イワンの「すべては
許される」について
(1〜21)
(更新:24/11/01)
投稿者:
木精、ka、
プリン食べタイ、
オドラデク
(1)
[357]
イワンの「すべては
許される」について
名前: 木精
投稿日時:08/07/22(火)
イワン・カラマーゾフの「すべては許される」の思想が語られるパラグラフの「神」と「不死」という語を
どう読むか? ――「伝言雑記板」で、ka さんがこのテーマを薮からつつき出してしまわれましたね。仰せに従って、ka さん以外の皆様にも広くご意見をお伺いすることにいたしましょう。
このテーマを広げると ka さんご所望の「ドストエフスキーの自然観」というテーマにもなりますが、そうした大きなテーマを立てるかどうかはこの議論の進みぐあいを見てということで。
まず、問題のテキストを、亀山訳『カラマーゾフの兄弟』から掲出します。「自然の掟・法則・道徳律」「不死」「神」の3語に注意して読み返してみてください。
---- textA (新たな引用の際は B・C・D……を)
イワン君は議論の最中に堂々とこう宣言したんです。
1)つまり、全地上には自分と同類の人間を愛することを強いるようなものは何ひとつ断じてない、人間が人類を愛するような自然界の掟はまったく存在しない、
2)もしもこの地上に愛があり、これまであったとするなら、それは自然の掟から出たものではなく、ひとえに人々がみずからの不死を信じてきたからだ、と。
イワン君はそこで、括弧つきながらこう付けくわえたのです。
3)まさにこの点にこそ自然の全法則がある、
4)だから、人類から不死に対する信仰を根絶してしまえば、たんに愛ばかりか、この世の生活を続けて行くためのあらゆる生命力もたちまちのうちに涸れはててしまう、と。
それだけじゃありません。
5)そのときには、もう不道徳もなにも何ひとつなくなって、すべては許される、人喰いだって許されるというのです。
いや、それでも足りず、イワン君はこう主張して話を終えられました。
6)たとえば現にわたしたちがそうであるように、神も自分の不死も信じない個々の人間にとって、自然の道徳律などといったものは、これまでの宗教的な掟と
はまったく正反対のものにたちまち変化するはずだ。悪事を犯すぐらいのエゴイズムは、たんに人間に許されるどころか、その立場においては、不可欠でもっと も合理的な、ほとんど高尚きわまりない帰結としてすら、認められるべきだというわけです。
-------- 第1巻 180〜181p
参考: A1の「自然界の掟」・A2の「自然の掟」・A3の「自然の(全)法則」・A6の「自然の(道徳)律」は、ロシア語の原語はすべて同じ語で、木下豊房・NN両氏はすべて「自然の法則」と訳してよいとする。
■「伝言雑記板」でのやりとり
○A6の「神も自分の不死も信じない」の「神」と「不死」はそれぞれ何を指しているのか?
1 木精の解釈 「神」=キリスト教 「不死」=霊魂不滅の思想
2 ka さんのコメント 「不死」はキリスト教の考え方を指す
1: 7/18 「掌中手帳(7)」中の「ドストエフスキーの場合」の節
2: 7/22 「やがてハンス……」中の木精に対するレス
■木精の上記の解釈の背景
a:私の解釈の前提は、キリスト教も霊魂不滅の信仰の一つであるということ。したがって、イワンが「不死」という語をキリスト教に限定して用いているか、他の宗教も含めているかがポイント。
b:イワンは、A1で「全地上」の愛について語っている。また、A4では「人類から不死に対する信仰を根絶してしまえば」と、不死の信仰の主体を「人類」に置いている。
1:イワンは、キリスト教以外の宗教を含む「全地上」の「人類」のことを語った
2:イワンは、全地上・人類という語を用いてキリスト教世界のことを語った
2の見方も成り立ち得るが、私は1をとった。
c:A3の「この点にこそ自然の全法則がある」は、その文意を私ははかりかねている。
Q1 「この点」とは具体的に何を指すのか?
Q2 A1とA2は、自然の法則については、「人は愛する」という自然の法則は存在しないという一事しか語っていないのに、A3ではなぜ「全」がつくのか? この「全」は何か?
亀山訳「この点にこそ自然の全法則がある、だから、」
米川訳「この中に自然の法則が全部ふくまれているので」
原訳「これこそ自然の法則のすべてなのだから」
江川訳「この点にこそ自然の法則の全本質があり」
読みA 自然のすべての法則が、そのどれ一つをとってみても、人が愛し合うことは自然の法則ではないことをそれぞれに証明している
これは可能性の高い読み方ではあるが、私の見るところ、江川訳でしかそのようには読めそうもない。他の3氏の訳は、次に述べる読みBの可能性を開いていないか?
読みB A3以下が「括弧つき」で付けくわえられた点をも加味して、読みをやや緩やかなものにすると、「全法則」という語は、A1とA2の総体を指している可能性はないか?
A1:「自然の法則」によっては人は愛し合わない
A2:「不死」を信じることで人は愛し合ってきた
A2は「自然の法則」には含まれず、人間の自由意志によるものではあっても、そうした「自由意志による不死の信仰に基づく愛」もまた、メタ「自然の法則」であるということを含意してはいないか? =それは自然の法則ではないのだという裏返された自然の法則。
d:A6の「神も自分の不死も信じない」のように「神」と「不死」を並列する語法は、キリスト教では普通に行われているのか?
「神も、その子たる不死の自分も信じない」という文は、文法的には何ら不自然な点はないし、意味的に不都合なところもないが、それならば、A1〜A5にはなぜ「神」が登場して「不死」を根拠づけようとしないのか? つまり、A2は、なぜ次のような文にならなかったのか?
2’)もしもこの地上に愛があり、これまであったとするなら、それは自然の掟から出たものではなく、ひとえに神が人々にそれを命じたからだ、と。
e:これらの諸点を勘案しつつ、bの「全地上」と「人類」を1の解釈で読む場合には、次のような読みが新たに生じてくる(かしら?)
1)「不死」が指さすものは、いまだ「自然の法則」の裏返しでしかない、いわゆる「自然宗教」のことである。
2)A6で初めて出てくる「神」は、「自然の法則」の裏返しではもはやない「創唱宗教」である。ただし、ここでは仏教やイスラム教といった創唱宗教は除外し、キリスト教に限定してよいだろう。
3)キリスト教が「創唱宗教」であったとしても、その前史は「自然宗教(としてのユダヤ教)」であり、キリスト教は、「神」と「不死(=霊魂不滅の信仰)」の双方にまたがる信仰である。
----
ka さん、私がくだんの文章で「イワンは「不死」と「神(信仰)」を区別しているようです。」と書きつけたとき、「ようです」の4文字にこめた解釈上の迷いとは、おおよそ上記のとおりです。
ついでに、textA 中、亀山訳にはもう1点疑問があります。
A6の「自然の道徳律などといったもの」の「など」は、どういうニュアンスの「など」なのでしょう? 他の邦訳には、ここに「など」がついているものはありません。普通に考えたら、「など」はない方がいいように思うのですが、亀山氏の真意が私にはわかりません。
さらにもう1点、これはイワンの論理について。
A4で言われたように、人間から不死を取り除いてしまったら「生命力も涸れはててしまう」のだとすると、そのときにはもはや、A6で言われる「悪事を犯すくらいのエゴイズム」も人間には残されていないのではないでしょうか?
(2)
[358]
RE:イワンの「すべては
名前:プリン食べタイ
投稿日時:08/07/23(水)
はじめましてこんばんわ。
そもそも『信じる』ってどういうことでしょうか?
人間は意識して何かを信じたり信じなかったり出来るのでしょうか?
存在していること─それ自体何かを信じている
ことだとすれば
人間に選択可能なのは
『信じる』対象方向への舵取りくらいでしょうか?
