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現『カラ兄弟』のテーマ
(
1〜11)
(更新:24/10/26)

投稿者:
Seigo、ちちこふ、
We Are The One
no Name

確かな現実





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[288]
現『カラ兄弟』のテーマ
名前:Seigo
投稿日時:08/05/05()


『カラ兄弟』はそれまでのドストエフスキーの思想的営為を集大成した小説として様々なテーマが織り込まれていると言えるでしょうが、予定されていた続編の内容のことは脇に置いて、現『カラマーゾフの兄弟』に限った、

『カラマーゾフの兄弟』

の全体の主なテーマについて、意見交換していきましょう。



*           


全体の主なテーマに関わるものとして、当小説の末部で繰り返される唱和、

カラマーゾフ万歳!

の「カラマーゾフ」は誰のこと(あるいは何のこと)を指すのでしょう?
何に対して彼らは(作者は)万歳と言ったのか、私も以前から気になっていました。

「カラマーゾフの兄弟」の意味ならば、アリョーシャのほかに、イヴァン及びドミートリイも含めるのでしょうが、
「カラマーゾフ一家」と考えるならば、そのほかのスメルジャコフやフョードルも含めての万歳なのかどうか、
(
あるいは、カラマーゾフ的なもの(カラマーゾフ気質、カラマーゾフシチナ)の意味か?)
または、もっと広く見て、この物語で人間の欲深い面やら醜い面やら恐ろしい面やらもいろいろと一緒に考えてきたがそれら強欲・醜悪・残虐・傲岸・卑屈な人間たちも全部ひっくるめて、

人間万歳(人類万歳)
=人間賛歌(人間の豊饒(ほうじょう)な生命というものへの賛歌)

ということなのか、
(
あるいは、

ロシア万歳!
(
ロシアの過去現在未来万歳!)

なのか、)
意見がある人は、聞かせて下さい。




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[293]
RE:現『カラ兄弟』のテーマ
名前:ちちこふ
投稿日時:08/05/07()


Seigo
さん、

いろいろと親切なご配慮ありがとうございます。最近、連休のせいか、投稿少なく、少し寂しく思いますので、投稿させていただきます。ドストエフスキーの作品を読んで本当に感動しているため、最近は『カラマーゾフ』を再読するとともに、布教活動(周囲の人達にドストエフスキー作品を読ませる)を続けております。まだ「カラマーゾフ万歳!」のところまで再読が進んでませんが、あの「カラマーゾフ万歳!」という言葉は何か恥ずかしい感じがしました。どことなく場違いの様な感じというか、小説を終わらせたくないけどとりあえず終わらせておくのにそうしておこうという作者の意図が見えるというか…私には、コンテクストとどことなく合わない感じがしました。

しかし、敢えて解釈するなら、「カラーマゾフ万歳!」=「善いこと・悪いこと両方を含めて、すべての人間的なこと万歳!」=「人間万歳!」ではないでしょうか。あの小説を書き進み、気分がますます高ぶり、もっと続けたい反面、どこかで打ち切らないと…という思いがドストエフスキーにそう叫ばせたのではないでしょうか。

『カラマーゾフ』を再読していて驚くのですが、最初に読んだ時とは違う箇所が感動的に思えたり、深く思えたりするのが凄いです。例えば、目立たない脇役であるパイーシー神父のアリョーシャに対するはなむけ?の言葉「大切なのは全体です」という下り。まるで「真理とは全体である」と言うヘーゲルを読んでいる感じです。

イワンと悪魔との対話の中の「何兆キロも歩いて天国に到達する」お話、「悪魔が仕事をやめれば世界が成り立たなくなる」お話…巷で聞かれる「宗教は人間を幸福にするはずじゃないか」とか「神がいるなら世の中こんなに悲惨になるはずない」式の表面論の正反対を行っています。パイーシー神父の上の言葉と合わせ読むと、ここには単なる「弁証法」でなく「弁証法の神髄」があります!それこそ「部分でなく全体万歳!」です。たとえ「部分万歳!」と叫ぶにしろ、その部分とは「全体を暗示する部分」です。

イワンの行くところ深いものあり!ですが、あの対話の部分だけでも、ゲーテの『ファウスト』やシェイクスピアを越えている!と思われるのですが…何度読み返しても「よくもまあこんな風に書けたなあ」と思えるのがドストエフスキーなのでしょうか。



