過去の投稿記事(17)
(更新:24/03/08)




亀山訳がなぜ売れ
たのでしょうか?

(1〜3)

投稿者:
一ノ瀬、オドラデク、
Seigo





()

[590]
亀山訳がなぜ売れ
たのでしょうか?

名前:一ノ瀬
投稿日時:09/07/24()

 

初めて投稿させていただきます。一ノ瀬というものです。

ドストエフスキーに日ごろから触れていらっしゃる皆さんにお聞きしたいのですが、なぜ亀山訳の「カラマーゾフの兄弟」はベストセラーになったのでしょうか?

現代社会に何か要因があるのでしょうか?

私としては、変わった切り口から考えたのですが、村上春樹さんが絶賛していらっしゃるそうなので、その影響でドストエフスキーに手を出した方が多いのではないかと思っています。

 



(
)

[594]
亀山訳がなぜ売れ
たのでしょうか?
名前:オドラデク
投稿日時:09/07/26()


亀山さん、最近いいね。
父親殺しを力説している頃はちょっとひっかかったけど、最近は的確なことを書いていますね。

ドストエフスキーの読書会の通信に次の様にあったので笑いました。

ドストエフスキーと現代 

オタマジャクシと『184
先ごろ、日本各地でカエルやオタマジャクシの死骸が路上で、玄関先で、駐車場で見つかったというニュースがあった。取材は、どれも空から降ってきた、と いう見方だった。が、実際に空から降るところを目撃した人はいなかったようだ。この出来事について賢明なドストエフスキー読者は、ぴんと来たに違いない。 「これは何かある」と。案の定、ほどなくして村上春樹氏の『184』の宣伝が新聞、テレビなどで一斉に報じられた。偶然かも知れない。が、疑惑は残る。 どこかの田か沼で、カエルになるのを楽しみにして泳いでいたオタマジャクシを、無残にも撒き散らしたのは何者か。犯人像はわからぬが、もし関係するとしたら、見え透いた戦略である。しかし「やらせ」でも経済効果大。自然現象なら神のお告げで、ノーベル賞も夢でない。どちらに転んでもいいのだ。人間は何でもできる。何にでもなれる。


 2009623日 
朝日新聞「話題の村上春樹さん新作」

赤坂真理(作家)
「日本の戦後がわかった」 

森達也(映画監督・作家)
「善と悪の彼岸はどこか」 

亀山郁夫(ロシア文学者)
「諷刺ではない恐ろしさ」



(
)

 [687]
RE:亀山訳がなぜ売れ
たのでしょうか?

名前:Seigo
投稿日時:09/10/21()


レスが遅れましたが、一ノ瀬さんの問いかけ、亀山郁夫氏の新訳『カラマーゾフの兄弟』がかなり売れた理由や背景
については、いろいろな点が考えられるように思います。

一ノ瀬さんが挙げた、
村上春樹が絶賛したことも、その影響で全国の村上春樹ファンがあらためて新訳で『カラ兄弟』を読んだということで、その一つに数え挙げられるのでしょうが、私が注目したいと思っていることは、次などの面です。

・過去に米川訳を読もうとして途中挫折してしまった年輩の世代の方々が読みやすくなった『カラマーゾフの兄弟』ということで、あらためて読んでみようと、そのキャンペーンの中、買い求めたり、書店で手に取り購入して、次々と読んだ。

・「カラキョウ」などの愛称も生まれ、若者達の間にも、新訳『カラマーゾフの兄弟』は、けっこう、広まった。
(
以前伝言板でも話題に挙がりましたが、日テレの番組「あらすじで楽しむ世界名作劇場」で、ケンドーコバヤシ氏が冒頭で亀山氏の新訳『カラ兄弟』光文社古典新訳文庫全5巻を掲げて、『カラ兄弟』が紹介されて(放送は全巻刊行終了後の081)、その番組を観て買って読んだ人も多かったしょうね。)

特に年輩の方々が、『カラ兄弟』をあらためて読破して、どういうことを思ったのか、いろいろと知りたいものです。


 





新訳『罪と罰』について
(1〜8)

投稿者:
マイジョフスキー、Seigo
カフカの村、coderati
ka




()

[429]
新訳『罪と罰』について
 名前:マイジョフスキー
投稿日時:08/11/24()

 

 

総合ボードにSeigoさんが「新訳『罪と罰』への注目や反響は今一つ?」と書かれていましたが、第1巻が出たばかりですので、まだ本格的な論評はしにくいという事情もあるかもしれません。

