三島由紀夫とドストエフスキー
(1〜21)
投稿者:
Seigo、オドラデク、
ミエハリ・バカーチン
(1)
[476]
三島由紀夫とドストエフスキー
名前:Seigo
投稿日時:09/01/18(日)
三島由紀夫の文学(三島由紀夫という人物)とドストエフスキーの文学(ドストエフスキーという人物)の比較、三島におけるドストエフスキー受容、三島のドストエフスキー論などに関して、気付き・情報・意見のあるお方は、聞かせて下さい。
三島由紀夫
ドストエフスキー
(2)
[477]
今年の抱負
名前:オドラデク
投稿日時:09/01/08(木)
明けましておめでとうございます
今年は「カラ兄弟」の二つの大団円「いる(生きる)」とその表現について書きたいと思っています。
ひとつ目の大団円は
「カラ兄弟」二番目の話、アーリョシャと少年達=メルカバー(マカバ)ですね。
L・ストロースの「神話論理」等から考察したいと思います。
ふたつ目の大団円は
イワンとスメルジャコフの
1)メビウスの輪
2)逆奇跡
3)孝行老婆の恩返し
4)海からの光ですね。
三島由紀夫の遺作「天人五衰」(三島も楽しんだ)
合同結婚した友人の勝利の証し、等から考察したいと思います。
大団円に注ぐ光はどれも同じです。
また言わずと知れた「天人五衰」のラストの景観(その当否は別として)は、三島の文才があってこその、文学のみが表現できた美の金字塔ですからね。
現実には、半島の方々が、すでに天人五衰(天人の舞い・天女による頭上捧花の祝福・五衰夢(羅刹道))等に到達勝利なされる勢いなので後追い書きになりそうですが、なんとか追い着く様に頑張るのでよろしくお願いします。
(3)
[478]
高橋和巳氏の三島評、柄谷行人氏の三島評、松本健一氏の『仮面の告白』論、三島のドストエフスキー論
名前:Seigo
投稿日時:
投稿日時:09/01/08(木)
オドラデクさん、
昨年のBBS(掲示板T)や「事項・テーマ別ボード」での一連のユニークな書き込み、どうもでした。
ドストエフスキーの文学や思想を、ユニークな形と視点で、他の文学や事柄と比較したり、組み合わせたりして見ていくと、新たな像や面が独自に浮かび上がってくることも多いと思うので、オドラデクさんのユニークな組み合わせや比較の試み、今後も期待してます。
三島由紀夫の「天人五衰」を取り上げての論、おもしろそうですね。
(自分は三島由紀夫の作品はこれまで、ある程度読んできましたが、『豊饒の海』はまだ途中までしか読んでいません。三島由紀夫の小説の彫琢(ちょうたく)された明晰明朗で端麗な美しい文体や表現には昔から心ひかれています。)
三島由紀夫と言えば、
初期の小説『仮面の告白』の冒頭にドミートリイの言葉(『カラ兄弟』第3編第3の「熱烈なる心の懺悔」の中の一箇所)が引用されていることや、
1970年の三島の自決は『悪霊』のキリーロフ的な行為だ
とかつて高橋和巳氏が述べたことが思い浮かぶのですが、
(この高橋和巳氏の言葉はどういうことなのかということもあらためて考えていけたらと思います。)
先日、ネット上で、
三島由紀夫がかの死を遂げていなかったとしたらドストエフスキーが切り開き上っていった高みまでたどり着いたかもしれない
と、柄谷行人氏が言ったことが紹介されていました。
う〜む、そうかなあ? と柄谷氏のこの発言についてその後いろいろと考えているところです。(柄谷氏のその説明をもう少し聞きたいです! )
思うに、晩年において辿(たど)り着いた世界観・人間観の点では、
・ドストエフスキーは、キリスト教的(神と愛とゆるしの世界等)、仏教的(法華経で説く全一的な「生命」観・人間賛歌と言えるでしょうか)
・三島は、すでに仏教的(輪廻の生死の思想など)、東洋的(下に掲げた『豊饒の海』の末部などは東洋の、生死を超えた「無」「閑寂」の境地がうか
がわれます)
という相違はありながら、ともに深淵で宗教的なものだったという点では、両人は同じだと言えるのかな。
※「これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを領している。そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。…… 」
(『豊饒の海』の末部)
松本健一氏は、
著『ドストエフスキイと日本人』
(1975年朝日新聞社初版・
2007年8月第三文明社改訂版)
で三島由紀夫のドストエフスキー受容について触れていますが、松本氏はその中で、三島の『仮面の告 白』はドストエフスキーの『地下室の手記』を意識して作られているとして、『地下室の手記』の私は真実を語ろうと言い出すのに対して、三島はそれを逆手に取って、
『仮面の告白』の語りは、いわば虚構化した「私」が虚構を語るということである、と述べています。
(松本氏が言う「虚構化した「私」」とはどういうことなのか、については今後考えていけたらと思います。)
なお、
『仮面の告白』の「仮面」という言い方は、ドストエフスキーが『悪霊』でスタヴローギンの顔を描写した際の「仮面」という表現(日本語訳)も踏まえているんでしょうかね。
「人は彼の顔が仮面に似ていると言った。」
(『悪霊』第1編第2章・米川正夫訳)
という箇所です。さらには、「スタヴローギンの告白」を踏まえた題名? )
昨年書店で見つけて購入した、
『三島由紀夫の美学講座』
(谷川握編・ちくま文