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[295]
>『カラ兄弟』のこと
名前:Seigo
投稿日時:08/05/08()


「人間万歳!」という意味を込めているという点で、「ちちこふ」さんと同意見となりました。

数々の苦難をなめてきたドストエフスキーとしては、

人間が大好きです。
(
大谷大学のキャッチフレーズ)

人生、おいしくなってきた。
(サントリーオールドのCM
のコピー)

とまではいかないにしろ、

ともかくも、
人間はすばらしい
人生はすばらしい

の境地にたどり着き、『カラ兄弟』でそれを謳(うた)いあげたということでしょう。

***


>「ちちこふ」さん
>『カラマーゾフ』を再読していて驚くのですが、最初に読んだ時とは違う箇所が感動的に思えたり、深く思えたりするのが凄いです。

同感です。
『カラ兄弟』は、そののち、読むたびに(特に今まで何気なく読んでいた箇所などに)新たな気付きや発見がある小説だと思います。作者ドストエフスキーは、細部にいろいろと意()を用い工夫をしている(さらに他の部分との連関もあり)ということでしょう。

貴重な『カラ兄弟』の読書体験をした「ちちこふ」さん、
どうぞ、『カラ兄弟』を読んでのその他の気付きがあれば、いつでも、引き続いて、述べてみて下さい。



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[296]
RE:うれし涙の弁証法
名前:ちちこふ
投稿日時:08/05/08()


Seigoさん

昨夜、第4巻(光文社)まで読み終わりました。ゆっくりと味読しようとするのですが、二度目でもついつい流れに引き込まれてしまいます。「誤審」のところの弁護士の演説は最高です。ゾシマ長老のお話に通じるものがありますし…何とも言えない盛り上がり感があります。「一袋の胡桃」のお話と、弁護士の演説を涙ながらに聞いていたミーチャが「たとえ有罪になっても(皆の許しが得られなくても)剣を頭の上で折り、そのかけらにキスする」と言うところが好きです。「何と偉大な小説なんだろう!」と思います。私など『聖書』を読んでも実感はわきませんが、『カラマーゾフ』だと実感がわきます。わき過ぎるぐらいです。

萩原朔太郎が「世界第一の書物はこれである」とか「この書物を読んで感動しないものはどんな書物をみても感動することのできない人である」等々と『ドストエフスキー体験』を熱く語っているそうです(『近代日本文学とドストエフスキー』)。確かに、ここまで言うのはオーバーなのかもしれませんが、また萩原朔太郎自身あとで少し冷めたみたいですが、こういう語り方が「すごくオーバー」ということはないだろうというのが私の個人的意見です。

すべての真に美しいものは「涙」で出来ています。「ドストエフスキーの弁証法」などという言い方が許されるなら、ドストエフスキーはいたる所で「悲しい涙とうれし涙は同じものである」ことを証明していしまっているようにも見えます。「喜び」と「悲しみ」は「相互反照」するのです!つまり、喜びに目をやるなら、その喜びから悲しみが透けて見え、悲しみに目をやるなら、その悲しみから喜びが透けてみえるのです。だから、喜びをみすえようとする時、確かに喜びを見ているつもりですが、本当は無意識に悲しみを連想してしまうかもしれない、それに対し、悲しみをみすえようとする時、確かに悲しみを見ているつもりですが、本当は無意識に喜びを想像しているのかもしれない…私はこれを「主役と脇役の相互反照」と呼びます。「騙し舟」みたいです。二枚の鏡を向かい合わせたみたいです。「目眩」がしそうです。主役(と思われる方)を見るなら、脇役(と思われる方)が「私を見てくれ」と叫び、脇役に目をやるなら主役が「こっちだよ!」と叫ぶのですから。

三文小説では「涙ってうれしい時にも出るのね」などとよく言いますが、本当のところ「うれし涙」と「悲しい涙」の2種類の涙がある訳じゃないでしょう。「うれし涙」とは、ちょっと幸せだと感じる今、辛かったこれまでの過去が思い出されて流れるのかもしれないし…「自分みたいなものがこんなに幸せでいいのか!」と心の中でつぶやくことで出て来る涙かもしれないし…いずれにせよ「真実の涙」の中には喜びと悲しみの対比が含まれてます。