 第1巻で驚いたのは、巻末の読書ガイドの「ラスコーリニコフの聞きちがい」です。老婆殺害の現場に絶対に現れないはずの時刻に、リザヴェータはなぜ姿を 現し、殺されたのか。亀山郁夫氏によれば、この謎は、おそらくラスコーリニコフの「聞きちがい」に起因しているというのです。

 少し長くなりますが、引用します。

ラスコーリニコフを最終的な「決断」へと導くのが、センナヤ広場でたまたま耳にした、商人夫婦とリザヴェータのやりとりである。商人夫婦は、彼女を「六時すぎ」に自宅に招いた。この「六時すぎ」の表現が微妙なのである。

 ロシア語では、「六時すぎ」の表現を「第七時め」という「順序数詞」を用いた表現によって表す。しかし、「七時に」というときは、「個数詞」をつかう。 ラスコーリニコフがセンナヤ広場に現れ、彼らのやりとりを耳にしたとき、順序数詞によるこの「六時すぎ」つまり「第七時め」が、彼の耳には、個数詞として 聞こえた可能性があるのである。なぜなら、商人のなまりはひどく、たまさかの通行人には「七時に」としか聞こえないくらい、語形がくずれていた。引用して みよう。

(フ・セモーム・チャスー)「六時すぎに」
(フ・セミ・チャソーフ)「七時に」

 もしも、商人夫婦が、なまらず正確に、(フ・セジモーム・チャスー)「六時すぎに」と発音していたら、通りがかったラスコーリニコフが聞き間違えるはず はなかったと思われる。こちらの正確なロシア語には、子音の(ドゥ)の音が入っているからである。ラスコーリニコフが千載一遇のチャンスととらえたこの小 さなディテールこそは、悪魔の囁きだったといわざるをえない。(キリル文字は省略)



 さて、問題の聞きちがいの箇所はどのように訳されているのか。

「明日、いらっしゃいよ、六時すぎに。先方もお見えになりますからね。一存でね。あなた、お決めなさい」(亀山訳P149



 これは従来の翻訳と違うようです。

「七時ですよ、明日の。あっちからも来ますから、自分で決めるんですな」(工藤誠一郎訳P149



 ロシア語がわからないので、ネット上の英語訳(Constance Garnett訳)の該当箇所(カッコ内はテキストの行数)をみてみました。

"About seven o'clock to-morrow. And they will be here. You will be able to deecide for yourself."(2503)



 英語でも「七時に」と訳しているのですね。

 亀山新訳と英訳でこのような時間のズレが生じているのは、第1巻だけで他に4箇所あります。

で、見ていると、そう、だいたい五時を過ぎたころでしたか、ソーニャは立ち上がってスカーフをかぶり、マントを着こんで、アパートを出ていき、八時過ぎにまた戻ってきました。(P46

At six o'clock I saw Sonia get up, put on her kerchief and her cape, and go out of the room and about nine o'clock she came back.(760)

 

この並木道はふだんから人通りが少なかったが、まして今は午後一時すぎの炎天下とあって、あたりに人の姿らしきものもほとんどなかった。(p115

This boulevard was never much frequented; and now, at two o'clock, in the stifling heat, it was quite deserted.(1867)

 

九時過ぎなら警察署も開いているはずだ……(P403

The police office is open till ten o'clock...(6977)



 英語テキストで"o'clock"を検索した18箇所中4箇所で時間のズレが生じています。最初の「六時すぎに」と「七時に」も含めて、ロシア語のわかる方に検証していただけると助かります。




(
)

[430]
RE:新訳『罪と罰』について
名前:Seigo
投稿日時:08/11/25()


マイジョフスキーさん、
「新訳『罪と罰』について」という項のトピ立て、ありがとさんです。
新訳『罪と罰』が出てから一ヶ月の気付きを総合ボードにちょっと書き込みましたが、近いうちにこちらに同トピを立てようと思っていたところだったので、まさにタイムリーでした。

訳の表現や文体の面だけでなくて、マイジョフスキーさんがさっそく挙げてくれたように、これまで及び最新の本国の研究成果(これこそ過去の訳者に比べての このたびの亀山氏の訳業の有利で持ち味発揮の面でしょう)も踏まえた新たな解釈や説に基づく訳出の箇所の指摘と検討もしていければと思います。(そういう 点で、各巻末の亀山氏による長い「解説(読書ガイド)」にも確かに注目ですね。)