庫2000年1月初版)
に、期待通り、三島がドストエフスキーの美学を取り上げて美について論じている文章(文章「美について」)が収められていました。ドストエフスキーのことを「人間性の深淵 をうかがった者」と称し、ドストエフスキーの美の観念には異教的アジア的な面がある、ドストエフスキーにとって美は救済を意味しなかったのではないか、など、三島の一つの
まとまったドストエフスキー論の文章を見つけ、収穫でした。
(4)
ライフワーク
名前:オドラデク
投稿日時:09年01月11日
Seigoさん
ドストエフスキーは最後の小説「カラ兄」で、人間の本質的全人格的内容を取り上げました。
三島も、最後の長編を世界理解の小説として立ち上げ、自らのライフワークとも呼んでいました。
そして終巻「天人五衰」のラストにおいて、光の大団円=いる(+生きる等)を書き上げました。
しかし、三島自身とその”人生”は心情的に青年期に回帰し、意志的に二巻の主人公「勲」を模し自己同化した行動により生涯を終えたのだと感じます。
柄谷行人こそ、80年代ポストモダンブームの頃に「形式化の諸問題」として、二番目の大団円である・メビウスの輪・逆奇跡等を取り上げていた人でした。
今後、柄谷氏自身のじかの逆奇跡体験等について聞かせてもらいたいですね。
(5)
ライフワーク(人生)(2)
名前:オドラデク
投稿日時:09年01月12日
三島は「小説とは何か」(死により未完に終わっている)で、「カラ兄」における会話と日本の小説の言葉の使われ方の違いについて長々と書いています。
そして、ドストエフスキーの会話は小説によりも戯曲に適しているとも述べています。
しかし、注目されるのは次の内容です。(三巻「暁の寺」の解説にも引用され、多くの方が取り上げることが多い)
その一部を引用します。
「〜〜〜従って、この長編小説を書きながら、私はその終わりのほうを、不確定の未来に委ねておいた。この作品の未来はつねに浮遊していたし、三巻を書き
終えた今でもなお浮遊している。しかしこのことは、作品世界の時間的未来が、現実世界の時間的未来と、あたかも非ユークリッド数学における平行線のよう に、その端のほうが交叉して溶け合っていることを意味しない。〜〜〜作品世界の未来の終末と現実世界の終末が、時間的に完全に符号するということは考えら
れない。ボオの「楕円形の削像画」のような事件は、現実には起こりえないのだ。」
これは「カラ兄」において、イワンが「今、ここ」の大団円を希望し力説する言葉と同じですね。
さらに三島は、三巻「暁の寺」を脱稿し終えた時点で「一つの作品世界が完結し閉じられると共に”それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になったのである”」と感嘆しているのです。
”作品外の現実が作品に取り込まれてしまった”と嘆いているのです。
(6)
女性の全体像について
名前:オドラデク
投稿日時:09年01月15日
僕は最近、女性の全体像・男の視線ではない女性に感心があります。
「ドストエフスキーは女性を描けていない」という批判をよく目にします。
ドストエフスキーは、小説で女性の全体像を描こうとしているのではないから、こういう批判は当たってないのですが、男の視線ではない女性の全体像には、やはり感心があります。
そこで、男性の視線による理想化等によらない女性の全体像を描いている作家に、太宰治や三島由紀夫がいると思うんです。
三島の小説には、夫の夢を打ち砕く為、打ち砕くことを仕事とし共に寄り添っているという恐るべき妻ないんていうのも登上しますからね。
当然、「天人五衰」の天人女房”絹江”まで視野に入れざるを得ない訳です。
また、太宰治が挙げる家族という問題にも感心があります。
さらには、”家族単位”(当然女性を含む)のおかしさというものがあるのではないでしょうか?
女性のウルトラ・ファザーコンプレックスの問題とでもいうか?
僕は半島の女性と接する機会があって、それ以来、これらのおかしさについて考え始めたんです。
(7)
>女性が描けている作家
名前:Seigo
投稿日時:09年01月15日
三島由紀夫の小説の中における、女性の存在感、けっこう大きい比重を占めている女性たちについての描写や説明、そこに現れている三島の独自の女性観というのもの
( 一方、
人間をいちばん残酷にするものは、愛されているという意識だよ。愛されない人間の残酷さなんて知れたもんだ。たとえば、ヒューマニストというやつはきまって醜男だ。 (小説『禁色』より)
といった三島の鋭い男性観にも感心した覚えがあります。)
は私にも興味深い事柄であり、
オドラデクさんの、
>男性の視線による理想化等によらない女性の全体像を描い
>ている作家に、太宰治や三島由紀夫がいると思うんです。
という指摘には共鳴するものがあります。
(なお、
女性が描けているかどうかということに関して、
岡 潔氏(数学者)の
私の読んだ中では、文学者で女性が本当に描けていると自信をもっていい切ることのできる人は、日本では漱石、外国ではドストエフスキーぐらいではなかろうか。
という指摘もありますね。)
オドラデクさんが三島を取り上げてくれた影響で、三島の小説を、最近、ちらほら読み始めているのですが、今夕わが書棚にある三島の新潮文庫の小説の中から