もし不死がなければ社会の法に触れない限りどんな悪事を働いてもよく
善行というものも他人からどう見られたいかという見せかけのものになるでしょう
キリスト教の教えと不死とはちょっと繋がらないような気がします。
専門家や信徒じゃないのでわかりませんが……
死後の復活でしょう?
不死とはニュアンスが違うように感じます。
(3)
[359]
魂の不死/肉体の復活
名前:ka
投稿日時:08/07/24(木)
>木精さん
スレッド立てありがとうございます。すごく内容が濃い「ようです」ですね(笑)
これは私がドストエフスキー文学でひそかに一番関心のあるテーマでもありますが、それだけに今回はさしあたり、地ならし的な意味でキリスト教がらみの基本
的なことを確認だけしたいと思います。(私はキリスト教の専門家でも教徒でもありませんが、もし私の記述に問題があれば、詳しい人が補足・修正してくれる ことを期待しつつ。)
a.+b.+e.
当時の西洋においては基本的に、よほど断りないかぎり「宗教」といえばキリスト教のことを指すと受け取るのが無難だと思います。(……その点、西洋人の自民族中心主義を甘く見てはいけません。)
それに、たとえキリスト教以外の宗教のことが視野に入った場合でも、例えば:啓蒙の18世紀以来、儒教は現世的=唯物論的な道徳宗教として位置づけられますし、19世紀にヨーロッパに紹介された仏教は、もっぱら無神論的な「虚無」の教えとして把握されていました。そうした状況下では、キリスト教を信仰すればこそ「不死」を信じられる…というムードがあったはずなのです。
プリン食ベタイさんの疑問点にも関係しますので、キリスト教の「不死」思想↓について簡単にまとめを。
キリスト教の文脈で人間の「不死」が言われる場合、それは基本的に《魂》が不滅であることを指します。
ただキリスト教の教義では、それに加えて、死後に滅んだ《肉体》がいずれまた「復活」することも定められています。つまり、キリスト教の「不死」思想は、二段構えで構成されていると言えるでしょう:
1.肉体は滅びても、魂は不滅である
2.ひとたび滅びた肉体は、最後の審判の日に復活する〔※〕
キリスト教圏での土葬の習慣は、最後の日にスムーズに復活できるようにパーツ散逸をなるべく防ぐための措置であるわけですね。
――なお、こうした「不死」の説明体系は、キリスト教の創唱者として位置づけられるイエスの教え自体とは、あまり関係がありません。イエスの死後、キリスト教の発展とともに、中世くらいまでのあいだに徐々に整備されていったものです。
その内実は、いわゆる「自然宗教」の死生観とは相当かけ離れたものではないか?と思いますが、いずれにせよ「自然宗教」とは何であるか、私はよく知りません。そのあたりはまた木精さんに追加説明を期待したいところです。
※くどいようですが、亀山氏はこのポイントを把握していないために、肉体の復活を謳う「ぼくたちの宗教」というものを――キリスト教とは別に――想定するはめに陥っているのです。
(4)
[360]
「神と不死という観念〜
名前:ka
投稿日時:08/07/24(木)
「神と不死という観念の可能性は、自由が現実的なものであることによって証明される」(カント『実践理性批判』序文より)
c.
上では翻訳の妥当性とかも話題になっているようですから、一応原語を抜き出しておきます:
A1:「自然の法則」(закона природы)
A2:「自然法則」(закона естественного)
A3:「自然法則のすべて」(весь закон естественный)
A6:「自然の道徳法則」(нравственный закона природы)
確認。ここで言われている「法則」(掟)にあたる語は、"закон"[ザコーン] です。
「自然」については、"природа"[プリローダ] という言葉と、"естество"[エスチェストヴォー] という言葉(の形容詞バージョン)の二つが使われています。
※ちょうどクローバーさんの立てた「アリョーシャ」スレッドでも、この二つの語が話題になっていますね。上で扱われてるイワンの思想で、当該の二つの言葉に区別がなされているかどうかまでは分かりませんが。
A3:「この点に自然法則のすべてがある」の読み方についてですが、まずここの「法則」が単数形であることは押さえておく必要があると思います。ですか
ら、「色々ある複数の法則がどれも全て」という意味ではなく、あくまで一つの法則について、「その法則が、すっかり全部」という方向で理解すべき箇所か と。
ここは、「この点」を何と取るかで、たしかに理解に多少の振れ幅が生じるはずの箇所です。私は「この点=A1」と受け取って、
「人と人の愛にまつわる自然法則があるとすれば、それは:『そんな法則はない』という法則だけだ」
ということが当該箇所では言われているのかと思ったのですが、しかし木精さんのようにA2を重視すれば、「不死を信じる→愛が生じる、というのも広い意味では自然法則だ」とも取れる。
ネット上でつらつら見たかぎりでは、ガーネット訳(英訳)がその取り方をして、「不死を信じることに自然法則のすべてがある」と訳しています。
d.
「神」と「不死」を並べて用いることは、もちろんキリスト教においては一般的だと思います。ただ、ドストエフスキー作品の直接の参照項になっているのは、もうちょっと限定されて、カント以降のドイツ哲学における用語法でしょう。
表題に引用した箇所、もう少し前後を出します↓
「自由以外の観念(神と不死の観念)は、単なる観念であるから理性の中にあっては支えなきものであるが、それから自由の概念に接続し、そしてこの概念とともに、この概念によって存続を保ち、客観的現実性を帯びる。すなわち、神と不死という観念の可能性は、自由が現実的なものであることによって証明される。なぜなら、自由という観念は道徳法則によって顕現するからである。」
* * *
「神が人々にそれを命じたから」の代わりに「人々がみずからの不死を信じてきたから」と言われている理由を考えるうえで、一つの前提があると思います。
啓蒙時代以降のヨーロッパでは、「神が存在する」ことの確証が存在しない!という事態が、大きな問題としてあります。(カント哲学にせよ、その事態に対する一つの回答の試みに他なりません。)
ドストエフスキーという人は、その問題をかなり深刻に受け止め、「神が命じた」ということを規定事実としては扱えない…ことを常に前提にしつつ書いていた作家だと思います。
彼が扱うのは、事実としての「神」「不死」自体ではなく、あくまで人間の側の心の問題としての「神」「不死」です。つまり、それを《信じる》ことで、または《信じない》ことで生じてくる心理状態の働きです。
――《信じる》ことは、もちろん98%くらいは不可抗力でしょう。そして残りの2%ほどの中に、「信じるべき」かどうか?という倫理的な問題や、あえて「信じることにする」という決断の問題などが含まれると思います。
ドストエフスキーの文学は、その2%分を拡大して我々の目の前に突きつける文学だ、と言えそうです。
(5)
[361]
野生の不死
名前:木精
投稿日時:08/07/24(木)
プリン食べタイさん、こんにちは。
「キリスト教と不死とはつながらない、ニュアンスが違う」という感覚は私も持っていますよ〜。いいえ、感覚ばかりか、理論的にも明らかな違いがあると思
います。不死の観念はもともと「自然宗教」のもの、キリスト教の死後の復活は、それに新たな装いを凝らした「創唱宗教」のものですよね。
その場合、私は「創唱宗教」という言葉にこんな意味合いを込めています――宗教原理が「自然の法則」から独立していて、そこでは自然も一つの登場人物と
して振る舞うにすぎないような「世界」の法則への信仰。そのために創唱宗教は、特定の土地(=自然)に縛られることがなく、多様な民族にひとしく受容され 得るグローバル性を持つことになります。
ただ、私から言わせれば、死後の復活といったって、その形式は不死の信仰における霊魂不滅の観念の1バリエーションにすぎないじゃん、キリスト教もその根っこでは自然宗教をひきずってるじゃん、ということですね。(信者の方からは怒られてしまうかもしれませんが……)