なお、
先日、角川文庫から、過去に同文庫で刊行されていたが品切れになっていた、
米川正夫訳の『罪と罰』(
米川訳全集のぶんと同じ1968年改訂版のぶん)
が改版されて再刊され再び身近に読めるようになったので(なお、新潮文庫も工藤訳のぶんの前は、米川正夫訳のぶん(ただし改訂前の1951年初版のぶん)だった)、その米川訳『罪と罰』と比較して見ていくというのも、よいですね。
(
自分は『罪と罰』は最初は旺文社文庫の江川卓訳で読んだのですが、
 のちには、米川訳『罪と罰』にも親しみ、江川訳(現在は岩波文庫)
 個性だけでなく米川訳の個性や味にも愛着がありますので(なお、二
 者ほどの強い個性はないが新潮文庫の工藤精一郎訳も良いと思って
 ます)、三者の訳の表現の比較も当トピでできたらと思います。)



(
)

[431]
問題は、なぜそんな〜
名前:coderati
投稿日時:08/11/25()


問題は、なぜそんなややこしいことをドストエフスキーがしたか?ですね

「フ・セモーム・チャスー( В семом часу)」は「六時すぎ」と訳すほうが普通のようです(日本語の六時すぎと同じニュアンスかどうか、私は知りません)。江川卓訳でも「六時すぎ」です。 工藤さん、ガーネットさんの「七時」は読者の混乱を避けるためでしょうかねえ。その後ろに、ラスコーリニコフは、明日の晩、きっかり七時に、リザヴェータ が家にいないことを知った、というようなことが書いてありますので。こちらのほうは、正真正銘、ровно в семь часов(きっかり七時)です。

この「フ・セモーム・チャスー( В семом часу)」は亀山さんの解説どおり、よほどのなまりなのでしょうか。あるロシア語のサイト(中身は読んでないのでわかりませんが、罪と罰の映画かなんか の解説?)では、"в семом", то есть в седьмом часу("フ・セモーム"すなわちフ・セジモーム・チャスー)と断っていました。セジモームはseventhです。

他の三例でも亀山さんと江川さんは一致しています。以下、原文と江川訳です。
 
И вижу я, эдак часу в шестом, Сонечка встала,
надела платочек, надела бурнусик и с квартиры
отправилась, а в девятом часу и назад обратно
пришла.

で、私が見てますと、五時をまわったころでしたか、ソーニャが立ちあがって、プラトーク(ネッカチーフ)をかぶって、部屋から出ていきましたっけ。それで八時すぎになってから、また帰ってきたんです。(42ページ)

во втором часу и в такой зной

暑いさかりの一時すぎには(102ページ)

Контора в десятом часу отперта

警察署は九時過ぎなら開いているはずだが(350ページ)

なお、ソーニャのところ、часу в шестомをat six o'clockとするなら、в девятом часуはat nine o'clockとなるはずなんですが・・・

それから、時間に関してはもう一箇所、第一部の六ですが、

Семой час давно! 

六時はとうにまわったぞ!(江川訳146ページ)

のところはガーネットさん、「七時」でなく、

It struck six long ago
と訳しています。




(
)

[432]
時間のズレの謎は〜
名前:マイジョフスキー
投稿日時:08/11/25()


時間のズレの謎は解けましたが、ドストエフスキーの謎は解けません

Seigo
さん、

差し出がましかったかもしれませんが、新訳『罪と罰』について語りあう場として利用できればと思い、トピを立てました。新訳ではじめて気づいたことが第1巻だけでも、いくつがありましたので、いずれまた書き込みします。

coderati
さん、

さっそく調べていただきありがとうございました。「順序数詞」と「個数詞」の関係かもしれませんが、訳によって1時間のズレが生じていることがわかっただけでも大きな収穫です。

> 問題は、なぜそんなややこしいことをドストエフスキーがしたか?ですね 

本当にドストエフスキーのすることは謎が多いですね。その謎ときを読んだり、あれこれ想像するのがまた楽しみでもあります。

ロシア語関係の謎では、またお世話になるかもしれません。今後ともよろしくお願いいたします。




(
)

[441]
RE:新訳『罪と罰』について
名前:カフカの村
投稿日時:08/12/07()


マイジョフスキーさん、conderati さん
センナヤ広場で偶然耳にした商人夫妻の「6時すぎ」は、これで間違いありません。「第7時に」というのは、基本的には、6時から7時の間を意味しますが、 一般の使われ方としては、6時から6時20分までを意味します。とすると、やっぱりラスコーリニコフは聞きちがえていたとしか、考えられませんね。マイ ジョフスキーさんは、そうする意味がわからない、とお書きになっていますが、たしかにそのとおり。いま、亀山さんの解説を読みましたが、このあたりが妥当 な解釈かなと思いました。