小説『美徳のよろめき』を取りだしてその最初の部分を読んでみたところ、女というものに関しての三島の理解がよく現れている登場人物の婦人のことについて の独特の紹介から始まっています。
冒頭からいきなりこういったことから始めるところなどは、三島の真骨頂なのでしょう。
なお、この『美徳のよろめき』の冒頭の箇所にも見られるように、三島由紀夫の書く文章には、逆が真(しん)なんじゃないのと読み手が一見思うような逆説的な考えの表明がしばしば見られますね。
(新潮文庫『美徳のよろめき』は巻末の北原武夫氏の「解説」の三島論もおもしろい。北原氏はそこで三島由紀夫の文学は谷崎潤一郎の文学に似ていると指摘しています。)
なお、
三島は性別的には女性よりも男性を好んだ(ただし女性嫌いというわけではないと言ってよいのかな)と思うのですが、三島の女性観(特に婦人観)というの は、ラファイエット夫人の小説・ラディゲの小説など、彼が親しんだフランス文学に描写されている婦人像からの影響も大いにあるんでしょうかね。
(8)
女性が描けている作家
名前:オドラデク
投稿日時:09年01月17日
Seigoさん
僕は、寂しい中年を迎えてしまったせいか?女性についても原理的に考えることが多くなりました。
Seigoさんが引用されている「女性を描けている作家は漱石・ドストエフスキー」とする意見には大賛成です。
たとえ作品に女性が登上しなくても(描かれているのが男だけの世界だとしても)作品で扱われているのが人間の本質的・全人格的内容であるならば、女性だって同じフィールドを共有している訳ですからね。
とはいえ、人は、異性を介して人間の本質的・宗教的問題等を心に描いていることも多いものです。(若い頃の自分もそうでしたから)
三島も、遺作のはじめの第一巻を、恋する若い男女の「みやびの悲恋」から書き上げています。
しかし、一巻「春の雪」は、それ以前に三島が書き上げてきた多くの恋愛物語とは少し趣きが違ったようです。
何故なら、三島は「春の雪」を脱稿してしばらく後、次の様に語っているからです。
「怖いみたいだよ。小説に書いたことが事実になって現はれる。そうかと思うと、事実の方が小説に先行することもある」(「三島由紀夫と檀一雄」小島千加子)
(9)
>オドラデクさん
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:09年01月18日
>オドラデクさん
ドストエフスキーの女性像が一面的であるというのは、太宰も指摘し、そして、しかもそれはドストエフスキーの欠点ではなくむしろ長所である、とも太宰は言っていますね。
「モオパスサンは、あれは、女の読むものである。私たち一向に面白くないのは、あれには、しばしば現実の女が、そのままぬっと顔を出して来るからである。
頗る、高邁でない。モオパスサンは、あれほどの男であるから、それを意識していた。自分の才能を、全人格を厭悪した。作品の裏のモオパスサンの憂鬱と懊悩 は、一流である。気が狂った。そこにモオパスサンの毅然たる男性が在る。男は、女になれるものではない。女装することは、できる。これは、皆やっている。
ドストエフスキイなど、毛臑まるだしの女装で、大真面目である。ストリンドベリイなども、ときどき熱演のあまり鬘を落して、それでも平気で大童である。
女が描けていない、ということは、何も、その作品の決定的な不名誉ではない。女を描けないのではなくて、女を描かないのである。そこに理想主義の獅子奮迅が在る。美しい無智が在る。私は、しばらく、この態度に拠ろうと思っている」(太宰治「女人創造」)
この文章は先日大森さんも引用されていましたが、僕はむしろこの文章で太宰はドストエフスキーの描く女性の不自然さを高く評価し、自分もまたドストエフス
キーに倣って「理想主義の獅子奮迅」の精華たる女性像を描かんと宣言しているように思います。自然主義的女性像に飽き足らず、浪漫主義的女性像の彼方にこ そ「理想の女性」は在る、と太宰は思っていたのではないでしょうか。そう思って太宰の、「魚服記」「思い出」「秋風紀」「富嶽百景」「女生徒」「華燭」
「懶惰の歌留多」「女の決闘」「八十八夜」「清貧譚」「竹青」「御伽草子」「津軽」「フォスフォレッセンス」「男女同権」「ヴィヨンの妻」「斜陽」……と いった作品を読み直すと、又、色々と発見があるのではないかと思います。太宰はどうも、あまり処女は好きではなかったようです。とすると、太宰はカーチャ
よりグルーシャの方をより理想の女性と見ていたかも知れません。カーチャには、たしかに、「カチカチ山」の兔にも通じる残酷さがあります。
「この兎は十六歳の処女だ。いまだ何も、色気は無いが、しかし、美人だ。さうして、人間のうちで最も残酷なのは、えてして、このたちの女性である。ギリシ
ヤ神話には美しい女神がたくさん出て来るが、その中でも、ヴイナスを除いては、アルテミスといふ処女神が最も魅力ある女神とせられてゐるやうだ。ご承知の やうに、アルテミスは月の女神で、額には青白い三日月が輝き、さうして敏捷できかぬ気で、一口で言へばアポロンをそのまま女にしたやうな神である。さうし
て下界のおそろしい猛獣は全部この女神の家来である。けれども、その姿態は決して荒くれて岩乗な大女ではない。むしろ小柄で、ほつそりとして、手足も華奢 で可愛く、ぞつとするほどあやしく美しい顔をしてゐるが、しかし、ヴイナスのやうな「女らしさ」が無く、乳房も小さい。気にいらぬ者には平気で残酷な事を
