キリーロフについて
(NO.1〜NO.77)
NO. 1
[Seigo] [97年2月1日]
「人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです。それだけのこと、断じてそれだけです、断じて!それを自覚した者は、すぐ幸福になる、一瞬の間に。」
(米川正夫訳。『悪霊』の第2篇第1章の5。新潮文庫では上巻のp371。)
この言葉は、小説『悪霊』の中のキリーロフという、従来の「神」の「死」を宣言するニーチェの超人思想の先駆となるような一登場人物が、独自の文脈の中で言った言葉ですが、この言葉は、あまりに不当に「謙虚」過ぎはしないかという批判を越えて、ある意味では、考えさせられる意味深長な言葉だと思います。「知らない」「自覚する」という言葉のニュアンスに注意すべきでしょう。
NO. 2
[美紀] [97年2月16日]
人間は苦痛であり、人生は恐怖である。だが、人間はいつまでも人生を愛している。それは、苦痛と恐怖を愛すからだ。/
悪霊
NO. 3
[Seigo] [97年2月16日]
マエさんとこのお仲間の美紀さんですね。上の引用、サンキュー・ベルマッチョ、です。
小説『悪霊』の中の登場人物キリーロフ(ニーチェの超人思想の先取りとも言えるような、特異な「人神」思想を抱いて自決してしまう人物)の、面目躍如(めんもくやくじょ)たる言葉ですね。上のキリーロフの言葉を、美紀さんは大まかに思い出して書いているようなので、差し出がましいながら、正確な本文を次に引用しておきます。
「生は苦痛です。生は恐怖です。ゆえに人間は不幸なのです。現代ではすべてが苦痛と恐怖です。いま人間は生を愛している、それは苦痛と恐怖とを愛するからです。そして、実際そのとおりにしてきたのです。」
(米川正夫訳。『悪霊』の第1篇第3章の8。新潮文庫では、上巻のp179。)
上の言葉に続けて、キリー氏は、未来に出現する「人神」を予見して、次のように言っています。
「いま生活は苦痛と恐怖の代償として与えられている、しかもその中にいっさいの欺瞞(ぎまん)が含まれているのです。今の人間は本当の人間じゃありません。今に幸福と誇りとに満ちた新人が出現する。生きても生きなくても同じになった人が、すなわち新人なのです。苦痛と恐怖とを征服した人はみずから神となる。そうすると、今までの神はなくなってしまう。」(米川正夫訳)
小説『悪霊』は、ドストエフスキーの大作群の中では、人神思想・無神論者たちがやたらに突出している、デモーニッシュな喧噪(けんそう)や険悪さに満ちた、特異な政治小説ですが、私には、いまだ、このキリー氏や、善悪の判断基準を見失った境界で知力体力をもてあまし狂態を繰り返す主人公スタブローギン氏、の「人物像」や「その抱いている考え」に関して、よく飲み込めないところがあります。彼らの考えは、ドストエフスキーの本意ではないでしょう。美紀さんを初め、この小説を読まれたお方の、彼らに対する感想・意見を、私Seigoはお待ちしてます。
NO. 4
[キリーロフ] [97年5月5日]
はじめまして、キリーロフです。ぶしつけに発言させていただきます。
ペンネームでお解りのように、ドストエフ大好きー人間で、特に「悪霊」に登場するキリーロフ氏が大好きです。
NO. 5
[Seigo] [97年5月5日]
はじめまして、キリーロフさん。主催者側のSeigoです。
私も、「キリーロフ」という登場人物には、心ひかれるのですが、毎日体操を欠かさない「生」の大肯定者でありながら、一方で、自殺を志願し敢行してしまうキリー氏の「精神や考え」の構造が、私には、いまだ十分には理解できていません。今度、お暇な時にでも、キリーロフさんの「キリー氏」観の一端でも、このボードで聞かせて下さい。
NO. 6
[那須タエコ] [97年6月1日]
「滑稽」の話なんですけど、これはすごく大事な要素だと思います。ドストエフスキーは、よく小説の中でゴーゴリを取り上げますが、ゴーゴリ文学はまさに「暗い滑稽」の結晶という感じで、しかもそれがとても「パワフル」なのです。このゴーゴリ的な、「パワフルで暗い滑稽」を、ドストエフスキーは完璧に使いこなします。例えば、ムイシュキン公爵の存在自体、キリーロフの奇妙な自殺論、ラスコーリニコフのソーニャへの告白をこっそり立ち聞きするスヴィドゥリガイロフ…。そしてもっとも完成された「滑稽」は、イヴァンの悪魔だと思います。あれはもう、すごい、芸術の極致だと思います。
NO. 7
[アカーキィ,jr.] [97年6月15日]
ちわ。深夜テレビ観ながらワープロ打ってます。
(途中、略) サイゴさんのいうとおり、専門的なことは、専門家に任せて、だいたい、僕なんかはドストエフスキーっていうおっさんのことからして、どうでもいい。大事なのは、イワンやキリーロフや、ゾシマ長老だ。彼ら一人一人の言う一つ一つのせりふが、行動が、面白く、重要なのだと思う。あの気違いのおっさんの創り上げる、独特の奇妙な世界が、あのワキガの匂いのような雰囲気が、僕には、快感であり、癒(いや)しなのである。
NO. 8
[小嶋] [97年6月15日]
以上,読んでおわかりのこととは思いますが,観念的なことや細かいことを求められても困ります.ここしばらくよんでないし.そもそも,私は,ドストエフスキーに関してはミーハー的に好きなのであって,考える素材とはなりませんでしたし,それで私には充分なのです.アリョーシャみたいな弟が欲しいとか,キリーロフにお熱だったり(あの頃は自分も若かったよな),ピョートル(悪霊)の下品さに快感を覚えたり,カラマーゾフ家の兄弟の会話に酔ったり,『悪霊』のおどろおどろしさにゾクゾクしたり,作品から溢(あふ)れる過剰さにもっとストイックになれないものだろうかなどと呆(あき)れてみたり,私にとってのドストエフスキーの魅力はそんなところです.
NO. 9
[Seigo] [97年8月23日]
高橋和巳(かずみ。作家・中国文学者。1931〜1971。)の言葉。
「ドストエフスキーの『悪霊』のなかに、キリーロフという人物が出てきますが、私は、三島由紀夫氏の死(注:1970年の自決)はキリーロフ的な自殺という感じが現在ではしています。」(高橋和巳の文章「自殺の形而上学」より。1971年。文和書房1971年刊『自立の思想』に所収。新潮文庫の高橋和巳のエッセー集『人間にとって』にも所収。)
私は、三島由紀夫の小説に関しては、『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』ぐらいを読んだほどで、あまり広くは読んでいないのですが、三島由紀夫の最期(さいご)には、昔から、並々ならぬ関心がありました。三島由紀夫の自決に関しての、上の高橋和巳の指摘は、なかなか、鋭いように思います。(三島氏がドストエフスキーの小説をどの程度読んだのかは、私には今のところ、よくはわかりません。ドストエフスキーに関して言及している氏の文章を、今、いろいろ探しているところです。『仮面の告白』の最初に、『カラマーゾフの兄弟』の中のドミートリーの言葉の有名な一節が掲げられていることは、ご存じの通りです。) 三島氏の自決には、氏自らが考えていた様々な動機や目的が考えられましょうが、「死及び死後の世界」に対しての氏の考えや信念が先にあっての「死」という感じが、私にもしています。
NO. 11
[武尊] [97年9月26日]
初めてアクセスします。
ドストエフスキーが創造した人物で倫理的な、神を肯定する人物とアナーキーな無神論者とに大別できると思うのですが。前者の代表的なのがアリョーシャで、後者の代表的なのがイワンではないでしょうか。どちらが好みですか?因みに私の最も好きなのは「悪霊」のキリーロフです。彼は間違いなく後者でしょうね。
NO. 12
[Seigo] [97年9月26日]
武尊さん、初めまして。主催側のSeigo(サイゴ)です。
武尊さんが上で、ドストエフスキーの小説の登場人物の中で一番好きだとして挙げたキリーロフについてですが、彼の自殺哲学及び自殺を行使したことに対しては、奇異奇矯(ききょう)なる設定として、私は昔から何ら共鳴を覚える点はありません。我々は、そこに、我意をあくまで徹底化しようとする人間へ向けての、ドストエフスキーによる痛烈な風刺や批判を読みとれば、それで十分だと思うのです。
一方、私が興味を覚えるのは、例の神秘的な「生」の高揚(法悦)の瞬間に関するキリーロフの体験告白であり、「生」というものを、よきものとして肯定しようとする彼の「生」に対する考えであり、また、神が支配しているはずのこの世界の悲惨な現実に対する彼の真摯(しんし)な糾弾(きゅうだん)の言葉です。
NO. 13
[武尊] [97年9月29日]
先日、キリーロフファンを広言した者です。
Seigoさんは、キリーロフの思想を厭世(えんせい)的かつ自己逃避型と否定的に捉えていますが、それは全く違います。ドストエフスキーから「生」を肯定し、力強くそれを生き抜かねばならぬ、といったニーチェ的な思想など拾ってはいけなのです。あたかも「カラマゾフ的」に生きていくのが正しい、というのは独断でしかないのです。だから、『地下生活者の手記』の「わたし」は、「これからどう生きるべきか」などという問いは愚問でしかないのです。『地下生活者』の詳しい筋は失念してしまいましたが、「わたし」の性格・思想は非常に印象に残っているので、そう断言することは可能です。ドストエフスキーの文学に倫理的道徳的キリスト教的かつ世俗的な「救済」を求める精神は卑しく、ナンセンスであると云(い)わざるを得ません。
さてここで、キリーロフ擁護と私の思想を述べます。まず現在19歳の私が有している根本命題は、「生」は尊く、「死」は忌避されるものだ、という言説はイデオロギーに過ぎない、というものです。一体全体誰が、自己は実存せねばならない、と決めたのでしょうか。こんなもの一個の信仰でしかないのではないか。というのが私の懐疑の出発点であり、現在の私の考え方の位置です。この考え方はギリシャ哲学でいうとキュウニコス派(犬儒派)に近く、判りやすい言葉でいうとニヒリズムになる。ニヒリズムやキュウニコス派は一切の権威や真理を否定するから、その代わりとしての「真理」の保証を自己自身の実存やコギトに求めざるを得ない。だから必然的に独我論となる。キリーロフの「人神論」はいうまでもなく独我論である。彼は自分が神であることを証明するために自殺した。彼にとっては自己が認識し、思考するから世界は存在する。ゆえに、自殺によって彼の認識が消滅したら、世界もまた消滅する。これを証明するために彼は死なねばならなかったのだ。この行為を滑稽だと笑う者は、「生」は尊い、勝手に信じ切っているだけで、キリーロフや私は、そんなものはドグマである、と知っている。先日バーで隣の客と議論になった。自殺者は強いから自殺するか、弱いから自殺するか、というもの。私はもちろんキリーロフ主義者であるから前者の立場。Seigoさんはどちらですか?
NO. 14
[Cake] [97年9月30日]
上の武尊さんの書き込みについて、少し意見を述べさせていただきます。
Seigoさんの思想については私は良く知りませんが、武尊さんのおっしゃっていたのとは少し違うように感じるのですが・・・。自殺をする人の中には、強い人も弱い人もいるのでしょう。まあ、それはいいとして、確かに、「生」は尊いというのは、イデオロギーにすぎません。自己が認識し、思考するから世界が存在する、というのも、正しいと思います。観念論的に言えば、世界は、自己の認識の中にしか存在しないのですから・・・。しかし、そう考えるならば、自己が消滅すれば世界が消滅するのは、ある程度当たり前のことであって、わざわざ自殺をしてそれを証明することはなかったはずです。自己以外にそれを証明する相手などいないはずですから。キリーロフが、それを証明するために自殺せねばならなかったということは、必然的に、「自己の認識を越えた存在」を、自分が証明する相手として想定していた様に私には思えます。もちろん、これは正確には独我論ではありませんね。私が思うに、キリーロフは不完全な独我論者です。もっと詳しく言うならば、自殺すること(自己の認識を消滅させること=世界を消滅させること)によって、「自己の認識を越える存在」など存在しない、ということを悟り、真の独我論者になろうとしたのが、キリーロフです。すくなくとも、自殺せねばならなかったという時点で、キリーロフは完全な独我論者ではありません。私自身は、このキリーロフの独我論の不完全さから、彼に大きな魅力を感じております。
NO. 15
[Seigo] [97年9月30日]
Cakeさん、二度目の書き込み、どうも。Cakeさんの『悪霊』論、今後も期待しています。
[武尊] [97年9月29日 ]〔 NO. 13 〕
・ >Seigoは、キリーロフの思想を厭世的かつ自己逃避型と否定的に捉えていますが、
・ >(ドストエフスキーの内の)「生」を肯定し、力強くそれを生き抜かねばならぬ、といったニーチェ的な思想
・ >「カラマゾフ的」に生きていく
武尊さんは、このあたりのことや内容を、Cakeさんが言ってくれているように〔→NO. 14 〕、やや誤解しているように思うのですが…。[9月26日]〔→NO. 12 〕の私の書き込みなどを、もう一度読まれてみてください。
>「地下生活者の手記」の「わたし」は、「これからどう生きるべきか」などという問いは愚問でしかないのです。ドストエフス
>キーの文学に倫理的道徳的キリスト教的かつ世俗的な「救済」を求める精神は卑しく、ナンセンスであると云わざるを得ません。
このあたりの武尊さんの指摘は、ドストエフスキーの側から言えば、ドストエフスキーの本意に外れているように思います。『地下室者の手記』の「わたし」を「地下室」という自閉的世界にいつまでも閉じこめておくことを「よし」としなかったドストエフスキーは、彼を、『罪と罰』のラスコーリニコフとして、世間に再登場させ、彼のその新たな生きざまが引き起こした事件とその行く末を我々読者に問うた、と私は思うのです。
キリーロフ主義に立つ武尊さんは、キリーロフの全体像の一面だけを捉えて共鳴しているような気がするのですが、キリーロフの内にあって一つの根幹になっているイエス・キリストへの思い、といったあたりも理解する必要があるのではないでしょうか。「自殺者は強いから自殺するか、弱いから自殺するか」に関しては、ケース・バイ・ケースであり、私にはなんとも言えません。キリーロフの強者の立場というのは、あくまで、ドストエフスキーが親切にも文学の世界に造型してくれたことであって、我々読者はキリーロフの立場やその自殺の強行の現場を想像の中で追体験することができ、そして、ドストエフスキーがキリーロフの立場の中に込めた「欠陥」「風刺」を考えていくことができるという恩恵に浴するのであって、読者がキリーロフの立場の一面だけを取り上げて、そのまま自己の現実の生き方にし、果ては実行に移していくに関しては、物騒千万(せんばん)、私は、ドストエフスキーに代わって、いかんいかん、の遺憾(いかん)の意を禁じ得ません。
他の皆さんも、武尊さんの意見をどうお考えでしょうか。
キリーロフの立場や考えに関しては、私自身、まだ、理解が十分及んでいない点も少なからずあるので、『悪霊』を読んだことのある人は、キリーロフ論を、いろいろ展開してみてください。
NO. 16
[武尊] [97年9月30日]
Cakeさんの「キリーロフ不完全独我論者」〔→NO. 14 〕は非常に興味深いです。なるほど、不完全だからこそ彼は自殺せねばならなかったのでしょう。それだから私も魅力を憶(おぼ)えるのでしょうか。ピョートルに振り回されていそうで、実はキリーロフがピョートルを振り回していることなど、本当に痛快です。
(途中、略)
キリーロフとラスコーリニコフの対比が出た〔→NO. 15 〕ので、それについて少し述べます。
ラスコーリニコフは読んでる途中まで非常に好きな人物だったのだけど、いかんせんラストが良くない。どう解釈してもあれではキリスト教の神に屈服したとしか思えない。表面上はソーニャの深い深い愛情ということなのでしょうが。その点、キリーロフは最後まで何かにすがろうとする態度をみせずに、自己こそが神である、という思想に実践をもって貫いた。その方がよっぽど立派で潔い姿勢ではなかろうか。ラスコーリニコフも「英雄は何をやっても構わない」思想を貫き、ネヴァ川(川の名前は曖昧にしか覚えてない)に飛び込むべきで、警部に追われても自首することはなかったのです。自首しただけならまだしも、シベリヤに送られてからの根源的「転向」「変節」は絶対に納得できません。こういうことを云(い)うと、『罪と罰』という作品とドストエフスキーの神への態度そのものをもを否定しているかもしれませんが、やっぱり私は神を肯定する弱者的思想は気にくわない、と言わざるを得ません。
NO. 17
[武尊] [97年10月6日]
