『悪霊』でドストエフスキー
がスタヴローギンという人物
を描いた意図
(1〜21)
(更新:24/11/12)
投稿者:
Seigo、ミエハリ・バカーチン、
大森、佐藤、ヘクトルの涙、
サロンパス、KYOUKOたん、
enigma
(1)
[47]
『悪霊』でドストエフスキーがスタヴローギンという人物を描いた意図
名前:Seigo
投稿日時:08/02/07(木)
『悪霊』においてドストエフスキーがスタヴローギンを登場させてスタヴローギンという人物を創作した意図
(ドストエフスキーはスタヴローギンを通して、救いようのない闇一色の人間の一つの究極の悪の姿を描こうとしたのか、あるいは、スタヴローギンも、ある意味で犠牲者であり、光ある部分を持つ同情できる人間なのか、等々)
について、意見のある人は、聞かせて下さい。
なお、
『悪霊』は、章「スタヴローギンの告白」が検閲でカットされて、そのあとの展開や内容の変更を余儀なくされ、一方で、改作された章「スタヴローギンの告白」がのちに発見され付されて現在ある姿になっているため、現在ある『悪霊』においてはスタヴローギンに限っては本来の十全な物語を成していないわけであり、そういう点で、スタヴローギンの全体像を理解していくことには困難が伴うでしょうが、それはそれで、仕方ありません。
ドストエフスキーがスタヴローギンの破廉恥きわまりない行為の描写を含む「スタヴローギンの章」をそのまま連載に入れようとした当初の考えも気になるところです。
(2)
[74]
RE:『悪霊』でドストエフスキーがスタヴローギンという人物を描いた意図
名前:ヘクトルの涙
投稿日時:08/02/13(水)
はじめまして、こんにちは。
初めて悪霊を読み、スタヴローギンという人物を知った時、脳裏に浮かんだのはスタヴローギンそっくりの知人のことでした。知人は幼児期に『母親』から性的虐待を受けていたらしいのです。スタブローギンのような特異な人格が形成される根源的原因がなぜ作中に提示されていないのか気になるところですね。以下に私なりの憶測を述べたいと思います。
作品中スタブローギンの幼少期が克明に描写されなかったのは恐らく読者が変にスタブローギンに同情を示すのを嫌ったからではないでしょうか。
ドストエフスキーの狙いは生命に内在する根源的な魔性を描き出すことにあったのでないでしょうか。仏教でいうところの『他化自在天』や『第六天の魔王』『元本の無明』といったところでしょうか。生命の尊厳を失った人間の末路を非常にリアルに描き出したことによって今日も私たちの心を打つ作品となっているのでしょうね。
(3)
[75]
RE:『悪霊』でドストエフスキーがスタヴローギンという人物を描いた意図
名前:ヘクトルの涙
投稿日時:08/02/13(水)
さらに何の根拠もない考えなのですが、スタブローギンの告白は実は逆転した物語なのではないのかと勘繰ってしまいました。幼児のスタブローギン自身がXなる人物に性的に汚され『神殺し』を経たのではなかったか。告白の文体がぶれているのもそのためではなかったか。などなど、とてもまともな発想ではないですが……ご意見があればよろしくお願いします。
(4)
[76]
RE:『悪霊』でドストエフスキーがスタヴローギンという人物を描いた意図
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:08/02/13(水)
>ヘクトルの涙さん
はじめまして。
なるほど、幼児期に「性的虐待」を受けたスタヴローギンが、今度は自分がマトリョーシャに対して「性的虐待」を行なった、と。
スタヴローギンがマトリョーシャに対して「性的虐待」を行なったのは、幼くして性的に汚された人間がどういう風に生きていくかを、自分以外の人間をサンプルにして見てみたかったからかも知れませんね。あらゆることに本気になれない自分の性格の由来は、どうやら幼児期にステパン氏から受けた性的虐待にあるようだ、では、一般的には、幼児期に性的虐待を受けた人間はどのように生きていくのか、他の人間の事例を参考にしてみようか。――そう淡々と考え、スタヴローギンはちょうど手頃な相手であったマトリョーシャに手をつけ、彼女がその後どのように生きていくか観察しようと思っていた。