する。自分の水浴してゐるところを覗き見した男に、颯つと水をぶつかけて鹿にしてしまつた事さへある。水浴の姿をちらと見ただけでも、そんなに怒るのであ る。手なんか握られたら、どんなにひどい仕返しをするかわからない。こんな女に惚れたら、男は惨憺たる大恥辱を受けるにきまつてゐる。けれども、男は、そ
れも愚鈍の男ほど、こんな危険な女性に惚れ込み易いものである。さうして、その結果は、たいていきまつてゐるのである」(太宰治「カチカチ山」)
この「カチカチ山」の兔のプロフィールは、そのままカーチャのプロフィールとしても通用しそうです。土壇場でミーチャを滅ぼす、カーチャの、その身勝手な潔癖さは、ライバルのグルーシャと対比するとより顕著です。
・カーチャとミーチャ=兔と狸
と考えてみるのも面白そうです。ドストエフスキーも太宰同様、実は処女はあまり好きではなかったのかも知れません。又、
・ グルーシャ=ヴィーナス/カーチャ=アルテミス
という感じで、その神話的原型を探ることも出来るでしょうか。
三島由紀夫は、ゲイのイメージが一人歩きしてしまっている部分もありますが、同性愛気質を強く持っていた男だったにも関わらず、というか、だったからこ
そ、というか、実は女性の描写が抜群に巧い作家だったと僕は思っています。何せ幼少期は夏子婆さんの妄執の餌食となり、女の子として育てられていたほどで すから、女性心理にはよく通暁していたのでしょう(ちなみに、女の子として育てられた男の子の悲哀をユーモラスに歌った名曲に、ザ・フーの「アイム・ア・
ボーイ」があります)。幼少期に三島が過ごした異様に母性的雰囲気の濃厚な家庭環境は、必ず三島が描く女性像の苗床となっていることでしょう。『豊饒の 海』は、ラスト、月修寺門跡というこの作品世界の「女性の原型」の発する、
「それも心々ですさかい」
という言葉に回収される形で一切が無に帰しますが、この三島畢生の大長編は、男性原理(永遠に超えんとするもの)が女性原理(永遠に守らんとするもの)の
前に破れ去っていく姿を様々に変奏した壮大な幻想交響曲である――ということも出来るでしょうか。それにしても、小説の最後に「永遠の他者」として立ち現 われる月修寺門跡(聡子)は、果たして、ヴィーナスの化身なのか、アルテミスの化身なのか、それとも他の未だ人の知らぬ神性の化身なのか。若き日の一時
期、清顕と愛欲の日々を送ったことがあるとはいえ、清顕の子を堕胎した後、一切の性生活を断ち切って老年に至った月修寺門跡の体現している「女性性」と は、如何なるものなのでしょうか。――これは、後の世の読者に残した、三島最大の謎かけかも知れません。
(10)
[484]
RE:三島由紀夫とドストエフスキー
名前:オドラデク
投稿日時:09/01/18(日)
ミエハリさん
ドストエフスキーの描く女性については、太宰治が女性の実像に沿って的確に書いていたんですね。
僕の出る幕ではありませんでした。 ^^
ミエハリさんの引用に語り尽くされていますね。
ミエハリさん
>三島由紀夫は、ゲイのイメージが一人歩きしてしまっている部分もありますが、同性愛気質を強く持っていた男だったにも関わらず、というか、だったからこそ、というか、実は女性の描写が抜群に巧い作家だったと僕は思っています。
三島は事実同性愛者でしたが、結婚をして子供もいました。
(ピーター・美輪昭宏といっしょに新宿を歩いていたというのは有名です)
それでも、作品では女性をよく描けていますよね。
三島が描く女性については、おいおい触れていきたいと思います。
『豊饒の海』の一巻「春の雪」を、京風みやびの恋物語と読んでしまうと作品理解が狭まれます。
「春の雪」のクライマックスともいえる、清顕と聡子の逢引(幌馬車に舞い込む雪)の場面は、韓流ブームの火付け役「冬のソナタ」のクライマックスとも同じ雪の場面です。
女性(特におばさん)ロマンの永遠の原型ですからね。
そんな「春の雪」の冒頭は次の様にはじまります。
清顕の日露戦役の回想として
「セピアいろのインクで印刷されたその写真は、ほかの雑多な戦争写真とはまるでちがっている。構図がふしぎなほど絵画的で、数千人の兵士が、どう見ても画
中の人物のようにうまく配置されて、中央の高い一本の白木の墓標へ、すべての効果を集中しているのである。〜〜〜すべては中央の、小さな白い祭壇と、花 と、墓標へ向かって、波のように押し寄せる心を捧げているのだ。野の果てまでひろがるその巨きな集団から、一つの、口につくせぬ思いが、中央へ向かって、
その重い鉄のような巨大な環をしめつけている。、、、、、
古びた、セピアいろの写真であるだけに、これのかもし出す悲哀は、限りがないように思われた。」
「得利寺附近の戦死者の弔祭」と題する写真(日露戦役写真集より)
冒頭に”死の儀式化”が置かれている訳です。
「カラ兄」の冒頭にあるヨハネ福音書の言葉
「一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、一粒のままにてあらん。されどもし死なば、多くの実をもたらすべし」
と同じです。
「カラ兄」も、無実の罪を負い流刑されたドミートリーとその恋人グルーシャの追悼物語と読むことも出来る訳ですからね。
(11)
[485]
RE:三島由紀夫とドストエフスキー
名前:オドラデク
投稿日時:09/01/21(水)
僕は今、ふたつめの光の大団円=いる(+生きる等)について書いています。
奇跡とでも呼べる!