(
)

[442]
>「フ・セモーム・チャ
スー( В семом часу)」

名前:Seigo
投稿日時:08/12/08()
09()22:30追記


亀山氏の解説及び皆さんの説明で、その箇所についての事情がいろいろとわかり、ありがたく思います。(リザヴェータがなぜその時間に現場に戻ってきたのかという事情も、これで、やっとわかりました。ドストエフスキーが創作においてその仕掛けを思いついたのも凄(すご)い! )

結局、ドストエフスキーが仕掛けたその巧妙なからくりを踏まえて(工藤訳や英訳の「七時ですよ」も、そのことを踏まえて訳出してるんでしょうかね)、「フ・セモー ム・チャスー( В семом часу)」の箇所を、訳者としては、どう訳しておくのが適切なのか、ということになりますかね。
商人が言おうとした文(原文)でそのまま訳せば「六時過ぎに」という亀山訳になり、商人がなまってしまってラスコーリニコフが誤って聞いた文を考慮すれば「七時ですよ」という工藤訳や英訳になるということですかね。
『罪と罰』を老婆殺しのシーンまで読んでいく読者へ向けては後者の訳の方が訳者の配慮があって無難と言えるのかな?

いずれにしても、その箇所についての訳者の解説が必要であり、その語注なり解説なりを、どこで行うか(たとえば旺文社文庫のようにそのページの左端に語注 を付す、新潮文庫の訳のようにそのあとに割注を付すなど)ということになります。その点では、このたび、亀山氏が巻末にその解説をきちんと付したことは賢 明な処置だと言えるんじゃないでしょうか。(ただ、上で述べたように、その箇所の訳の方は従来通り「七時ですよ」とした方が、ストーリーや読み進めていく 読者への配慮もあって、適切なのではないでしょうかね。)




(
)

[446]
聞き間違え?
名前:ka
投稿日時:08/12/11()


時刻の件、なかなか面白い話題ですね。
(英訳者ガーネット氏はロシア語の時刻の言い方を知らなかったのでしょうか。)


……ただ、そこで「ラスコーリニコフの聞き間違え」が生じた?という点については、亀山説でみなさん概ね納得しておられるようなので水を差すみたいですが、そう理解するのは多少無理があるように私は思います。

まず、「セヂモーム」→「セモーム」のなまり方は、さほど大した変化だとは考えづらく、要するに早口で言ったら子音「ヂ」が聞こえづらい、という程度のことでしょうし、それを別のものに聞き違える可能性は低そうです。
特に「フ・セミ・チャソーフ」とでは、アクセントのある母音まで異なっているのだから、なおさらのこと。

そもそも、もしラスコーリニコフが聞き間違えをした!というつもりでドストエフスキーが書いていたのなら、それを匂わせるような描写が必ずあるはずです。
ところが、上の引用箇所を読ませてもらった限りでは、そういった表現は見当たらないのですけれど。

※ついでに、「6時過ぎ」にお茶に招かれて出かけた人が「7時ちょうど」に家にいない…のって、別に普通のことじゃないですか?



(
)

[686]
RE:新訳『罪と罰』について
名前:Seigo
投稿日時:09/10/21()
 

7月に亀山訳の『罪と罰』の最終巻が出て新訳『罪と罰』の刊行が完結して以降、新訳『罪と罰』について、いくつかの本格的な賛否両論も出ているようですし、
 ( 8月には、森井友人氏が、新訳『カラマーゾフの兄弟』の問題箇所
の指摘に続いて、
「亀山郁夫氏の『罪と罰』の解説は信頼できるか?
― 『『罪と罰』ノート』および新訳『罪と罰』読書ガイド
の事実誤認について ― 」
という新訳『罪と罰』論をネット上で公開しています。→ こちら)

新訳『罪と罰』は、森井氏が指摘したように、訳出においていくつかの問題箇所はあるのでしょうが、
全体的には、訳文は、すらすら読みやすい訳になっている印象があります。
(
自分は新訳『罪と罰』はまだ全部は読み通していませんが、老婆殺害の場面
 をはじめ、亀山氏の日本語訳の持ち味やセンス(良き日本語感覚)が、このた
 びも発揮されていて、訳文自体に関しては、全般的に、新たな名訳だと自分は
 感じています、)