ところが、その結果マトリョーシャは、生きるどころか「神様を殺してしまった」と絶望し縊死してしまった。その一部始終を淡々と見届けたスタヴローギンは、ああ、自分のような身の上の人間は、生きるべきではなく、自ら縊れ死ぬべきなのだなと納得し、縄に石鹸を塗り、あくまで合理的に、淡々と首を吊ってしまったのでした。
ステパン氏がスタヴローギンに対してなした汚行を、今度はスタヴローギン自身がマトリョーシャに対して行なった――その顛末を描いた小説が『悪霊』であるのかも知れませんね。
(5)
[77]
RE:『悪霊』でドストエフスキーがスタヴローギンという人物を描いた意図
名前:大森
投稿日時:08/02/13(水)
スタヴローギンにはいろいろ考へるところがあります。
私が思ふに、一つには、彼は、福祉や医療の世界で言はれる人格障害と分類される人間の一人で、反抗挑戦性障害と診断されるタイプなのではないかと思ひます。「私にとってすべてが無縁だ」と遺書の中で彼は書きますが、人格障害の中心は、まさに心の中の他人を共感(信頼)する部分が衰弱してゐることです。そのため他人に心が開けず、孤立感を抱き、他人とのやり取りが困難で、反抗、攻撃性、他人の評価の極端な変化(褒めた人間を手の裏を返すやうに攻撃するなど)、閉じこもり、様々な依存症(アルコール、拒食、過食、買い物、ギャンブル、性など)などのやっかいな問題を出します。スタヴローギンの場合、それが他人を攻撃して踏みにじる「反抗挑戦性障害」といふ形で症状を出してゐるやうに思へます。
スタヴローギンだけでなく、ドストエフスキーの登場人物の大半は、多かれ少なかれ、人格障害的な部分を持ってゐると思はれます。
人格障害になる大きな原因の一つは、幼児期の虐待です。虐待とは、不適切な養育のことであり、身体虐待ばかりでなく、心理的虐待、放置虐待、そして性虐待も含みます。虐待を受けると、心が他人に開けず、上記のやうな様々な問題をだす可能性があります。
また、虐待を受けた人間が自身のトラウマを克服できなかった場合、虐待の連鎖といはれる、再現行動を起こす可能性があります。つまり、被害者が加害者になる場合が多くあるのです。
スタヴローギンの幼年期は書いてないので、想像するしかありませんが、上記の現実から考へて、幼年期の性虐待から人格障害になり、性依存になり、虐待の連鎖から性虐待の加害者になったという想像は、ありうる話だと存じます。
ただ、スタヴローギンの場合、「スタヴローギンの告白」の章を発表できなかったためか、前半と後半と自殺の場面で一貫性がなくて、後半になると気弱になっていくやうに見えるのですが、私の理解不足でせうか?
その他、いろいろ書きたいけど、今回はこれで。
(6)
[83]
RE:『悪霊』でドストエフスキーがスタヴローギンという人物を描いた意図
名前:ヘクトルの涙
投稿日時:08/02/15(金)
ミエハリさん、大森さん、示唆に富んだご意見ありがとうごさいました。
前回の私の発言の趣旨がいまいち曖昧だったので少し補足したいと思います。
スタブローギンという特異な人格が形成された原因をドストエフスキーが敢えて作中に示さなかったのは心理学的因果関係をもってして他者や自己の生命を奪う(奪命者)としての生命の働きの理由付けをドストエフスキーはしたくなかったのではないかと私は思っています。
その人の過去がどうであれ、またどんな傷を受けていたにせよ他者や自己の生命を奪う生命の魔性の働きを正当化することは間違ったことでしょう。またそのような生命現象がどうして発生したのか?という問いかけから何故起こったのか?という問いそのものの質的変化を経たならば必然的に仏教が説く欲望論に近接もしくは符合するのだと私は思っています。
この辺のことに関しては主催者のご意見を頂ければと思います。よろしくお願いします。
(7)
[84]
RE:『悪霊』でドストエフスキーがスタヴローギンという人物を描いた意図
名前:佐藤
投稿日時:08/02/15(金)