「(キリスト(大審問官)宣言をした)イワン と (去勢派の白いキリスト)スメルジャコフのかいごう」
ですね。
その為に、三島のライフワークとしてあった遺作を参照しています。
しかしそれは、三島の人生を辱める為に取り上げているのではありません。
そうではなく、三島が、死の代価をもって書き上げた作品「現実人生」が、ふたつめの大団円を知る手がかりになるからです。
特に、三島がおおいに楽しんだ「天人五衰」には”あけひろげに本当のこと”が書かれています。
「カラ兄」のふたつめの大団円とは作品の具体的にどこなのか?を論じる前に、僕が知っている作品「現実人生」について書きたいと思います。
(12)
[486]
RE:三島由紀夫とドストエフスキー
名前:オドラデク
投稿日時:09/01/24(土)
長くなりますが、多くの人が三島を論じる際に必ずふれ、三島とドストを比較し論じる為にも必要不可欠な内容なので引用します。
「つい数日前、私はここ五年ほど継続中の長編『豊饒の海』の第三巻「暁の寺」を脱稿した。これで全巻終わったわけではなく、さらに難物の最終巻を控えてい
るが、一区切がついて、いわば行軍の小休止といったところだ〜〜〜人から見れば、いかにも快い休息と見えるであろう。しかし私は実に実に実に不快だったの
である。〜〜〜この快不快は、作品の出来栄えに満足しているか否かということとは全く関係がない。では何の不快かを説明するには沢山の言葉が要るのであ
る。〜〜〜私は今までいくつかの長編小説を書いたけれども、こんなに長い小説を書いたのははじめてである。今までの三巻だけでも、あわせて優に二千枚を超
えている。長い小説を書くには、ダムを一つ建てるほどの時間がかかる。〜〜〜従って、この長編小説を書きながら、私はその終わりのほうを、不確定の未来に
委ねておいた。この作品の未来はつねに浮遊していたし、三巻を書き終えた今でもなお浮遊している。しかしこのことは、作品世界の時間的未来が、現実世界の
時間的未来と、あたかも非ユークリッド数学における平行線のように、その端のほうが交叉して溶け合っていることを意味しない。〜〜〜作品世界の未来の終末
と現実世界の終末が、時間的に完全に符号するということは考えられない。ボオの「楕円形の削像画」のような事件は、現実には起こりえないのだ。
かって、この長い小説を書いている間の私の人生は、二種の現実を包摂していることになる。バルサックが病床で自分の作中の医者を呼べと叫んだことはよく
知られているが、作家はしばしばこの二種の現実を混同するものである。しかし決して混同しないことが、私にとっては重要な方法論、人生と芸術に関するもっ
とも本質的な方法論であった。故意の混同から芸術的感興を生み出す作家もいるが、私にとって書くことの根源的衝動は、いつもこの二種の現実の対立と緊張か
ら生まれてくる。そしてこの対立と緊張が、今度の長編を書いている間ほど、過度に高まったことはなかった。〜〜〜私のような作家にとっては、書くことは、
非現実の霊感にとらわれつずけることではなく、逆に、一瞬一瞬自分の自由の根処を確認する行為に他ならない。その自由とはいわゆる作家の自由ではない。私
が、二種の現実のいずれかを、いついかなる時点においても、決然と選択しうるという自由である。この自由の感覚ないには私は書きつずけることができな い。〜〜〜「暁の寺」を脱稿したときの私のいいしれぬ不快は、すべてこの私の心理に基ずくものであった。〜〜〜すなわち、「暁の寺」の完成によって、それ
まで浮遊していた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し閉じられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になったのである。私
は本当のところ、それを紙屑にしたくなかった。それは私にとっての貴重な現実であり人生であった筈だ。
〜〜〜私はこの第三巻の終結部が嵐のように襲ってきたとき、ほとんど信じることができなかった。それが完結することがないかもしれない、という現実のほうへ、私は賭けていたからである。この完結は、狐につままれたような出来事だった。
〜〜〜しかしまだ一巻が残っている。最終巻が残っている「この小説がすんだら」という言葉は、今の私にとって最大のタブーだ。この小説が終わったあとの世
界を、私は考えることができないからであり、その世界を想像することがイヤでもあり怖ろしいのである。そこでこそ決定的に、この浮遊する二種の現実が袂を
分ち、一方が廃棄され、一方が作品の中へ閉じ込められるとしたら、私の自由はどうなるのであろうか。〜〜〜私の不快はこの怖ろしい予感から生まれたもので
あった。作品外の現実が私を強引に拉致してくれない限り(そのための準備は十分にしてあるのに)、私はいつかは深い絶望に陥ることであろう。」
(「小説とは何か」三島由紀夫作 より)
「豊饒の海」「カラ兄」は、作品「現実人生」として小説構造が複雑になっています。
そこで、比較的に分かり易い『豊饒の海』一巻「春の雪」とラブロマンスの核を共有する「冬のソナタ」をみてみます。
私達日本人も今リアルタイムで観て遭遇出来る、「冬のソナタ」から「太王四神記」に渡る作品「現実人生」ですね。