ニーチェ研究の学徒である0`さんが私に質問したようなので、少し云(い)っておきます。《生が尊いは一個のイデオロギーに過ぎない》という命題は、言い換えると、根源的な相対主義といえます。《生》を信ずるのも勝手だし、それを信じないのもまた勝手である、ということ。ニーチェなんかは《それでも生きねばならぬ!》めいたことを述べてると思うのですが。私が現に今生きてることは、妥協であると思っています。頭の理性の方は「死にたい」と願っているのだが、肉体の方がそれを許してくれないのです。こういうときは、プラトンやデカルト的な心身二元論が非常に便利です。キリーロフは肉体のシガラミを見事に超越して(口先だけではなくて)、自殺を成就した。だから私は彼を尊敬し、憧(あこが)れているのです。
NO. 18
[武尊] [97年10月7日]
0`さんに反論します。
私は《本来の自己は生きているうちには成就(じょうじゅ)されない》なんて、一言も云(い)っていません。それは「生」に落胆した弱者的な自殺の発想です。前回プラトンやデカルトを持ち出しましたが、はっきりいって私はプラトンのイデア論には反対です。ああいう彼岸(ひがん)的思想は好むところではないのです。「じゃあ、どういう世界を望むのか。世界の由来はなにか」と問われるかもしれません。0`さんなら、「権力への意志」と答えるかもしれませんが、私は、自己が何らかの形で成就せねばならない(その形がラスコーリニコフであれキリーロフであれ)、という思想そのものに疑念を抱いています。だから、私の思想的立場を規定して《キュニコス派》と述べたのです。言い換えると、究極的なニヒリズムです。生きることに目的はないし、死ぬことにも目的はない。目的がない以上それを探すのは全くナンセンスです。それでも人間は矛盾したナンセンスな生き物ですから、ないことを薄々勘ずいていながらも、「生きる意味」「死ぬ意味」を探さずにはいられないのです。私はナンセンスな人間ではなく、パラドキシカルな人間なんで、「死ぬ意味がない。ゆえに私は死にたい」といいたいですね。
上記の論理は以前の私のキリーロフ論と少しズレが生じているのを感じますが、キリーロフが超越的であったか、否かはまだ議論の余地があります。
NO. 19
[武尊] [97年10月13日]
0`さんへ。
本当に0`さんの明晰(めいせき)さには頭が下がります。前回の書き込みには、思わずうなってしまいました。私も前回あそこまで言い切ってしまうと、《死ぬこと》への必然性や動機は全くなくなってしまうでしょう。それでも、(またニーチェですが)《にもかかわらず、しかし!》なのです。ニーチェの生の肯定に明確明晰な論理がないとすると、私とキリーロフの死の肯定にも、論理だった説明はできないのです。そういう情念というかパトス性が、いかにもドストエフスキーらしくて、このホームページに合っているのでなないでしょうか。でも、このやり取りがディベートだとすると、完全に私の敗北でしょうね。私に《生》と《死》の等価性まで誘導尋問的に語らせて、私の論理を袋小路に陥らせる0`さんには恐れ入りました。
NO. 20
[めぐみ] [97年10月17日]
スタヴローギンの、幾人かの重要な人物との対話、この中から、語り手の「私」が町の噂話からではとうてい分かりえないようなスタヴローギンの姿がちょっとずつ浮かび上がって来ます。キリーロフには、ただ決闘の介添(かいぞ)えを頼みに来たのだけど、彼の一種幸福な自殺決意、時や世界の捉え方、などに注意深く耳を傾ける。帰郷していきなり彼に頬打ちを食らわせたシャートフは、かつてその口からでた崇高(すうこう)な思想から堕落した(と彼には見えた)スタヴローギンに、失望としかしまだ期待とをぶつける。この二人とも、ペテルブルグ時代に、スタヴローギンその人から「心と神と祖国」を植え付けられた(これはシャートフの言葉なので、キリーロフの受け止め方は少しちがうかも知れないけど)わけです。しかし、自分の蒔(ま)いた種の結果である二人が、彼にはどこか他人事のように思えるみたいです。私にはまだ、ペテルブルグ時代の彼の姿が完全には浮かび上がって来ないのですが、偉大で崇高な思想を口にすることもでき、その傍(かたわ)らで世間で愚行と言われる生活に身を沈めることも「でき」、しかしそれらに溺(おぼ)れることは決してなく、自分を完全に保っている、そんな感じだったのでしょうか。
NO. 21
[Seigo] [97年10月17日]
>『悪霊』にはソーニャやアリョーシャの系譜の人がいない〜、
>と思っていましたが、それは間違いでした。
そうです、そうです、
「悪」の喧騒(けんそう)やエナジーのみが突出しているような『悪霊』の中にも見え隠れしていてちゃんと用意されている「明」の部分を読み取る作業が必要だと私も思っています。スタヴローギン・ステパン氏を初め、悩める各主要登場人物には、その精神面での母性的な「看護婦」とも言うべき登場人物が影のように寄り添っていて、彼らの「回心」の可能性を見守っていたと言えると思います。(キリーロフに関しては、そのあたりのことは、どうだったでしょう。)
NO. 22
[武尊] [97年10月21日]
皆さんも「神」と自己と同一のものとするため、換言すれば、自分が神となるため(それこそ究極の相対主義)キリーロフにならって、自殺しましょう。どういうわけか、私はまだ生きてますが。
「人生即是矛盾」(じんせいすなわちこれむじゅんなり)。
NO. 23
[Seigo] [97年10月21日]
武尊さん、福田さん、長い書き込み、これまた、ありがとさんです。
>武尊さん。
自分は「自殺」するかもしれないなんて、ここの来訪者の皆さん(特にカナダ在住の「めぐみ」さん)が、それを聞いて、本気にしたりして、さらに、少なからず心配しますから、そういった書き込みを軽々しくすることやあなたのその思い込み自体も、今後は、ほどほどにして下さいね。(キリーロフが最終に取った行動に対して、あなたのような捉え方をし続けるならば、ドストエフスキーもキリーロフ氏も、自分の本意に沿わないものとして、きっと、悲しんでいるに違いありません。ドストエフスキーの本意や意図を、もう一度じっくり思ってみて下さい。)
NO. 24
[めぐみ] [97年10月22日]
ちょっと昼休みにのぞきに来たら、武尊さんがまた、「現実生活上で、不愉快なこと」程度で、死んじゃおうかなーなんて書いている。Seigoさんが私の名も使って心配しているではないですか。どうしてその若さで人生の見方をそんなに狭(せば)められるの? まだまだあなたの見極めていないことって沢山あるはずでしょ? 前のあなたのキリーロフへの入れ込み様も気になっていたんです。私は過去の『悪霊』読書では、彼はそれほど印象に残らなかったので、そんなに興味深い人物だったかな、と、今回はそれも読書ポイントに入れて再読していたんですけど。話はまだ最後の破滅的な所まで行っていないので、キリーロフについてもなんとも言えません。スタヴローギンとの会話からは、何か独自の境地に到達しちゃっているような感じですけど、これは非常に特殊な境地で、決して一般的ではない。真理は一般的でなければならないということはないけど、「普遍的」という性質は常にあると思うんです。真理は、特別な一人にしかわからないものではなく、万人に向けられている、無学な者にも、子供にだってわかることのできる、そういうものではないでしょうか。だから、キリーロフの達した境地は、私は残念ながら非常な思い込みにしか感じられません。そして、キリーロフは、思想の混乱の犠牲者だと私は思います。自分の考えをあんなに絶対化するという行為自体、盲信的です。そして、盲信的な態度ほど、自由でない状態はありません。彼が、自由の境地として自分を考えているのは、私はド氏のirony(アイロニー)だと思いますそれと、神のあるなしの問題を、よくまあそんなに簡単にまとめてしまいますね。哲学の悪い癖ですよ。矛盾をやたらに自分の次元で整理してしまおうとするから。で、哲学者自身にしかわからない用語で何でも語ろうとするんです。
昼休みが無くなってしまった...では取り急ぎ。
NO. 25
[有容赦] [97年12月8日]
有容赦@悪霊・第二部 です。
うーん、どうしてこんなに面白い小説ばっかり書けるんでしょうか? スタヴローギンが深夜にキリーロフを訪問した際の二人の対話の、息つく間もない、目も眩(くら)むようなそんなものがあるとしたら、全立体角から出てくるモグラ叩きのような、あまりにも次々と意表をつき続ける展開は、まさにそれだけで、ある芸術的到達と言えましょう。これは先入観や予備知識がない無防備な状態で、初めて読んだときだけの印象のようで、今朝、ちょっと復習のために同じ箇所を読んだときには、もちろん、名残(なごり)はありますが、当然ながら、最初のときほどの眩暈(げんうん。=めまい)は感じませんでしたが、まあ、それにしても、なお面白い。復習で気付いたのですが、この場面の直前に多弁なピョートルの長い台詞が沢山あるので、余計に、この二人の<寡黙(かもく)な会話>の、余計なものの挟まっていない、一幅の水墨画のような、それでいてヘビー級の打ち合いのようでもある独特の味わいが活(い)きているのですね。それにしても、一体この先どうなってしまうのか、非常に楽しみです。
NO. 26
[Seigo] [97年12月19日]
>人類に普遍的な「良心の声」があり、それを信頼していたとは思えません。
>Seigoさんも言う通り、「大審問官」の章で、イワンが再三繰り返す良心不在とも思える人々の話や、
>リシャールの挿話のような良心の恣意性問題が取り上げられます。
>作者と登場人物の考えが同じ必要はありませんが、
>私には、少なくともドストエフスキーが、具体的な人格神としての神抜きで、
>人間の「良心の声」を信頼していたようには思えません。
>ドストエフスキーも「もし永遠の神がないなら、いかなる善行も存在しないし、
>それにそんなものはまったく必要がない。」と考えていたように思います。
上の立場は、あくまでイワンやキリーロフといった登場人物の立場であって、彼らの立場は、作者による批判の対象になっているのであり、ドストエフスキー自身の本意的立場ではないと、私は、やはり、思っています。
NO. 27
[くらま] [97年12月22日]
私のドストエフスキーで気に入った言葉。
「悪霊」新潮文庫(下)p438 キリーロフの言葉。
「イエスが処刑されたのち、もし天国も復活も見出すことができなかったら(=実際に神(人格神として)が存在せず、不死も永世もなかったら)、つまりは、この地球の法則そのものが虚偽であり、悪魔の茶番劇だと
いうことになる。なんのために生きるのか、きみが人間であるなら、答えてみたまえ」
少し前の話になりますが、N-hiroさんとACDCさんの神は、この問いに答えてくれるのでしょうか。
NO. 28
[Seigo] [97年12月22日]
くらまさんが上〔→ NO. 27〕で挙げてくれたキリーロフの言葉は、私も、最初に読んだ時、我が胸に突き刺さり、強烈に印象に残りました。
NO. 29
[Seigo] [97年12月28日]
>Seigoさんは、ドストエフスキーがクリスチャンだったということ、有名な
>「もしキリストが真理の外にあったなら、真理とともにあるより
>キリストと共にあるほうを選ぶ」という言葉や(ここでの真理とは、理性で証明可能という意。)
>ドストエフスキーの信仰について、どう考えられているのでしょう?
>ドストエフスキーの信じていた神について、どういう想定をされているのでしょう?
ドストエフスキーは、「神」の存在に関しては、この世における悲惨さの存在ゆえに、生涯苦しみ続けましたが、「イエス」に関しては、聖書の中に記されたイエスにほれこみ、敬愛の信仰を熱烈にいだき続けたようですね。(もちろん、十字架から降ろされた無残なイエスの死体をグロテスクに描いた「ホルバインの絵」に ドストエフスキーが一時衝撃を受けたことは、たしかなようですが。)
ドストエフスキーが生涯苦しめられたところの「神」は、キリーロフやイヴァンが反抗した対象としての「神」、とみなしていいと思います。つまり、「人間社会を初めこの世を万能と愛で支配していながら、この世の中にいろんな悲惨や苦しみを設けている神」のことだと思います。そして、ドストエフスキー自身は、この「人間社会を初めこの世を万能と愛で支配していながら、この世の中にいろんな悲惨や苦しみを設けている神」を理解し受け入れる境地を、次第に獲得していった(あるいは、もっと早い時期から獲得していた)、と私は思っています。
NO. 30
[くらま] [98年2月2日]
ついでに対比として、スタヴローギンについてのキリーロフの言葉、
「スタヴローギンは、たとえ信仰をもっていても、自分が信仰をもっていることを信じようとしない。信仰をもっていないとしたら、信仰をもっていないことを、信じようとしない」新潮文庫『悪霊』P434
NO. 31
[有容赦] [98年2月13日]
ろこさんの
>キリストは苦悶の中にありながらも見捨てられたと叫ぶその方を
>「我が神」と呼ぶことを止めなかった。
>つまり、神の信頼からいささかも離れなかったということである。
というお言葉、私にとっては大きな発見で、感銘を受けました。そうか、「我が神」と呼びかけたことに、重大な意味があったんですね。これで、N-hiroさんが取り上げられた亀井勝一郎氏の指摘につながる訳ですね。この問題を考える上で、話題になっているホルバインの絵については、第3部でイポリートも、その「弁明」の中で取り上げています(新潮文庫 下p160あたり)。彼は、これを「自然の力」を表現したものとみなしていますね。このあたりは、『悪霊』のキリーロフの発言などに連なるものを感じます。一方で、『カラ兄弟』のイワンの思想にも繋(つな)がって行くものがあると思います。つまり、ドストエフスキーの晩年の大作全てに共通する大きなテーマ(アンチテーゼ)の芽が、ここに非常にはっきりと表現されている。それに対する彼の「答」がゾシマであり、アリョーシャである筈(はず)だ、というのが、常識的ですが、まずはとりあえず、今の私の信念です。(残念ながら、『未成年』はまだ、読んでませんが。)
NO. 32
[福田] [98年2月21日]
前回紹介した、ポランニーの『経済の文明史』のなかに、ドストエフスキーについてふれた部分があるから、抜粋紹介しておきます。
無神論的個人主義の型は、ドストエフスキーの『悪霊』のキリーロフにみられる。「もし神がないとしたら、ぼくが神だ」。すなわち神は人間の生命に意味を与え善と悪とのあいだの相違を創り出すものであるから、もしこの神がみずからのそとになければ、自分自身が神である。なぜなら、わたしがこれらのことをなすがゆえに。この議論は反駁(はんばく)不能である。小説の中では、キリーロフは死の恐怖を克服することによって神たる自分を現実かつ真実のものにしようと決心する。彼は自殺によってこれを達成しようと計画するのである。しかし、彼の死は結局ひどい失敗であった。ドストエフスキーによるキリーロフの仮借(かしゃく)ない分析は、精神的に自立した人格の真の性質と限界とを疑問の余地なく示している。巨大な超人は、ニーチェが死を宣告した神々のあとを継ぐものであるが、ドストエフスキーはスコーリニコフ、スタヴローギン、イワン、イワンから派生するスメルジャコフなどの神秘的な人物像によって、そしてなかでも、キリーロフの姿においてもっとも力強く、人間の人格についてのそうした概念を、ほとんど完璧なまでの確かさで否定してみせてくれた。個人主義に対するシュパンの批判は、ドストエフスキーが半世紀も前に対象としたニーチェの座に、遅ればせの攻撃を加えたものにすぎない。
NO. 33
[くらま] [98年2月22日]
福田さんの引用文〔→NO. 32〕に関して。
>キリーロフは死の恐怖を克服することによって
>神たる自分を現実かつ真実のものにしようと決心する。
>彼は自殺によってこれを達成しようと
>計画するのである。しかし、彼の死は結局ひどい失敗であった。
キリーロフは、死の恐怖に打ち負かされたのでしょうか。彼の自殺は、当初の目的をはずれ、自己に絶望した結果なのでしょうか。死の恐怖に負けたのであれば、彼は逃げ出すことを選んだはずです。自殺できない自己に絶望した結果、自殺するというのは、原理的にありえないとは思いませんが、大きな自己矛盾を含んでいます。
引き金をひくまでの、ピヨートルとのドタバタが、様々な解釈をうんでいるのですが、これは、主体的に、自発的に、ピョートルの命令でなく自分自身の意志として、自殺するのだということを、確認するための行動だったと私は思います。また、ドストエフスキー的には、十字架上であのイエスでさえ、
「エレ、エレ、レマ、サバクタニ」と叫ばずにおれなかったのを模(も)し、「いまこそ、いまこそ、いまこそ、いまこそ」を配置しているように思います。キリーロフは、滑稽ではありますが、彼自身の理想を体現して自殺したと私は考えています。
NO. 34
[Seigo] [98年2月22日]
福田さんが上〔→NO. 32〕で紹介してくれたポランニーのキリーロフ論の文章を契機に、くらまさんの上のコメントが続き、キリーロフ論が、上で始められたようですね。キリーロフ論は、私も皆さんと大いに議論してみたいことの一つなので、他のお方のキリーロフ論も、今後、期待しています。
