ドストエフスキーとトルストイ
(1〜11)
投稿者:
Seigo、ぼんやり読者、
ミエハリ・バカーチン
(1)
[134]
ドストエフスキーとトルストイ
名前:Seigo
投稿日時:08/02/23(土)
ドストエフスキーとトルストイ
という題で、両者の比較を中心に、思っていることや気付きや情報があれば、書き込んでみましょう。
* * *
・小林秀雄の言
「ドストエフスキーは矛盾の中にじっと坐って円熟していった人であり、トルストイは合理的と信ずる道を果てまで歩かねば気が済まなかった人だ。
」
・『トルストイかドストエフスキーか』(中川敏訳・白水社1968年初版)の中川敏氏の「解説」より。
「トルストイびいきはドストエフスキーを敬遠し、ドストエフスキーびいきは、トルストイを読もうとしない。
」
(2)
[135]
トルストイの最期と
ドストエフスキー
名前:Seigo
投稿日時:08/02/23(土)
トルストイが亡くなる前、最後の家出の直前に読みかけていた本はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』だった。
「ドストエフスキーは、私にとって、常に貴重な人だった。彼は おそらく、私が多くのことをたずねることのでき、また多くの ことに答えることのできたただ一人の人であったろう。 (途中略) 彼は真にキリスト教的な精神にあふれた人だった。」
(1885年のドストエフスキーの未亡人アンナとの会話より。)
トルストイの最後の家出と客死に、自分は、『悪霊』の末部の、ステパン氏の最後の放浪と回心の中での客死を想起してしまう。(両者はもちろんいろんな面で異なるだろうが、重なる面もあるようだ。)
ドストエフスキーは結局トルストイと会う機会を得ることなく生涯を終えたが、 ドストエフスキーがその年まで生きていたとしたら、ドストエフスキーは、対面して、よき相談相手になりえただろうか。
晩年のトルストイ
ソフィア夫人
アンナ夫人
※、ソフィア夫人=トルストイ夫人
※、アンナ夫人=ドストエフスキー夫人(上の肖像の通り、若い頃の
お二人のお顔は似ている?)
※、トルストイの家出にはソフィア夫人(悪妻?)との確執があったとされる。
「あの女だけは連れてこないでくれ」
(トルストイの最期の言葉)
(3)
[714]
トルストイのドストエフスキー人物寸評
名前:ぼんやり読者
投稿日時:09/12/03(木)
かなり横道にそれてしまう内容なので、ここに書くのが適当かどうか。
『ユリイカ 2007年11月号 特集ドストエフスキー』に山城むつみという方の書かれた「トルストイとの平衡感覚」という論文があります。
そのなかで、ゴーリキーの回想「レフ・トルストイ」に書かれていた内容としてこんなことが紹介されています。
「(トルストイは)ドストエフスキーについて語るときには何かを避けるように、何かに打ち克とうとしていやいやながら自分を強いるようにして語ったそうで
ある。あげくに口にするのが、こんなクセのある寸評である。あやつは感じるようはたくさんのことを感じたが、考えるほうはてんでダメだった、凶暴な肉体の 持ち主で、腹を立てるとハゲ頭にいきなり瘤ができて耳が動くんだぞ、と。」
この話しのもとになったゴーリキーの回想、未読なので確認できないのですが、なんだかこれではトルストイは直接ドストエフスキーを知っていたかのように誤解してしまいます。
この寸評を言ったのがツルゲーネフならわかるのですが。ツルゲーネフはさんざんドストエフスキーをいじめて腹を立てさせたはずなので。
[135]Seigoさんが書かれているように、
ドストエフスキーの死後、アンナ夫人はトルストイに会って夫の人物像を彼に紹介するかたちで語っていたはずなので、「ハゲ頭に瘤ができて耳が動く」なんて本人を直接見てきたような話をトルストイが誰かにしたとは思えない・・、のですが。
それともこれはトルストイの単なる想像とか、あるいは又聞きとか?