こちらは、「豊饒の海」や「カラ兄」みたいに混み入っていないし、まどろっこしくありません。
大勝利! 一直線にまっしぐらです。
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[494]
RE:三島由紀夫とドストエフスキー
名前:オドラデク
投稿日時:09/02/06(金)
「カラ兄」「豊饒の海」は、共に冒頭に“死の儀式化”が置かれ、「カラ兄」の主人公ドミートリ−は流刑、「春の雪」の主人公清顕は病による死という悲しい結末を迎え、共に、若き恋人の追悼物語と読むことが出来ることにふれました。
「豊饒の海」一巻「春の雪」は、最近映画化もされましたが、折も折り韓流ブームの勢いに喰われるかたちで興業は不発に終わりました。
一方の「春の雪」とラブロマンスの核を共有する映画「冬のソナタ」は日本の壮年婦人の熱烈支援のおかげで大ヒット、映画の本流も「冬のソナタ」から「大王四神記」にみられる様に、ラブロマンスから歴史英雄伝へと成長進化を遂げ今現在に到っています。
そして、今年2009年は、韓流二波が国家存亡の使命を担い日本進出にその命運に賭けています。
まさに、今現在ターニングポイントにある韓流は、より作品「生人間の人生」としての光芒を輝かせています。
ですから、私達日本人も「冬のソナタ」から「大王四神記」に渡る作品群を「生人間の人生」として、「カラ兄」「豊饒の海」から補い読み、楽しむことができるのです。
***「冬のソナタ」から「大王四神記」に渡る作品「生人間の人生」***
南大門
「セピアいろのインクで印刷されたその写真は、ほかの雑多な戦争写真とはまるでちが ている。構図がふしぎなほど絵画的で、数千人の兵士が、どう見ても画
中の人物のようにうまく配置されて、中央の高い一本の白木の墓標へ、すべての効果を集中しているのである。〜〜〜すべては中央の、小さな白い祭壇と、花
と、墓標へ向か て、波のように押し寄せる心を捧げているのだ。野の果てまでひろがるその きな集団から、一つの、口につくせぬ思いが、中央へ向か て、
その重い鉄のような 大な環を にしめつけている。、、、、、
古びた、セピアいろの写真であるだけに、これのかもし出す悲哀は、限りがないように思われた。」
(「春の雪」冒頭より)
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[507]
RE:三島由紀夫とドストエフスキー
名前:オドラデク
投稿日時:09/03/09(月)
「春の雪」 のクライマックスは、主人公清顕の行く末を暗示する様な、季節はずれ人力車の幌から舞い込む粉雪と、女人のみやびに想いを込められたはかない雪景色です。
「豊饒の海」は二十歳で夭折する若者の転生談なので、一巻「春の雪」の主人公清顕も、恋の病に二十歳で死んでしまいます。
一方の「冬のソナタ」 のクライマックスは、純愛・純白そのもの、威風堂々寒さもなんのその、白一面の吸い込まれる様な並木道に挟まれた雪景色です。
(ちなみに「冬のソナタ」ロケ地のスキー場は、統いち教会系列会社の所有地です)
「冬のソナタ」の主人公は、「春の雪」の清顕の様な寒さから風邪をこじらせ、女人にみやびを想い、たかだか恋に身を滅ぼす優男とは違います。
「記憶喪失を装っているだけではないのか?」と疑いたくなる様な。
なんと!
交通事故 〜 記憶喪失 〜 交通事故 〜 記憶の復活 〜。。。。と、自己同一性を呼び覚まし、本来の自己に覚醒しその使命を自覚するにいたります。
(後の「大王四神記」も同様のストーリー展開)
凄い! これはもう、白一色による純愛・純愛の大祝福、大勝利というほかありません。
(半島の方々は白い色をとても好む)
この大勝利を「春の雪」に捜すとすれば、清顕を脇に押し退け、後に恋する男として前面に躍り出てくる、語り手兼副主人公であり歴史に関わる意志を生涯のモットーとした人物、言うまでもなく本多先生ですね。
「本多は年よりも老けた、目鼻立ちも尋常すぎて、むしろ 体ぶってみえる風貌を持ち、法律学に興味を持っていたが、ふだんは人に示さない鋭い直観の力を内
に蔵していた。そしてその表面にあらわれるところでは、官能的なものは片麟もなかったけれど、時あってずっと奥処で、火の燃えさかって薪の鳴っている音が きこえるような感じを人に与えた。それは本多が、やや近眼の目を険しく細め、眉を寄せて、いつもは強く締めすぎる唇をほのかにひらくような表情をするとき
に窺われた」
「この若さで、彼はただ眺めていた!まるで眺めることが、生まれながらの使命のように」
(「春の雪」ページ211〜212より)
(15)
[513]
RE:三島由紀夫とドストエフスキー
名前:オドラデ
投稿日時:09/03/23(月)
私達には、ライフワークとしての文学作品「カラ兄」「豊饒の海」があります。
また、半島の方々が「天人五衰」(光りの大団円いる(+生きる等))に到達大勝利なされるという現在進行形の現実、その映画作品『「冬のソナタ」から「太王四神記」に渡る生人間の人生』を観賞し、楽しむことも出来るという類稀な恵まれた時と環境にあります。
しかしややもすると、その平凡な現実の物語性から“作品としての生人間の人生”を味わい逃してしまう可能性があるんです。