それとともに、東方教会、とりわけロシアの信仰を考える際は、創唱宗教としてのキリスト教の側面(ロシア正教)と、自然宗教としてのキリスト教(なんて
ものは本来なら無いにせよ、土着の民間信仰と習合した諸派)の側面とを大まかに分けて、後者についても目配りが要りますよね。何しろ、イワンとアリョー シャのお母さんはいわゆる聖痴愚(ユロージヴイ)の霊媒の女性なんですから。
さて、「存在していること―それ自体何かを信じている」というプリンさんの言葉には一瞬ドキッとさせられ、そして好感を持ちました。自然宗教における「不死」の観念は、まさにそうやって生きられるんだろうなと思います。
私のイメージする不死は、生の中に永遠(または無限)なものを見出すという特権的な体験にその根拠を持っています。天上的なまでに美しい女性と出会って
恋に落ちた私が、手ひどくふられてしまった後も、もはや以前の自分には戻れない――永遠と出会う体験にひとたび遭遇すると、自分が根本から変質してしま い、何とまあ、自分が不死になっていることに気づかされるんですね。
永遠と出会った人間の自己はもはや、死んでも死なない、自然の自己は滅びようとも永遠の自己は滅びない。ただ、その永遠はあくまで自然の内部に見出され
たものであるため、その限りにおいては自然に依存する永遠であって、自然から自立したキリスト教の永遠とは性質を異にします。つまり、その特権的体験が生 じた場所や時間から遊離することのできない野生の不死。それが「自然宗教」における永遠の持つ限界と言えるのかもしれませんね。
(6)
[364]
RE:イワンの「すべては
許される」について
名前:プリン食べタイ
投稿日時:08/07/31(木)
Kaさん
丁寧な解説ありがとうございます。なるほど正統派多数派のキリスト教の教義では霊魂の不滅と肉の復活という二重構造をなしているのですね。
そのような教義が確立する過程で異端として斥けられたグノーシス主義では不死や肉の復活がどのように扱われていたのかよろしければ教えてください。
木精さん
A1:「自然の法則」によっては人は愛し合わない
A2:「不死」を信じることで人は愛し合ってきた
A2は「自然の法則」には含まれず、人間の自由意志によるものではあっても、そうした「自由意志による不死の信仰に基づく愛」もまた、メタ「自然の法則」であるということを含意してはいないか? =それは自然の法則ではないのだという裏返された自然の法則。
上記の「自然の法則ではないのだという裏返された自然の法則」には共感を覚えました。
別の表現に置き換えれば
「外なる自然の法則と人間の内なる自然の法則」
とでも言えるでしょうか。
僕の発想では
「この世界に愛はある=人間は何かを信じている=人間の内なる自然の法則には不死が隠されている」
というものですがどうでしょうか。
木精さんの問題提起を読むことで
今まで意識しなかったことを考えるようになりました。
ありがとうございます。
(7)
[365]
キリスト教の特殊性
名前:ka
投稿日時:08/08/02(土)
突然ですが、わたしは死ぬのが恐いです。
死ねば、わたしは いなくなります。そのことを、わたしたちは身近な他者たちの死から経験的に知っていますが、しかし誰も「自分自身がいない」という事態を体験することはできませんから、死は誰にとっても永遠に謎のままでありつづけます。だからこそ死は恐ろしい。
――古今東西どこでも、宗教という営みは、そのような意味での死の謎に対して何らかの説明を試みようとしてきました。逆に言えば、その説明の体系が、宗教です。つまり、
人は死んだあと、いなくなるのではなく、かたちを変えて永遠に存在しつづける
ということ(=不死)の理由を教えてくれようとするのが、宗教なのです。
ですから例えば、二つの宗教がお互いに抗争している事態とは、二つの「不死」に関する説明がせめぎ合っていること…をも意味します。
>プリン食べたいさん
がお尋ねの、キリスト教とグノーシス思想についても、やはり同じことが言えます。
まず最も重要なことは、この二つはお互いに非常によく似た「魂の不死」についての考え方を共有していた、という点です。それは、キリスト教もグノーシス思想も、ほぼ同じくらいの時期に、両方ともプラトンの思想を下敷きにして教義を発展させたことに由来します。
つまり、この世は偽りの世界、かりそめの影のような世界であって、この世の外に→→本当の世界、永遠の世界が存在するはずで、魂は死後にそこに帰るのだ…という考え方。
グノーシス思想とは、このタイプのプラトン主義的な考え方を比較的すなおに受け取り、ストレートに発展させたものだと言えると思います。そこでは、神と断絶したこの世から解放され、永遠の存在である神のもとに魂が回収される、ということが究極的救済を意味しています。
……それに対してキリスト教は、プラトン主義としてはやや変り種です。上に書いたように、「肉体の復活」という要素が入ってくるからです。
言い換えれば、キリスト教はグノーシス思想ほど徹底してはいない。いわば中庸の思想なのです。
※素人考えですが、だからこそキリスト教は、思想としての完結性が高い(がゆえに当時の知識人にうけた)グノーシス思想とは違って/大衆的な人気を獲得しやすかったのかもしれません。
そして言うまでもないですが、キリスト教の「肉体の復活」の教えの中心にあるのは、キリストという存在です。
一度は死んだのに「肉体の復活」を果たした実例――イエス・キリストを心のよりどころとして、自分の肉体もまた死後に復活する!と信じること。それがキリスト教の信仰の根本であるわけです。
(8)
[367]
不死からエピファニーへ
名前:ka
投稿日時:08/08/02(土
補足です。
私が上に記した、文字どおりの意味での「不死」――死後に(あの世で)永遠に存在すること――の信仰に対して、木精さんの考える「不死」は、ある種の「特権的な体験」を手がかりに、あくまで
この世の「生」の中に永遠を見る
ということを意味しています。これは「エピファニー」の思想と呼ばれる考え方で、とりわけ20世紀(〜以降)において宗教というものが話題にのぼる際、決定的に重要な役割を果たすようになった発想ですね。
西洋社会においては、少なくとも19世紀までは、良かれ悪しかれキリスト教的な世界観が支配的でした。その支配が決定的に揺らいだのが、19世紀末から20世紀にかけての時期です。
当時の知識人たち(←特にドイツ語圏では、しばしばニーチェの強い影響下にあった人々)は、制度化されたキリスト教の世界観にこぞって反対を表明し、宗教を宗教たらしめている本質(=宗教性)はまた別のところにあるのではないか?と考えます。そこで注目を集めたのが、「エピファニー」という体験だったのです。
もはや文字通りの意味では「不死」――自分が死後に「あの世」で存在しつづけ、いずれ「肉体の復活」をも遂げる、という手続き――を信じることができなくなった現代人にとって、「エピファニー」は宗教の代替物として必要不可欠なものとなったと言えるでしょう。
この19世紀から20世紀への転換は、西洋人が考える非西洋の宗教についての評価も、いわば180°転換させます。
それまではキリスト教以外の別の宗教、たとえば東洋の宗教(儒教・仏教など)が「不死」と関わりのないものとして低く評価されていたのに対し、→→この時
期以降には、キリスト教以外の別の宗教、たとえば東洋の宗教(道教・仏教など)や世界各地の「未開人」たちの「自然宗教」といったものが、「真の宗教性」 のありかとして新たに発見されていきました。
※特にこの時期以降、グノーシス思想に注目が集まったのも、やはり同じメカニズムによります。
今日われわれが宗教を考える際には、上のような宗教観の転換後の視点がつねに前提となっている。
それは逆に言えば:それ以前の人々が宗教というものをどのように捉えていたか、われわれにとっては多少見づらくなっている、ということです。
(9)
[368]
不死・自然・愛
名前:木精
投稿日時:08/08/03(日)
プリンさん、「人間の内なる自然の法則には不死が隠されている」というあなたの文は、「内なる」や「隠