キリーロフの最期(さいご)に関しては、壮絶で凄惨(せいさん)な場面、あるいは、極端な人神思想家の敗北が示された、ドストエフスキーによる批判的で風刺的な場面として単に済ませるのではなく、上の書き込みの後半で、くらまさんが言及しているように、イエスの最期(さいご)にも擬(ぎ)することができるような、もっと積極的意味づけを見出していこうとする批評も存するようですね。また、様々な点で我々を呪縛(じゅばく)している「神という観念」の撲滅(ぼくめつ)と、「生」の肯定と自由で主体的な生き方を呼びかけるキリーロフの思想自体は、もっと評価されていいのかもしれませんね。
NO. 35
[有容赦] [98年2月23日]
キリーロフの議論に参加したいと思って、いろいろ書いてみたのですが、どれもうまくまとまりませんでした。
とりあえず、私の意見は、ペンディングにします。難しいなあ。
NO. 36
[Seigo] [98年2月24日]
有容赦さん、どうも。
>キリーロフの議論に参加したいと思って、いろいろ書いてみたのですが、
>どれもうまくまとまりませんでした。
>とりあえず、私の意見は、ペンディングにします。
>難しいなあ。
上のような発言は、一気に書き下ろす有容赦さんにしては、珍しいですね。
キリーロフの中にある
・「生の肯定(讃歌)」ということ
と
・彼の自殺
ということが、読者にはうまくかみ合わないということが、一つにはあるのではないでしょうか。キリーロフは、自殺ということ以外で、我意を主張できなかったのかな、という点ですね。
NO. 37
[有容赦] [98年2月24日]
Seigoさんどうも & 皆さんどうも。
覚束(おぼつ)ないながら、『悪霊』のキリーロフについて、少々、書き込んでみたいと思います。
まず、便利のため、このボード下(上)に出ている発言の中から、一部、おさらいします。
[福田] [98年2月21日]
(ポランニーの『経済の文明史』より。)
>…小説の中では、キリーロフは死の恐怖を克服することによって
>神たる自分を現実かつ真実のものにしようと決心する。彼は自殺によってこれを達成しようと
>計画するのである。しかし、彼の死は結局ひどい失敗であった。
>ドストエフスキーによるキリーロフの仮借ない分析は、精神的に自立した人格の真の性質と
>限界とを疑問の余地なく示している。(太字は、有容赦による強調)
[くらま] [98年2月22日]
>キリーロフは、死の恐怖に打ち負かされたのでしょうか。
>彼の自殺は、当初の目的をはずれ、自己に絶望した結果なのでしょうか。
…
>また、ドストエフスキー的には、十字架上であのイエスでさえ、
>「エレ、エレ、レマ、サバクタニ」と叫ばずにおれなかったのを模し、
>「いまこそ、いまこそ、いまこそ、いまこそ」を配置しているように思います。
>キリーロフは、滑稽ではありますが、彼自身の理想を体現して自殺したと
>私は考えています。
[Seigo]
[98年2月22日]
>イエスの最期にも擬(ぎ)することができるような、
>もっと積極的意味づけを見出していこうとする批評も存するようですね。
>また、様々な点で我々を呪縛(じゅばく)している「神という観念」の撲滅と、
>「生」の肯定と自由で主体的な生き方を呼びかけるキリーロフの思想自体は、
>もっと評価されていいのかもしれませんね。
キリーロフが一個の個人として、自分なりに思想、感情、行動を一貫させ、自分としては満足した形で死んだことについては、私もくらまさんに賛成します。ただし、上のポランニーの引用文の中の、太字の部分が意味しているものは、それとは、別のことだとも解釈できるように感じます。ただし、それがポランニー自身の意図かどうかは不明です。(多分、違うかな。) 私には、未(いま)だにキリーロフの思想がよく飲み込めていないところがありますから、全く間違っているかも知れない。しかし、『悪霊』のテキストを読むと、以下のような彼の言葉があります。ページは新潮文庫版です。
「…いまの人間はまだ人間じゃない。幸福で、誇り高い新しい人間が出てきますよ…」(上p179)
「…人間は神になって、肉体的に変化する…」(上p180)
「…このことだけがすべての人を救い、つぎの世代を肉体的に生れ変らせることができる方法なんだ。なぜって、ぼくの考えだと、いまの肉体の有様では人間は旧(ふる)い神なしにはとてもやっていけないからね…」(下p440)
少なくとも、彼のこの予言が、彼の自殺の後に成就(じょうじゅ)してはいないので、彼の自殺は、その意味で失敗であると解釈するべきだと思います。ただ、彼は死んでしまったので、自分が失敗したことを知ることはなかった訳です。彼は決して自分一人の幸福だけを願ったのではなかった。この辺は、『カラ兄弟』のイワンの大審問官とも通じますが、人類全体を死の恐怖から救済することを考えた。彼に言わせれば、「…神は死の恐怖の痛みですよ…」(上p179)ということであり、死の恐怖が克服される以上、旧(ふる)い神は不要になる自身が先頭に立つことによって、彼の後の世代が、自らが神であることを知り、肉体的にも生まれ変わって新しい人間となる、と信じていた。そういう意味では、
ここに立っている人々の中には,人の子が御国とともに来るのを見るまでは,決して死を味わわない人々がいます.(マタイ16:28。ルカ9:27にも類似箇所あり)
と考えていたイエスと、ある意味で似ている感じもします。もちろん、イエスの場合は、現実に後世の世界に巨大な影響を与えた訳で、本人の意図とは別に、ある意味でキリーロフがやろうとしたことの何割かを、本当に実現した点は大きな違いだろうと思われますが、それにしても、上記の予言は的中したとは思えません。(そのとき「立っていた人々」の一人が、まだ生きているとは、私は思っていません ^,^;)
このように、確かに、くらまさんやSeigoさんが指摘されているように、無神論者であるにもかかわらず、キリーロフには、一見、何かイエスに似たところがあります。単に、親切な好人物であるとか、赤ん坊をあやしたとか、フェージカに聖書を読んでやったとか、そういうのはいわば結果であって、彼が「神という観念」の撲滅を目指したことと、イエスが律法やパリサイ人の教条主義を打破したことは、確かに、類似性がある。また、ドストエフスキーは『白痴』でムイシュキンという癲癇(てんかん)患者に、キリストの再現を試みた訳ですが、キリーロフも、「永久調和の訪れ」(下p395)のことなどを言ってシャートフに癲癇の兆候と疑われます。このような「至高の一瞬」については、ムイシュキンも同じようなことを考えていました(『白痴』上p421)。(ドストエフスキーと癲癇者の造形については、精神科医でもある加賀乙彦氏が、中公新書の「ドストエフスキイ」で詳述しています。私はそれほど十分に記憶していないですが、このあたりの取り方は彼の影響も受けていると思います。)
ドストエフスキーは、どちらの作品でも、癲癇者だったマホメットを引き合いに出していますが、そういう、一種の予言者的な資質というものと、癲癇という精神的な病気についてのあるつながりを考えていたということでしょう。そういう訳で、これはかなり強引で雑な捉え方ですが、大きく言えば、ムイシュキンを媒介にして、イエスとキリーロフが繋(つな)がっている、と言えなくもない、とも思われます。これらのことからみて、キリーロフをイエスになぞらえる解釈が生れてくることは私も理解できます。
さて、とりあえず、それはそれとして、Seigoさんの、
>また、様々な点で我々を呪縛(じゅばく)している「神という観念」の撲滅と、
>「生」の肯定と自由で主体的な生き方を呼びかけるキリーロフの思想自体は、
>もっと評価されていいのかもしれませんね。
この部分を受けて、[Seigo]
[98年2月24日]の、
>キリーロフの中にある
>・「生の肯定(讃歌)」ということ
>と
>・彼の自殺
>ということが、
>読者にはうまくかみ合わないということが、一つにはあるのではないでしょうか。
>キリーロフは、自殺ということ以外で、我意を主張できなかったのかな、という点ですね。
ということを、私なりに考えてみたいというのが、本題です。実際には、キリーロフは生を肯定している(「すばらしいことを知るものにとっては、すべてがすばらしい」(スタヴローギンに対して)などの)部分と、
否定している(「生は苦痛です」「生きることを愛しているというのは欺瞞(ぎまん)だ」(確か「私」に対して)などの)部分
の両方があります。(すみません、先ほどから勤務時間に突入してしまったため、本を見られないので ^,^;) 引用箇所のページ番号が書けません。また表現が不正確だと思います。)
また、
「全ての人は自分が良い人間だということを知らない」
という発言もあれば、
「自分も含めて、だれもかれも卑劣漢だ」(シャートフ殺害の件を聞かされたあと、ピョートルに対して)
というような言葉もあります。これらを総合すると、彼の「生の讃歌」は、あくまでも、「すべてがすばらしいことを知るものにとって」のものである、という限定があります。しかし、私達にとっては、本当は、「どうしたら、それを知ることができるか」ということの方が、重要なんです。しかも、知識としてではなく、感覚的にも納得して知らなければ意味がないですよね。彼は、自らが死の恐怖を克服して自殺することによって、彼に続く多くの人がそれを知ることができるようになるのではないか、と考えた訳でしょうが、冷静に考えれば、そんなことになる筈(はず)がない。彼の体験は、彼一個のものであって、彼が死んでしまったら、それを他の人が共有することは考えられない。彼のような唯物的な無神論者が、「肉体の変化」だとか、そういう神秘主義的な発想をしたのも矛盾していますが、(それとも、一応、進化論のことが念頭にあったのかな?) 一番おかしいのは、自分一個の自殺によって、全人類の精神に影響が及ぶ、と考えたことでしょう。この点は、残念ながら狂気と呼ぶ他はないと思います。そうでないとすれば、キリストの十字架が宣(の)べ伝えられたように、彼についても福音書のようなものが書かれ、世界中の人に読まれるとでも思ったのでしょうか? それなら、イエスのように、せいぜい、生前、多くの弟子を作って、自分に心服させるくらいはしておかなければならなかったでしょう。ところが、彼は仙人なみの世捨て人で、他者との接触を殆(ほとん)ど絶っていた。彼が社会から遊離して、自己の思索に没頭していた点は、イエスと決定的に違います。そのようなアプローチでは、集団的な動物である人間が、自己の存在理由について、妥当な感覚を持つことは難しいと思います。もちろん、イエスにせよ、ブッダにせよ、孤独な修行の期間を経ていますが、その後、自分の思想を人々に伝道する、という方向に行っている。イエスの場合、その教えの中心には「愛」という、他者との関係性が据(す)えられています(少なくとも、弟子達の記述も含めた新約聖書全体としては。)。そういう意味では、キリーロフよりは、大審問官の方が、遥(はる)かに用意周到です。「我意の頂点」とは、我意でありながら、愛でもあるような感覚を体得することであり、本質的に他者との関係なくしては到達できないものである、というのが、今の私の個人的な感覚です。ただ、この点は、確かに論理では言えないところがありますね。「他者との関係のなかでのみ、生きることの本当の意味がわかる」と言った類のことは、「感覚」であって、理論的な性質のものではない。だから、それを実感していない人を説得することは不可能です。一般に、自殺者を「回りの人が悲しむから」と言って引き止めることには、あまり論理性がないのと似ているかもしれない。「正しいと思うから、正しいのだ」という点では、どちらの主張も五分五分でしかない。「神」も信じないとなると、「神」も役に立たない訳で、まあ、打つ手はない。だからこそ、「ドストエフスキーの毒」ということが、問題になるのだと思います。キリーロフ個人としての幸福までは、反駁(はんばく)できない。これは認めざるを得ませんね。だが、彼のやり方を真似ようという人は、結局、誰もいない。このことは現象ではあっても、真理を指し示していると私は思います。「全てが素晴らしいことを知るものにとって全てが素晴らしい」という法悦(ほうえつ)の境地には、例えば、『カラ兄弟』のゾシマの若い兄マルケルなどのように、宗教という経路で到達できる可能性があります。必ずしも、「神の観念」の撲滅が必要でないばかりか、もし上記のような自殺の是非(ぜひ)の水掛け論を避けたければ、キリーロフ自身や、ステパン氏やイワンが言ったようにやはり「神は必要だから、存在する(あるいは、創り出さなければならない)」と考える方が、多くの人が正しいと感じている方向に、より近いと思います。もちろん、全ての人が間違っている可能性だってありますけど、少なくとも、赤信号だって「皆で渡れば恐くない」じゃないですか? ^,^;) 過去に宗教によって、マルケルのような法悦に至った人が、たとえ何人かでも存在するなら、そのような道があることは確かなのです。「生への讃歌のために自殺する」というような自己矛盾的なアプローチと比べて、どちらが成功率が高そうか、少し考えればわかるのではないでしょうか?
NO. 38
[Seigo] [98年2月24日]
有容赦さん、
上〔→NO. 37〕の、さっそくの長大なキリーロフ論、 ありがとうございます。(また、〇〇を熱くしているSeigo。)
キリーロフには、「神」の支配を自ら拒否するあかつきに自己にもたらされる「恐ろしい自由」に自分は耐え切れないと考えて、いっそ「自殺」を選んだ、という面もあるのでしょうかね。
キリーロフが「生」自体を愛し・肯定していながら、有容赦さんが上で挙げたように、キリーロフが、一方で、
「生は苦痛です」「生きることを愛しているというのは欺瞞だ」
と言うのは、その「神なき世界・社会」の中へと投げ出されたあかつきに、
時間の系列に沿って、(⇔癲癇発作の直前にキリ氏が一時的に経験する瞬間即永遠の至福の感覚。)
「神の不在」「神なき自由の恐ろしさ」を意識しつつ自立的主体的に自ら選択し決断して生きることの、実際の苦労(煩雑(はんざつ)さ)と苦痛を言っているように私は思います。
・必然性(被支配・被管理・服従)の中にも十分人間の「自由」はあるのだ、(その中でも、いい意味でのそれの場合は、なおさら、)
という見方、
・人間は、実は、この世の隠された偉大な力によって生かされているのだ、という感謝の気持ちや謙虚さ、などが、せっかく「生」を肯定しながら、支配されることを嫌って我意を張ってばかりいるキリ氏に欠けているのだと私は思ったりしています。
「神」を、
・その禁欲性などから、人間の自然性や自由を不当に抑圧してきた、欧米のキリスト教史上におけ
る「神」(人間のうちに観念的に美化された「神」)
・人間を初め、森羅万象(しんらばんしょう)を生かしめている、実在としての、よき「神」、
の二つに分類した場合、この両者のうち、前者ばかり意識し執着した点に、キリ氏の、ある意味でのヒューマニズムと、悲劇があった、と思ったりしています。
NO. 39
[有容赦] [98年2月25日]
Seigoさん、どうも。
平日ゆえ、覚悟はしていましたが、なんだか、すっかり孤軍奮闘状態に陥ってますね。寂しいよーん。でも、Seigoさんが、三度もレスしてくれているので、嬉しかったです。
これらは一貫しているので、つなげたものに対して、感想を書かせて下さい。
[Seigo]
[98年2月24日]〔NO. 38〕
>キリーロフには、
>「神」の支配を自ら拒否するあかつきに自己にもたらされる「恐ろしい自由」に自分は耐え切れない
>と考えて、いっそ「自殺」を選んだ、という面もあるのでしょうかね。
この発言は、新潮文庫版・下p440の
「…これこそ、ぼくの不服従と新しい恐ろしい自由をその頂点において示すことのできるすべてなのだ。
なぜって、この自由は実に恐ろしいものだからね。ぼくが自殺するのは、ぼくの不服従と新しい恐ろし
い自由を示そうためなんだ」
を受けたものですね。
いや、キリーロフには、全く混乱させられますね。何しろ、
「自由というのは、生きていても生きていなくても同じになるとき、はじめてえられるのです。これが全ての目的です。」(上p179)
「最高の自由を望む者は、だれも自分を殺す勇気をもたなくちゃならない」(上p180)
など、上記とは真っ向から対立するかの如き発言(=自由の価値を肯定するもの)もあります。結局彼も、自由の素晴らしさと恐ろしさを二つながら感じていた、という以外になさそうですね。恐らく、第一義的には自由は素晴らしいと感じながらも、そのあまりに無制限な大きさの故に、同時に「空恐ろしいほどの素晴らしさである」という感じを持ったのではないか、と思われます。もしかすると、このあたりから、『カラ兄弟』におけるイワン=大審問官の「自由=苦痛」という思想に発展していったのかな、という気がしますね。(短絡的?)