このへんの事情、どなたかご存知ないでしょうか。
すみません、くだらないこと訊いて。
(4)
[716]
RE:ドストエフスキーとトルストイ
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:09/12/03(木)
>ぼんやり読者さん
トルストイのドストエフスキー評は、ゴーリキーの『追憶』(岩波文庫)で読めます。僕はゴーリキーの小説はあまり好きではないのですが、この『追憶』は面白くて好きです。
トルストイのドストエフスキー評を考える際には、晩年のドストエフスキーの腰巾着だったストラーホフが、ドストエフスキーが死んだ後トルストイに取り入って、あれこれドストエフスキーの中傷をトルストイに吹き込んだという事情を踏まえておく必要があるかも知れません。
ストラーホフの要領のよさには、生前のドストエフスキーもうんざりしていたらしく、一説では、『カラマーゾフの兄弟』のラキーチンのモデルはストラーホフだという説もあるようです。
ちなみに、例のドストエフスキーの幼女姦淫疑惑の出所もストラーホフということです。
まあ、いつの時代にも風見鶏はいるものです。
(5)
[719]
ストラーホフの中傷
名前:ぼんやり読者
投稿日時:09/12/04(金)
>ミエハリ・バカーチンさん
ゴーリキーの『追憶』の情報、早速ありがとうございました!今度探して読んでみます。
『ドストエフスキーその対話的世界』 (木下 豊房 成文社)にストラーホフがなぜあのえげつない手紙(幼女姦淫疑惑)をトルストイに書いてドストエフスキーを中傷したのかが書かれていました。ドストエフスキーの死後、アンナ夫人がストラーホフに渡した資料の中に、ドストエフスキーのストラーホフ評があったのではないか、その意趣返しなのでは、ということでした。アンナ夫人
は夫の伝記執筆を依頼したのですね。
アンナ夫人へのドストエフスキーの手紙にも「あいつは神学生だ、私を捨てたのに『罪と罰』で成功するや否や舞い戻ってきた」という意味のことが書かれていて、確かにストラーホフの人品の卑しさにうんざりしている感じでした。
なので
> トルストイのドストエフスキー評を考える際には、晩年のドストエフスキーの腰巾着だったストラーホフが、ドストエフスキーが死んだ後トルストイに取り入っ
て、あれこれドストエフスキーの中傷をトルストイに吹き込んだという事情を踏まえておく必要があるかも知れません。
納得です。ちなみに私もラキーチンはストラーホフだと思っています。
ドストエフスキーの生前、トルストイともう少しで会えたかもしれないのに、ストラーホフが邪魔をした(のかもしれない)という話しもどこかで読みました。それにしてもトルストイもちょっとお茶目ですね、会ったこともないのに「ハゲに瘤」とは。
(6)
[722]
RE:ドストエフスキーとトルストイ
名前:Seigo
投稿日時:09/12/05(土)
読書さん、ミエハリさん、
ドストエフスキーとトルストイについての話題の投稿を再開してくれて、どうも。
引き続いて述べたいことがあれば、気兼ねなく投稿してみて下さい。
読書さんが教えてくれた、トルストイのドストエフスキー評が見られるという、
>ゴーリキーの『追憶』(岩波文庫)
は、今度、入手してその箇所を確認してみます。
(読書さんが言うように、中村健之介氏が紹介した通り、トルストイのドストエフスキー評は、トルストイは結局ドストエフスキーに会えなかったぶん、ストラーホフ経由の情報に基づくぶんが多いということになるのでしょう。)
(7)
[727]
わしは女については、片足を墓に突っこむときに〜(トルストイ)
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:09/12/06(日)
わしは女については、片足を墓に突っこむときになって真実をいうよ――いうなり棺桶のなかに飛びこんで、蓋をする――そのときわしをつかまえてみるさ!(トルストイ)
