いのか分からないような発言をしています。そういえば人生 に対する否定的でシニカルな態度は二人とも似ています。それがヤケになると、フョードルのような捨て鉢というか、道化タイプ、ヤケになってない段階では、 イワンのように妙に人生に対してストイックで厳しい態度で出るタイプ・・になるのかな、と。




(
22)

[537]
「やっちまったぜ」
名前:enigma 
投稿日時:09/06/08()


>ミエハリさま
「似たもの同士」はグッドネーミングです。
こういうだけで色々なことが見えてくるから不思議ですね。
彼らの共通点をもう一つ。
二人とも言葉が行為と結びついています。しかも、軽薄と言っていいほど。
いうまでもなく、スメルジャコフはイワンの言葉で、ヒョードル殺しを実行しました。
一方、アリョーシャは、愛は言葉だけではなく、実行的でなければ、と考えています。
それだけでなく、アリョーシャはトリックスター的に言葉を演じて見せます。
で、イワンにキスしたりするわけですが、もう一つ文学的剽窃をやっていて、
それは、「一本の葱」の章でです。
アリョーシャは、グルーシェンカに対して、葱をわたす天使を演じて見せています。
(この解釈どうでしょうか?)
これも、イワンへのキスとまったく同じふるまいです。

「ギターを持ったスメルジャコフ」の章は、スメルジャコフの心の内をアリョーシャがおそらくはじめて聞き知ってしまう場面が描かれていて、彼の犯人スメル ジャコフ説に、何らかの影響を与えていると思しきところですが、詩を歌いつつも、韻文を馬鹿にするスメルジャコフのフィジカルな精神は、言葉に過度な修飾 を持たせない、アリョーシャと重なり合うところがあります。
なので、
「故郷に帰ってきたアリョーシャが最初にやったことは、亡き母の墓参りでした。墓前に佇むアリョーシャの胸中に去来していたのは、果たして、いかなる思いだったのでしょうか?」
の答えは、なにも浮かばなかっただろうと思います。墓は墓にすぎません。
といいつつ、私は、フョードル殺しにいたるこの数日間に、アリョーシャがいずれかの時間帯に、母の墓を訪れていた、という仮説を持っています。
その理由は、件の墓参りの後、アリョーシャは一年墓地を訪れなかった、といった文が続くからです。って事は一年後墓地を訪れていた?わたしはそれを「一本の葱」と「ガリラヤのカナ」の間のように考えたことがありました。これは余談です。

ゾシマの説教は後日、アリョーシャが編纂してものとされていますから、その時アリョーシャは自殺者について触れた部分を間違いなくスメルジャコフのことを 念頭において書いたことでしょう。いずれにせよ、私たちの前にあるのは、イワンの三回の訪問におけるスメルジャコフの変化の中に、アリョーシャとの接触の 痕跡を読みとる以外なさそうですね、
しかも、その時は深く思想的な意味において。

>ユキさま
私のドストエフスキーの読み方は、「永遠の夫」を読み込むことで、決定的に方向付けられました。一般的に「永遠の夫」は研究者の間で論じられることの少ない作品であると聞いています(ルネ・ジラールという人が論じていてその論点が主流になっているかも)。
しかし、ドストエフスキーの小説中、これほどテクニカルでこれほど深くテーマを掘り下げた小説はないように思います。ほとんど奇蹟的な小説です。ただし読 み方に簡単なコツが入ります。それは事実から目をそらさない、ということです。逆に言えば、文学を棄てるということです。つまり、アリョーシャやスメル ジャコフと似たもの同士になるということです。そうするとこの小説は読めます。そうでなければ読めません。




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23)

[561] これって変だと思わない?
名前:enigma 
投稿日時:09/06/14()