>キリーロフが、一方で、
>「生は苦痛です」「生きることを愛しているというのは欺瞞だ」
>と言うのは、
>その「神なき世界・社会」の中へと投げ出されたあかつきに、
>時間の系列に沿って、(⇔癲癇発作の直前にキリ氏が一時的に経験する瞬間即永遠の至福の感覚。)
>「神の不在」「神なき自由の恐ろしさ」を意識しつつ自立的主体的に自ら選択し決断して生きることの、
>実際の苦労(煩雑さ)と苦痛
>を言っているように私は思います。
最初に、念のために、ちょっと注釈を入れますが、キリーロフは『白痴』のムイシュキンと違って、まだ本当に発作を起こすところまでは行っていません。シャートフは「そのうち、なるぞー」と言って脅かしているだけです。ただ、「永久調和の瞬間」は三日に一度とか、一週間に一度とか、経験しているそうです。ですから、結局、客観的に言って、一歩手前まで行っていたのは間違いないでしょう。さて、どうなんでしょうね。彼にとって最大の価値を持つ「自殺によって我意を主張する」というテーマは、
「…神は死の恐怖の痛みですよ。痛みと恐怖に打ちかつものが、みずから神になる…」(上p179)
というあたりを見ても、「死の恐怖の克服」ということが目的になっていることでもあり、そういう意味で、「生の苦痛は、(死に代表される)恐怖にも由来している」と見るべきなのではないか、と今のところ思います。それで、上掲の「生への恨みの言葉」については、私はもう少し一般的な、誰もが感じている、生老病死的な苦痛(その頂点が死)が原因かなあ、と思っていました。少なくとも、上記の「私」(『悪霊』の語り手のG氏)との会話の部分では、直接「自由による苦痛」ということは説明されていないですね。良くても悪くても、キリーロフの捉え方だと、「自由」は「新しい人間」の時代に入ってから出てくる、と考えているように、私には思われます。しかし、確かに、「永久調和の一瞬」との対比において世界を捉える、という視点を参考にすると、「自由の苦痛」というものをメインに考えていたのかも知れない、という気もしてきますね。
うーむ。どうもこの「永久調和の一瞬」と、彼が「人神」になることとの脈絡が、私には掴(つか)めていません。私としては、この問題は、ちょっと保留にします。
>・必然性(被支配・被管理・服従)の中にも十分人間の「自由」はあるのだ、
>(その中でも、いい意味でのそれの場合は、なおさら、) という見方、
これは、私達の存在の意味の根幹に関わる重要な視点ですね。実は、あちらのボードのくらまさんとN-hiroさんの「自由」に関する議論が、若干(じゃっかん)すれ違っているような、噛(か)み合っているような、微妙な次元で対立しているように思ってたのですが、上記のSeigoの一文は、くらまさんのスタンスからのN-hiroさんへの回答になっていますね。(『悪霊』関係だから読んでるかどうかわからないけど、たいへん忙しいというN-hiroさん < 元気? 頑張って!) このような「自由」を「自由」と呼ぶかどうか、という定義の問題が、まずあるように思っていました。まあ、しかし、この問題は御二人に任せて、私はキリーロフに戻りましょう。
で、
>・人間は、実は、この世の隠された偉大な力によって生かされているのだ、
これがつまり、後述された第二の、いわばSeigoさんの意味における「神」ですね。
>せっかく「生」を肯定しながら、支配されることを嫌って我意を張ってばかりいるキリ氏
こちらは第一の意味の、いわば歪(ゆが)められた「神」観念に対する抵抗ですね。さて、そういう訳ですから、以下の議論は重要になりますね。
>「神」を、
>・その禁欲性などから、人間の自然性や自由を不当に抑圧してきた、
>欧米のキリスト教史上における「神」(人間のうちに観念的に美化された「神」 )
>・人間を初め、森羅万象(しんらばんしょう)を生かしめている、実在としての、よき「神」
>の二つに分類した場合、
>この両者のうち、前者ばかり意識し執着した点に、
>キリ氏の、ある意味でのヒューマニズムと、悲劇があった、
まず、この発言は、第二の「神」に対する、Seigoさんの「信仰告白」としての意味を持っている、という点を指摘しておきます。その上で、この理論に、直観的には私も賛成です。
(途中、略)
Seigoさんが挙げられた第一の、観念的な意味での「神」は、第二の、実在の「神」の、ある歪(ゆが)められた投影である、と考えられます。それが「実感」から離れ、「観念」になってしまった時点で、それに盲従すればするほど、人間は真の「神の支配」からは離れてしまう状態になりました。なぜなら、逆説的ですが、「神の支配」に従うには、人間の自由な意志決定が行われていなければならないからです。(くどいようですが、これは、八木氏/有容赦の信仰であって、客観的事実の記述ではありません。) 残念至極なことですが、このことに、キリスト教の主流は、今でも気づいていない。いや、気付こうとしない。目をそむけて、そむけていることすら自覚できないでいる。この「鎖国的」(八木氏)態度は、まさしく、イエス時代のパリサイ人そのものでしょう。そういう意味で、昨日も書きましたが、キリーロフが、第一の、観念的な神を否定したところまでは、非常にイエスの仕事と似ています。殆(ほとん)ど、同じことをやったとさえ、言っていいかもしれません。ところが、彼はそこで、第二の、実在の神に向かうための方法を模索する代りに、神そのものを否定しようとした。(ところで、19世紀のロシアでは、それ以外の方法があったかどうかは疑問でしょうね。ただ、たとえば、トルストイは仏教なんかもかじったんですよね? 八木氏も禅宗からヒントを貰ったということが書かれています。) ところが、実際には神は実在しているので、彼は、その矛盾のために身を滅ぼす結果になった。彼が非業(ひごう)の死を遂げたことは、神の実在の証明である。また、一般に、人が自由を恐ろしいと感じるのも、神の実在の証明である。おおおお、だんだん、エスカレートしてきたなあ、こりゃ
^,^;)
最後の3行は、いちおう冗談です (_ _;)
ただ、私は、少なくとも、そのように信じたい、自由で伸びやかな生き方をしていく中で、そのように信じられるようになる道を求めて生きていきたい、と思っています。みんな、今後とも、よろしくね(なんのこっちゃか?)いささか、思い切ったことを書いてしまった気がするが、まあ、いいや ^,^;)
あらわるるためならで、かくるるものなし…(キリーロフ & イエス)
では!
NO. 40
[福田] [98年2月25日]
有容赦さん:
>ただし、上のポランニーの引用文の中の、太字の部分が意味しているものは、
>それとは、別のことだとも解釈できるように感じます。
>ただし、それがポランニー自身の意図かどうかは不明です。(多分、違うかな。)
ポランニーがどう考えているのかはわからないのですが、文の感じからいうと(神や教会を必要としない)個人的な個人として、死んだというような意味にとれますけど。神や教会を必要としない個人的な個人の到達点のようなもの……よくわからないな。『悪霊』は途中までしか読んでいないし(引用した箇所はもとの文が、どうなのかはわからないけど、なんとなく、訳がこなれていないような感じもする。)八木誠一というひとの書いた本は読んだことがないのだけど、岸田秀との対談本なら読んだことがある。「自我の行方」とかいうタイトル。だったとおもったような、おもわないような。ただ者ではないという感じはした。あの人のキリスト教解釈(とくに前期キリスト教に対する考え方)というのは、一般に流布されているキリスト教の考え方とはだいぶ違っているような感じがした。(印象のみ。)
「証明」が失敗だったということかな。(ポランニーのキリーロフ解釈について) キリーロフの人生そのものも失敗しているような感じはしているが。無神論の到達点としてキリーロフのような人物を描いた。ということか?(到達点……無神論の必然……個人として切り出された個人の必然、として)(「証明」……反駁(はんばく)不可能な理論……理論としては反駁不可能な理論の「証明」)
NO. 41
[Seigo] [98年2月26日]
「キリーロフ! もし……君があの恐ろしい空想をなげうつことができたら……あの無神論の悪夢を捨てることができたら……ああ、それこそ君はどんなに美しい人間になるか、わからないんだがなあ、キリーロフ!」
(キリーロフに向けてのシャートフの言葉。岩波文庫の米川訳で、第3編第5章の1。)
* * *
有容赦さんが上〔NO. 39〕で指摘してくれたように、
>癲癇発作の直前にキリ氏が一時的に経験する瞬間即永遠の至福の感覚
という私の言い方は、正確な言い方ではありませんでした。キリ氏は作品の中では、いまだ癲癇発作には至ってなかったのでしたね。(岩波文庫の米川訳で、第3編第5章の5。)
「シャートフが癲癇発作の前兆ではないかと心配する、キリ氏が時々一時的に、予感的に経験するという瞬間即(そく)永遠の至福の感覚」
という言い方に言い換えておきますね。
NO. 42
[有容赦] [98年2月26日]
[福田] [98年2月25日]〔NO. 40〕
>ポランニーがどう考えているのかはわからないのですが、文の感じからいうと
>(神や教会を必要としない)個人的な個人として、死んだ
>というような意味にとれますけど。神や教会を必要としない
>個人的な個人の到達点のようなもの……よくわからないな。
よくわからないですね。つまり、個人的な個人というものは、たとえ、「到達点」まで辿(たど)り着いても、「失敗」なのだ、ということなのかいなあ? ま、そういう意味だとすると、今の私のスタンス=八木氏のスタンス、ドストエフスキーのスタンスのどちらとも、一致していることは一致しているので、文句をつける必要は感じません ^,^;)
「神」の定義にもよるけれど、私は、「神」が必要、という立場です。
>「証明」が失敗だったということかな。(ポランニーのキリーロフ解釈について)
>キリーロフの人生そのものも失敗しているような感じはしているが。
そうですか。
今の私の解釈は、前にも書きましたが、「証明」は「失敗」、キリーロフの人生は、彼一個の主観的な視点からみて「成功」だと思っています。ただし、「神」を信じようとする私の立場から言うと、客観的には「失敗」です。(この客観は、もちろん、本当は、私の主観と言うべきでしょうが。)
>無神論の到達点としてキリーロフのような人物を描いた。ということか?
>(到達点……無神論の必然……個人として切り出された個人の必然、として)
>(「証明」……反駁不可能な理論……理論としては反駁不可能な理論の「証明」)
私が思った「証明」の成功とは、彼の死後、何か人類史を塗り替えるような出来事によって、彼の思想の正しさが「あらわるるためならで、かくれたるものなし」というように、表わされる、ということだったと思います。実際には、リャムシンによって別のものが「あらわるる」ことになってしまったのだった ^,^;)
[Seigo]
[98年2月26日]〔NO. 41〕
>「キリーロフ!
もし……君があの恐ろしい空想をなげうつことができたら……あの無神論の悪夢を
>捨てることができたら……ああ、それこそ君はどんなに美しい人間になるか、わからないんだがなあ、
>キリーロフ!」
>(キリーロフに向けてのシャートフの言葉。岩波文庫の米川訳で、第3編第5章の1。)
この部分は、胸に迫りますね。特に、また、そのときシャートフの置かれていた状況が状況だけに…
この部分は、『悪霊』でも五指に入るほどの名場面・名台詞だと、私は思っています。
NO. 43
[有容赦] [98年2月27日]
皆さん、どうも。
福田さん
(『悪霊』のキリーロフにおいては)
>どうしてそういうことが、急を要する(ぬきさしならないこと)
>(自分の存在をかけたこと)になるんだろうと。まあ、こう思うわけです。
確かに、人類の救済とか偉そうに言っているものの、究極的には、どこか自分の思想的到達を誇る自己顕示欲、虚栄心が、あったのかも知れないですね。つまり「個性を主張したい」という欲求が、彼の場合、そういう形をとったのか。でも、ちょっと味気ないですね。見方が、平板すぎるかな?
NO. 44
[Seigo] [98年3月2日]
有容赦さん、(チャーリー浜ふうの仕草と口調で、)どぅも。
小説『白痴』のリリシズムを好むドストエフスキー論者は多いけど、我々には、『悪霊』の魅力も、なかなか、捨てがたいですね。その魅力は、(当時の社会における実在のモデルが考えられる)各登場人物の魅力であり、さらに、有容赦さんがさらに挙げてくれようとしているように、『悪霊』における各会話にすばらしいものがあると思います。これらには、シベリア流刑前の、ペトラシェフスキーの会を初め、社会革命を図る政治活動の会に参加していた頃のドストエフスキーの経験や人脈が生かされているようですね。(スタヴローギンは、当時ドストエフスキーが近づいていった極左派グループのスペシネフという美貌の怪人物をモデルにしている、とされていますし、キリーロフの言う「(観念としての神が撲滅された後の)肉体的生理的な変化」という考えは、当時の、ある活動仲間が唱えていた考えをそのまま使用していると中村健之介氏も指摘しています。ちなみに、スペシネフは、例の銃殺刑の際、ドストエフスキーの真横にいて、ドストエフスキーとともに刑場での銃殺刑を直前で免れるという経験をしています。)
NO. 45
[くらま] [98年3月3日]
くらま@いつもワンテンポ遅れ。
キリーロフについてですが、
>キリーロフには、
>「神」の支配を自ら拒否するあかつきに自己にもたらされる「恐ろしい自由」に自分は耐え切れない
>と考えて、いっそ「自殺」を選んだ、という面もあるのでしょうかね。
これは、ちょっとどうでしょうか。自殺すら選択しうる自由という意味で、恐ろしい自由の極致だと思いますが。
>>なぜって、この自由は実に恐ろしいものだからね。
>>ぼくが自殺するのは、ぼくの不服従と新しい恐ろしい自由を示そうためなんだ」
>もしかすると、このあたりから、『カラ兄弟』におけるイワン=大審問官の「自由=苦痛」という
>思想に発展していったのかな、という気がしますね。(短絡的?)