されている」という語で、自然と人間の関係がかなり神秘化されている印象を受けますね。自然の法則と不死との関係という1点だけをとらえるなら、私自身は イワンの方に一票を投じています。
イワンの「自然」という語は、あくまでも近代自然科学的な自然であるととっています。人間にとって価値中立的な、善悪ないし快・不快の双方を持つものと
して見られた自然ですね。そして、その否定的な側面だけを強調するなら、地下室人が「22が4、それは石の壁なのだ」というときの、因果的(ないし論理 的)必然性が前面に出た、人間の自由意志が意味をなさない決定論的な自然観になります。
他方、アリョーシャが接吻した「大地」は、イワンのいう「自然」と等価ではありません。それは、新石器時代以来の神話思考によって脱自然化=人間化され
た自然です。大地に内在する霊の力を呼び集めて穀物を実らせる、農地(=降霊術の実践の地)という人為的な加工物をインストールした半・自然です。そこに は、「22が4」の必然性とは異なる位相で、人間の自由意志と自然との対話と闘争があります。
プリンさんの上の文は、イワンの「自然」ではなく、アリョーシャの「大地」に定位するものと私の目には映ります。ただ、イワンは自然と大地を明確に区別
していないため、textA は読み取りにくいものになっていますね。私自身は、不死が自然の内にも宿るとすれば、それは自然ではなく大地の位相においてであると整理しています。人間
の自由意志の本質こそが不死なのだからです。
ところが、キリスト教の不死の観念は、もはや大地に依存しておらず、大地から超越する位相において初めて固有の意味を持ってくるように思います。イエ
ス・キリストの復活は、自然の死を超越した永生の啓示であって、大地が生者に課すところの、死すべきものという制約からの解放の形象だからです。その場 合、不死は、自然の法則とはいかなる神秘的な関係も持たず、そこからの独立性が主張されていると言えます。
ですから、私の問題提起は、上のような認識に立った上で、イワンのいう不死が、大地に依存するもの(キリスト教に限定されない)なのか、大地から独立したもの(キリスト教)なのかという点です。
そして、キリスト教に限定されない前者の読みに私が傾いたのは、愛がそこに登場することも理由の一つです。親子兄弟の愛から自然性を排除することはでき
ませんし、また、部族ないし氏族集団が一定程度発達したときに生じるのだろう「血」の観念こそ、過去と未来の時間の双方を無限化して野生の不死の観念が生 まれてくる母胎ですから、これまた大きく自然に依存しています。
イワンがアリョーシャとの対話の中で幼児虐待を告発するときには、野生の不死に基づく親子愛が不全化した状況の中で、そうした不死に対する懐疑と不信が
表明されたものと私は読んでいました。とはいえ、ka さんからの指摘もあって、今読み直しを迫られているところですが……。
ただ、私の感覚からしますと、虐待された子供(=結局はイワン自身)を突きつけて彼が告発するキリスト教の神は、その神性がかなり低いというか、大地の
土臭さを多分に残しているんですね。キルケゴールの『おそれとおののき』のアブラハムの神なら、イワンのことを、おまえはまだハナったれ小僧だ、ケシ粒ほ どの神意も理解できていないと、相手にもしてもらえませんでしょう。イワンの神は、はなはだ人間的なのです。
----
イワン ……人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなけりゃだめだ、相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ
アリョーシャ 長老もやはり、人間の顔はまだ愛の経験の少ない多くの人々にとって、しばしば愛の妨げになる、と言っておられたものです
---- プロとコントラ 新潮文庫上巻455p
不死が愛の根拠であるなら、この対話は、イワンが不死からも愛からも遠く隔たった孤独にあることを語っていると思います。その孤独は悪魔的な分身との果
てのない対話で満たされていて、他者とのいかなる恒常的な関係もとり得ないような孤独です。それは当時のロシア知識人たちの共通公分母だったのでしょう。
ですから、彼にとって「すべては許される」という思想は、そうした孤独からの突破口だったはずです。その思想によって彼は孤独から脱出し、全ロシア民衆
との恒常的な関係を打ち立てようとします。それは結果として父殺しを招き寄せ、イワン自身をも破滅させますが、その破滅を通して、読者はイワンにおける不 死の実在を確かめることにもなります。
ただ、イワンの造形でいまいち納得がいかないのは、訳注に、彼の譫妄症はアルコール中毒によるとある点です。私のイメージでは、イワンとアルコール中毒
とはどうもうまく結びつかないんですね。イワンは、たとえ酒は飲んでも、父親のような飲み方はしない気がするのです。なぜって、したたかに酒に酔うことも また自己の不死を生きることだからです。
プリンさんは、あの文の書き方からすると、イワンよりもアリョーシャやゾシマの兄の方に関心がおありなのかなとも思いましたが、とりあえず話の続きとして、イワンに対する私の思いの一端をお示ししてみました。
(10)
[370]
「すべては許される」の許すのは〜
名前:プリン食べタイ
投稿日時:08/08/04(月)
「すべては許される」の許すのは誰で許されるのは誰なんだ?イワン君。
Kaさん
またまた詳しい説明ありがとうございます。
キリスト教に限らず宗教が拡大発展する過程でシンクレティズムが発生するのは当然といえば当然のことですよね。
宗教の本質は社会現象であり、
一応死後の問題にもそれなりに解答を示そうと努力してきたのでしょう。
しかし
>
人は死んだあと、いなくなるのではなく、かたちを変えて永遠に存在しつづける
ということ(=不死)の理由を教えてくれようとするのが、宗教なのです。
ですから例えば、二つの宗教がお互いに抗争している事態とは、二つの「不死」に関する説明がせめぎ合っていること…をも意味します。
上記の説明はちょっと苦しい感じがしますね。
換言すれば既成の宗教は私たちになんら納得できる不死の理由を提示できていないことを意味するのですから。
木精さん
お察しの通り僕の関心はイワンよりもアリョーシャなのです。笑
アリョーシャの大地にキスのエピソードをそんな風に解釈するだなんて驚愕です。
ゾシマの腐臭がアリョーシャの何を揺るがしたのか?
不死の信仰が揺らいだのではないか…
葬儀のあり方が死生観に多大な影響を与えるのではないか…とも。
今日は頭が回転しないのでまた後日。
(11)
[371]
RE:イワンの「すべては
許される」について
名前:プリン食べタイ
投稿日時:08/08/06(水)
木精さん
僕はイワンの言う不死がどういったものかわかりません。
というより不死ということが何なのかもはっきり言ってわかりません。
ただイワンは神を信じ過ぎたんじゃないでしょうかね?
自然の外に配置された神を信じ過ぎたが故に現実の愛に心を開くことが出来なかったのかも…
不死への信仰の根拠が揺らぎ
大地にキスをし立ち直るアリョーシャとは対照的ですね
自然と生命は互いに切っても切れない
自然の大地・生命の大地に接吻することによって
厳しい自然現象にも揺るがず
生命現象としての死にも揺るがない
強い愛の実践者へと変貌するアリョーシャ
もはや彼には神がいるのか・いないのか
死後の復活があるのか・ないのか
問題ではなかったでしょう
自然の大地・生命の大地に立脚した不死への信仰こそ
未来の信仰のあるべき姿なのかも…なーんちゃって 笑
(12)
[372]
おまけ
名前:プリン食べタイ
投稿日時:08/08/07(木)
アリョーシャの大地は至高体験の象徴だと僕は捉えています。
面白いのは至高体験の位置づけですね。
至高体験が目的なのではなくより強い愛の実践への前段階とそれを位置づけている点です。
至高体験が目的になると暴走するととんでもないことになり得るんですね。
結局、自分を愛するように他人を愛すること
その根拠は人により様々でしょうけど
真理は愛でしかないでしょう!!