1Q84を読了した直後なので、「ガリラヤのカナ」の記述に含まれる謎について書いてみたくなりました。その前に、アリョーシャの父親に対する感情について。

>ユキさま
子どもの頃のアリョーシャに係わる場面で父親に触れたところはまったくありませんが、
アリョーシャがフョードルに向かって、
「根性曲がりじゃなくて、へそ曲がりなんですよ」
(原訳 第四編 二 父のところで)
と直接いっているところがあります。
ここの訳は、色々なんですが(原訳 は軽い表現になっています)、大意は
<本質的には悪ではなく、ただ屈折している>
で間違いないでしょう。これがアリョーシャの率直なフョードル観です。
フョードルは、冷静になって見てみるとそんなひどい悪人ではありません。
ただ、好色で、それを隠さずにやっている道化師です。
ゾシマにも、嘘をつかないことが必要だ、といわれましたが、常に自分の感情を悪い方に潤色していて、そのうち自分の真意を見失ってしまうタイプです。
屈折していない時のフョードルは、実存の不安にふるえるような、ナイーブな人間です。アリョーシャ自身はそうした父親の実存の不安を感じ取って、自分がそれを和らげる役割を果たしていることを自覚していたのではないかと思います。
死によって中断されてしまいましたが、アリョーシャとの生活を続けていけば、変化する可能性がないとはいえない人でした。(少しはね)

本題に入ります。「ガリラヤのカナ」の章の最後に次の記述があります。
「彼が大地に身を投げた時は、かよわい青年にすぎなかったが、立ち上がった時は生涯ゆらぐことのない、堅固な力を持った一個の戦士であった。彼は忽然とし てこれを自覚した。自分の歓喜の瞬間にこれを直感した。アリョーシャはその後一生の間この瞬間を、どうしても忘れることが出来なかった。」「三日の後かれ は僧院を出た。それは『世の中に出よ』と命じた、故長老の言にかなわしめんがためであった。」
わたしは、ここに大変な違和感を感じます。いい人アリョーシャで完結するこの記述からは、父の死に直面するアリョーシャについての記述が完全に抜け落ちて います。「三日の後」までの間には、アリョーシャは父の死とミーチャがその被告人(彼に会えとゾシマにいわれていた)である事を知ります。しかし、ここの 記述はそれらの事実を飛び越した三日後の「かれは僧院を出た。」という事実が述べられているだけです。
また、「生涯ゆらぐことのない、堅固な力を持った一個の戦士であった」とありますが、直後に経験する父の死とこの「ゆらぐことのない」という言葉が、不釣り合いです。さらに「戦士」というのがアリョーシャのキャラにはそぐわない。
この章の終わり方と、その後に続く父殺害に関わる物語は、まるで違う世界で進行している別の物語みたいな感じがします。こんな風に感じるのは私だけ?



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[564]
RE:アリョーシャという人物について
名前:ユキ 
投稿日時:09/06/15()


enigmaさん

enigma
さんのアリョーシャをめぐる問いに対して、
来週くらいに自分の答えを出したいと思います。(来週は有休が二日もある・・)
それまでにアリョーシャのアリバイをつくり、アリョーシャの行動面からもアリョーシャの思想&考えを読み取っていきたいと思います。

何かまたアリョーシャをめぐる気になる点、不可解な点等ありましたらそこも考察ポイントに入れますのでぜひ、教えてください!




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25)

[571]
RE:アリョーシャという人物について
名前:ユキ 
投稿日時:09/06/27()


http://lucy-van-pelt.vivian.jp/
(※リンク先は喪失されている)

enigma
さん

アリョーシャ考全く進んでなくてすみません。(アリバイをすべて暴いて報告したかったのですがまだ出来てません)
一応、自分のHP上でパーラーゲームみたいな感じで、カラ兄読解を進めています。ランダムにラフに気の向くままカラ兄についておしゃべりするような感じで文章書いていくという方向で。

で、そのうち、何か新しい発見があればまた報告いたします。

ちなみに、父親が死んだときのアリョーシャの感情・・ですが、二年前(?)くらいに私が書いたカラ兄脚本の中ではアリョーシャは神を一瞬疑った、という設 定になっていました。まあ、その前にその脚本はイワンとカテリーナの恋愛がメインで、他はサブキャラ扱いですから、アリョーシャについては深く考えずに、 私は書いていたとは思いますが・・。(ゾシマも死んでないし、グルーシャは売春婦として登場してるし、原作と大きくかけ離れた脚本ではあります)