>ヘクトルの涙さん はじめまして
<私は卑劣さを愛するのではない(この点私の理性は完全に全きもとしてあった)、ではなくて、その下劣さを苦しいほど意識する陶酔感がたまらなかったのである>
スタヴローギンを理解する鍵を握る言葉は上記のものであると考えています。一言で言えばサディズムとマゾヒズムの問題でしょう。上で大森さんが書かれて
いることとも関連しますが、虐待の問題もサディズムマゾヒズムの問題でしょう。人間の精神の中には常に苦痛と快楽のバランスの問題があり、このバランスが おかしくなった時に快楽殺人といったような犯罪が発生するものと私は考えています。
ドストエフスキーはスタヴローギンという人物を自分の心の中から紡ぎだしたと語っていますが、ドスト氏が苦痛と快楽の問題に気づいていたことは『地下室の手記』で明らかなことですけれどね。
(8)
[86]
RE:『悪霊』でドストエフスキーがスタヴローギンという人物を描いた意図
名前:大森
投稿日時:08/02/15(金)
私は、スタヴローギンは、悪の化身ではなく悩める悪人だと思はれます。「スタヴローギンの告白」の章は自分の悪をチホン僧正に告白してゐるのです。この告白は懺悔であり、告白を読んだ僧正は、「この考えは偉大な考えであり、これ以上にキリスト教思想を表現することはできますまい。いかなる悔悟もあなたの考えられているような驚くべき偉業(自分自身に加えようとなさる罰)以上に達し得ないものです。」と言います。それに対してスタヴローギンは「僕は誠実に書きました。」と言っています。つまり自分の行った悪を万人に告白し、国家の裁判も受けるし、人間のそしりも受ける。自分は全世界からの罰を受けるとスタヴローギンが考えていると僧正は受け取り、スタヴローギンもその考へを否定してゐないのです。
ここからスタヴローギンが悪だけの存在ではなく、悪を克服したいといふ気持ちがあると推測されます。
悪霊の語り手も、この章の初めの方で「(この告白の手記は)はげしい痛みに苦しんでいる人間が、ほんの一瞬でも苦痛を軽減できる姿勢を見出そう(としているやうなものだ)」「この文書の基本思想は罰を受けたいといふいつわらぬ心の欲求であり、十字架を負い、万人の眼前で罰を受けたいという欲求なのである。」として悪の不毛な苦しみからスタヴローギンが抜け出したいため、罰を受けたい気持ちになっていることを示します。
この告白は社会への「挑戦状」の面があると僧正も語り手も考えていますが、スタヴローギンは「どこに挑戦があります?」と言って、自分に挑戦の意図がないことを示します。
さらにチホン僧正は「あなたはすでにすべてを信じておられることになる」「神はあなたの不信を赦してくださるでしょう」とかなりキリストに近づけ、神の赦しに近づけてスタヴローギンのことを考へてゐます。
以上のことから考へて、私が思ふに「告白」の章は、悪魔的な行ひをした人間が神に赦されるかといふことをテーマとしてをり、スタヴローギンも赦されたいという希望をもった悩める悪人なのだと思ひます。
(9)
[94]
RE:『悪霊』でドストエフスキーがスタヴローギンという人物を描いた意図
名前:Seigo
投稿日時:08/02/16(土)
スタヴローギンの人間としての人格上の問題点の原因を、ドストエフスキーは、作中、彼の家庭環境に関するいくつかの設定を通して示そうとしているのではないかと思います。
・父親が不在であり、そのすぐれた容貌・知性・身体能力に対する母親の大きな期待の視線を常に気にしながら育ったこと(そこには両親からの愛情やスキンシップが欠如していたこと)
・教育係としてステパン氏から情緒教育や思想教育を受けたこと(どうやらステパン氏のお稚児(ちぎ)さんでもあったこと)
※、お稚児さんであったことが皆さんの言う性的虐待及びトラウマになったのかどうかは自分は判断しかねますが、日本の戦国時代の主君に仕えた小姓がのちに立派な武将になっているケースに比べると当人へのその影響ぶりには格段の差があると言わざるをえません。教育の内容及び主への軽蔑と忠義という態度の差によるものでしょうか。