(13)
[373]
すべては許される (続)
名前:木精
投稿日時:08/08/09(土)
■ textA-3 「まさにこの点にこそ自然の全法則がある」
まず、訳語の「全」についてですが、ka さんの示唆に従って、原卓也訳が一番自然なのかなと思い始めてきました。――「これこそ自然の法則のすべてなのだから」です。
そして、この作品に使われている「全」「すべて」という語は、さほど深い意味が込められていない、いわば語調を強めるためだけに用いられる例も散見されるようです。textB を読んでみてください。
---- textB 第5編「プロとコントラ」(亀山訳)
アリョーシャ「……あるのは無神論だけです。それが、あの人たちの秘密のすべてなんです。兄さんの審問官は神を信じていません。それが秘密のすべてなんです!」
イワン「それでもいいじゃないか! やっとおまえも感づいたようだな。たしかにそのとおりなのさ。たしかに、秘密はすべてそこにしかない。でもな、たとえば彼のように荒野での苦行で一生を台なしにし、人類への愛を癒しきれなかった人間にとって、それがはたして苦しみじゃないっていうのか」
---- 第2巻 293p
A-3 の「全」ないし「すべて」は、上記引用中の「すべて」とほぼ同じ、語勢を強めるための用法ととってよさそうだとの判断に傾きつつあります。
次に、「この点」が何を指すのかですが、1:ka さんは
A1 人が愛し合うことは自然の法則ではない
だけを指していると読み、2:私は、それに加えて
A2 不死への信仰によって人は愛し合ってきた
をも含めて読むという二様の読みが出ました。
2の私の読みは、「すべて」という語に実質的な意味があるとの前提のものです。上で示したように、「すべて」に重きを置かずに読む場合は、「この点」に A2 を読み込むだけの理由が失われてしまいます。ここで無理して A2 を読み込む必要はなく、ka さんのように、「この点」は A1 を指し、「すべて」という語によってそれが反復強調されたと読めばよいのかなとの判断に傾いています。
■ textA-2 「この地上に愛が…あったとするなら、…人々がみずからの不死を信じてきたからだ」
A3 に関連して、A2 の「不死」という語の読みについて、上記の textB を手がかりに、ここで新説を示します。注目するのは、以下の文です
(亀山訳)
彼のように荒野での苦行で一生を台なしにし、人類への愛を癒しきれなかった人間
(米川訳)岩波文庫 第2巻104p
彼は荒野の中の苦行のために一生を棒に振ってしまいながら、それでも人間に対する愛という病を癒すことが出来なかった人
(原訳)新潮文庫 上巻503p
彼のように荒野での苦行に一生を台なしにしながら、なお人類への愛を断ち切れなかった男
彼とは、大審問官のことです。大審問官は、アリョーシャとイワンの双方が言うように信仰を持たない無神論者でありながら、それでもなお「人類への愛を癒しきれなかった人間」です。なぜ大審問官は人類への愛を断ち切れなかったのか?
彼は、神を信じないまでも、おのれの不死を信じて「荒野での苦行で一生を台なしにし」てきた男だからです。
大審問官の章に入ると難問山積ですから、こことは別に新トピックを立て、気合を入れて読み直す必要があるでしょう。でも、それは当面パスして、ここではこれ以上立ち入りません。
イワンが「すべては許される」のパラグラフで用いている「不死」という語は、無神論者でありながら、己の不死に向けて一生かけて苦行した大審問官を指すのにふさわしい――というのが木精の新説です。
いずれにせよ、この新説は、初めに私が示した読み――「不死」とは、キリスト教に限られない自然宗教一般の最高理念である――の1バリエーションであって、それを補強するものです。
■ カントとドストエフスキー
---- 1854年2月22日付、兄ミハイル宛書簡
コーランとカントの『純粋理性批判』を送ってください。これはもしいつか非公式に送れるようになったら、ヘーゲル、とくにヘーゲルの哲学史をぜひお願いします。ぼくの未来は、すべてこれにつながれているのです!
----
神と不死とを並列する語法はキリスト教では普通に行われているのか? との問いかけに対し、ka さんから、カント『実践理性批判』の実例を示していただきました。あれはもしかすると ka さんの訳なのでしょうか、まずはここに再掲させていただきます。
---- カント『実践理性批判』序言(第3段落)
自由以外の観念(神と不死の観念)は、単なる観念であるから理性の中にあっては支えなきものであるが、それから自由の概念に接続し、そしてこの概念ととも
に、この概念によって存続を保ち、客観的現実性を帯びる。すなわち、神と不死という観念の可能性は、自由が現実的なものであることによって証明される。 (下略)
----
言われているのは、神と不死が「単なる観念」であって、それらは自由が「現実的なものである」ことによって初めて実在性を帯びるということです。
これは、啓示宗教としてのキリスト教の言説ではなく、カント哲学に固有の「理性宗教」の言説です。ただ、私の疑問は、前者の信仰の現実において、それを
語る言説が神と不死を並列することがあるのか? ということでした。高度な神学の著作には出てくるのかもしれませんが、信仰の言説としてはめったにあるま いと私は思っていたわけです。
ともあれ、私も『実践理性批判』を読んでみました。なるほどキリスト教は語られていますが、イエス・キリストは全く登場せず、実践理性が最高善を目指す
際の必要性として、自由(意志)の不死性と神の存在が「要請」(!)されています。しかも、「要請」されているのは ka さんが示唆された神と不死ばかりではなく、超感性界の実在としての自由それ自身もです。そのため、第1部第2編第2章7などでは「自由、不死、神」と3語
並列になっています。また、その手前の6も、語順の意味がよくわからない記述になっています。
----第1部第2編第2章6「純粋実践理性一般の諸要請について」
これらの要請はすべて道徳性の原則から発出するが、この原則は要請ではなく、理性がそれを通じて意志を直接規定する法則である。またこの意志は、まさに
このように規定されることにより、純粋意志として、自らの指令を順守するためにこれらの必然的な諸条件〔要請〕を必要とする。……
これらの要請は、不死、積極的に見られた(英知界に属している限りでの存在者の原因性としての)自由、および神の現存の要請である。
---- 宇都宮芳明訳 以文社 2007年 328p
私が「神、不死」と言うとき、その語順は絶対ですが、カントは話線に沿ってやや緩やかな語順です。
ドストエフスキーが『純粋理性批判』を読んだのかどうか私はつまびらかにしませんが、いずれにせよ、ka さんご指摘のとおり、ドストエフスキーとカントとはイワンを通して一本の線がつながっていると言えそうですね。イワンの「自然の法則」という語は、まさにカントか
ら引かれたと評するのがふさわしいほどに酷似しています。
また、私は、イワンばかりでなく、この第2批判を読みながら『地下室の手記』の第1部をずっと思い出していました。地下室人の「自由意思」は、あれはあれでカントに対する1つの応答なのでは、との思いにとらわれました。
木下氏の邦訳に『ドストエフスキーとカント』があるようですが、池袋のジュンク堂にも在庫がなく、図書館をめったに利用しない私は、古書店を探すしかないようです。
カントからの影響については、これまでどう見られてきているのか、ka さんを初め諸兄諸姉の情報をお待ちしています。
■ textA-6 「自然の道徳律」
最後に、新たな問題提起です(これまた難しい)。
textA-1 「自然界の掟」
同 A-2 「自然の掟」
同 A-3 「自然の全法則」
ここまで3カ所では「自然の法則」が語られてきたのに、最後の A-6 に至って「自然の道徳律」なるものが初出します。これは何でしょうか?