最近気づいたことは・・・このカラマーゾフ家の悲劇にはラキーチンがかなり関わっているのではないか、ということです。グルーシェニカのいとこであり、カ テリーナのことを好きだったラキーチン。彼はあらゆる人、イワンともミーチャともアリョーシャとも知り合い(友達)でしたし。で、カテリーナが三千ルーブ ルをミーチャに渡す賭けに出たのにはラキーチンがからんでいるのでは、と思ったり。(彼がアドバイスしたと思う)

ではでは。またアリョーシャのアリバイが暴け、スメルジャコフとの密会の日時がある程度特定できたときには、またお相手お願いいたします。



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26)

[572]
ミーシャという人物について
名前:ミエハリ・バカーチン 
投稿日時:09/06/28()


>ユキさん

僕も実はラキーチンは結構重要なキャラクターだと思っています。

表向きはジャーナリストを揶揄したような描かれ方(『カラ兄』の梨元?)ですが、それだけではない役割を担っているのではないかな、と。

まず、ラキーチンは、『カラマーゾフの兄弟』中最大の事情通なんですよね。『カラマーゾフの兄弟』のクライマックスの一つである「ガリラヤのカナ」の場面 にも当事者の一人として絡んでいます。そもそも、あの場面は、ラキーチンの暗躍がなければあり得なかったシークエンスでもあります。ラキーチンがいなけれ ば、アリョーシャはグルーシャと接近することもなく、「不屈の闘士」にならなかった可能性もあるのです。そういう意味で、ラキーチンは『カラマーゾフの兄 弟』に於ける影の立役者と言ってもいいでしょう。

ラキーチンは一般的には、あまり人気のない、評判のよくないキャラクターですが、そんなラキーチンを肯定的に評価している研究家に中村健之介氏がいます。 ラキーチンは、当時のロシアの社会層で言うと、雑階級出身のインテリゲンチャになります。雑階級インテリは、19世紀後半のロシアに於ける社会変革を担っ た主要な階層と言われています。ドストエフスキーの親友でありライバルでもあったネクラーソフは、その典型的な人物だと思います。チェーホフなども、その 一人と言っていいでしょう。当時の貴族制社会に抗して、成り上がるためには手段を選ばないようなヴァイタリティの強さが雑階級インテリの特徴であった、と 中村氏は指摘して、そういうヴァイタリティが社会を変えていく原動力ともなったということで、中村氏はラキーチンの「出世主義」を肯定的に評価していまし た。

僕は、ひそかに、<『カラマーゾフの兄弟』の「語り手」=ラキーチン>、という仮説も持っています。13年後のラキーチンこそ、『カラマーゾ フの兄弟』を執筆した本人に他ならないのではないかな、と。13年後であれば、ラキーチンもそれなりに社会的に成功して、心の落ち着きも得て、若き日の自 分の恥ずべき言動も冷静に振り返られるだけの余裕を身につけているのではなかろうか、そういう彼自身の青春時代への哀惜も込めて、『カラマーゾフの兄弟』 は書かれたのではないだろうか、と。そもそも、「ガリラヤのカナ」だけではなく、ラキーチンは、ミーチャ裁判の当事者の一人でもあるのです。当事者でなければ到底知りえないような描写の多い『カラマーゾフの兄弟』は、相当の<事情通>でなければ書くことは出来ないでしょう。――となると、ラ キーチンあたりが「語り手」の候補として浮上してくるのですね。

『虐げられた人々』のワーニャとか、『悪霊』のアントン・Gとか、『未成年』のアルカージイとか、登場人物の一人が「語り手」である――、という手法を、 ドストエフスキーはよく使っています。こういう設定を使うことで、作品にある種の緊迫感と臨場感を齎す効果をドストエフスキーは狙ったのかも知れません。 まあ、『嵐が丘』もそうですが、19世紀の小説には、こういう登場人物の一人が「語り手」であるという構造の小説は珍しくはないのですが、『カラマーゾフ の兄弟』も、実はそういう「語りの構造」を持った作品であり、その「語り手」こそは、我らがミハイル・ラキーチンに他ならないのではないか――と愚考して いる次第でありました。

 



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27)