ここは有容赦さんに賛成です。
>彼にとって最大の価値を持つ「自殺によって我意を主張する」というテーマは、
ここはちょっとニュアンスが違うような気がします。キリーロフ自身にとっては、既に己の恐ろしい程の自由と神性は既に自明であり、彼は、自分以外の人々への限りない愛のために、彼らを救うために、自殺したのです。
>どうもこの「永久調和の一瞬」と、彼が「人神」になることとの脈絡が、私には掴(つか)めていません。
>私としては、この問題は、ちょっと保留にします。
永久調和の一瞬とは、(キリスト教に代表されるニヒリズム、)人生の目的を、人生の背後にある別の価値へのすり替えることなく、生きることそれ自体が幸福であるという認識、限りなくそれ自体において充溢(じゅういつ)した生、そして、その時感じる世界の完全性を表現したものだと思います。
>「神」を、
>・その禁欲性などから、人間の自然性や自由を不当に抑圧してきた、
>欧米のキリスト教史上における「神」、人間のうちに観念的に美化された「神」
>・人間を初め、森羅万象を生かしめている、実在としての、よき「神」
>の二つに分類した場合、
>この両者のうち、前者ばかり意識し執着した点に、
>キリ氏の、ある意味でのヒューマニズムと、悲劇があった、
キリーロフのいう神が前者の神であったことは確かですね。しかし、Seigoさんのいう後者の神について、詳しく教えて下さい。
>数日前に、くらまさんが、「棄教した」と告白されたのを見て、
>私も私なりに、自分の状況を皆さんにお知らせしたいな、と思うようになりました。
申し訳ありません。冒頭に書いたように、そんなに深い意味ではなかったです。
>彼が非業の死を遂げたことは、神の実在の証明である。
非業の死なんでしょうか。万感の幸福に撃たれて死んだ感もあります。
>少なくとも、彼のこの予言が、彼の自殺の後に成就してはいないので、
>彼の自殺は、その意味で失敗であると解釈するべきだと思います。
>もちろん、イエスの場合は、現実に後世の世界に巨大な影響を与えた訳で、
>本人の意図とは別に、ある意味でキリーロフがやろうとしたことの何割かを、
>本当に実現した点は大きな違いだろうと思われますが、
イエスは十字架上で、自己の死の意味をどんな風に考えていたのでしょう。イエスの刑死は、布教のための一つの手段にすぎなかったのでしょうか。後に、信者が増大したから、イエスの死に意味ができたのでしょうか。イエス自身は、信者獲得のために死んだのでしょうか。イエスは、罪深き我々のために、我々への愛のために死んで下さったのであり、その結果信者が増えたのは、予測された必然であったかも知れませんが、イエスの死の目的ではありません。また、もし仮にイエスが復活せず、キリスト教がペテロの否(いな)みによって終焉(しゅうえん)していたとしても、イエスが神の子であり、我々への愛のために死んだことに変わりはありません。
>「我意の頂点」とは、我意でありながら、愛でもあるような感覚を体得することであり、
>本質的に他者との関係なくしては到達できないものである、というのが、
>今の私の個人的な感覚です。
本質的に、というのが微妙な表現ですが、半ば賛成ですね。
NO. 46
[Seigo] [98年3月3日]
上〔NO. 45〕のくらまさんの書き込みの中の、キリーロフに関する各書き込みについて、追っていろいろ聞きたいのですが、
>彼は、自分以外の人々への限りない愛のために、彼らを救うために、自殺したのです。
の中の「彼らを救う」というのは、具体的にどういうことなのでしょう。私たちは、「神」の教えに縛(しば)られることなく、本来的には、もっと自由に生きていいんだ、ということを自殺という犠牲的行為で我々に強烈に示していく、ということなら、ある程度理解できますが、はたしてその提示が私たちを「救う」ということにまでつながっていくかに関しては、私は疑問なのです。くらまさんは、キリーロフの言う、神の撲滅によって未来の我々に生じる「生理的・肉体的変化」「超人化」の方の内容を、我々を「救う」ものとして、期待しているのでしょうか。補足の説明や意見があれば、いつか、お願いします。>くらまさん。
NO. 47
[Seigo] [98年3月4日]
>威王さん。
知られた言い方としては、
”存在は本質を規定する”ではなくて、
”存在が意識を決定する”(その人が日頃どういう考えや思いを持つか〔=意識〕は、その人の生活環境(境遇)や地位身分〔=存在〕によっていることが多い、ということ。)
ですね。
上の書き込み(割愛)は、威王さんの立場がよく出ていると思いました。ドストエフスキーの名言「幸福な人間は善良である。」も、同じ立場に立っての発言だと思います。
「存在が意識を決定する」という定式に少なからず支配されてきた結果苦しんで生きている登場人物として、『白痴』のナスターシャ‐フィリッポブナ、
「存在が意識を決定する」という定式にほとんど支配されずに生きている登場人物として、『罪と罰』のソーニャ、
を挙げることができるかもしれません。
『悪霊』のキリーロフの思想なんかも、「存在が意識を決定する」という定式の好個の実例でしょうね。
NO. 48
[有容赦] [98年3月5日]
Seigoさん:
>「『悪霊』でも五指に入るほどの名場面・名台詞」のうちの、
>他の「名場面・名台詞」を、いつか教えてもらえたらと思います。>週明けの有容赦氏、
いやはや、参りました。シャートフのキリーロフに対する呼び掛けを、「五指に入るほど」と言いましたが、改めて、「名場面」を5つ前後に絞(しぼ)り込もうとすると、非常に難しい。この小説には、それほど、「これを落とすのは惜しい」と思うような場面が多かったです。全部読み直す時間はとれないので、ざーーーっとみた感じですが、上記のシャートフとキリーロフの場面〔→ NO. 41の冒頭〕は、たぶん、私の評価では6位から10位の間かなあ、という気がしてきました。以下は、ちょっと長めのものが多いですが、改めて私が選んでみた「五指」です。ページは新潮文庫です。引用順序は「順位」ではなく、原作内での順序です。そういう訳で、『悪霊』を読まれた方は「え、なんで、あの場面を入れないの?」というのがいろいろある筈(はず)ですが、ご了承ください。(キリーロフの言葉を含んでいない2・3・5は、勝手ながら割愛。)
1(上p371)
「ただの木の葉、一枚の木の葉ですよ。木の葉はすばらしい。すべてがすばらしい」
「すべて?」
「すべてです。人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないから、それだけです。これがいっさい、いっさいなんです!
知るものはただちに幸福になる。その瞬間に。あの姑が死んで、女の子が一人で残される-すべてすばらしい。
ぼくは突然発見したんです」
「でも、餓死する者も、女の子を辱(はずか)しめたり、穢(けが)したりする者もあるだろうけれど、それもすばらしいのですか?」
「すばらしい。赤ん坊の頭をぐしゃぐしゃに叩きつぶす者がいても、やっぱりすばらしい。
叩きつぶさない者も、やっぱりすばらしい。すべてがすばらしい、すべてがです。すべてがすばらしいことを
知る者には、すばらしい。もしみなが、すばらしいことを知るようになれば、すばらしくなるのだけれど、すばら
しいことを知らないうちは、ひとつもすばらしくないでしょうよ。ぼくの考えはこれですべてです、これだけ、ほか
には何もありません」
4(下p438)
「偉大な思想を聞きたまえ。この地上にある一日があり、大地の中央に三本の十字架が立っていた。十字架にか
けられていた一人が、その強い信仰ゆえに、他の一人に向かって『おまえはきょう私といっしょに天国へ行くだろ
う』と言った。
一日が終り、二人は死んで、旅路についたが、天国も復活も見いだすことができなかった。予言は当たらなかったのだ。
いいかね、この人は地上における最高の人間で、この大地の存在の目的をなすほどの人だった。全地球が、
その上のいっさいを含めて、この人なしには、狂気そのものでしかないほどだった。後にも先にも、これほどの
人物はついに現われなかったし、奇蹟とも言えるほどだった。このような人がそれまでにも現われなかったし、
今後も現われないだろうという点が、奇蹟だったのだ。ところで、もしそうなら、つまり自然の法則がこの人にさえ
憐れみをかけず、自身の生み出した奇蹟をさえいつくしむことなく、この人をも虚偽のうちに生き、虚偽のうちに
死なしめたとするなら、当然、全地球が虚偽であって、愚かな嘲笑の上にこそ成り立っているということになる。
つまりは、この地球の法則そのものが虚偽であり、悪魔の茶番劇だということになる。なんのために生きるのか、
きみが人間であるなら、答えてみたまえ」
NO. 49
[有容赦@もう一丁] [98年3月5日]
皆さん、どうも。
あちらのボードにはちょっとお断りしましたが、ちょっとバタバタしてご無沙汰でした。キリーロフに関するくらまさんの書き込みを読みながら、考えたことを書きたいと思います。途中まで書いたあと、下のようなSeigoさんからのフォローが入ってきました。
[Seigo]
[98年3月3日]〔NO. 46〕
くらまさん>彼は、自分以外の人々への限りない愛のために、彼らを救うために、自殺したのです。
>の中の「彼らを救う」というのは、具体的にどういうことなのでしょう。
:
>補足の説明や意見があれば、いつか、お願いします。>くらまさん。
このお答え次第によっては、私の書いていることは見当違いになるかもしれませんが、一旦、投稿させて貰います。
Seigoさんの質問に対するくらまさんの答えを推定して書いていることになり、失礼かもしれませんが、せっかちな性分なので、ご了承くださいまし ^,^;)
***
キリーロフ論の続きです。
少し話を整理すると、この前の[Seigo]
[98年2月24日]〔→NO. 38〕で、S=Seigoさんが、
S>キリーロフには、
S>「神」の支配を自ら拒否するあかつきに自己にもたらされる「恐ろしい自由」に自分は耐え切れない
S>と考えて、いっそ「自殺」を選んだ、という面もあるのでしょうかね。
という問題提起をされました。
今回のくらまさんの応答
>これは、ちょっとどうでしょうか。自殺すら選択しうる自由という意味で、
>恐ろしい自由の極致だと思いますが。
は、どちらかというと、「NO(ノー)ではないでしょうか?」というニュアンスですね。そうだと仮定すると、その結論は、私の理解と同じです。ただ、私の意見の書き方が、ちょっと読みにくかったです。
A>彼にとって最大の価値を持つ「自殺によって我意を主張する」というテーマは、
>ここはちょっとニュアンスが違うような気がします。
>キリーロフ自身にとっては、既に己の恐ろしい程の自由と神性は既に自明であり、
>彼は、自分以外の人々への限りない愛のために、彼らを救うために、自殺したのです。
なるほど。言い直してみますね。
「彼にとっては自明だったが、他の人類が認識できていなかった神性を万人に証明するため、その神性の属性である我意を示すために自殺することは、」で良いでしょうか?
ただ、いずれにせよ、私としては、この「主語」は、あまり厳密に考えておらず、くらまさんが今回の引用では省略された、
>「死の恐怖の克服」ということが目的になっている
という「述語」の方を言いたかった、つまり非常に簡単にいうと、もとのSeigoさんの問題提起に対し、「いやあ、やっぱり(自由の重荷のためではなく)死の恐怖の克服(→それによる人類解放)だけが目的じゃないですか?」という主張だったのです。(ここでは、それによって、事実人類が解放されるかどうか、有容赦が何を信じているかは問題ではなく、キリーロフが何をどう信じたかを議論しているつもりです。) そして、「自由」の問題は、キリーロフが提起したが、ドストエフスキーが本当にそれを「恐ろしいもの」として、議論の標的として、実際に取り上げたのは、イワンの代になってからだろう、というのが、今の私の理解です。もっとも、私は、『地下室の手記』を読んでいないので、この辺のドストエフスキーの思索の流れをかなり部分的にしか見ていない恐れはあると思います。いわゆる、木を見て森を見ずって奴だったら、指摘下さい。(早く読まないとねえ…)
* * *
前の話とちょっと関連するのですが。
A>どうもこの「永久調和の一瞬」と、彼が「人神」になることとの脈絡が、私には掴めていません。
A>私としては、この問題は、ちょっと保留にします。
>永久調和の一瞬とは、
>(キリスト教に代表されるニヒリズム、)
>人生の目的を、人生の背後にある別の価値へのすり替えることなく、
>生きることそれ自体が幸福であるという認識、
>限りなくそれ自体において充溢(じゅういつ)した生、
>そして、その時感じる世界の完全性を表現したものだと思います。
どうも有難うございます。それでですが、実は、この有容赦の発言も、その前の[Seigo][98年2月24日]〔→NO. 38〕におけるSeigoさんの問題提起
S>「生は苦痛です」「生きることを愛しているというのは欺瞞だ」
S>と言うのは、
S>その「神なき世界・社会」の中へと投げ出されたあかつきに、
S>時間の系列に沿って、(⇔癲癇発作の直前にキリ氏が一時的に経験する瞬間即永遠の至福の感覚。)
S>「神の不在」「自由恐ろしさ」を意識しつつ自立的主体的に自ら選択し決断して生きることの、
S>実際の苦労(煩雑さ)と苦痛
S>を言っているように私は思います。
を受けたものです。この最初のSeigoさん(さいしょのさいご、っておかしいなあ ^,^;)の質問に、もし、くらまさんの理解から何かご意見があれば、是非、聞かせてください。Seigoさんは、この一瞬に「時間が止まる」ということと、「恐ろしい自由」=「瞬間、瞬間に決断を迫られる生のわずらわしさ」とを、対比され、ここから、キリーロフは「自由=苦痛」という感じを持っていただろう、(本人も人神になった後の自由を「恐ろしいほどの自由」と称しています) 従って、「人神」となった場合、彼は、その苦痛を背負い続けるが、それが苦痛だ、と言っているのではないか、と推量されているように思われます。(違います?
> Seigoさん)
私の今の理解では、このSeigoさんの捉え方は、どちらかというと「イワンの代」における問題の捉え方で、キリーロフにおいては、未(いま)だ「旧い神からの解放」が先決であり、彼のいわゆる「生の苦痛」とは、通常の意味での「死の恐怖」や病気や老いや、もしかすると貧困や、戦争などの一般的な苦痛のことではなかったか、と思っていたのです。このように広げてみたのは、私の解釈ですが、少なくともキリーロフがはっきり言っているのは、「死の恐怖」です。そして、キリーロフの論法では、人類が「神を創り出した」のは「死の恐怖の痛み」のため、ということになります。(ついでながら、ヴィルギンスキーの妹の女子学生も、新潮文庫版・下p89で「…神についての偏見は雷鳴と稲妻から生じた…」等と言っていますが、この同類と言えます。)つまり「自由の苦痛」ではなく、「死の恐怖に代表される一般的な苦痛」が、キリーロフが「生は苦痛です」と主張する根拠だったろう、と私は単純に思っています。そして、彼が代表として「死の恐怖を克服する」=「そのためだけに自殺する」ことを以って、人類は旧い神の必要性から解放され、自ら神になる。その際には、「恐ろしいほどの自由」を獲得するけれど、とにかく自由になる。「永久調和における時間停止」は、この暁(あかつき)に、その自由を緩和(かんわ)するものとして、必要となるもの、というように考える方が、すっきりするようにも思われます。どうでしょうか?
***
A>彼が非業の死を遂げたことは、神の実在の証明である。
>非業の死なんでしょうか。万感の幸福に撃たれて死んだ感もあります。
んもう、やあねえ、だから、これは冗談だって言ったじゃないですかん ^,^;)
と、いうのは、これまた、冗談!