それこそが、言葉の全体表現である文学こそが扱うことが出来、扱ってきたものですからね。
また、三作品が、共に作品「生人間の人生」としての共通性を持つものの、それらを一度に扱いきるのは僕の力では煩雑過ぎておぼつかないのです。
そこで、先に、「カラ兄」に戻ってみてみましょう。
そうすれば、後に扱う「豊饒の海」等もが、同様のテーマを扱った作品であることがより解っていただけると思うんです
(「冬のソナタ」は、半島の方々がとても好む近親愛憎ドラマ、日本では、70年代に「赤い疑惑シリーズ」がありました。
「太王四神記」
現実の時代背景ぺ・ヨンジェ扮する白馬の貴公子の勇姿は、下の方の写真(猫車)にあります)
「カラ兄」の二つ目の大団円は、もちろん、今、ここを切望する(キリスト(大審問官)宣言をした)イワンと、初めから傍にいた(去勢派の白いキリスト)スメルジャコフとのかいごうです。
さらに「もし、今ここで奇跡が起きても信じない」と語るイワンに起きる、何も起きない奇跡のおとずれですね。
そのクライマックス、イワンとスメルジャコフの三度目の面談では、天帝(神)の臨在により、天帝(神)—イワン—スメルジャコフの三位一体が実現し、スメルジャコフの犯行告白に勇気ずけられたイワンは慈善行為を施すことが出来す。
こちらもやはり、吹雪の中、白一面の雪景色です。
これらを、小説の流れに沿ってみてみましょう。
「幻なんてここにいやしませんよ、私たち二人と、もう一人ある者のほかはね。確かにその者は、そのある者は今ここに、私たちの間におりますぜ。」
「それは誰だ?誰がいるんだ?誰だ、そのある者は?」あたりを見廻したり、すみずみに誰かいないかと忙しげに探したりしながら、イワンはびっくりして訊ねた。
「そのある者とは神様ですよ、天帝ですよ。天帝はいま私たちの傍にいらっしゃいます。しかし、あなたがいくらお捜しになっても、見つかりゃしませんよ。」
(「カラ兄」イワンのスメルジャコフとの三度目の訪問より)
(16)
[514]
RE:三島由紀夫とドストエフスキー
名前:オドラデク
投稿日時:09/04/15(水)
私達「カラ兄」の読者は、フョ—ドル殺害の下手人がドミトリ−ではなく、実はイワンとスメルジャコフで、殺害がイワンの秘めた父親殺しの願望と、それを洞察したスメルジャコフにより実行されたものであるというより深い真実を知ることが出来ます。
そこで、裁判での検事イッポーニトのドミトリ−に対する人物評価等が的外なもので、判決そのものも誤審であると解る訳です。
しかし、それても読者にはどこかふに落ちないというか、納得し切れないという想いが残るのも事実です。
たとえば
*イワンが、スメルジャコフの犯行の事実を知らされたとはいえ錯乱に到るほどの必然性が見当たらない
*スメルジャコフの犯行の目的がお金でないならば、フョ—ドル殺害の動機がはっきりしない
*スメルジャコフが「誰にも罪を着せない為に」と書いた遺書を残して自殺してしまう理由がわからない
等の疑問ですね。
結論からいうと。フョ—ドル殺害は、イワンの秘めた父親殺しの願望とそれを洞察したスメルジャコフにより実行されたもの等ではまったくなく、イワンの秘め
た父親殺しの願望とそれを洞察したスメルジャコフにより実行されたの“ですらない、今、ここの奇跡”により起きてしまったものです。
どういうことか?
それは、イワンが願望はどうであれ、本当にフョ—ドル殺害に結びつく様な行動をしていないからです。
つまり、イワンはオイディプスがそうであった様に
*父親殺しから遠ざかろうとして、父親殺しに辿り着いた
*父親殺しを遠ざける、避ける行動の積み重ねの挙げ句に父親殺しに辿り着いた
*父親殺しから遠ざかる道のり自体が、父親殺しへの道のりだったんですね。
そして、イワンの父親殺しから遠ざかる行動を強烈に後押しし邁進させたのは、イワンとスメルジャコフの間で共有された「神がなければすべてが許される」という信念と、それに基ずいたスメルジャコフの“神信仰”です。
フョ—ドル殺害は、イワンの父親殺しから遠ざかる行動と、スメルジャコフの“神信仰”が、符号してしまった為に起きたものです。
もっと詳しくいえば、フョ—ドル殺害は、イワンのフョ—ドルをも含めた生存権利の確認現場から遠ざかろうとする過剰な行動と、イワンとスメルジャコフの間
で共有された「神がなければすべてが許される」という信念に基ずいたスメルジャコフ(去勢派の白いキリスト)のフョ—ドル殺害をも含めた 過剰な“父親(天帝、心の親)信仰”、聖なる病癲癇が符号してしまった為に起きたものです。
読者は「カラ兄」を読み進むにつれて、イワンの遺産を独り占めしたい願望、計画により、父親が殺され・兄は流刑・召使いは自殺に追い込まれ・本人も錯乱に陥るという、大変な、しかし、まことにあっけない、みもふたもない結末を知らされることになります。
しかし、その結末は同時に、イワンの秘めた父親殺しの願望とそれを洞察したスメルジャコフによって実行されたもの“ですらない、今、ここの奇跡”、日本ではアマノジャク(天邪鬼)の話しとしてよく知られ、“孝行息子の恩返し”と呼ばれているものでもあるのです。
(17)
[747]
絹江はすごいぞ〜〜〜!