などです。
スタヴローギンが過度に自己中心的・知性中心的・功業中心的でありまわりの世界や人たちと共感や心の触れあいを共有できないのは、その経てきたその家庭環境の問題に原因を探ることができるのではないか思います。このあたりのことは、川喜田八潮氏が『脱「虚体」論―現在に蘇るドストエフスキー』で強調して指摘していて、スタヴローギンにとって必要だったのは人との心の触れあいや生命の温もりの体験であると川喜田氏は述べています。
なお、
亀山郁夫氏も、スタヴローギンのその、
他者の生命、他者の痛みへの無関心
という面から「スタヴローギンの告白の章」におけるマトリョーシャ事件のスタヴローギンの所行を考察し、その行為を通して神の不在までも確認しようとしたスタヴローギンのその一連の行為の悪魔性・傲慢性を厳しく断罪しています。
そういう点では、スタヴローギンも、ロシアの当時の一家庭環境の「犠牲者」であり、のちにその犠牲として自分のうちに形成されてしまった人格障害(感受性障害)にもがき苦しんだ人間だったと言えるのではないでしょうか。
* * *
「ヘクトルの涙」さん、はじめまして。書き込み、どうもです。
仏教の教えはすぐれた人間論(生命論)になっていると思うので、意見があれば、仏教の立場からのスタヴローギン論(ドストエフスキー論)を、今後もドスドス展開してみてください。
論の対象や内容が広くなれば、トピ「ドストエフスキーと仏教思想」で展開してもらってもよいですね。
(創価学会の池田名誉会長の指導集の中にドストエフスキー及びドストエフスキーの作品に好意的に触れているものを自分は以前読んだことがあり、「ヘクトルの泪」さんの方でトピ「ドストエフスキーと仏教思想」でそれらをいつか紹介してもらえればと思います。)
※、「ヘクトルの涙」さんによる「ヘクトルの涙」さんの書き込みの一部削除に伴い、私Seigoのそのレスの書き込み([98]、[100]の後半)も削除しました。>皆さん
(10)
[96]
>[86]スタヴローギンの功業主義に対する吉村善夫氏の批判
名前:Seigo
投稿日時:08/02/17(日)
大森さんが書き込み[86]で述べたスタヴローギンの態度(過去の自分の数々の罪業を思い、自ら自己を罰しようとしている態度)は非常に大事な観点だと自分も思います。
なお、
参考として、
吉村善夫氏は、プロテスタントの立場から、スタヴローギンのその態度を、
功業主義(律法主義、カトリック主義)
として、批判しています。
→こちら(ページ内に掲載しているぶん)。
吉村氏のそのスタヴローギン批判がドストエフスキーの真意だったかどうかは検討を要するでしょうが、スタヴローギンのうちの「虚無性「無力感(意志の衰弱)」等も、どうやらそのあたりの姿勢から生まれているようであり、なかなかのスタヴローギン論になっているのではないかと自分は思っています。
(11)
[121]
RE:『悪霊』でドストエフスキーがスタヴローギンという人物を描いた意図
名前:大森
投稿日時:08/02/23(土)
スタヴローギンについては、気になるので、再度書きます。
「スタヴローギンの告白」について、この悪霊の筆者とされる「私」は、「綴り字上の間違いだけは訂正しておいた。これはかなりたくさんあって・・」「文章にも誤りが見受けられた」と書いています。また、スタヴローギンの遺書について「私」は、「ヨーロッパ的な教養を完璧に身につけながら、正しいロシア語をついに学ぶことなく終わったロシア貴族の子弟の手紙」と書いてゐます。読んでみると「去年なことに」など異様な文章が含まれてゐます。
正しいロシア語とは、ロシアの伝統であり、民族の魂そのものの表現でせう。「祖国とは国語だ。」とは、シオランといふ思想家の言葉ですが、国語を正しく使ふことにより、我々は、祖国の伝統、歴史、精神、大地につながる事ができる、ドストエフスキーは、さう考へたと思ひます。ところが彼は、そうしたものから切り離された無関係な存在なわけです、