「自然の法則」とは異なる、「自然」に内在する「道徳律」の意味だろうと思われます。あるいは、もう少し茫洋ととって、創唱宗教の「道徳律」よりもはる
かに低位の、名もなき民の暮らしに内在する掟ととってもいいのかもしれません。はっきりしているのは、そこには既に「愛」の原理は存在しないことです。で は、何がその掟を支えているのか?
大審問官の章でのアリョーシャとの対話では、
「どんな力です?」
「カラマーゾフのさ……カラマーゾフの下劣な力だよ」(第2巻297p)
とあり、この《下劣な力》が「自然の道徳律」と密接にかかわっているように読めます。しかし、その力は、この小説中で、何か「律」と呼び得るようなものと結びついたのでしょうか?
もしかするとこの語も西洋思想からの借用なのかもしれませんが、その点も含めて、広くご意見をお待ちしています。
(14)
[376]
納得のいく説明
名前:ka
投稿日時:08/08/10(日)
>プリン食べタイさん
私個人としては、まさに:「既成の宗教は私たちになんら納得できる不死の理由を提示できていない」という意見を持っていますよ。
われわれ現代人の感覚からして、既成宗教が提示してきた「不死」の説明は、もはや到底納得のいくものではないのです。(逆に言えば、今からでも納得のいく説明を提示してくれる宗教が出てきたら、私は即刻それに入信します。)
一つ注意する必要があるのは、宗教が「社会現象」であるということの意味です。
われわれ現代人は、ともすれば宗教を内面的な問題、自分の《心》の問題として捉えがちですが、しかし実際には、人類の長い歴史の中で、宗教というものを個々人が自分自身の《心》を判断材料に自由に選ぶことのできるような状況は本来ありませんでした。
前近代の社会に生きる人々にとって、ある一つの宗教は、それを信じる以外に選択肢はそもそも与えられていないし、別の選択肢を探すための判断材料もない…という社会的性格のものだったのです。
――模式的に言うならば: 宗教とは、それを信じなきゃ「信じます」と言うまで殴られる(→最後まで言うのを拒めば、殴り殺される)ものとして社会に君臨してきたわけで、いわゆる
「信教の自由」なんてものは、宗教がもはや宗教として機能しなくなった時代(=近代)の産物です。
前近代の宗教について考える際は、前近代と/近代とでは宗教のもつ意味が、そのようにがらっと転換してしまったことも考慮すべきだと私は思っています。
>木精さん
「神と不死」は、お察しのとおり、たしかにキリスト教の「神学の著作」には出てきます。私の考えでは、それとキリスト教の「信仰の現実」は密接にリンクし
ていたはずです。死の恐怖は古今東西、常に人間の生活とともにあるものですし、したがって文字どおりの意味における「不死」の説明にも常に需要があったは ずなので。
(……もっとも、「信仰の現実」は「神学の著作」とは違って文字資料として残りにくいですから、証拠を出せ!と言われたらちょっと困るかも)
「自然の道徳法則」については、それはカントの立場を指すと考えて問題ないと思いますが。
20世紀以降に「自然宗教」といえば、すなわち「未開人」の原始的な宗教…といった意味になるでしょうが、しかしドストエフスキーの時代までは、「自然宗
教」といえばカントに典型的に見られるような「理性宗教」のことを指していました。←「自然によって人間に与えられた普遍的な理性」に即した信仰、という ことですね。
ジェイムズ・スキャンランという研究者が書いた『思想家ドストエフスキー』(2002)をアマゾンで立ち読みさせてもらった(p.21-23)ところによると、ドストエフスキーが実際にどの程度カント哲学に直接触れていたかには諸説あるそうです。
ゴロソフケルは、もっぱら『純粋理性批判』との関連を扱っていて、この本をドストエフスキーが精読していた…という前提のもとに話を進め、『カラマーゾフ』をカントとの思想的対決の所産として読んでいるらしい。
あと、5巻本のドストエフスキー伝を書いたジョーゼフ・フランクは、ドストエフスキーが18世紀の文豪カラムジン経由でカント哲学を摂取したと推測している。
いずれにせよ結局、ドストエフスキーは明らかにカント哲学(的な思考の枠組み)を前提として書いているものの、直接的影響関係を示す決定的な文献学的証拠は何も確認できない、といったところのようです。
(15)
[377]
神と不死、そして「愛」
名前:ka
投稿日時:08/08/10(日)
さて、私はイワンの「不死」という言葉を、ことさら比喩的にではなく/あくまで文字どおりの意味に受け取っています。つまり、来世の生の約束にまつわるキリスト教の教えを指し示すものとして。
これに関連して注意を喚起したいのは、第1部の2章4節「信心ぶかくない貴婦人」でスポットがあたるホフラコーワ夫人(=リーザの母)が語る、どうしようもない死の恐怖についての言葉です。
※別立てにした「ホフラコーワ夫人」スレッドをご覧ください。
この夫人が抱く死の恐怖に対して、ゾシマ長老は次のような処方箋を与えます。面白いことに、そこにはイワンが語る「愛」「不死」と明らかに関係ありそうな内容が述べられるのです↓
----------
「もちろん、ひどい話ですね。ですが、それについては決して証明はできないにせよ、確信をもつことはできます」
「どうやって? どうすれば?」
「行動的に愛すればいいのです。行動的に、倦まずたゆまず、あなたの近しい人たちを愛するよう努力してください。うまく愛せるようになるにつれて、神の存在も、魂の不死も、確信できるようになるはずです」
----------
↑この箇所がドストエフスキー自身の1854年の手紙――自分の信仰心の揺らぎについて述べたもの――とリンクしていることを、上で触れたスキャンランが指摘しています(p.18)。
一見して分かるように、ここでの「愛→不死」という発展が、イワンの場合は「愛←不死」という具合に、論理関係が逆になっています。それはなぜなのか。ドストエフスキー自身、そんなに厳密には考えてなかったのかもしれませんし、何か深い意味があるのかもしれません。
いずせにせよ、ドストエフスキーにとって「愛」と「不死」密接な関係にあったことだけは間違いないでしょう。
……次に問題になるのは、「愛」の具体的内実です。これは正直、かなり難しい問題である気がしますので、また日を改めて考えてみたいと思います。
(16)
[378]
近代的な死
名前:木精
稿日時:08/08/11(月)
きょうから1週間、ようやくのこと夏休みがいただけました。
最近は、自分が死ぬまでに残された時間のことを考えると、次にどの本を読むかというのが悩ましい問題で、濫読ではなく、厳選した読書への要求が強まって
います。フーコー講義録はこれからまだ続々と翻訳されますし、レヴィナスなど特権的な何人かの本を読むための枠をとってしまうと、残りは本当にわずかしか ありません。
ただ、それもけちくさい話ではあるんですね。きょうは、その貧乏くささの由来についても若干触れてみます。
■ textA-6 「自然の道徳律」(続)
ka さん、「自然の道徳律」はカント哲学を指す語でしたか。『実践理性批判』は、自然・道徳・法則の3語のオンパレードでしたので、内心その可能性大だなと見
てはいましたが、何せ初めてカントを読んだものですから、判断材料を持ち合わせていませんでした。おかげで胸がすっきりしました。ありがとうございます。
さて、そうしますと、これまでの私の読みは誤読です。
「《1:自然の道徳律》などといったものは、《2:これまでの宗教的な掟》とはまったく正反対のものにたちまち変化するはずだ。」
この文は、ka さんのご教示に従えば、「1の名称で呼ばれていた思想は、2=カントの抹香臭い道徳哲学とはまったく正反対のものにたちまち変化するはずだ」と読まれるこ
とになります。つまり、《自然の道徳律》と呼ばれてきた思想は、神と不死が信じられていたカントの時代には《宗教的な掟》に等しいものだったが、神と不死 を信じない時代においては正反対に《エゴイズム》を最大限に肯定する思想――「すべては許される」に変化するはずだ。
これですっきりとつじつまが合います。「カラマーゾフの下劣な力」とのつながりぐあいも一層よくなります。もっとも、この力をもとにして《自然の道徳律》を再編成する仕事はイワンの前に白紙状態のままで残されていますが……。
その反面、このテーマは、遠く作品末尾の「カラマーゾフ万歳!」という不気味な叫びと響き合ってくるようでもあります。イワンの思想の作品全体への波及力の広さ、深さを見直さねばならないと思い始めているところです。
■ ホフラコーワ夫人と死
プリンさんに返答なさった ka さんの宗教起源論(?)や、今回のホフラコーワ(←亀山訳の表記に従います)夫人の話は、大きなテーマで本トピックからは優にあふれ出てしまい、またそれ
に長文書きの木精がコメントしたりすると、こちらまで「伝言雑記板」になりかねません。そうならないようセーブしつつ、簡潔に私見を述べてみます。
ホフラコーワ夫人が語る死は、近代になって初めて発見された死であり、現代の私たちにまでまっすぐつながる死です。もっと言えば、近代ブルジョワジーが
新たにつくり出した《想像》の死であり、この死を解体再編成することもまた今日の思想に課せられた最重要テーマです。その死を死ぬのはもうよしましょう!