いや、真面目な話、彼の死は「非業の死」として、『悪霊』の一読者たる私には感じられました。これは「感じ」なんだから、説明のしようがないんだ、と言ってしまえばそれで逃げられるんですが、それでは、ここで議論する意味がないですねえ=自己完結モード ^,^;)
なぜと言って、ここでは既に、座標系はキリーロフからドストエフスキーないし読者に移っておるのですが、ドストエフスキーは、彼を決して「幸せな奴」として祝福していないと思います。それでは困るんです。なぜと言って、自殺することが良いことな筈がない、という、論理を越えた人間の掟を、私は信じているからです。アーメン、アーメン(注:ゾシマ庵の人々の真似。)「理由がなければ、創り出すべきである」(^o^;)という訳です。(自分で自分の首を絞めるような発言ですが。)だって、キリーロフは、あんなに良い奴だったじゃないですか。思想の対立を超えて、シャートフを感動させた、彼のあの素晴らしく暖かい人間愛の感情。できれば「死なないで欲しい」と思うじゃないですか?連続テレビ小説だったら、「助命嘆願書」が殺到した筈ですよ、きっと。(NHKの朝8:15からの連ドラが『悪霊』だったら、凄いよなあ ^,^;) ですから、彼が天寿を全(まっと)うしない限りは、彼の死には、何か理不尽なものを感じると思うのです。というか、少なくとも、ドストエフスキーの意図は、彼を好人物としたことの動機は、そこにある、と私は感じたのです。これはシャートフも同じです。シャートフも読者が一番殺されて欲しくないと祈っているときに殺されちゃいますよね。これは決して、ドストエフスキーの「ものがたり作家」としての脚色だけではなく、彼のメッセージの根幹に関わるものだと私は思います。そのように、「残念だ」と感じさせることによって、ドストエフスキーは、彼らを捉えた『悪霊』の無情さ、冷酷さ、残忍さ、愚かしさを表現したかったのだと思うんです。ただ、その際、キリーロフは自分自身としては、満足していた、ということでも良いと思います。言わば、せめてもの慰めとして、ですが。そういうのは、『非業の死』とは言わないなら、言わないでも良いのですが、ただ、それが読者にとって「悲劇」として体感されることは、(ある意味では「喜劇」でもあるのですが、それ以上に「悲劇」として体感されることは)『悪霊』読書における最も自然で、期待される反応ではないか、と思ったのですが……(すみません、一冊の本を読んで、人が何を感じるべきか、などという議論は無意味ですが、ただ、有容赦はこう感じた、こう感じる人は結構多いだろう、ドストエフスキーはそういう風に感じさせようとして作ったのではないかなあ、という意味です。)
***
最後に、イエスの十字架とキリーロフの自殺の比較論について。
これは、ややこしいですね。ちょっと長いんですが、一応、フル引用してから書きます。
A>少なくとも、彼のこの予言が、彼の自殺の後に成就してはいないので、
A>彼の自殺は、その意味で失敗であると解釈するべきだと思います。
A>もちろん、イエスの場合は、現実に後世の世界に巨大な影響を与えた訳で、
A>本人の意図とは別に、ある意味でキリーロフがやろうとしたことの何割かを、
A>本当に実現した点は大きな違いだろうと思われますが、
>イエスは十字架上で、自己の死の意味をどんな風に考えていたのでしょう。
>イエスの刑死は、布教のための一つの手段にすぎなかったのでしょうか。
>後に、信者が増大したから、イエスの死に意味ができたのでしょうか。
>イエス自身は、信者獲得のために死んだのでしょうか。
>イエスは、罪深き我々のために、我々への愛のために死んで下さったのであり、
>その結果信者が増えたのは、予測された必然であったかも知れませんが、
>イエスの死の目的ではありません。
>また、もし仮にイエスが復活せず、キリスト教がペテロの否みによって
>終焉(しゅうえん)していたとしても、
>イエスが神の子であり、我々への愛のために死んだことに変わりはありません。
そうですね。このあたり、確かに、ドストエフスキーのスタンスは、こうだった筈(はず)でしょうね。ですから、この前提で考えるべきでしょう。私が、「キリーロフも弟子を作るべきだった云々(うんぬん)」と書いてしまったのは、ちょっと冗談まじりの調子に乗り過ぎて、筆が滑ったと思います。もっと、自分が本当に信じていることに立脚して、書き直してみます。(また、反対されそうですが… ^,^;)
イエスも、キリーロフも、二人とも、人類を救うために死んだ。その人類愛の深さは、両者とも大きなものであり、比較は不可能ないし無意味と思われる。また、両者とも、その死の時点で、自身の目指した人類救済のスキームを正しいと信じる理由がある。イエスの十字架の救済だけが真実であり、キリーロフの救済スキームが誤りである、と決め付けて比較するのは、その意味では、不公平である。キリーロフが自殺した時点では、まだ、イエスの方は無駄死にであり、キリーロフの方が人類を救う、ということを絶対に有り得ないと断定する理由がないからである。(すみません、このように実在の人物と、小説の登場人物を比較するのは、妙ですね。キリーロフについての「現実」はあくまで『悪霊』のなかの話です。)ただし、結果として発生した状況を考えると、彼ら自身の目ではなく、自分(有容赦)の目から見る限り、イエスがその同時代にも、後代にも、多くの「救われた魂」を生み出しえたこと、つまり、多くの人に宗教的な幸福感を与えることが出来たことと、キリーロフは本人の予言に反して「新しい人間」の到来を全く実現出来なかったこととから、彼らの間に、自分(有容赦)が存在を信じるところの真理ないし神からの距離の差が感じられる。(くどいようだが、これは彼ら二人の幸・不幸とは無関係な、私の感覚であるが、ドストエフスキーの意図を汲もうとする試みにもつながるものだと信じる。)仮にイエスの「成功」が偶然によるとしても、キリーロフの「失敗」は、自分には偶然とは思えない。なぜなら、彼の思想は、生前、キリストの復活も神の存在も否定する唯物的な無神論に立脚しながら、同時に自身の死が人類を救済する具体的な物理的・生物学的・社会的メカニズムについて、何らの考察も用意せず、いきなり死んでしまったからである。また、その思想についても、死の意味についても、ごく一握りの人間にしか説明しなかった。少なくとも、このことは、彼の「証明→人類の新生」の計画の失敗を自ら強く方向づけており、どのような偶然によっても、イエスが結果的におさめた成功を上回る成功は、おさめられなかったと、私には思われる。つまり本人たちの意図とは独立に、イエスには成功の可能性が、キリーロフにはほぼ確実な失敗が、神ないし真理によって用意されていたと信じる。仮にイエスがキリーロフと同じ、ただの人だったとしても、両者の結果の差をもたらした要因があると考えている。具体的な座標軸としては、抽象的な人類救済ではなく、具体的な人間社会の中での生、という要素がキリーロフに欠けていたことが、イエスとの距離を測る主要なものさしになっていると思う。このことから、逆に、神の支配、ないし真理の性質が、ある程度、示されていると考える。という感じなんですが、どんなもんでしょうね。だんだん、証明不能な議論になりつつあるかなあ…不毛だと思われるようでしたら、適宜、シカトして下さい ^,^;)
(途中、割愛)
冗漫ですみませんでした。イエスとキリーロフの比較論は、どうも推敲不足な気もするのですが、永久にまとまりそうもないので、送らせて頂くことにします。
では。
NO. 50
[Seigo] [98年3月6日]
威王さん、どうも。
有容赦さん、「『悪霊』の名台詞」の書き上げを初め、まいど、どうも。
上〔NO. 49〕の有容赦氏の解説で、くらまさんの、
>自殺すら選択しうる自由という意味で、
>恐ろしい自由の極致だと思いますが。
について、改めて、なるほど、と思いました。有容赦さんは、上〔NO. 49〕で、万人のための「死の恐怖の克服」ということこそがキリーロフの自殺の目的であったことを強調していますが、『悪霊』の中のキリーロフの諸発言を繰り返し読み返すなら、たしかに、その通りだと言えるかもしれませんね。ただ、私は、いまだに、キリーロフの自殺の奇矯(ききょう)さ・滑稽さの感じをぬぐい去ることができないのです。私が以前から思っていることは、ドストエフスキーによるキリーロフの思想内容(特に、彼の自殺哲学)の設定においては、『悪霊』のストーリーや、ドストエフスキーによるキリーロフ的な人物に対する風刺の精神、などからくる制約があって、そのあたりから、キリーロフの思想内容に関しては、その整合性において、しっくりいかない面もあるんじゃないかと、思います。(以上は、98年6月の書き込みでもSeigoは繰り返しています。)
読者が、そういったドストエフスキーの意向を忘れて、キリーロフの思想をキリーロフ自らの思想として、そのまま真(ま)に受け取ってしまうと、ドストエフスキーのキリーロフ造型の真意や意図を読み誤ってしまうことがあるのではないか、と私は思ったりしています。
それから、これは、上の有容赦さんの書き込みや以前のくらまさんの書き込みを読みながら、ちらっと思いあたったことなんですが、キリーロフは、自己の自殺の試みを通して、自殺を禁止しているカトリック世界の信仰者たちに対して、我々には、本来、自殺をする自由や権利もあるんだ、ということを示して、観念的な神からの不当な呪縛(じゅばく)を信仰者たちから解こうとした、という面も含ませているのでしょうかね。キリーロフ自身は、カトリックという名は出していないと思いますが、どうでしょう。
NO. 51
[有容赦@粗忽者] [98年3月6日]
Seigoさん、どうも
>アメリカからアクセスしてくれている人は、
>威王さん(伴野さん)でなくて、
>めぐみさん・マンモスさん(アリンコさん)、ですね。>有容赦さん。
わっははは、そうでしたっけ?変な質問してしまって、すみませんでした (_ _;) > 威王さん
別にイワンがアメリカに行こうとしていたから、っていう洒落じゃなくて、威王さんが、『悪霊』等を英語で読んでいるというので、勘違いしちゃったみたいです。全く、思い込みは恐ろしい…
* **
『悪霊』キリーロフ論関係レス
>万人のための「死の恐怖の克服」
という訳で、有容赦の「思い込み」の話をもう一つご披露しましょう。キリーロフには、極めて「名言」が多く、殆(ほとん)ど無数と言ってもいいほどですが、キリーロフの「神は死の恐怖の痛みです」(新潮文庫版・上p179)もその一つだと私・有容赦は思っています。
で、<ドストエフスキーの言葉>の<「神」「キリスト」について>の一候補として、推薦しようかな、と思いました。ところが、、、
改めて、同コーナーの説明( http://ss390950.stars.ne.jp/2-3-b.htm#b )を読み直して見たのですが、実は、このコーナーは、「ドスト作品に出てくる全ての警句の中からSeigoさんが集めたもの」(私はこう思い込んでいた)ではなく、「ドストエフスキーの本意に近い「ドストエフスキーの言葉」「作中の登場人物の言葉」のうち、Seigoさんが心ひかれた分を中心にして、選んでみたもの」だったのですね! つまり、いかに鋭い観察や真実を穿(うが)っているものであっても、それが無神論的、ないし虚無的だったり、とにかく、ドストエフスキーの思想と合わなければ、採用しないんですね? そう考えると、上のキリーロフの言葉は、不合格でしょうね。やるなら、「ドストエフスキーの毒コーナー」か何かを作って、そこに置かないといけない ^,^;) まあ、そういうものを作るのは、どうかと思いますけどね。ただ、ドストエフスキーはアンチテーゼを語らせてこそ光る人なので、それを捨てるのも惜しい気はします。それで気づいたのですが、例えばSeigoさんは、同コーナーの<「生死」「死」について>の1.に「人間は死を恐れる。それは生を愛するからである。」(『悪霊』より。)を取り上げていますよね。これなんかも、私なんかが「選びたい」と思う選択基準の感覚と、すごーく違っています。この台詞は、上記の上巻p179の箇所の少し前で、「私」ことG氏が発言した台詞だろうと思いますが、(他の箇所でしたら、ごめんなさい) ドストエフスキーの持つ意外性というか、普通の人が気づかないようなことに気づく、言わないようなことを言う、ということに価値を置いている私の感覚だと、むしろこれを否定した「生を愛するというのは欺瞞だ」というキリーロフの台詞の方が、妖(あや)しい魅力があるんです。(自分がそう思うかどうかは別ですよ ^,^;)まったく、蓼食う虫も好き好きとは言いますが、ドスト読むドストエフ好きーも好き好きですね。思うに、あっちのボードでSeigoさんが酒について書かれたように、ドスト小説も、「ほろ酔い加減」で、少し毒が回ってるけど、命には別条がなく安心、という状態で、むしろ、その毒の刺激をすこーし味わって読むのがちょうど良いのでしょうね。くらまさんが、わさびに喩えられたかと思いますが、まさにそういう感じ?
>ただ、私は、いまだに、キリーロフの自殺の奇矯(ききょう)さ・滑稽さの感じを
>ぬぐい去ることができないのです。
そーなんですよねーーー。例えば、同じ作品でも、スタヴローギンの最期(さいご)の方には、滑稽さの要素がない。キリーロフの死を非業の死と称するに躊躇(ちゅうちょ)する理由があるとすれば、くらまさんの指摘のように本人としては満足して死んだと思われることに加えて、ピョートルとのドタバタに代表されるこの滑稽さでしょうね。こういうことに、いちいち、一つ一つ「深い意味」を見出そうとする私の姿勢自体が、滑稽なのかもしれないや…… ^,^;)
>ドストエフスキーによるキリーロフの思想内容(特に、彼の自殺哲学)の設定においては、
>『悪霊』のストーリーや、ドストエフスキーによるキリーロフ的な人物に対する風刺の精神、
>などからくる制約があって、
>そのあたりから、キリーロフの思想内容に関しては、
>その整合性において、しっくりいかない面もあるんじゃないかと、思います。
どうなんでしょうかねえ。
確かに私の方は、ドストエフスキーの用意周到な完全主義的性格と天才的な能力から考えて、
・ ストーリー上の位置づけ
・ 喜劇性
・ 思想内容
を、それぞれ別個のものとして重ねたのではなく、一つの一貫したものとして結晶することを目指し、それに成功している筈だろう、と頭っから(狂信的な据(す)わった目で?)思い込んでいたと思います。確かにこれは仮定に過ぎないですね。
>キリーロフの思想をキリーロフ自らの思想として、そのまま真(ま)に受け取ってしまうと、
>ドストエフスキーのキリーロフ造型の真意や意図を読み誤ってしまうことがあるのではないか、
そうですね。
まずは、
・ 人神思想
・ 自殺による「我意」の提示
・ 死に際の悪さ
・ 優しい性格
・ 永久調和の一瞬
といった、大きな要素から、ドストエフスキーの信仰的または思想的意図との整合性をもった「標準キリーロフモデル」を構築する。しかるのち、「現実のキリーロフ」において、このモデルからの「ずれ」が見出された場合には、これはこういう人物の風刺の目的でこうなったとか、ストーリー展開上の必要性でとか、そういう、言わば、「補正項」として二次的な位置づけで捉える、というような形で考えるということでは?
というのは、冗談ですよ、もちろん。こんな面倒なことをやろうとは、自分でも考えていないんだけど、ちょっと言ってみたかったの ^,^;)
最後に、
>キリーロフは、自己の自殺の試みを通して、
>自殺を禁止しているカトリック世界の信仰者たちに対して、
>我々には、本来、自殺をする自由や権利もあるんだ、
>ということを示して、観念的な神からの不当な呪縛を信仰者たちから解こうとした、
>という面も含ませているのでしょうかね。
>キリーロフ自身は、カトリックという名は出していないと思いますが、どうでしょう。
これ、さすがはSeigoさんですね。この着眼点は、非常に面白い。考えもしなかった。ところで、Seigoさんは敢(あ)えて「カトリック」と言ってますけど、「正教」では自殺はどうなんですか?私、どうもこの辺の基本的なことがわかってないので、どなたでも結構ですが、教えてくらはい。
また、上の指摘がもし事実だとすると、ドストエフスキーは「自殺」をある程度は容認していた、ということに繋(つな)がって行くようにも思うのは、短絡でしょうか?そうなると、現在、私達が抱いている「キリスト者」(標準キリスト者モデル? ^,^; )のイメージとは、けっこう違いますね。ドストエフスキーが他の作品や手紙、「作家の日記」などの「生の声」の部分で、「自殺」に対してどのような評価を下していたか、もしか、おわかりでしたら、教えて下さい>Seigoさん
NO. 52
[Seigo] [98年3月6日]
>ドストエフスキーが他の作品や手紙、「作家の日記」などの「生の声」の部分で、「自殺」に対して
>どのような評価を下していたか、もしか、わかるんでしたら、教えて下さい。
>「正教」では自殺はどうなんですか?
ドストエフスキーは、晩年(50歳代)に、『悪霊』のキリーロフにおける取り上げ以外にも、いろんな点で、「自殺」というテーマに執着(しゅうじゃく)していたようですね。まず、本人自身、鬱(うつ)の状態に見舞われた時など、「自殺」の衝動に駆(か)られていた時期があったようです。(てんかんの発作に襲われるごとに、ドストエフスキーは、仮死状態の中で自分はそのまま死んでしまうのではないか、という死の恐怖におびえつづけたことは、周知の通りです。そういった危機を、結局、ドストエフスキーは、幾度か乗り越えています。) また、当時のロシアにおいて社会問題化していた「自殺事件」に関心を寄せ、「作家の日記」においても、何度か、「自殺」考の文章を自ら書き、掲載しています(「二つの自殺事件」「自殺について」「名の日の祝いの主人公」)。さらに、自殺を取り扱った短編小説も幾編か創作し、「作家の日記」に載せています。(『宣告』『おかしな人間の夢』『おとなしい女』。その他に、長編『未成年』における青年クラフトや娘オーリャの自殺、など。) そういった文章の中でドストエフスキーが「自殺」ついてどう考えているのか、については、Seigoはまだ読んでない文章もあるので、それらを読んでみて、後日、まとめてみようと思いますが、今まで読んだ範囲では、ドストエフスキー自身は、「自殺」を容認はしていないと思いますし、ロシア正教においても、「自殺」を認めているということはないと思いますね。>有容赦氏。
「ああ、かわいそうよ! なんという運命でしょう!ねえ、わるいみたいだわ、あたしたちこんなに楽しく歩いてるの、 あのひとの魂はいまごろどこの闇をとんでるかしら、きっとどこかの底なしの闇の中を、罪を背負って、うらみを抱いて、
さまよっているんだわ……アルカージイ、誰があのひとに自殺の罪をおかさせたのかしら?
ああ、ほんとに恐ろしいことだわ!兄さん、その闇のことを考えたことがあって?
ああ、あたし死がたまらなく恐いわ、そんなことほんとに恐ろしい罪よ!
あたし暗いところが大嫌い、だって太陽がこんなに素敵なんですもの!