[573]
ミエハリさん
名前:ユキ 
投稿日時:09/06/28()



語り手が誰かと言うことまで考えたことはありませんでした。

そこまで発想が及ばなかったというか、見逃していたというか。確かに<誰??>って感じですものね。確かにイワンの帰郷の際のコメントというか書き方を見 てるとラキーチンっぽい気がしますね。とりあえず<書き手>はイワンの帰郷前からフョードルの町にいて、カラマーゾフ事件の一部始終を見ている、という点 で、この小説随一の事情通だったラキーチンが<語り手>ではないか、という説はのどごしの良いゼリーレベルで受け入れやすい仮説です、私にとっては。

ちなみに自分のHPから拝借した文章をコピペ↓

カテリーナがミーチャに渡した宿命的な三千ルーブルの件。

「君の婚約者のミーチャは今にグルーシェニカにぞっこんになるよ。君がそんなにミーチャの誠実さを信じてるんなら彼を試してみたら?? 彼に三千ルーブル 渡してみなよ。親類に書留で送ってきて、とか何とか適当な理由をつけて。ミーチャはその三千ルーブルでグルーシェニカを買おうとするだろうね。彼女のため に散財するさ。だってさ、ミーチャはそういう男だぜ」


カテリーナとグルーシェニカの宿命的で最悪の結果を巻き起こしたお茶会(お茶会というか・・)の件。

カテリーナからミーチャとグルーシェニカの不道徳な関係について相談を受けたラキーチンはこう提案したに違いない。

「じゃあさ、グルーシェニカを家に招待したらどうかな。僕から話をつけてみるよ。直接、話せばいいのさ。ミーチャから手を引いてほしいって、頼むのさ。大 丈夫だよ、グルーシェニカだって、手を引くさ。あの女は、ミーチャをからかってるだけだから。君だけには言うけど、グルーシェニカには忘れられない男がい るのさ。ポーランドの軍人さ。もうすぐ彼女のもとに帰ってくるかもしれない。だから、ミーチャのことなんてグルーシェニカにとってはお遊びで本気じゃない さ」

あくまで推測ですが。書かれなかった会話、ということで。




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28)

[695]
なぜリーズに愛情を抱くのか
名前:ぼんやり読者
投稿日時:09/11/02()


皆さんの刺激的なレスを読ませていただいている者です。

以下はクローバーさんの[353]の投稿 

>
彼女の無邪気さの裏に潜むサディズム(後半での自傷行為を考えるとマゾヒズム)や邪悪さ・残酷さ、時々起こすヒステリー(後半ではアフェクトと言われてま したが)、会話におけるアリョーシャへの批判的な発言。そして、リーズという人物において、よく強調される「足の悪さ」。
>
聖的で誰からも愛されるアリョーシャとは反対的な彼女に、なぜアリョーシャは彼女に愛情を抱いているのか。許嫁かつ幼馴染の関係以外の要因があるようにも思えるのですが・・・


に対するごく素朴な私見です。

アリョーシャは第4部以降の小悪魔的な彼女を「親切に面倒をみてやらなくてはならない病人」とみているのではないでしょうか。

「白痴」という作品の主人公・ムイシュキン公爵がナスターシャという女性に対して抱く感情とちょっと通じるのかな、と私は解釈しています。

まあ、もしアリョーシャが自分の弟なら「こんな少女と結婚してはいけないよ!君子危うきに近寄らずだ」と熱烈にアドバイスしたくなりますが、アリョーシャは俗界にでてもやっぱり僧侶的性格で、(エロスではないほうの愛の)実践家なので、きっと彼女を見捨てないのでしょう。

私の予想では、アリョーシャはムイシュキン公爵のような悲劇には終わらない、なぜなら彼は生命力旺盛な「カラマーゾフ」の一人だから。

ちなみに「カラマーゾフ気質」とは何か、ということですが、斉藤孝先生は「ドストエフスキーの人間力」という本のなかで、「女好きと、強欲と、神がかり行 者」のことだと定義しておられますが、私には「女好きを含めた絶大な生命力」に思えます。 イワンが「粘っこい若葉」「瑠璃色の空」を愛する、あのイメージです。