スタヴローギンの幼少年期の教師であるステパン氏が、フランス語をめちゃくちゃに混合したロシア語を使つてゐたのを我々は読むことができます。まず、スタヴローギンの師匠の段階でロシアの伝統や歴史から切り離されていたわけです。(私はロシア史は良く知らないのですが、当時のロシアのインテリゲンチャーは、たいていフランス語が出来たのでせうか。戦争と平和なんかを読むと、みんなフランス語がペラペラな印象ですが、その中で、ステパン氏の仏露ちゃんぽんの言葉は、どんな印象なのでしょうか。無知をさらけ出したやうな軽薄者なのでせうか。)
私の読む印象では、おフランスにあこがれて、半分フランス人になったつもりでうのぼれて軽薄なステパン氏から、外部や他者とつながれないスタヴローギンや異常な自殺哲学ののめり込むキリーロフや必死にロシアと再びつながろうとしてゐるロシア主義者シャートフが生まれるといふ感じがします。
それから前回、スタヴローギンは、自らの罪を告白し苦しみによって再度やり直したい悪人だと書きました。さう考へると、「スタヴローギンの告白」は、ドストエフスキーの何度も扱った主題「罪人が自らの罪を告白する恐れや不安」の一つの変奏だと思ひます。だから「罪と罰」のラスコールニコフとソーニャの対話、「カラマーゾフの兄弟」のゾシマと謎の来訪者の対話、イワン・カラマーゾフが証言するかどうかの葛藤などと同一の主題と思はれます。特にイワンとは、それだけでなく、悪霊に苦しめられること、思想を教唆することなどの点で共通点がありますね。
(12)
[213]
スタヴローギンの告白以後を空想する
名前:大森
投稿日時:08/04/12(土)
もしスタヴローギンの告白が、掲載された場合の展開を考えてみました。
チホンを訪れた後、発表すべきかどうか悩みを生じたスタヴローギンは、シャートフを訪ね、読ませる。シャートフは、告白の中の罪におぞましさを感じながら、告白してやりなおしたいスタヴローギンの気持ちに共感し、発表の勇気を持つように勧める。シャートフは、告白を一部預かる。
スタヴローギンは、告白が発表前に外部に漏れるのを恐れ、マリア宅に隠す。
祭りの準備。
スタヴローギンが自宅で夢を見る。悪霊たちが現れ、スタヴローギンにおせいじや賛美の言葉を口々に言い、是非われわれの指導者になってくれと懇願する。スタヴローギンは、お前達はいないとか、俺を指導者にして破滅させるだろう、など言う。悪霊は最後にリザヴェータをあてがうからというとスタヴローギンの心が揺れる。
夢から覚めた瞬間、ピョートルの登場。ピョートルは、暴動の黒幕になってくれるか尋ねる。スタヴローギンは、混乱気味に対応し、ののしるが、ピョートルに告白発表の意思を知られてしまい。ピョートルは、マリアとシャートフがもっている事を突き止め、止めに入り、それがすでに町に運ばれている可能性も感じ、町への放火やマリアとシャートフの殺害を決意。
発表について苦悩するスタヴローギン。再度悪霊登場し、スタヴローギンがリザヴェータの件を受け入れ、発表断念。ピョートルに何とかしてほしいと依頼。
祭り、火事。
リザヴェータとスタヴローギンの性関係。リザヴェータに逃げられ、悪霊に破滅の道をそそのかされたことをスタヴローギンが感じる。
シャートフは火事を知り、ピョートルの陰謀を感じ、スタヴローギン説得と告白の印刷を決意。
発表をめぐるシャートフとスタヴローギンの会話。スタヴローギンが発表を断念したことをシャートフが知る。
絶望したスタヴローギンとキリーロフの哲学的な会話。スタヴローギンはキリーロフの哲学に救いを感じることができず、絶望し、スタヴローギンが自殺を考える。
ピョートルによるシャートフの殺害。
キリーロフとピョートルの会話。キリーロフの自殺。
スタヴローギンの自殺。遺書。
こんな感じでしょうか?
(13)
[240]
>スタヴローギンの告白以後を空想する
名前:Seigo
投稿日時:08/04/19(土)
「スタヴローギンの告白以後」を空想してみた大森さんの上の書き込みは、興味深く読みました。
チホンへ告白を見せた後の、印刷した告白の発表をめぐって大森さんが推定したスタヴローギンの葛藤やストーリーの新たな展開は、スリルやお互いの駆け引きも生じて、なかなか面白い感じですね!
