『罪と罰』と『白痴』
(1〜7)
投稿者:
Seigo、愁い顔の騎士、
竜之介
(1)
[327]
『罪と罰』と『白痴』
名前: Seigo
投稿日時:08/05/22(木)
『罪と罰』(1866年に連載)の2年後に発表された『白痴』(1868年に連載)は、『罪と罰』を読んだ後、初めて読んだ際に、似た面はもちろんありながら、小説世界において、『罪と罰』とはどこか違った雰囲気があるような感じを持ちました。
作家としては次作は別の違った内容やテーマにするというのは自然のことでしょうけども、『罪と罰』『白痴』の両方をすでに読んだ人からの、読んで感じられた、この二作の基調の部分の、
・小説世界の雰囲気の相違、作風・構成・手法などの相違、及び、それらが相違することになった諸事情
(二年の間の作者側のことの変化や時代背景の変化など)
・共通面
の指摘を歓迎します。
* * *
まず、私の方から、以下に、いくつか、気付きを挙げてみます。
共通面としては、
・三人称で書かれた三人称小説である。
・冒頭は、登場人物についてのくだくだしい説明などでなくて、登場人物が登場する場面の描写からいきなり始まる。
・舞台の中心はペテルブルグである。
・罪を得て苦しんでいる主人公を、善意・信仰を持つもう一人の主人公が思いやり救済しようとする物語である。
相違面としては、
・『白痴』は妻アンナ同伴の欧州滞在中に書かれた。
(二作とも作者が経済的に苦境にある時期に創作されたという点では同じでしょうが、『白痴』は、ドストエフスキーの新たな婦生活や欧州滞在体験が微妙に影響を与えている?)
・『白痴』は全体が妻アンナの口述筆記の協力のもとで完成した。
(『罪と罰』は後半の一部が妻アンナの口述筆記の協力のもとで書かれた。この創作を仕上げていくまでの執筆の形態の相違が本文の文章や文体等に微妙に影響を与えている?
また、訳者の違いによる邦訳の文体の相違の影響もある?)
・『白痴』は富裕な地主貴族一家であるエパンチン将軍家の上流貴族の家庭が小説の一つの舞台になっていて、舞台は上流社会の華やかさを含んでいる。
(『罪と罰』は、その点では、ペテルブルグの貧しい下層階級及び中流階級の人たちのことを中心に描いている。)
・『白痴』は四角関係の恋愛小説・家庭小説の面が大きい。
(『罪と罰』も恋愛小説・家庭小説ではあるが犯罪小説・探偵推理小説・社会小説の面が大きい。『罪と罰』は社会小説として当時のペテルブルグの社会(特にそのふきだまり)やその生活ぶりを詳しく細かく描写している。)
・季節面では、『罪と罰』は酷暑の夏が中心、『白痴』は雪景色の寒い冬が中心。
(『白痴』は、冬景色のほかに、邦訳タイトル「白痴」の「白」の影響も含め、全体に「白」のイメージがある?)