あ、「足の悪いリーズ」については、作者自身の女の足に対する性的執着を考えると、アリョーシャの「女好きカラマーゾフ気質」に関係しているのだと私は思っています。

以上、横レスでした。



(
29)

[696]
カラマーゾフ気質について修正
名前:ぼんやり読者
投稿日時:09/11/02()


たびたびですが、ぼんやり読者です。

[695]
の記事の修正を試みましたがうまくいかなかったので文を別に投稿します。

斉藤孝先生は「ドストエフスキーの人間力」という本のなかで、「女好きと、強欲と、神がかり行者」のことだと定義しておられます

斉藤先生が勝手にそう定義しておられるのではなく、これはラキーチンのアリョーシャに対するせりふでした、念のため。

「要するに、きみたちカラマーゾフ一家の問題というのは、女好き、金儲け、神がかり、この三つに根っこがあるってわけさ!」
(亀山訳 一巻211ページ)

強欲・・・ドミトリーとアリョーシャは金銭感覚は常識的ではなさそうですが、少なくとも強欲ではなさそうですが。イワンはスメルジャコフによればお金好きということでしょうか。でも強欲とまではいえないような気がしますが。

神がかり行者・・アリョーシャ以外についてはよくわかりませんが。



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30)

[699]
アリョーシャの悪い面とは
名前:ぼんやり読者
投稿日時:09/11/02()


また、ぼんやり読者です。
アリョーシャにおけるカラマーゾフ気質の悪い面を考えてみました。

[697]
で竜之介様がアリョーシャの影の部分の論考をしておられます。
また、[352]Seigo様も、アリョーシャのうちにひそむ「強い情欲」と「悪行(大悪行)をしてしまいかねない傾向」を指摘しておられます。

私の考える「カラマーゾフ気質」のマイナス面とは、

・(ある線を踏み越えてしまうと)自制力が働かない、歯止めが利かない

ということです。Seigo様の言っておられることと同じ意味なのですが。

アリョーシャはドミートリーに、淫蕩ということに関して

「すべては同じ階段なんです。ぼくはそのいちばん低いところにいて、兄さんはもっと上の、十三段目あたりにいる。」
(亀山訳 一巻291ページ)

と語っているので、まだ転げ落ちる最初の一歩は踏み出していませんが、一生踏み出さずにいることができるかというドミートリーの問いには「むり」と答えていますね。

これは別に「淫蕩」に限ったことではないと思われるので、殺人者アリョーシャという想像も不可能ではないかもしれません。

しかし、[524]ミエハリ・バカーチン様が書かれているように

>
ドストエフスキーはアレクセイ・カラマーゾフという人物を造形し、亡き子がもし健やかであれば斯く育って欲しかったという、一種の追悼と再生の祈りを託しつつ、『カラマーゾフの兄弟』を物語ったのだと思います。

と私も強く思っていますので、この物語の、作者の死によって書かれなかった部分も含めて、最後の最後には何か明るい救われる結末を予想しています。おそらく途中にはさまざまな葛藤や不幸があろうとも。

ゾシマ長老の遺言
「でも、わたしはおまえをうたがってはいない、だから送りだすのだ。(中略)大きな悲しみをみることがあっても、その悲しみのなかでおまえは幸せだろう。『悲しみのなかに幸せを求よ』。」
(亀山訳 一巻201ページ)

最初の命題にもどって、アリョーシャのカラマーゾフ気質の悪い面は何かということですが、

・私は現段階では悪い面は顕現されていないように思います。
・しかし何かに向かって突っ走っていくかもしれない爆発的な力を予想させるので書かれなかった物語がもし書かれていたら、波乱はきっと避けられない。
・波乱は波乱だろうが、彼自身が悪行(たとえば殺人)にはしるか、というと私にはそうは思われない。むしろ何かそういうことで彼が犠牲になるのかもしれない。だが必ずや救いがあるはすだ。イエスの場合のように。

というふうに読んでいます。まあ、正直言って作者の死によって書かれなかった部分についてはわからないので考えても無駄と思っているのですが、ついつい書かれなかった部分を想像してしまいますね。長くなりました。