大森さんの推定では、スタヴローギンは最後に、同じく、自殺する―――「スタヴローギンの告白」がそのまま掲載された『悪霊』におけるスタヴローギンのその後や彼の結末のことは、自分としては、もう少しいろいろと考えてみたいと思います。
なお、
このテーマは、トピとして立てて、そのトピで意見交換していってもよいのではと思いますが、いかかでしょうか?>大森さん、皆さん
(大森さんから同意があれば、私の方で、トピを立てて、上の投稿ぶんを、そのトピに移したいと思います。)
(14)
[246]
スタヴローギンの告白以後
名前:大森
投稿日時:08/04/20(日)
Seigoさんへ
「スタヴローギンの告白以後を空想する」でトピックスを作ってもかまいませんが、一体、誰か、こんな内容で以後、書き込みするのかなと思います。私自身、以後、とりあえず、これ以上、このテーマで書けません。誰かが書けば、それを見て感想や話題のふくらみがでると思いますが・・・。
(15)
[247]
大森さんへ>[246]
名前:Seigo
投稿日時:08/04/20(日)
大森さん、今晩わ。
上のこと、了解しました。大森さんの投稿[213]はこのトピにそのまま残しておくことにします。
じつは、この事項については、章「スタヴローギンの告白」の章が未掲載になったことに伴う『悪霊』の創作過程のこと(すでになされていた創作過程及び変更後の創作過程や刊行過程のこと)もあらためて確認・整理していけたらと思っているのですが、大森さんの投稿「スタヴローギンの告白以後を空想する」にレスをしたい人や上記のような関連することを書き込みたい人があれば、題に「>スタヴローギンの告白以後を空想する」「>[213]」でも記してこのトピに書き込んでもらうことにしましょう。
(16)
[255]
RE:『悪霊』でドストエフスキーがスタヴローギンという人物を描いた意図
名前:大森
投稿日時:2008/04/26(土)
佐藤さんの引用したスタヴローギンの二つの言葉について感想を書きます。
<私は、その気になれば、常に自分の主人であった。>
<ぼくは自分で自分を赦したい。これがぼくの最大の目的、目的のすべてなのです!>
まず、私が思うのは、人間は自分の主人になれないということです。人間は、まず、自分の誕生を自分で支配できない。そして、死も支配できない(自殺はありますが通常自殺は人生への敗北と見なされる。まして地上で死なない事は人間に選択できない)。人間は、その出発点も到達点も自力で決められない、受け身な存在なのです。ですから、スタヴローギンの「私は、その気になれば、常に自分の主人であった。」という台詞は私からすると「嘘だー。悔しかったら自分で自分を生んでみろ!永遠に死なないでいてみろ!」という類の台詞になる。キリスト者のドストエフスキーも人間の生はあくまで、神にゆだねられるべきもので、自分が完全な主人になることは不可能だと思っていたと思います。スタヴローギンは、そうした不可能を実践しようとする挑戦者、もしくは、できないことを実践できた気になっている自己を見失った歪んだ魂として描かれているのではないかと思うのです。
本当に自分の主人ならば、好き勝手に自分を赦せばいいではないですか。でも、そうできない。できないから悩み、「告白」を発表しようなど、他律的に罰に身をゆだねようなど、身もだえするのではないでしょうか。
彼の台詞、行動などは、そうした自己を見失った歪んだ魂が救いを求めて、自問自答する姿をしめしているのではないかと思います。彼は、できる限り、それを意識的に見つめる、意識的に表現する事にかなりの努力をし、それを誇りを持っていますが、それだけではすまない苦しみ、意識の背後から彼を責めるもの、彼自身にもどうにもできない彼の魂からあふれるものなどがあって、それも含めて読んでいくべきではと思います。
イエスは、「我は葡萄の木、汝らは枝なり」(ヨハネ15章)で言います。イエスによれば人間は、大いなる生命につながった管なのです。大いなる生命から生命力や愛が管を通り、この地上にもたらされる。人間は愛を通す管なのです。人間は、二本の管から成り立っています。脳ミソから全身に至り体を動かす神経の管、それから口からお尻に至る食物を通す管の二本の管から成りたっています。人間は愛を通す管とパンを通す管の二本の管から成りたっているのです。
スタヴローギンは、その管の入り口に蓋をして自分を自分の支配者になる実験をしました。スタヴローギンはその実験による管の歪みや痙攣、そして管の衰弱と死を報告しているように思われます。
(17)
[257]
三木成夫と紡木たく