>ぼんやり読者さん、Seigoさん
ゴーリキーの『追憶』に採録されているトルストイのドストエフスキー評は、以下のとおりです。
「彼(ドストエフスキー)は醜く、ばかりかわざと美しくなく書いた。――わざと、嬌態からだ、とわしは信じている。彼は見せびらかしたんだ」
「この本(『白痴』)は悪い本だとされている。がしかし、この本のなかでもっとも悪いことは、ムイシキン公爵が癲癇患者であることだ。彼が健康であれば
――彼の真底からの無邪気さや純潔さは非常にわれわれを動かすことだろう。しかし彼を健康な者として書くには、ドストエーフスキイに勇気が足りなかった。 それにまた、彼は健康な人間を好かなかった。彼自身が病気なら――世界じゅうが病気だ、と彼は信じていた……」
「ドストエーフスキイは自作のなかの気の狂った人物の一人(イワン・カラマーゾフ)について書いた。彼は、自分が信じていなかったもののために尽くしたことにたいして、自分自身にも他の人々にも復讐しながら生きているのだと。これは彼自ら、自分のことを書いたんだ。すなわちこれと同じことを、彼は自分自身
についても云えたろう」
「ドストエーフスキイについては、何かを避け、何かに打ち克ちながら、いやいや、強いて努力して話すのであった。
『彼は孔子の教えか、あるいは仏教を知ればよかったのだ。それは彼を安心させたろう。これは肝腎なことで、誰でもみんなが知る必要のあることだ。彼は狂暴
な肉体の人間であった――腹をたてると――禿の上にいきなり瘤ができて、耳がうごく。たくさんのことを感じたが、考え方がまずかった。彼はあの連中、フー リエストの連中に、考え方を学んだ。ブタシェーヴィチやそのほかの者に。あとになっては――生涯彼らを憎んだ。彼の血のなかには何かユダヤ的なものがあっ
た。邪推ぶかく、自尊心がつよく、重くるしく、不幸であった。彼があんなに多く読まれるのは変だ。わからない――なぜなのか! 重くるしいし、無益だから ね。というのは、すべてこれらの白痴たちや、青年たちや、ラスコールニコフたちやなど、すべてあんな風ではなかった、みんなもっと素朴で、もっとわかりや
すかったのだ』」
ゴーリキーの『追憶』では、トルストイの辛辣な観察眼・批評眼が生の言葉でドキュメントされていて、非常に興味深い読み物になっています。特に女性に関するトルストイの露骨な発言の数々に、ゴーリキーやチェーホフが困惑させられる様が笑えます。
さて、晩年のトルストイは極端な芸術否定に走り、素朴な民話的な作品を至上とし、シェイクスピアよりも『アンクル・トムの小屋』の方が優れていると主張し
ていましたから、ドストエフスキーの病的で極端な作風もあまり高く評価していなかったのではないかと思います。しかし、そういう晩年のトルストイの偏狭な 芸術観のバイアスがかかったものとはいえ、上に引いた文章中の、ムイシュキン評、イワン・カラマーゾフ評、ラスコーリニコフ評は、なかなか面白いと思いま
す。トルストイは、人間はドストエフスキーが描いたように病的で神経症的なものではなく、もっと本来健康な存在なのだと信じていたのでしょう。トルストイ の主人公たち――アンドレイ・ヴォルコンスキーやピエール・ベズーホフやコンスタンチン・リョーヴィン――も懐疑的ですが、ドストエフスキーの主人公たち
のように病的ではありません。人間の本質を、健康的なもとの見ていたか、病的なものと見ていたか――が、やはり、この両巨匠の決定的な違いかも知れませ ん。
人間が本来健康的な存在なのであれば、その健康を回復するような生活を心がければよい――というのが、要するに晩年のトルストイの思想でしょう。そして心
がけ次第で健康な生活を回復できるのであれば、畢竟人間は超越神による救済を必要としないでしょう。強靭な肉体の持ち主であったトルストイとゲーテが、キ リスト教を逸脱し、東洋的・汎神論的な世界観に傾いたのも首肯けることです。一方、もし、人間が本来病的な存在なのだとしたら、本人の生活上の心がけだけ