ブルジョアジーが登場する以前にも死に対する恐れは当然ありましたし、その恐れを克服する役目も宗教は担っていましたが、恐れの質が、ブルジョアの登場
とともにすっかり変化します。その登場以前と以後とで同じものさしが使えるわけではありませんが、ブルジョアたちの恐怖は、ヒステリーに近いほど、質、量 ともにその強度を増します。(逆に言えば、前近代の人間が近代の死を先駆的に死ぬことは極めてまれだったはずです。)
それもこれも、死が(むろん、生も)近代以前の神話思考体系の外へほうり出され、おまけに、ブルジョアが《生》を《富(または資本)》の一つとして見る
生命観に立ったことの必然的結果です。ブルジョアにとって、資本の消失ほどに最高度の自己否定はありませんものね。かれらは、死んでも資本だけは救済され ねばならなかった!
日本の武士は、なぜあんな簡単に腹を切ったりしたのかわかりませんが、本物の武士のハラキリはいまだに前近代の神話思考体系の中に属していますから、現
代人の三島由紀夫のハラキリよりも「痛く」なかったはずです。三島はホフラコーワ夫人の死に対する恐怖をよ〜く知っていますから、あのハラキリは本当に 「痛い」。三島はその痛みを至高の法悦に感じて死んでいったのでしょうが、後で部屋を掃除する人の迷惑も考えてほしかったですね。
死もまた楽しからずや――そのようなあり得べき《未来の死》の探究を、神話思考に回帰することなく行うこと。そのためには、まず、ホフラコーワ夫人の生
に対する資本主義的な私有の態度から逃れ出ることが必須です。一体どうすればいいのか、2冊の本を前にしてどちらを先に読むかで大いに悩んでしまう木精 は、夫人と全く同じ精神圏に属していて、まだその手がかりすらつかめていませんが……。
(17)
[382]
RE:イワンの「すべては
許される」について
名前:プリン食べタイ
投稿日時:08/08/12(火)
Kaさんへ
鬱陶しいとは思いますがもう少しだけお付き合いお願いします 笑
僕は近代の条件は理解できても近代そのものは理解できていません
ですから近代と前近代を区別する物差しを器用に使い分けれないのです。
近代とは何かという完璧な定義があればそれを用いることもできるとは思いますが…
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[389]
愛について
名前:ka
投稿日時:08/08/19(火)
>木精さん
「死」のテーマについては「ホフラコーワ夫人」スレッドに続きを書かせてもらっています。
>プリン食べタイさん
「鬱陶しい」とは滅相もありません。こちらこそ、教科書的な能書きをだらだら垂れ流してさぞ鬱陶しいだろうと恐縮しております。私自身は、放っておいたらいくらでもそういう能書きを書き続けてしまえますので、嫌になったらいつでも歯止めをかけてください。
お尋ねの件については、とりあえず
「近代とは何かという完璧な定義」
は、決して見つからないだろうと思います。
今から数百年前あたりから、西洋社会で産業や経済が急激に発達し、それにともなってライフスタイルが急激に変化し、新しい価値観・思考様式が次々に生まれてきた。
――それが《近代》と呼ばれる事態ですが、何が「近代そのもの」なのか?は誰にも分かりません。これまで多くの人がそれを定義しようとして苦しんできたのですが、満足のいく回答は出ていないのです。
結局、今の我々にできることは、「近代そのもの」だの「近代の原理」だのはひとまず措いておいて、《近代》にまつわる個々の「近代の条件」の内実を確認することだけだ。少なくとも私はそう思っています。
別の言い方をすれば: 近代と/前近代を区別する「物差し」があるとすれば、それは具体的なレベルで無数に存在するだけであって、面倒がらずに+不器用にそれを一つずつ知っていくしか《近代》にアプローチする方法はない、のだと思います。
* * *
一つ注意すべきこと。そうやって近代に新しく生まれてきた新しい価値観たちは、なぜか自分が近代の産物であることを隠そうとして、ずっと前から存在してましたが何か?という顔をして居座るようになります。
例えば「人間」という考え方。我々はみな同じ人間であって、人間らしい心を大切にしながら生きている。例えば「自由」という考え方。人間は全て同じ=平等
であり、みな生まれながらに心のままに自由に生きる権利を持っている。例えば「民族」という考え方。この国に暮らす我々は実はルーツを同じくする一つの民 族のメンバーであり、だからこそお互いの権利を尊重すべきなので、民族=国家は外から侵されてはならない聖域である。例えば「家族」という考え方。家族の
メンバーは親密な情愛の絆で結ばれているもので、家族は外から侵されてはならない聖域である。例えば「子ども」という考え方。子どもは家族が守ってあげな ければならない純粋無垢な存在で、幼年時代はかけがえのない宝物である、etc.etc...
ちょうど急速に近代化しつつあったロシアで活躍した作家ドストエフスキーは、これらの近代的価値観に正面から取り組まざるを得ませんでした。
それだけに、彼の作品には、近代の諸問題がとくに凝縮された形で表現されているのです。
「愛」の問題も、やはりその問題の一つです。
われわれ現代人が「愛する」といえば、それは特別な人を・特別な理由で・特別に愛することであって、それ以外ではありえません。
……しかし、それは近代的な人間観に強く規定された「愛」の姿であって、たとえば伝統的なキリスト教が推奨するのとは相反するものです。キリスト教は
「愛」の宗教として知られていますが、そこで説かれる「愛」の内実は、今日的な価値観におけるそれとは、かなり異なっている。キリスト教的な観点からする と、神ならぬ人間を特別に愛することは、罪悪です。
キリスト教的には、人間が人間を愛することが認められるのは、条件つきのケースです。
あなたの「隣人」を――つまり、たまたまそのへんにいた人を無差別に愛することなら、奨励されるわけです。でもって、また別の人がたまたま目の前に出てきたら、その人のことも同じように愛すべし。
ゾシマ長老の語る「愛」は、それではどちらでしょうか?