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:08/04/27(日)
>大森さん
大森さんの書きこみを読んで、三木成夫の次の文章を思い出しました。
「「植物は、太陽を心臓として、天空と大地を結ぶ循環路の、ちょうど毛細管の部分に相当する」という。これは、植物のからだが自然に開放していることを意味する。葉の表面は腸管と肝臓、肺胞の内面に相当し、根毛の先端は腸管の内面に生えた絨毛に相当する。いってみれば、植物のからだは、動物のからだから腸管を一本引っこ抜いて、それをちょうど袖まくりするように裏返しに引っくり返したものにほかならない。このとき、腸管の壁に発生する血管の網は、その内側にそっくりとり込まれるであろう。ここから植物の茎を貫く維管束が、まさに動物の血管系に相当することがうかがわれる」
(三木成夫『胎児の世界』)
三木成夫は、人間の体を、内臓系と神経系の二つの系の織り成す「二重螺旋」として捉えていました。そして、三木成夫は、次のような文章も残しています。
「終わりにわたくしは、あえて寄り道をして、日本人の魂の故郷である伊勢神宮の、それも式年遷宮という一つの問題について考えてみようと思う。なぜ門外漢のわたくしが、こんな厳しい問題に首を突っ込むのか。ここまで読まれればもう十分におわかりいただけるかと思う。それは二〇年を周期としたこの回帰の営みに、これまで蜿蜒と述べてきた「いのちの波」の象徴を見ないですますことができないからだ。こうなれば、もはや専門とか素人などとはいっておれない。日本人の生命にかかわる、それはのっぴきならない問題なのだから」
(三木成夫『胎児の世界』)
「もう何年も前のことだが、食と性の作図に没頭していたころ、どういうわけか、この鎮守の森の社の式年遷宮の世界にこころがひき寄せられ、いつの間にか、二〇年の周期が「いのちの波」にぴったり重なり合うのを見つめているのであった。それは何か運命的な出来事のように思えた。わたくしの頭のなかでは、ほとんど知らぬ間に、社殿の建物が「体細胞」に、中身の神器が「性細胞」になりきっていたのである」
(同上)
「今日まで遷宮に関してどのような見解があったのか、ここでも不勉強のわたくしはほとんど知らない。ただ、常識的な解釈として、高床づくりを支える掘立柱の寿命が問題となることは教えられてきた。その地下に埋もれた木質部に耐用年数は二〇年が目いっぱいだという。それなら、せめて石でも据えて、ふつうの神社なみに長持ちさせないのかと、心中で反論したくもなるかもしれないが、わたしたちはしかし、ここで古代人の心情を思わずにはいられない。かれらはこの白木づくりに周期的な造営をこころからの生き甲斐としていたのではないか、と。
掘立柱の意味するもの。それは、いったん切り離された樹木がふたたび大地と膚ふれ合わすところにある。それも礎石を介することなく。わたしたちは、ここに動物の生命形態の、悲しいまでの象徴を見ないですますことはできない。人びとは、その二〇年という歳月のなかに、動物の個の寿命、さらには人間の世代交替の周期を重ね合わせていたのではないか。本来この遷宮は、イネの一生と歩調を合わせた「年周期」のかたちだったともいう。そうだとすれば、それは、さきに述べた大小宇宙の交響の一つの典型だ。わたしたちは「いのちの波」と共振する古代心情の発露を、ここに見ないではすまされない。それにしても、なんとゆかしい象徴ではないか。かれらは何の理屈もなく、すべてを知りつくしていたのであろう」
(同上)
「古来、日本の天皇は、政治は太政官に委ね、みずからは祭祀の主宰者としてこれまでに至ったという。今日でも宮中三殿で各種の儀式がおこなわれ、これと相似のかたちが伊勢神宮で公開されているというが、なかでも大晦日・元旦の儀式と秋の収穫感謝祭は大切な年中行事としてあげられている。この祭祀の意味するものは、いうまでもなく、それぞれの回帰の営みの節目にほどこされる一つの“けじめ”――まさに「タクト」そのものであろう。
前節でわたしたちは、どんなに隠されたリズムも、適切な打拍効果によってその波形がにわかに露わになることを述べたが、ここから式年遷宮の儀式が、地球生物の根原波動を人びとのこころによみがえらせる人類史的な拍節の行為に思われてくる。この生物リズムはもちろん宇宙リズムと共鳴する。そして、この大小宇宙の共振を演出するのが真の拍節行為であるとすれば、天皇は現代における、アソーカ王のいう「人天交接」の真の意味における指揮者ということになろう。この天皇によって象徴される国柄が、大和の国の本来の姿ではなかろうか」
(同上)
又、ヨハネ書からの「葡萄の木」の比喩の引用に、紡木たくの次の言葉も思い出しました。
「さなは知ってるか?