つまり、真実とは「喜び」だけでも「悲しみ」だけでもなく、両モーメントを止揚する「全体」でなければなりません。以下のようなことを想像してみるのは難しくありません:

「死刑囚の最後の一服ってどんな味がするだろうか?」

これから死刑になるのだからタバコの味なんてしないとも想像出来ますが、凝縮された今までで一番の味がすることも想像出来ます。私は後者が真だと思いますが、この後者の形を少し変えるなら:

「ほとんどずっと不幸だった人間が一つの小さな幸せに出会ったら、その小さな幸せはどのぐらい大きな幸せと感じられるだろうか?」

そんな風に考えるなら、極めて(非)現代的な以下のテーゼが浮かび上がります:

「我々は幸せ過ぎて、幸せの本当の味がわからなくなっている!」

『カラマーゾフの兄弟』の悲劇を悲劇でなくす方法を、我々現代人は一人残らず知っています。フィヨードルにも、グルーシェニカにも、ミーチャにも、スメルジャコフにも、イワンにも、アリョーシャにも「携帯電話」を持たせればいいのです!スメルジャコフがフィヨードルの息子かどうかDNA鑑定すればいい!モークロエには馬車じゃなくベンツで乗り付ければいい!3,000ルーブル入っていたとされる封筒の指紋を採取・照合してみてばいい!ミーチャのハンカチやシャツについていた血液の血液型を調べてみればいい、のです!

もしそういうことが出来たなら「悲劇」は起きなかったでしょう。イリューシャの病気は進歩した医学のご利益で治っただろうし、アリョーシャだって絵文字の入ったメッセージをリーザから毎時間のように受け取っていたら、絶対に修道院などに近寄らなかったでしょう。修道院そのものが崩壊します!

「カラマーゾフ」の時代から百数十年経ち、ドストエフスキーがここで描くような「悲劇」はなくなりました。しかし「悲劇」がなくなるとともに「ドラマ」もなくなりました。「一袋の胡桃」のような「小さな幸せ」にはとっくに飽きて、ケータイで退屈をまぎらわしている…私に「これが全面的に悪いことである」と決めつける権利はありません。今の方がいいことだって、たくさんあります。しかし、我々現代人はあの時代以降、何を獲得し、何を失ったか真剣に考えてみるのはいいことだと思います。



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[300]
RE:現『カラ兄弟』のテーマ
名前:We Are The One
投稿日時:08/05/08()


私がカラ兄弟を読んで思ったことは
人間一人の力ではどうしようもない運命(宿命)の力に翻弄されてしまう人間の愚かな側面と
それでも何かを信じて生きていくことが可能な人間のコントラストがうまく描かれているなと
いうことでした。
「カラマーゾフ万歳!」に著者がどういった意味あいを込めていたのかは
本人に聞いてみるしかないでしょうが…
私の解釈は、時代や社会や国家体制が異なっていようと
宿命に翻弄され溺れもがき苦しむ人間がこの世にいる限り
カラマーゾフの兄弟は多くの人々に愛され読み継がれていくことでしょう。




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[803]
RE:現『カラ兄弟』のテーマ
名前:no Name
投稿日時:10/05/08()


ちちこふさんすごい




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[958]
RE:現『カラ兄弟』のテーマ
名前:確かな現実
投稿日時:10/12/02()


「カラ兄弟万歳」とは「今の現実、現在のそれぞれの在り方の人間個人に万歳」でしょうね。

今という時が一瞬の生で確かなものであるから。

一瞬一瞬の判断で与えられてしまっている生を生きる。

試行錯誤して大変な作業が課せられるけれども。

ありのままのそれぞれの自分に乾杯でしょう。

他者との軋轢があって当然、人間自体の矛盾も有り得ること。

「ありのままでいい人間個人に乾杯」でしょう。

瞬間瞬間でそれぞれの独自特徴を持ったそれこそ滋味で物事をこなしていくのでしょう。

その人らしさの出番ですね。

「ありのままのそれぞれの個人に乾杯」とも、言い換える事が出来ますね。



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[960]
世界で最初に、宣言します。
名前:確かな現実
投稿日時:10/12/03()