お母さんは、恐がるのはいけないことだって言うけど……」
(長編『未成年』で、自殺した娘オーリャのことが話題になった時の、リーザ(主人公アルカージイの妹)の言葉。第1部第10章の第4。)
NO. 53
[有容赦] [98年3月9日]
皆さん、どうも。
Seigoさん、キリーロフ論より派生した「自殺」に関するたいへん丁寧なるレス、ども。
>ドストエフスキー自身は、「自殺」を容認はしていないと思いますし、
>ロシア正教においても、「自殺」を認めているということはないと思いますね。>有容赦氏。
はい。私もさうだらうな、と思っていました。さて、とすると、
>我々には、本来、自殺をする自由や権利もあるんだ、
とは、表面的に見ると、矛盾しているような感じさえしないでもありませんよね。しかし、ご安心ください。実は、矛盾していないだろう、というのが、私が今、いいたいことなんです。これが、最近、あちらのボードでくらまさんとN-hiroさんが、「自由」の定義について議論されていたこととも関係あるかどうかわかりませんが、八木誠一氏の言うところの、「自由な人格の統合」という話です。八木氏の「悟り」的な境地では、観念的に自己の行動を縛るようなものから一切解放され、完全な自由の中に立ち、しかも自分以外の他者についても、意味づけせずに、その存在を直接に感じ取るようになると、自然に、ある暗黙のルールというか、八木氏の表現によれば「定め」ないし「規定」(ヨハネ福音書の言うロゴス)に従うようになる、(新約の「善きサマリア人」のような行動を、自然にとるようになる)というのです。
まず、「自由」があり、その「自由」に基づく行動の結果が「規定」に従うのであって、逆ではない、初めから「規定」の実施が優先されている訳ではない、というこの順序が、思想の構成上、重要な要素になっています。「自殺もできる自由」が認められた上で、その自由な人間が正しいあり方を知っているとき、「自殺しない」という結果が自然に発生する筈である、というのが八木氏の考え方だと思います。この「自由」を経由しないで、たとえば、「実行的な愛に生きよう」というような観念的な目標を追求しても、倒錯に陥り、行き詰まる、というのが八木氏の経験からくる結論です。何かの「ルール」に盲従している限り、自己の人格の根底にあるこの「規定」の声は、却って聞こえるようにならない。その意味で、一度は、
>我々には、本来、自殺をする自由や権利もあるんだ、
>ということを示して、観念的な神からの不当な呪縛を信仰者たちから解こうとした、
というプロセスを通ることが必要になるんだろうと思います。(パウロが「私は律法に死にました」というような言い方をよくするのが、その例です。)そうだとすると、キリーロフが「自分は死ぬけれども、後の人はそれにより救われる」と考えたのは、その限りではあながち間違いとは言えない、という気がしてきます。むしろ、彼の後に続く人たちが、彼の死の意味を、ちゃんと理解できなかったから、悪いのだ、という解釈も成り立ちますね。
NO. 54
[福田] [98年3月11日]
(途中、略)
麻原のようなひとが好き勝手なことをしたとして。その被害に遭って人生をめちゃくちゃにされたと言うような人がいたとして。その人が、麻原のようなひとの「意味付けなしの存在」を感じることができるのだろうか。まあ、できる人もいるかもしれないけど、できない人もいるかもしれない。で、その場合、「意味付けなしの存在」を感じとるということの言説(ことばではないにしろ、「言」ではないにしろ)意味はなんなのだろう。ゆるすことが必要になるのだろうか。いや、ゆるすことは必要にはならないだろう。だれもが、ゆるすことは必要にならないだろう。となると、究極的にはなにをいっているのだろう。(キリーロフの自殺じゃないけど、だれに向かって、なにをいっているのだろう。)
NO. 55
[福田] [98年3月15日]
キリーロフもラスコ−ニリコフもともに、新しい価値観を打ち立てようとしたけど、新しい価値観を打ち立てることには失敗した。キリーロフの場合は、自殺だから、自己完結している部分もある。
というようなことを、書いた文書があったのだけど、なんか、送るタイミングを逃したか? まあ、いいや。今は、オンラインだ。じゃ。
NO. 56
[くらま] [98年3月16日]
くらま@再びキリーロフについて。
[Seigo]
[98年3月3日]〔NO. 46〕の発言ですが、
>彼は、自分以外の人々への限りない愛のために、彼らを救うために、自殺したのです。
>の中の「彼らを救う」というのは、具体的にどういうことなのでしょう。
>私たちは、「神」の教えに縛られることなく、本来的には、もっと自由に生きていいんだ、
>ということを自殺という犠牲的行為で我々に強烈に示していく、
>ということなら、ある程度理解できますが、
>はたしてその提示が私たちを「救う」ということにまでつながっていくかは、私は疑問なのです。
下p439「万人にとっての救いは一つーーーこの思想を万人に証明することにこそあることが。」
万人が、己の恐ろしいほどを自由を認識し、この世界で皇帝として、最大の栄光のうちに生きることでしょう。
>くらまさんは、キリーロフの言う、神の撲滅によって未来の我々に生じる
>「生理的・肉体的変化」「超人化」の方の内容を、
>我々を「救う」ものとして、期待しているのでしょうか。
キリーロフが何か、肉体的な進化を期待しているようにも読めますが、私は、この肉体的変化とは、精神(魂)と肉体の関係の在り方が、変化することだと考えています。これまで、死=自己(今ここにある自己)の消滅、ということが承認できないばかりに、魂とか神とかが考え出されてきました。神も不死もなければ、現実の世界を、架空の価値観で測り直し、誹謗する必要もなくなり、この世界はあるがままの、そのままの姿で完全となる。
上p371「すべてがすばらしい、すべてがです。すべてがすばらしいことを知る者には、すばらしい。」
上p369「いや、未来の永遠のじゃなくて、この地上の永遠の生ですよ。そういう瞬間がある。その瞬間まで生きつくと、突然時間が静止して、永遠になるのです」
永久調和の一瞬には、世界は完全となる。完全となった世界では、最早、自己と世界の境界も、己と他者の区別も、精神と肉体の区分もなくなる。すべては、永久調和の世界の中で一体となる。というような、感じでしょうか。
[有容赦@もう一丁] [98年3月5日 9時15分34秒]〔NO. 49〕の発言ですが、
>「彼にとっては自明だったが、他の人類が認識できていなかった神性を万人に証明するため、
>その神性の属性である我意を示すために自殺することは、」
>で良いでしょうか?
仰(おっしゃ)る通りです。
>そして、「自由」の問題は、キリーロフが提起したが、ドストエフスキーが本当にそれを「恐ろしいもの」として、
>議論の標的として、実際に取り上げたのは、イワンの代になってからだろう、というのが、
>今の私の理解です。
有容赦さんのよく引用される上巻中のキリーロフ登場場面での「自由」は、まだ「恐ろしい」ことはないようですね。ただ自殺直前にでてくる「この新しい恐ろしい自由」という語には、自己が主体的に苦悩し選択する苦痛という恐ろしさが含意されている気もします。このあたり、確かにSeigoさんの言うとおり、物語の進展に伴って、ニュアンスが変化している、というよりも、ドストエフスキーの中に芽生えたキリーロフ像が、物語の進展に伴い、深化・成長していっている気がしますね。
S>「生は苦痛です」「生きることを愛しているというのは欺瞞だ」
S>と言うのは、
S>その「神なき世界・社会」の中へと投げ出されたあかつきに、
S>時間の系列に沿って、(⇔癲癇発作の直前にキリ氏が一時的に経験する瞬間即永遠の至福の感覚。)
S>「神の不在」「自由恐ろしさ」を意識しつつ自立的主体的に自ら選択し決断して生きることの、
S>実際の苦労(煩雑さ)と苦痛
S>を言っているように私は思います。
>を受けたものです。
>この最初のSeigoさん(さいしょのさいご、っておかしいなあ ^,^;)の質問に、
>もし、くらまさんの理解から何かご意見があれば、是非、聞かせてください。
有容赦さんの言うように、この上巻の「生は苦痛です」という部分だけの意味あいとしては、自由の「恐ろしさ」はまだでてきてないような、気がしますね。しかし自殺直前のキリーロフの弁論では、ポイントが移っている様です。
>そして、キリーロフの論法では、人類が「神を創り出した」のは「死の恐怖の痛み」のため、
>ということになります。
>つまり「自由の苦痛」ではなく、「死の恐怖に代表される一般的な苦痛」が、
>キリーロフが「生は苦痛です」と主張する根拠だったろう、と私は単純に思っています。
>そして、彼が代表として「死の恐怖を克服する」=「そのためだけに自殺する」ことを以って、
>人類は旧い神の必要性から解放され、自ら神になる。
>その際には、「恐ろしいほどの自由」を獲得するけれど、とにかく自由になる。
>「永久調和における時間停止」は、この暁に、その自由を緩和するものとして、
>必要となるもの、というように考える方が、すっきりするようにも思われます。
>どうでしょうか?
「永久調和の一瞬」は、「新しい恐ろしい自由」を意識すれば、自然と成立するのではないでしょうか。
>ドストエフスキーは、彼を決して「幸せな奴」として祝福していないと思います。
その通りです。
ドストエフスキーは、イワンにしろキリーロフにしろ自己の育てた思想を、自己の信仰のために裏切るのです。
>そのように、「残念だ」と感じさせることによって、ドストエフスキーは、彼らを捉えた『悪霊』の無情さ、
>冷酷さ、残忍さ、愚かしさを表現したかったのだと思うんです。
そうですね。
>言わば、せめてもの慰めとして、ですが。
>そういうのは、『非業の死』とは言わないなら、言わないでも良いのですが、
>ただ、それが読者にとって「悲劇」として体感されることは、
>(ある意味では「喜劇」でもあるのですが、それ以上に「悲劇」として体感されることは)
>『悪霊』読書における最も自然で、期待される反応ではないか、と思ったのですが……
私は、ドストエフスキーは、冷徹にもキリーロフの最期を喜劇に仕上げたと思っています。真実の人間の叫びと苦悩が、端からみると滑稽にしか見えないこともあるという表現が、ドストエフスキーの作家としてのすごいところだと思います。
>仮にイエスの「成功」が偶然によるとしても、キリーロフの「失敗」は、自分には偶然とは思えない。
>なぜなら、彼の思想は、生前、キリストの復活も神の存在も否定する唯物的な無神論に立脚しながら、
(キリーロフの思想は、唯物的ではありません。物の支配も拒絶してます)
>具体的な座標軸としては、抽象的な人類救済ではなく、具体的な人間社会の中での生、という要素が、
>キリーロフに欠けていたことが、イエスとの距離を測る主要なものさしになっていると思う。
確かに、キリーロフはたぶん鞭打たれる馬を見れば、その身を投げ出すような人間であると思います。しかし、自殺するときの「万人を救う」という言葉の、「万人」には私も血が通っていなかった感じを受けますね。「万人」という名の自己の想念に殉じた感もあります。本当に人を救うのは、イエスが善きサマリヤ人に例えたように、現前で苦しむ隣人でなければならないと思います。
>八木氏の「悟り」的な境地では、観念的に自己の行動を縛るようなものから一切解放され、
>完全な自由の中に立ち、しかも自分以外の他者についても、意味づけせずに、その存在を
>直接に感じ取るようになると、自然に、ある暗黙のルールというか、八木氏の表現によれば
>「定め」ないし「規定」(ヨハネ福音書の言うロゴス)に従うようになる、
>(新約の「善きサマリア人」のような行動を、自然にとるようになる)
>というのです。
>まず、「自由」があり、その「自由」に基づく行動の結果が「規定」に従うのであって、逆ではない、
>初めから「規定」の実施が優先されている訳ではない、というこの順序が、
>思想の構成上、重要な要素になっています。
この考えは非常に興味深いですね。似たようなことばで、椎名隣三がキリーロフを表現しています。
「赤ん坊の脳味噌を叩き割ったり、少女を強姦してもいい。但し、本当にそのことを知っている人は決っしてそんなことはしないだろう」
本がもうないので、一部間違っているかも知れません。
NO. 57
[有容赦] [98年3月16日]
皆さん、どうも。
くらまさん、キリーロフ論への詳細なフォロー、有難うございます。
>というよりも、ドストエフスキーの中に芽生えたキリーロフ像が、物語の進展に伴い、
>深化・成長していっている気がしますね。
やら、
>真実の人間の叫びと苦悩が、端からみると滑稽にしか見えないこともあるという表現が、
>ドストエフスキーの作家としてのすごいところだと思います。
など、はっとするような内容がいろいろと書いてあって、参考になりました。現時点で、私の言いたいことはかなり出尽くしてしまっているようにも思いますが、まだ何か、補足出来ることがあれば、後日また応答したいと思います。
福田さん、どうも。
>キリーロフの場合は、自殺だから、自己完結している部分もある。
>というようなことを、書いた文書があったのだけど、
>なんか、送るタイミングを逃したか?
やあっほー、そんなこと言わないで、送ってよーっと、まあ強制はしない/できないけど。
NO. 58
[Seigo] [98年3月17日]
上〔NO. 56〕の追加のキリーロフ論、ありがとうございます。>くらま殿。
さらに、いろいろ考えさせられました。
NO. 59
[Seigo] [98年3月21日]
HIROさんの上(省略)の各「登場人物」寸評は、HIROさんらしい名調子が発揮されていて、また、しみじみとした気分になりました。(大切なのは、やはり、対象への愛情ですね‥‥、なんちゃって。)
上(省略)の各評は、私も、ほぼ同意見です。後半の「十三年後のアリョーシャ」に関するHIROさんの思い描きも、これまた、おもしろくて、考えさせられました。
>そうした立場に強い矛盾を感じ、「死刑」という形の清算の道を歩む
うーむ、このパターンは、
・イエスの最期
・ムイシュキン公爵の白痴への後戻り、
・キリーロフの自殺、
のあたりを、想起させられました。鋭い見方だと思います。
NO. 60
[くらま] [98年3月23日]
私は、ソーニャ、ムイシュキン、キリーロフが好きですね。利害や打算を離れた愛は、常に永遠の現在の中に存在します。ドストエフスキーの登場人物でも、自己の時間軸をもっている人とそうでない人がいますが、この3人は後者ですね。この3人は、将来という言葉が意味をなさず、時間が止まってしまった中で、愛に満ちた今を生きている感じを受けます。
NO. 61
[有容赦] [98年3月26日]
Seigoさん:
新コーナー「ドストエフスキーの小説に出てくる事物の基礎知識」は、いろいろ面白くていい。サモワールの写真が見られるのも、やっぱりいい。(注:一応、サモワールにゆかりの深いキリーロフの真似です。)
NO. 62
[有容赦@勤務時間中の踏み越え] [98年4月10日]
>彼ははてしなく無意味にくり返す「円環する時間」を断ち切って、
>「もはや時なかるべし」(「ヨハネ黙示録」十章六節)の、神の「時
>空」に一挙に飛び超えることを企(はか)ったのである。
よく憶(おぼ)えていませんが、加賀氏の人物論では、ラスコーリニコフは地下生活者から出て、ムイシュキン、キリーロフ、シャートフ、アルカージイ、ミーチャ、アリョーシャの元祖、ということになっています。それで行くと、確かに、「時間が止まる」というムイシュキン、キリーロフや、やはり「この一瞬のために全生涯を捧げてもいい」というミーチャとつながるでしょうね。少し、飛躍しますが、あちらに書いたように、今、講談社現代新書の『イスラームとは何か』(小杉
泰著)という本を読んでいるのですが、その中で、マッカ(メッカ)にいたムハンマド(マホメット)が、一晩のうちにエルサレムに行って、さらに天に昇り、アブラハム、モーセ、イエスなど先行する預言者達と会い、また地上に戻ってきた、と主張する出来事があった、と書かれています。(イスラームでは「夜の旅と昇天」と呼ばれる。)これは私の語感では、上記の「神の「時空」に一挙に飛び超える」というのを彷彿とさせます。彼が癲癇だった、という記述は、今のところ、その本には見当たりませんが(まだ半分も読んでない)ドストエフスキーは、そうだった、と『悪霊』で言ってますよね。(『白痴』でも言ってたかな?)ムハンマドに対する預言では、彼が、これら一連の預言者の系譜の最後のものであり、「封印」である、彼をもって、神の啓示が完結する、ということが主張されたそうです。私が先日来、ボードで威王さんと「キリストを精密化する」とか言う話をしていましたが、そういう意味で、彼は、「最終的な精密化をやった」ということを言った訳ですね。イスラームでは、ユダヤ教はモーセの、キリスト教はイエスの時点までの啓示に基づく宗教として、一定の評価をし、その上で、これにムハンマドの啓示を加えて完成品と見なすそうです。(このため、キリスト者に対してはある程度寛容さを持ち、ユダヤ教徒に対してはイエスを受け容れなかったことに対して批判的である、ということです。)とするなら、さしずめ、キリーロフは、ムハンマドに替って、「最終預言者」の地位を狙った、体質的にはムハンマドに近いタイプの人間、と考えられて来ますが、どうでしょう?この「踏み越え」は、多分、ドストエフスキーの癲癇という精神病とかなり密接な関係を持ち、それが、「神の啓示の伝達」というような、一種、超自然的能力にも結びついているのではないでしょうか?何やら、受け売りの組み合わせみたいで恥かしいですが…… ^,^;)
NO. 63
[Seigo] [98年4月11日]
[98年4月10日]〔NO. 62〕の有容赦さんの書き込みの中の、
>さしずめ、キリーロフは、ムハンマドに替って、「最終預言者」の地位を狙った、
>体質的にはムハンマドに近いタイプの人間、と考えられて来ますが、どうでしょう?
>この「踏み越え」は、多分、ドストエフスキーの癲癇という精神病とかなり密接な関係を持ち、
>それが、「神の啓示の伝達」というような、一種、超自然的能力にも結びついているのではないでしょうか?