ぶどうの幹は
枝がいっぱいあるわりに細いだろ?」
「細い?幹?」
うん…ほんとだ」
「あれはぶどうの木が枝に自分の栄養をぜんぶあげてるからだよ」
「自己ギセイだよ」
“自己ギセイ?”
「うん
木が枝に
自分を全部あげてるんだよ
自分の命をあげてるんだよ」
ぶどうさん
ブドウサン
ぶどうの木はえらいよ
自分をささげるんだよ
ササゲルの?
あげるんだよ
じぶんの命
ぶどうの実が
いっぱい
なるように
生きるように
自分の命を
あげるんだよ
ほんものの
愛だよ
(紡木たく『マイ・ガーデナー』)
(18)
[260]
>「ぼくは自分で自分を赦したい。これがぼくの最大の目的、目的のすべてなのです!」のこと
名前:Seigo
投稿日時:08/04/27(日)
総合ボードでの佐藤さんの書き込みを受けての、上の大森さんやミエハリさんの比喩も用いた意見の書き込みは、このトピで意見交換したいことの肝心をほぼ述べてくれたのではないかと思います。ありがたい書き込みです。
なお、
佐藤さんが引用してくれたスタヴローギンが述べた言葉、
>ぼくは自分で自分を赦し
>たい。これがぼくの最大
>の目的、目的のすべてな
>のです!
は、私としては昔からその内容(言おうとしている内容、上のことはどういうわけで彼にとって大事なのか、などのこと)が今一つ理解できていない文章です。
(スタヴローギンが自分についての肝心のことを語った言葉や文章には、以前挙げた「宏量」という言葉を用いての文章をはじめ、今一つ内実がわかりにくいものがけっこうあります。)
この言葉についての皆さんの理解をついでに教えてもらえれば、うれしいです。
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RE:『悪霊』でドストエフスキーがスタヴローギンという人物を描いた意図
名前:サロンパス
投稿日時:08/04/28(月)
チーホンの指摘によると
「私はあなたを見ているうちに、お母さまの顔だちを思い出しましたので、外面的には似たところがないようでいながら、内面的、精神的には大変よく似ておられますよ。」「悪霊」岩波文庫下巻159P
という言葉は意外と重要な気がします。
ヴァルヴァーラ婦人とスタヴローギンの類似性とは?
そしてマトリョーシャもそこに含まれるのか?
スタヴローギンに言い寄られ困惑していた少女が一転、情熱的に自ら接吻するという行為に移行したのは何故なのでしょう?
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простить(to remit[a guilt])? или проститься(to bid good-bye)??
名前:KYOUKOたん
投稿日時:08/04/28(月)
>佐藤さんへ
<ぼくは自分で自分を赦したい。これがぼくの最大の目的、目的のすべてなのです!>
я хочу простить сам себе, и
вот моя главная цель, вся моя цель!
自分で自分自身を赦したい(赦免したい→放免したい→[大地から]解放したい)だけじゃなしに、自分自身に別れを云いたい(→大地との別れを自分自身に云わせたい)のかしらぁ…
スタヴローギンが実際になんて云ったのか(あまり上手じゃないってゆうロシア語でなんて云いたかったのか)、チホン神父がなんて聞いたのか(聞こえたのか)、Gがなんて書き留めたのか、ドストエフスキーの未発表原稿がどうだったのか、ゼンゼン分かりましぇんけど、ちょっと書き込んでみちゃいました。思いつきでごめんなさいネ。
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RE:『悪霊』でドストエフスキーがスタヴローギンという人物を描いた意図
名前:enigma
投稿日時:08/04/30(水)
Seigoさま、お久しぶりです。
>スタヴローギンも、ある意味で
>犠牲者であり、光ある部分を
>持つ同情できる人間
なのかなあ〜、と思っています。
黄金時代の夢を見る、完全な闇、というのがミスマッチな気がします。
ところで、みなさん、
スタブローギンはホントにマトリョーシャを陵辱してしまったんでしょうか?
してしまったことを積極的に否定する根拠もないようですが、マトリョーシャを本当に痛めつけたのは、そのことだったのか、といつも疑問に思っています。
なんか微妙にちがう気がします。
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