・『白痴』には、キリストの屍体を描いた絵のこと、死刑の場面の語り、余命いくばくもない少年イポリートのこをはじめ、死をめぐってのエピソードが多い。『白痴』は全体に明るい印象はありながらも、ロゴージンという物の印象も含め、どこか暗くて陰湿で重苦しいイメージ・印
象もある。
・『白痴』の主人公ムイシュキン公爵は自我・我欲の弱い主人公として行動する。
(『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは自我・我執の強い主人公として行動する。これらの点において、「ムイシュキン公爵はシベリアから帰ってきたラスコーリニコフである。」という小林秀雄(文芸評論家)の指摘は、興味深い。)
・『白痴』は、ナスターシヤ・フィリッポヴナという女性が主人公の一人として強烈に前面に出てきている。
(『罪と罰』もソーニャが一種の主人公であろうが、彼女は謙抑で控えめな存在である。)
・主人公たちにおいて、『白痴』は、苦しむ女を男が思いやり救おとする。『罪と罰』は、苦しむ男を女が思いやりを救おうとする。
(その善意の働きかけの結果として、『白痴』は悲劇的(破滅的)結末となり、『罪と罰』は更生を展望させる前向きな結末と
なっている。)
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RE:『罪と罰』と『白痴』
名前:Seigo
投稿日時:10/05/17(日)
追記更新:10/05/23(日)
『罪と罰』に比べて、『白痴』は、(特に第二編以降において)大事な場面を省いていることが多い。
この点は、他の人からも、『白痴』の不満なこととして、これまで、しばしば、聞いたことです。
作者ドストエフスキーも、『白痴』完成後に『白痴』を振り返り、省略や暗示だけに終わらせた箇所が多過ぎたかな(推測とほのめかしを多様し過ぎた)と述べているほどで、
肝心な、
作中の途中の、
・ムイシュキン公爵とナスターシャの密会の場面
・ロゴージンとナスターシャの密会の場面
などが省かれているのは、たしかに、読者には、大いに物足りないことに違いありません。
(『罪と罰』では、
中心人物同士の、
・ラスコーリニコフとソーニャ
・スヴィドリガイロフとドゥーニャ
の密会の場面はリアルタイムにちゃんと書かれています。)
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E:『罪と罰』と『白痴』
名前:愁い顔の騎士
投稿日時:10/05/26(水)
>>>>>>>>>>>Seigoさん
どうも、ご無沙汰してます。こんばんは。
僕も、何週間か前に『白痴』を読み終えたのですが、ナスターシャを囲っていたトーツキーとナスターシャとの関係がいまいちよく理解できませんでした。
婉曲表現が多いのと、僕の読解力のなさによるものだとは思いますが…。
Seigoさんはトーツキーとナスターシャの性的関係は、どの時期に・どんな経緯で行われたと思いますか。またその行為がナスターシャの人格形成にどのような影響を与えたとお思いでしょうか。よろしければご意見をお聞かせください。
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RE:『罪と罰』と『白痴』
名前:Seigo
投稿日時:10/05/29(土)
>騎士さん
私からのレスが遅れました。( 音楽トピへの投稿も、どうもでした。)
前回触れた『白痴』の傾向として、騎士さんが言うように、作中ではナスターシャの過去のことは明確には書いていませんが、
騎士さんがあらためて問いかける、
・トーツキーとナスターシャの性的関係
については、
おおざっぱながら作中で言っている事実
(12歳でトーツキーに引き取られて養育を受け、16歳の時に村里に住いを与えられて、彼が決まった時期に通ってくる囲い者となり20歳まで彼の囲い者として過ごした。)
の通りの理解でいいのではないでしょうかね。
・その行為がナスターシャの人格形成にどのような影響を与えたか
については、
好き者の犠牲となって純潔を汚(けが)された者として、また、世間からも囲い者として見られてしまう者として、プライドの高い彼女は、そのことに屈辱感を
持ち、世間というものを恨み、責め、世間に復讐や見返しをしていく女性、養育された閉鎖的な生活環境の中で自分の心の純潔のことを思ってくれるやさしい相 手を夢想していく女性になっていったと言えるのでしょう。
あらためて注目してみたいのは、
このたび読み返して騎士さんもいまいちよく理解できなかったという、
・ナスターシャを囲っていたトーツキーとナスターシャとの関係
のことです。
作中で表現されているトーツキーの人品(じんぴん)からしても、ナスターシャにとっては、彼女は好き者としての彼の犠牲になったものの、トーツキーは、養
育の世話をし父親代わりにいつもやさしくしてくれるおじさんとして、心の内で感謝や好意を持ち続けた相手だったのでは? トーツキーが結婚するという噂を聞いてのナスターシャの反応と行動(結婚に反対し、一方、自分を嫁さんにしてくれることも考えていた)からしても、そう
いった間柄だったのではないでしょうかね。
なお、
以上のことの関連として
過去に持った他者との性的関係(そもそも『罪と罰』でソーニャが娼婦として設定されたわけや事情というのはいまだ今一つわかりにくいです)の影響という面で、『罪と罰』のソーニャと『白痴』のナスターシャを比較して見ていくことも必要かもしれません。
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RE:『罪と罰』と『白痴』
名前:愁い顔の騎士
投稿日時:10/06/03(木)
Seigoさん、質問に誠実に答えて下さって誠に有難うございます。
Seigoさんが挙げて下さった点を参考にして、またあらためてトーツキーとナスターシャの関係について、じっくり考えてみたいと思います。
ドストエフスキーは、『罪と罰』では、純潔を汚されでも、決して、心の純真さを失わないソーニャに、ラスコーリニコフを改心へと導く役目を与えていますね。
ところが、『白痴』では、純潔を汚されたナスターシャは、ソーニャのように、純真な面だけを持っている人物ではないのですね。至高なものと卑俗なものとの
間で非常に揺れ動く。そしていったい誰がどのように、その憐れなナスターシャを救い出せるのか、これが小説の重要なテーマの一つになっていると僕はそう 思っています。
ところで、ドストエフスキーは、『罪と罰』で一線を踏み越えたラスコーリニコフを救う人物の造形に成功しているのに、どうして『白痴』では、ナスターシャを救う人物の造形に失敗したのでしょうか?