では健康を回復することは出来ません。自力で健康を回復できない時、人は何か自分を超えた存在による救済を求めるのではないでしょうか。病的な精神の持ち 主であったドストエフスキーとシラーが、悲劇を通じて逆説的に超越神による救済を強く訴える作品を書き続けたこともまたよく納得できます。
基本的に健康な田舎者であり、田園の思想家であったトルストイには、自然から隔離され病的な生活を送らざるを得ない近代都市住民の疎外状況を理解すること
はついに出来なかったでしょう。そして、近代都市のリアリズムはまさに病的な精神にあるということを先駆的に描いた作家こそがドストエフスキーでした。
もしトルストイが、田舎での瞑想をやめ、ペテルブルクで生活することを選んでいたら、あるいはドストエフスキーの小説に対する彼の評価も違ったものになっていたかも知れません。
晩年、家出したトルストイは、シャマルディノの修道院ではなく、ペテルブルクを目指すべきだったのかも。
ところで、不図思ったのですが、件の、
「腹をたてると――禿の上にいきなり瘤ができて、耳がうごく」
というのは、要するに、現代の日本の漫画でもよくある、怒っている人物の額に血管が浮かび上がっている――というカリカチュア的表現なのではないでしょう
か。「耳がうごく」というのも、たとえば「鼻がピクピクしている」という風に書き直せば、現代の日本人にも何を表現しようとしているのか判り易いですよね。怒ったら「耳がうごく」のはトミーで、「鼻がピクピクする」のはマツですけど。
(8)
[734]
『追憶』引用部分おもしろい
名前:ぼんやり読者
投稿日時:09/12/07(月)
>ミエハリ・バカーチンさん
ゴーリキーの『追憶』の中のドストエフスキー評引用をありがとうございました。入手困難本なので図書館に行ったのですが置いてなくて、相互貸借になるから時間がかかるな、と思ってました。引用してくださったのでとりあえず一番興味深いところが読めました!
巨人が巨人を評する言葉には興味がつきません。トルストイのことは全然知らなかったので俄然興味がわいてきました。これは是非入手して読まなくては。
> 人間の本質を、健康的なもとの見ていたか、病的なものと見ていたか――が、やはり、この両巨匠の決定的な違いかも知れません。
> 人間が本来健康的な存在なのであれば、その健康を回復するような生活を心がければよい――というのが、要するに晩年のトルストイの思想でしょう。そして心がけ次第で健康な生活を回復できるのであれば、畢竟人間は超越神による救済を必要としないでしょう。
> 一方、もし、人間が本来病的な存在なのだとしたら、本人の生活上の心がけだけでは健康を回復することは出来ません。自力で健康を回復できない時、人は何か自分を超えた存在による救済を求めるのではないでしょうか。
ああ、すごくよくわかります。画家で殺人者で人格破綻者のカラヴァッジョが、絵画史上もっとも宗教的といわれ、人間の改心・回心を描いた名作を多々残した
ことを思い出します。ドストエフスキーは自身が神経症的気質であったことに加えて、『死の家の記録』時代の人間観察も大きかったかもしれませんね。
ドストエフスキーがアンナ夫人のような普通の穏やかで円満な気質の人に寄せる限りない賞賛もその裏返しかも。彼が晩年『カラマーゾフ』のアリョーシャを造形したことは大きな意味があると感じます。
(9)
[735]
あらためて「ハゲに瘤」の感想
名前:ぼんやり読者
投稿日時:09/12/07(月)
>[727]ミエハリ・バカーチンさんによる『追憶』引用
の「禿・瘤・耳」部分は、トルストイの文学的表現だったのですね。原典にあたるって大切ですね。
トルストイって、会ったこともない人の外見を云々するスットコドッコイのおじさん、と思い込むところでした。でもミエハリさんの引用部分を読むと、トルストイは充分曲者のにおいがします。
(10)
[742]
私はこれまで自分ほど善良な人間にお目にかかったことがない(トルストイ)