おちゃめなドストさん、ユーモアのあるドストさんだから

「カラマーゾフ万歳」は、「カラマーゾフの兄弟の小説の完成万歳」


と、コーリャに言わしたのかもしれません。

二重のかけことば。

として。ですが。




(
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[963]
〜剣を頭の上で折り、
そのかけらにキスをする〜

名前:確かな現実
投稿日時:10/12/06()


「カラ兄弟万歳」とは、話題を変えるますが、

ミーチャ(ミーチャと書けて感激です。昨日、先日、コーリャと書けた時も、感激だったのですが、本当の事を言うと)


話題を元へ。ミーチャが「たとえ有罪になっても剣を頭の上で折り、そのかけらにキスをする」



そのかけらって!?鉄の粉?折れた端っこな感じで読んでいたような(危険さの切羽詰まった表現?)?折ったのはミーチャ自分自身の命が有罪により終わって了った事を指しているのですよね!?かけらは身体、心のかけら。


⇔ミーチャの心イクオール身体にイエスキリスト、神が宿った瞬間、あるいは瞬間後の確かな気持ちでしょう。


地球全体が神に彩られた実感を得たミーチャは、イエスキリストあるいは神様に、命をとられるなら(有罪を求刑されるなら)、本望なのだと達観した境地を得る事が出来た結果であったのでしょう。
その時には<皆の許可が得られなくても>の言葉は、皆が神様にミーチャにとって為っているので、問題なしでしょう。


それとも、「今まで生きてきた生の一瞬一瞬の切りくち(口)イクオールかけらにキスをする」との、ドストエフスキーの、どんな人生も肯定という意味かもしれません。

幅広くいくとおりにも解釈出来るのが、いい作品と、どこかで読んだような!?気もします。


それとも、たとえ「真理(真実)はキリストの外にあると数学的に証明するものがあっても、自分は真理「真実」とともにあるよりは、キリストとともにあるほうを選ぶだろう。」!の(悪霊スタヴローギン)の言葉から、<ミーチャの父親殺しはやっていない>というミーチャ自身の真実イクオール剣よりもイエスキリストをとった。何故かは上記の通りの理由となるわけですね。⇔これでしょう。これですね。




(10)

[974]
RE:現『カラ兄弟』のテーマ

名前:Seigo

投稿日時:10/12/19()


確かな現実さんが下の一連の書き込みで示唆している通り、

どうであれ、人間はすばらしい(万歳)

ということのほかに、

キリストや神の存在やその栄光を感じ取り、キリストや神に包まれて
いる人間はすばらしい(万歳)

ということになるのかな。

アリョーシャとドミートリイはその感得が出来、神に反抗したイヴァンや父フョードルやスメルジャコフもそれへの契機を内に秘めていたという点で、カラマーゾフ家万歳ということになるのでしょう。




(11)

[975]
違います!すみません!

名前:確かな現実

投稿日時:10/12/20()


1、「どうであれ」という投げやり感は、ドストエフスキーには、決してないこと。人間に無限個の中のひとつでも《善》があれば、メッキがはがれれば、うまれたての赤ちゃんの《善性》つまり神さまのような心イクオール身体は《自ずと、自然と》表われてくるという事を記述しているのです。2、「すばらしい」の表現ニュアンスは、私の感じているドストエフスキー感とは、違いますヨ!「すばらしい」ではなくて、《万歳》なんです⇔《シラー》の心イクオール身体感、思想ですね。

3
、「キリスト神に包まれている人」が、ではないです。⇔《誰でも》が、《うっとり》とする《幸せ感》を持つ事が出来るということです。そのような状態は、かつて生きていたキリストのようにやさしい心イクオール身体になっている状態でしょう。《自ずと》成るための《条件》が、《身体が他者のために心身疲労困憊になるくらいに、頑張って助ける事が出来る心イクオール身体になっていること》言い方を変えれば、心イクオール身体を本来人間があるべき姿の《やる気状態》に保たれている必要性ですね。

そのためには、睡眠不足、栄養、周りとのしがらみ、いろいろありますね。

すべてクリアーしておいた時に、《頑張る心イクオール愛》が産まれます。

言い換えは、難しく、申し訳ありませんでした。

ひとことでいえば、《苦難を経験した人は誰でも神にであえる》《苦難を経験しない人は、他者のために頑張る事により、神にであえる》

でしょう