名前:オドラデク
投稿日時:09/12/08(火)
ミエハルさん
> とありますが、ここで描き出されている芥川の生母ふくの面影は、イワンとアリョーシャの母親ソフィヤを思わせるものがあります。
僕は「太宰治の人生を勝ち負けからはかることは出来ない」とするミエハルさんとDUさんの
意見には大賛成です。
しかし、ミエハルさんの狂女に関する意見には少し違和感があります。
狂女一般というものがあるわけではないし、変わっていればいいというものでもありません。
やっぱり、どういうかたちで狂っているのかが問題だと思います。
「いっけん変に思えて(見えて)実はまったく変な女性」というのもありますからね。 ^^
芥川の母親やソフィアを彷彿させる狂気を孕んだ女性ならまだいいですよ。
ルサンチマンを能動性に転化して、生ききり度200パーセント・ぶっちぎりの爆発存在な狂女なんてのもありますよ。
(それこそ俗物性の極みです)
僕の念頭には、ミエハルさんもご存知であろう三島の遺作「天人五衰」の狂女絹江があります
「罪と罰」のソーニャの様な女性を探して、または天性のなんとかやらで、絹江に辿りついてヨイショされているなんていったら目も当てられませんからね。
僕は”現実に”そういう女性にヨィショされて泣くにも泣けないでいる男性の先輩を見て、知っているんです。
老婆心ながら、一言述べさせていただきました。
(18)
気違い女
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:09/12/09(水)
>オドラデクさん
絹江は、僕は可愛いと思うんですよ。ちょっと、尾崎一雄の「芳兵衛」も思い出します。
多かれ少なかれ、女性は絹江のような自己欺瞞によって自身の人生を肯定しているものです。そういう女性的な自己欺瞞を、極端にカリカチュアライズしたのが絹江でしょう。
そして、『天人五衰』の透と絹江の物語は、一つの残酷で美しい純愛物語として読むことも出来ると僕は思っています。最後に透が光を失って二人の愛が完成するあたり、もしかしたら三島は、『春琴抄』を念頭に『天人五衰』を書いたのかも――ともちょっと思っています。
現代的に、よりグロテスクに、より救いなく語り直された『春琴抄』としての『天人五衰』。
透も偽物とされていますが、絹江も狂女としては偽物なのでしょうね。絹江の狂態は、あるいは、徹底的に理性的な打算に裏打ちされたものであって、『天人五
衰』に於ける勝利者は、最後に透を我が物とした絹江なのかも知れません。「清顕と聡子/透と絹江」の関係は、実はネガ・ポジの関係なのである、と考えてみ るのも面白そうです。
ところで、三島に於ける「気違い女」の原型としては、やはり、夏子婆さんが挙げられるでしょう。三島は、自身を文芸の世界に幽閉した夏子婆さんを回想して、次のように書いています。
「彼女は狷介不屈な、或る狂おしい詩的な魂だった」(『仮面の告白』)
夫に性病を移され男性を憎み、孫の三島を女の子として育てようとした夏子婆さんの狂気――、顧みれば、その「気違い女」の妄念からの脱出が、三島の一生の仕事であったようにも思います。
ドストエフスキーの小説でいえば、スタヴローギンとレビャートキナの関係と、透と絹江の関係は対比できるでしょう。
(19)
RE:三島由紀夫とドストエフスキー
名前:オドラデク
投稿日時:09/12/11(金)
ミエハルさん
> 現代的に、よりグロテスクに、より救いなく語り直された『春琴抄』としての『天人五衰』。
>
> 透も偽物とされていますが、絹江も狂女としては偽物なのでしょうね。絹江の狂態は、あるいは、徹底的に理性的な打算に裏打ちされたものであって、『天人五衰』に於ける勝利者は、最後に透を我が物とした絹江なのかも知れません。
そうですね。
絹江の妄想による爆走こそが「天人五衰」の起爆力ですからね。
ただ、僕の「天人五衰」観はミエハルさんの結論とは少し違います。
僕は、三島の筆力は「暁の寺」後半とは違い「天人五衰」ではグッと持ち直していると思うんです。
(この頃には三島はもう自決を決めている)
「天人五衰」では、三島のいじわる全開といったところでしょうか。
多くの人に「天人五衰」が「反カタルシス」「人を不愉快にする大傑作」と言われるのも頷けます。
しかし「天人五衰」は、単に、三島が戦後の世相への悪意からそういう物語展開を描いているというだけではなく、もっと、三島の4部作の執筆動機そのものにかかわる問題も孕んでいると思うんです。
(たとえば、認識者としての本多は三島と切り離しては考えずらい面もあること等)
僕は「天人五衰」で描かれていのは
* 表層にせり上がってくる
* 突出してくる
という事態だと思うんです。
(三島自身も自覚的に2巻の主人公勲を模して突出した)
というのも「天人五衰」の末尾の方で透が絹江から頭上に花を飾られる場面は、仏典にも人間が授かる最高の祝福儀礼としてあるからです。
(20)
RE:三島由紀夫とドストエフスキー
名前:オドラデク
投稿日時:09/12/11(金)
続き
また、どうみても「天人五衰」のラストを光の大団円として肯定することも難しい訳です。
ですから、僕は、「天人五衰」では、絹江を”ほんものの偽者”と呼ぶことが出来るとすれば
透は”ほんものの偽天人”と言えると思うんです。
この事態を言葉であらわすのは難しいです。
僕の身近の例えで言えば、僕と合同結婚した友人はだいたい月に一度位会っています。
僕は、最近の彼の暗いさえない様子から、きつい献金要請が来ているであろうことを直感します。
(彼は、以前には、それでも明るく振舞って暗い様子は隠していた)
僕は、最近、アメリカの統いち教会系列の新聞社が潰れかかっていて、日本の信徒にひとり100万円の献金要請が来ていることをネットで知りました。
そして、こないだ彼と会た時にそのことを切り出そうと思っていたところ、それ以前に彼の顔が暗いを飛び越えて”黒く光っている”ことに気がつきとても話を切り出せませんでした。
この事態はどうみても「光が射してきた!大勝利は近い」ではなく「これは!危ない」だと思うんです。
これらを「突出してくる」という事態と呼べると思うんです。
絹江を映像化するのは難しいでしょうね。
さすがの和*アキ子(本名 金福子)でも役不足だと思います。
(21)
○田アキ○
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:09/12/12(土)
>オドラデクさん
○の部分に正しい文字を入れてください。
「和田アキ子」
ブーッ!
正解は、
「串田アキラ」
でした。
……以上、なんとなく書いてみました。
『豊饒の海』に就いても、当トピックで続きをやりましょう。
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