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:09/12/09(水)
>ぼんやり読者さん
> 人間の本質を、健康的なもとの見ていたか、病的なものと見ていたか――が、やはり、この両巨匠の決定的な違いかも知れません。
> 人間が本来健康的な存在なのであれば、その健康を回復するような生活を心がければよい――というのが、要するに晩年のトルストイの思想でしょう。そして心がけ次第で健康な生活を回復できるのであれば、畢竟人間は超越神による救済を必要としないでしょう。
> 一方、もし、人間が本来病的な存在なのだとしたら、本人の生活上の心がけだけでは健康を回復することは出来ません。自力で健康を回復できない時、人は何か自分を超えた存在による救済を求めるのではないでしょうか。
という観方は、僕の独創ではなく、トーマス・マンの『ゲーテとトルストイ』(岩波文庫)のほぼパラフレーズです。トーマス・マンは、『ゲーテとトルスト
イ』で、「ゲーテ・トルストイ=自然・健康」対「シラー・ドストエフスキー=精神・病気」という二元論的構図に立って、あれやこれやの芸術論や文学論、ひ いては人間論を展開しています。トーマス・マンの文芸批評としては、『ゲーテとトルストイ』が最高傑作だと思います。気が向いたら読んでみてください。ミ
ハイル・バフチンによれば、トーマス・マンはドストエフスキー以降最大のポリフォニー作家ということですから、ドストエフスキーの読者にもトーマス・マン はお薦めです。
そのトーマス・マンは、トルストイの『アンナ・カレーニナ』に就いて、
「一点非の打ちどころのない作品」(「アンナ・カレーニナ論」)
と諸手をあげて絶賛しています。僕もドストエフスキーのすべての小説よりも、『アンナ・カレーニナ』の方が上だと思っています。もし未読なら、是非読んでみてください。
トルストイの伝記は、ビリューコフ以来、ロマン・ロラン、シュテファン・ツヴァイクと、各種名作があるのですが、そもそもトルストイは一生かけて自伝を書
いていたような作家なので、彼の生涯と人となりを知りたいのであれば、遠回りのようですが、初期の自伝三部作からはじめて、彼の主要作品を読んでいくのが 結局は早道だと思います。
(11)
[743]
皆で読もう『アンナ・カレーニナ』
名前:ぼんやり読者
投稿日時:09/12/10(木)
>ミエハリ・バカーチンさん
トーマス・マンの情報ありがとうございました、全て未読なのでいずれ読んでみようと思います。
私にはトルストイの『アンナ・カレーニナ』がドストエフスキーの全ての小説よりも上、というミエハリさんのご感想が衝撃でしたので、きっとこちらを先に読みます。
私はトルストイは『大きなかぶ』『イワンのばか』しか読んでいません(恥・笑)。それにトルストイに傾倒した武者小路実篤の「美しき村」運動を連想して二
の足を踏む(実篤ファンの方、申し訳ありません、深くは知らないで何となくの印象でモノを言っていますのでお許しください)。『戦争と平和』の朗読CDに 何度トライしても途中で寝てしまう・・・という情けないトルストイ経験しかありません。
実はミエハリさんの『アンナ・カレーニナ』ご推薦のご投稿を読む直前、当【ドストエフ好きーのページ】のドストエフスキー欄外「人文方面の情報」〈文学の部〉 Seigoさん選の近現代外国小説家50人選、を拝見したのです。そしたらトルストイが燦然とトップになっている。このようなHPを作られるのだから当然
ドストエフスキーをトップに選ばれると思うではありませんか。
ドストエフスキーとトーマス・マンが絶賛、Seigoさん・ミエハリさんご推薦の『アンナ・カレーニナ』。何しろ長大なので通読していない方も多いのでは?是非読んでみましょう。
(「ハゲに瘤」の話題がここにたどり着いたので、大変うれしく思います。)
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