キリーロフの「生死の思想」に関しては、「ドストエフスキー自身やマホメット(さらにキリーロフ自身の彼らに似た症状)」における癲癇(てんかん)発病の際の神秘体験との関わりを考えていくことは、私も大切だと思うので、体質的には、両者は似ていると思いますが、キリーロフは、憑依(ひょうい)にあった巫女(みこ)のように自分の意志とは無関係に神を讃(たた)える「預言」が口から次々と出てくる、といったような「キリスト教・イスラム教」史上の「預言者」ではないから、
>ムハンマドに替って、「最終預言者」の地位を狙った、
のあたりは、ちょっと飛躍過ぎだと思います。(ただし、キリーロフにしばしば比較されるニーチェの場合は、氏の『ツァラトゥストラ』のあたりでは、 新しいこの時代に新たな聖典的預言を述べていく預言者としての自己の自覚があったようですね。『ツァラトゥストラ』の執筆の際には、まるで預言者のように、聖典的な本文が、一気に次から次へと、筆から現れ出たそうですね。)
NO. 64
[有容赦] [98年4月13日]
皆さん、どうも。
Seigoさん:
>キリーロフは、
>憑依(ひょうい)にあった巫女(みこ)のように自分の意志とは無関係に神を讃(たた)える「預言」が口から次々と出てくる、
>といったような「キリスト教・イスラム教」史上の「預言者」
>ではないから、
>ムハンマドに替って、「最終預言者」の地位を狙った、
>あたりは、ちょっと飛躍過ぎだと思います。
なる、さすがにそうですかね。キリーロフには、そんな言葉があるとすれば、預言者然とした雰囲気があるように感じていました。(ドスト作品には、ところどころに、「保護者然とした態度」というような訳語が出てきて、なんとなく、気になっている有容赦です。 ^,^;) ただ、確かに、神の意志を機械的にアウトプットする、という「入出力装置」型の人間というより、思弁に思弁を重ねる「CPU」型の人間ですよね。
NO. 65
[Seigo] [98年4月15日]
[有容赦] [98年4月13日]〔NO. 64〕
>キリーロフには、そんな言葉があるとすれば、預言者然とした雰囲気があるように感じていました。
キリーロフには、「預言者」としての面はないとしても、未来において科学技術がさらに発展し人間自身も医学的に進化していって、未来の人々は従来の「神」という観念を必要とせずに「神(人神、超人)」となっていくだろう、ということを19世紀のロシアにおいて予言する「予言者」としての面はあるのではないかと、私は思っています。
NO. 66
[有容赦] [98年4月16日]
『悪霊』も、面白いですよね。暫(しばら)く前、問題のキリーロフについての話を、確かキリストとの比較などを交えて、私がいろいろ書いては、くらまさんやSeigoに、「それはいい、それは違う」という感じで、批評してもらって、かなり楽しんでおりました。こちらの方は、威王さん、めぐみさんなども従来から関連発言が多いし、『未成年』よりは発言者の多い「団体戦」が期待できそうです。それから、N-hiroさんがよく言われるような複数作品にまたがった人物造形の発展などの話も、材料が多くなりますね。特に、直前の作品である『白痴』におけるムイシュキンの人物像や思想から、キリーロフやシャートフにつながっていく線は、見逃せないでしょう。加賀乙彦氏の向こうを張って、私達独自の人物論なども大胆に展開してみてはどうでしょう。
NO. 67
[めぐみ] [98年4月17日]
斯様(さよう)な訳で、スタヴローギンについては行いがあんまり醜悪なので最初はただ毛嫌いしていたのですが(ただの変態としか思えなかった...)、最近年を重ねて来たせいか、ドストエフスキーがそんな彼を通して言わんとしたことがおぼろげにわかってきたような気がします。キリーロフは一筋縄では行かないので今回も保留にしますが、彼はいいやつだったためスタヴローギンとは以前は印象が全然違ったけど、何とまあ、この二人には通じる所があることか(現われ方は違うけど)。
NO. 68
[威王] [98年4月18日]
すみません、上(省略)のはめぐみさんあてでした。ちなみにスタブローギンは不幸になってしまったのかもしれないですがキリーロフについてはそうかな? と思います。彼の場合はただ純粋の結晶という感じがしますが。どうでしょう。
NO. 69
[有容赦] [98年4月23日]
ところで、あのSeigoさんと威王さんの会話(省略)を聞いていて、思いだしたことがありますよね?>皆さん
そうです、『悪霊』です。
キリーロフは話し言葉が、スタヴローギンは手紙が、文法にあっていなかった、という。つまり、二人とも、類まれなほどの知性、教養等に恵まれていながら、自国の言葉すら、ちゃんと使いこなせない人間、ということになっていますよね。彼らが、いわばロシアの風土から切り離された、一種の不自然さを持った人物、シャートフの言い方でいうなら「紙で出来た人間」である、ということを象徴した描写、と有容赦は単純に思っています。この辺は、ドストエフスキーは、実際に社会主義サークルなどで出会った若者のイメージを、うまく反映させているのではないか、とも思われるのですが、どうなんでしょうね?
NO. 70
[有容赦] [98年5月7日]
全体として、私がこれまでに読んだ範囲では、ドストエフスキーの小説には、<エジプトやトルコあたりを含めた広い意味でのヨーロッパ圏>以外の国々のことが出てくる場面の数は、ドストエフスキーの広範な知的興味の広がりを基準に考えると、かなり少な目な感じも受けますね。まあ、ドストエフスキーとしては、「ロシアvs西欧」というところまででも、非常なボリュームのある思索をしていたので、勢い、それ以外のところまでは手が回らなかったのかもしれないですね。「アメリカ」はスヴィドリガイロフを始め、アルカージイ、ミーチャ、イワンなども言及していますが、「実際に行った」ことになっているシャートフとキリーロフは、恐らく、ドストエフスキーの全作品の中で、「地理的に最も遠くまで行ってきた人々」でしょうね ^,^;) 多分、彼らのような人が、何人かは、ドストエフスキーの回りに居たのに対して、アジアやアフリカなどに行ったことのある人というのは、殆(ほとん)ど居なかったのかも知れませんね。
NO. 71
[N-hiro] [98年5月22日]
こんにちは、ご無沙汰してました。
学業への専念のために滞っていた「悪霊」を昨日、読了しました。5大長編制覇ということで、報告しに来ました。ここですぐ感想が書き込めるほど、まとまってはいませんが、キリーロフとスタヴローギンの両者の間の自殺に何か接点を求められないかと模索しております。
あと、カミュの「シジフォスの神話」のなかに出てくるキリーロフ論をこれからよんでみて、何か発見があったらまた書き込みに来ます。僕個人にとっても最近いろいろなことがありまして、キリーロフが作品中で述べている思想に、賛同とはいわないまでもちょっとした共感を覚えました。実験中で忙しいので、簡単ですがではまた。
NO. 72
[有容赦] [98年5月22日]
N-hiroさん、お久しぶり。
物理学中心の多忙なる生活の中での『悪霊』読破、本当にご苦労様でした。
私も、今年、『未成年』を読んで、晴れて5大長編制覇を成し遂げたので、「同期生」ですね ^,^;) このボードでも、さまざまに評価の分かれているキリーロフ論など、今後も、長周期、かつ、短文の書き込みで結構ですから、ちくり、ちくり、と刺し込んで下さい。(キリ氏、スタヴロ氏に限らず、他作品同様、なかなかに個性派ぞろいの各登場人物についての、N-hiroさんの感想なども、おいおい、伺いたいものだわいなあ、と、これ、独り言。)
NO. 73
[N-hiro] [98年5月22日]
有容赦さん、どうも。
今回の『悪霊』の読後感としては、スタヴローギンという人物の重要性をあまり読み取ることができなかったです。彼の告白の章が巻末だったのでストーリーのなかに組み込んで読むことができなかった。「イワン皇子」のあとに読めばよかったのかも知れません。けど、彼の告白のなかに出てくるギリシャの多島海の描写は興味深いです。新潮文庫で下巻570〜571ページのところですが、これは『未成年』でヴェルシーロフがアルカージィに語る楽園の描写に通じるものがあると思います。(詳しい個所はわかりませんが)こういった世界を語るスタヴローギンの自殺、ヴェルシーロフの発狂など、彼らにはなんだかムイシュキン公爵的な傾向が見られるような気もします。(単なる思いつきですが)彼らはドストエフスキー小説の中の登場人物たちの一傾向をになっているのではと思うのですがどうでしょう。 でも、キリーロフが一番、印象深いですね。江川卓氏の訳が絶妙なのかどうかが分かりませんが彼の奇妙な日本語(本当はロシア語)がすごく気に入ってしまった。実際、ロシア語ではどんな何だろう?日本語からでは、彼のしゃべり方には何だか可愛らしい印象を受けますよね?(僕だけか?)
NO. 74
[くらま] [98年5月25日]
N-hiroさん、「悪霊」読了おめでとうございます。
以前中途半端に終わってしまいましたが、「怖るべき自由」についても記載してますので、カミュ「シーシュポスの神話」のキリーロフ論についても、ご意見お待ちしてます。
NO. 75
[有容赦] [98年5月25日]
キリーロフの日本語(?)、私も好きです。やはり、可愛いと感じました。全体に江川氏の訳文は、有容赦としては、非常に好みです。されど、『悪霊』は、是非、そのうち、米川訳で読み直してみたいです。
NO. 76
[N-hiro] [98年5月25日]
みなさん、どうも。
有容赦さんもそうだったんですか。スタヴローギンの意味とか、存在性については確かにつかめません。『悪霊』のなかでは、キリーロフのインパクトが強すぎて、後はペンペン草も生えない、といっては言い過ぎかもしれませんが、そんな感じはありました。そもそも、スタヴローギンが、なんで自殺したのかというのが疑問です。それがわかれば、キリーロフの自殺の理由と結びつけて、作品全体を理解する一つの道が開けそうなんですが。それについてはもうちょっと考えてみたいと思っています。何にしてもこの二人が『悪霊』のカギを握っているように思います。あ、それとステパン氏とピョートル一味の関係もあるか・・・。難しいな。もうちょっと考えてから、また書き込みます。
NO. 77
[N-hiro] [98年6月1日]
以下に、悪霊の読後感を書きます。
他の皆さんのレスはまた後でと言うことであしからず。
* * *
以前、この小説の主要な登場人物としてスタヴローギンとキリーロフを挙げました。この二人は自殺という終末を遂げる点で類似してますが、いくらか性質を異にするところがあると思います。(以下、ですます調を略)。
キリーロフはその言動のいろいろな点から、自分自身の思想と闘っているように見える。彼の闘いは完全な自由を得るための闘いである。「最高の自由を望む者は、誰も自分を殺す勇気を持たなければならない。」とキリーロフはいう。ここで彼がいう自由とはもちろん法律や社会体制などからの自由ではない。そういったものからの開放は確かに「自由」ではあっても「最高の自由」とはいえないだろう。「最高の自由」とはもっと根源的なもの、僕らが望みもしないのにこの世界に生み出され、ほんの少しの幸福よりははるかに多くの不幸や、苦悩に満ちた生を、生きなくてはならない。そういった不条理からの自由であろう。彼は言う、
「生は苦痛です。生は恐怖です。だから人間は不幸なんです。いま人間が生を愛するのは苦痛と恐怖を愛するからなんです。・・・幸福で誇り高い人間が出てきますよ。生きていても、生きていなくてもどうでもいい人間、それが新しい人間です。」
彼がいわんとすることは、こういうことだろうと思う。
つまり、人間は、いまの神を信じている限り幸福にはなりえない。それは、苦悩でしかない。だとしたら僕らが幸福になるには、神に与えられたこの生を放棄するしかない。キリーロフの主張する自殺は、僕らを苦悩に満ちた生の中に放り出した旧き神に対する挑戦なのだろう。彼が自殺をすることができれば、つまり「生きていても、生きていなくてもどうでもいい人間」になれれば、自分の生を支配しているのは自分自身であり彼が神であると言うわけだ。それが彼の野望なのだろう。しかしキリーロフは、そういった思想を抱きながらも、その思想の完全な境地には達していないように思える。彼の自殺の直前のピョートルとの対話の中でこのようなシーンがある。
ピョ:「・・・・魚は、いや、誰にしてもそれなりの快適さを求めてるわけで、それだけのことさ。とうの昔にわかりきったことですね。」
キリ:「快適さと言うのかね?」
ピョ:「まぁ、ことばで争ってもしかたがない。」
キリ:「いや、うまい言葉だ。快適さでいい。神は必要だから存在するはずだ。しかし僕は、
神は存在しないし存在しえないことを知っている。」
ピョ:「そのほうが正しいな。」
キリ:「君にはわからないのかな。人間はそんな二つの思想を抱えながら生きてはいけないことが。それ一つで十分自殺に値する。」
この対話から、キリーロフが明らかに、神はないといった思想と神はあるという思想の間で、苦悶していることがわかる。彼が「人間の生は苦痛であり、恐怖である。」と言う理由はまさにここにあるのだろう。 しかし注目すべき点は、そのような、およそまともな人間が抱くものとは思えない思想の持ち主である彼が人間的に豊かな性質を、見せることだ。彼は、シャートフの昔の恋人が帰ってきたことを知って純粋な喜びをあらわす。「熱いお茶があるから、持っていくといい。全部。砂糖も、全部。パンは・・・パンもたくさんあるから、全部。金も1ルーブリ。」と舌足らずな言葉で、協力を惜しまないキリーロフの姿に僕らは愛着を感じないではいられない。彼はまた、こうも言う。
「人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないから。それだけです。・・・すべてがすばらしい。僕は突然、発見したんです。」
彼は幸福に満たされた体でそう言う。しかしこれは彼の自殺に関する思想とは、相反している。そしてこの思想こそ彼が自殺を決心しながら、それを決行しないでいる理由なのではないだろうか。この、もう一方の思想、自殺の思想とは反するポジティブな思想を語るときの彼は、理性的に見える。自殺を語るときの彼は、いつも興奮して半ば我を失っている。そんな彼を最終的に自殺へと向かわせる決定的な要因となるのは他でもない、ピョートルのシャートフ殺害であろう。それを知ったときキリーロフは叫ぶ。
「僕は他でもない、いま自殺したい。誰も彼もが卑劣漢だから!」
そうして彼は、半分ピョートルにそそのかされる形で、興奮の体で我を失ったまま、自殺を決行する。この自殺は、彼が望んでいた、神になるための理性的な自殺であったとはいえないだろう。今まで、万人が行なってきた、苦痛から逃れるためだけの自殺と、変わりないように見える。それは彼自身の言葉からもわかる。
「僕は不幸だ。なぜって、我意を宣言する義務があるから。・・・僕は恐ろしく不幸だよ。なぜなら恐ろしく恐れているから。」
彼が自殺をするとき、不幸であったのは、彼が人間は愛しうることを知っていて、またすべてがすばらしいことを感じ始めていたからだろう。スタヴローギンはキリーロフの自殺について、ダーリヤにあてた手紙で、こう書いている。
「こころ広いキリーロフは、思想を持ちきれずに、ピストル自殺してしまった。彼がこころ広かったのは、
健全な理性を失っていたからだと思う。」
この点で、スタヴローギンのキリーロフに対する考察は正しいと思う。そして、僕の考えでは、キリーロフがなしえなかった思想的な自殺を実現したのは、他でもないスタヴローギンであると思う。彼がキリーロフと決定的にちがう点は、彼が、あまりに重い罪に身を深く沈めていることだ。
(途中、略)
『悪霊』は革命思想的な形での、また自殺思想的なかたちでの旧き神への人々の反逆を主題にした小説である。だが、はたして、スタヴローギンやキリーロフは、旧き神に勝利したと言えるのだろうか?僕は、彼らは単に破滅したにすぎない哀れな存在であると思う。まさに溺(おぼ)れ死んだ豚そのものであると思うのだが、それに関して、死期のステパン氏の言葉が印象的だ。
「・・・愛は存在よりも高く、存在の輝ける頂点です。もし僕が神を愛し、自分の愛に喜びを覚えているとするなら、神が僕の存在をも、愛をも消し去って、僕らを無に変えてしまうことがありえるでしょうか?・・・ 永遠にして偉大なる思想万歳!人間は誰であれ、偉大なる思想の表れであるものの前に、ひれ伏す必要があるのです。どんな愚かな人間にも、何らかの偉大なものが必要なんです。」
これが、スタヴローギンやキリーロフの思想を完全に否定する答えであろう。ステパン氏のこの告白を証明する手だてを僕らは知らないが、僕らが真に信じることを望み、かつそれによって幸福になることができるのは、キリーロフの言うような旧き神からの開放ではなく。この世界のすべての不幸や苦悩を受け入れた上で、なおかつ自分自身が不幸であっても、ほかの多くの人が幸福であることを、また、そう言った時代が訪れることを信じ、旧き神を受け入れることにあるのではないだろうか?
|