どちらでもあって、どちらでもない、という気がします。ゾシマはある面では徹底して近代人であって、彼の言う「あなたに近しい人」は、もはや伝統的キリスト教的な「隣人」ではなく、人と人のつながりの特別さを排除しない あたたかみ を帯びているように感じられます。
それでも、彼の「愛」はどこかキリスト教的な価値観と連続性を保持しており、少なくともドストエフスキーがそれをキリスト教的なものとして提示しようとしていることは間違いありません。
これは、そもそもドストエフスキーが「キリスト教」というものの内実がラディカルに書き換えられようとしていた時期に仕事をした人である、ということと切り離しては論じられない事柄なのでしょうが、その問題を包括的に扱う余裕はここではありません。
(19)
[393]
死の不在
名前:木精
投稿日時:08/08/21(木)
死への恐怖を宗教の起源に置くという発想を私は持っていません。それは近代に固有のものでしょう。テーマが大きくて、正面から議論できるほどの知見は持ち合わせていませんが、死への恐怖では小さ過ぎるというのが第一感です。
具体例は挙げませんが、日本の前近代をとっても、現代人が抱く死への恐怖の不在を前提にしないと説明できそうもない事象が少なからずあります。前近代における死への恐怖は、近代のそれとは異質であり、それも相当に大きな差異を置く必要があります。
『脱病院化社会』(1975年 晶文社 1979年)のイヴァン・イリイチによれば、西洋における死の観念の変遷はおおよそ次のようになります。
●中世
墓地が、異教の裸の乱舞(埋葬した死者の上で生者が踊ることによって死者がよみがえるとする再生儀礼)で蹂躙され続け、キリスト教的な死の観念は民衆次元までおり切っていない。死は、本人の外部の力の干渉の結果にすぎない。
「未開人は、自分自身の死を死ぬのではなく、自らの骨の中に有限さをもちはこんでいるのでもなく、彼らは獣たちの主観的な不死にさらに近いのである。彼らの間では、死は常に超自然の説明を必要とする」(155p)
●「死(者)の舞踏(ダンス・マカーブル)」期(14世紀末以降)
ペストによる大量死などにより、社会階級を超えた「平等な死」の観念が発生。死は瞑想的、内省的な経験に変化。メメント・モリ(死を思え)。死は超自然的な現象ではなく、人生の本質部分となる。
●16世紀以降
死は自然現象として個人の生に内在するとの見方が確立し、「自然死」の概念が成立。
「宗教改革以後、ヨーロッパの死は、気味悪い(マカブル)ものになり、その状態がつづいた」(143p)
「死は古代ギリシャから、……中世期を通じ18世紀の最初の10年代の間まで、辺縁の問題であった。それ以後突然「死のしるし」が異常な重要性を獲得したのである。外見上の死は、啓蒙思想によっておそれられた主要な害悪となった」(299p)
――現代人の死に対する恐怖は、宗教改革・啓蒙思想以降に出現する。
●ブルジョア期
医療技術の介入によって、最も遅延された自然死(=老衰死。時宜を得た死)が求められる(老年期まで働き得る生)。
「ブルジョア家族の興隆とともに、死における平等は終り、余裕のある者は死を遠ざけるために金をはらいはじめた。……年をとることは、資本主義化された生
を生きるひとつの方法となった。……老人の社会的価値に関する新しい神話が展開された。……「自然の」死を死ぬ能力はある一つの階級(=ブルジョア)のた めに予約されたのであるが、その階級とは、患者として死ぬ余裕のある人々である。……死は色あおざめ、比喩的な形をとるにいたり、殺人者である病気が、そ
の地位にとって代ってしまった。」(147〜152p)
●20世紀
病気の結果としての医学的、臨床的な死(それに附随する義務化された延命治療)――もはやそれは「自然の総合力」としての死の力を喪失している――が、非ブルジョア階級にまで浸透する。
イリイチによれば、ブルジョアにとっての理想的な死とは、老年に至り、仕事場の机に向かったままの死だったそうです。医師の手で最長にまで引き延ばされた自然死=老衰死の瞬間を、仕事をしている最中に迎えること。
なぜそんなに働きたがるのか? イリイチは書いていませんが、《資本》の自己増殖過程や《土地》による富の永久生産過程に1秒でも長く身をひたしていた
かったからだというのが私の理解です。それらこそ、《不死》の現実態だからです。近代初頭の自然死の概念の成立は、伝統的な霊魂不死の思想に少なからぬ打 撃を与えたはずですが、その際、ブルジョアたちは、霊魂の不死にかえて資本の永久運動(=人類の無限の進歩)を信じたはずです。
ホフラコーワ夫人の死への不安に私が共感や同情を感じないのは、彼女の語り口にはブルジョア的な余暇における観念の遊戯という側面が露見しており、私の目には、資本の不死に対する不安以上のものとは映らないためです。
私たちは、自然死の概念や、延命思想というブルジョアの死生観を継承しながら、かんじんな資本だけは所有しておらず、イリイチが20世紀の特色とした、 臨床医学的に管理された《病気》の結果としての死のステージで生きています。もはや地上にはいかなる不死も実在しないのに、ブルジョア的な延命思想を受け
入れ、近代的な自然死の概念からも逃れられずにいるわけです。
ですから、私がまっ先に思い浮かべるのは、リルケの『マルテの手記』で克明に記された20世紀初頭のパリの貧民たちの死です。貧民でも病院には行きますが、そこには、近代的な自然死概念とブルジョア的延命思想によって一層その悲惨を増した、不死なき死があります。
逆に言えば、もはや《病気》だけがあって《死》が隠蔽されてしまった(イリイチは、死は「比喩的な形をとる」と言っています)状態だとも言えます。(むろん、20世紀には、その《病気》のポジションに《ジェノサイド》が代入され得ます。)――死の不在。
---- マルグリット・デュラス『ガンジスの女』 1973年
<旅人> あなたがたは殺されてしまう。
<女> 私たちは死ぬことができないの。
<狂人>(反復する) ……できない……。
<旅人>(返答はしばらくかかる) そうですね。
---- 書肆山田 2007年 135p
「私たちは死ぬことができない」――これが、私の生活実感にぴったり当てはまるものです。死の不在。ここでは、《私》が死ぬのではなくて無名の《だれか》が死ぬのであり、その死に伴って、否応もなく《私》は消滅するのにすぎません。
私のかんがえでは、死への恐怖は正当な感情ですが、上に見てきた近代的な死への恐怖は、歴史的に形成された《想像の死》に対する恐怖にすぎず、積極的に解体再編成されるべきドグマにすぎません。
今日では、死は病気によって覆い隠され、死よりも上位に病気が位置づけられていますが、この関係は見直されるべきです。「死がもはやないなら、すべては許される」――そこで許されるのは、私たちにとって未知の死を回復しようとする自由です。
(20)
[471]
RE:イワンの「すべては
許される」について
名前:オドラデク
投稿日時:09/01/08(木)
白いキリスト(大審問官)宣言をしたイワンは「神がなければすべては許される」と言います。
この言動には”世界を統括する神という像が暗黙の前提になっているし、また、その様な統括するかすがい・力をイワンは神と呼んでいる訳です”。
また、幼子の涙の例で提示される不義なる世界像も、主に、支配する支配されるという力関係”だけから”考察されています。
イワンが理想とする社会が現存します。(有神論であれ、無神論であれ)
政治における独裁制ではありません。
象徴としての文化天皇制でもありません。
それは、キリスト・大審問官にならぶ人格者が統治する現人神社会を理想としているので、唯物カルト主体教のオボイ(精神の父)信仰社会・南のとういち教の根本先祖真の父母様信仰社会ですね。
(21)
[474]
オドラデクさん
名前:木精
投稿日時:09/01/10(土)
あいにくながら、このトピック、 ka さんが近々のうちに手を加えることを予告されています。また、本トピックの議論の流れに照らして、レスに相当する内容とも思われません。新トピックを立てられてはいかがでしょうか。
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