ドストエフスキーにとっては、ナスターシャのように、純潔を汚され、尚且つ、自尊心の強い女性を救う人物は、ムイシュキン公爵のように性的な能力が不能でなければ
ならないと考えていたのでしょうか…。しかし、結局、ムイシュキン公爵ではナスターシャを救うことはできなかった。つまり、人生の深い意義を自覚し、尚且 つ、性を生の中に正しく位置づけ、肯定出来るような人物ではないところに、ムイシュキン公爵の弱さがあったように思えてなりません。
これはドストエフスキーのどの小説にも共通する問題だと思います。ドストエフスキーの性に対する極端な考え方、それが僕にはどうも共感できないのです。ドストエフスキーの小説の唯一の欠点だといってもいいくらいです。
『罪と罰』でソーニャが娼婦として設定されているのも、ラスコーリニコフというどうしようもない犯罪者を救えるのは、性によって汚されても、聖なる気持ちを失わない人物だけだとする、ドストエフスキーの考え方によるのでしょう。しかし僕は正直疑問を感じます。
果たして、ソーニャのような人物が現実に存在するでしょうか?
聖なるものと性を対極に置く発想に既に矛盾や問題があるのではないだろうか?
上記の点に関して、ご意見があれば、またぼちぼち意見をお聞かせください。
(6)
[18]
RE:『罪と罰』と『白痴』
名前:竜之介
投稿日時:10/06/08(火)
類似点
・両作品どちらも、我が子を思う母親の気持ちが多く見られる。
(「罪と罰」ではプリヘーリヤ、「白痴」ではリザヴェータ婦人)
・主人公の信仰面について、本人からの供述が少ない。
相違点
・「罪と罰」において、苦悩を抱く主人公ラスコーリニコフには家族や、友人、良心的な人々といった「助け手」が多く与えられているが、白痴」においてムイシュキンには近親者や親友といった親密な友がいないまま始まり、その調子が終始一貫されている。
・両作品のヒロインとなるナスターシャ、ソーニャは、どちらも汚辱を身に纏った女性だが、人格・信仰・結末の面で、非常に多くの違いがある。
・「罪と罰」は専らラスコーリニコフとソーニャの恋愛小説とも取れるが、「白痴」はムイシュキン、ナスターシャ、ラゴージン、アグラーヤという四者による闘争となる。
・「白痴」は専ら上流社会との交流であり、貧困に喘ぐ市民がクローズアップされていない。一方「罪と罰」では、主人公の犯罪を始め、様々な悲劇は貧困を発端とする。
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RE:『罪と罰』と『白痴』
名前:Seigo
投稿日時:10/10/31(日)
>[818] RE:『罪と罰』と『白痴』
> 名前:竜之介 投稿日時:2010/06/08(火)
17:04 [ 返信 ]
>
>相違点
>・「罪と罰」において、苦悩を抱く主人公ラスコーリニコフには家族や、
> 友人、良心的な人々といった「助け手」が多く与えられているが、
> 「白痴」においてムイシュキンには近親者や親友といった
> 親密な友がいないまま始まり、その調子が終始一貫されている
レスがのちになりましたが、竜之介さんの上の指摘は鋭いと思いました。
そのような設定にした事情としては、
・ムイシュキン公爵には新約聖書のイエス伝におけるイエスの孤高の様や姿が重ねられていること
・『白痴』ではムイシュキン公爵は救われる側の登場人物になっていないこと
などが考えられますかね。
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