新訳『悪霊』のこと
(1〜8)

投稿者:
Seigo
、オドラデク




()

[767]
新訳『悪霊』のこと
名前: Seigo
投稿日時:10/03/07()


『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』の新訳に引き続いて、亀山郁夫氏は、『小説宝石』(光文社の月刊誌)で、今年(2010)の2月号(122日刊)から、『悪霊』の新訳の連載を開始しています。
(
用語や人名の解説や章の訳出ごとに「解説」が付いている。)

第二回目のぶん(3月号)も先月の22日に発行されたので、その新訳に触れての気付き等があれば、意見交換していきましょう。



追記: 10/11/02()

 6月刊行の7月号で6回にわたっての『小説宝石』での新訳の連載は終了し、
 『悪霊』(全三部)の第一部として、光文社古典新訳文庫で10年9月に刊行さ
 れた。

 
作中の「スタヴローギンの告白」の章は、103月に、『総特集=ドストエフス
 キー』に掲載という形でその新訳を発表している。( → 書き込み [771] )



追記: 12/01/03()

 第二部・第三部は雑誌連載という形を取らずに11年の4月・12月に同文庫よ
 り刊行された。

 「スタヴローギンの告白」の章は、第二部の第8章と第9章の間に置くという形
 を採っている。 








(
)

[768]
発表の形や連載期間のこと
名前:Seigo
投稿日時:10/03/07()


『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』の新訳が文庫本で追って刊行されたのに比べ、このたびの『悪霊』は、同 じ光文社からとは言え月刊誌に連載という形をとったのは、連載開始の予告もほとんどされていなかったことも含め、意表を突かれた感じでした。亀山氏や光文 社側のそのあたりの意図(目当て)や事情も気になるところです。

「スタヴローギンの告白」の章は作中のどこに置かれるのか(まだその予告はしていません)も気になるところですが、初回の訳量から見て、連載は(光文社側は「短期集中連載」と銘打(めいう)ってます)
18回〜12回程度(1年半〜1年)になるのでしょうかね?




(
)

[771]
亀山氏の新訳「チーホンの庵室で」( 『悪霊』 第二部第九章 )
名前:Seigo
投稿日時:10/03/29()

>「スタヴローギンの告白」の章

の亀山氏の新訳はすでに他の刊行本に掲載されていた――。

今日、今月の12日に刊行された、
『総特集=ドストエフスキー』
 ( 現代思想20104月臨時増刊号。青土社10312日刊。)
の細目(さいもく)を見て、気付き、驚きました。

その細目の中に、

【ドストエフスキー新訳】
チーホンの庵室で 『悪霊』第二部第九章/ドストエフスキー(訳・解説=亀山郁夫)

と、あるじゃありませんか! 
→ 細目はこちら

新訳『悪霊』は、今のところ、『小説宝石』に、

第一部(全五章)の、1章→2章と、最初の章から順次毎号一章ずつ(3月号・4月号は各々2章の前半・後半を訳出)掲載されているので、章「スタヴローギンの告白」は、米川正夫訳のぶんをはじめ(ただし、御存じの通り、新潮文庫の江川卓訳のぶんは全体の末部に独立して置いている)、これまでの慣行通り、今後、第二部(章「スタヴローギンの告白」を含めるなら全十一章)の第8章まで順次発表されて、第二部第8章の後(あと)に訳出されるのかな、と自分は思っていたので、また、意表を突かれた感じです。
(
岩波文庫の米川正夫訳では、章「スタヴローギンの告白」は、 第二部第8章と第二部第9章の間に「未発表の章 スタヴローギンの告白」 と題して置かれてますが、このたびの新訳は、今後の一括(いっかつ)しての刊行の際には、江川卓訳とは違って、上記の通り「第二部第九章」という前後の章と同等の一章として第二部内に置くのでしょうかね。

 江川卓訳のぶんは
・底本(ドストエフスキーの朱筆が数多く入っている「校正刷版」) 
・他本(アンナ夫人が筆写した「筆写版」)

 の二つの原文の異同がわるように掲載していますが、亀山氏の訳は、どのテキストを底本として採用しているのか、訳文はその採った底本一本だけを訳したものなのか、なども気になるところです。今週中に『総特集=ドストエフスキー』が入手できれば、入手して、そのあたりのことは確認してみます。)



追記: 10/03/29()21:55

 あとで思い出しましたが、
 章「スタヴローギンの告白」の中の、
チーホン主教のもとへ訪れたスタヴローギンが持参し手渡してチーホン主教が読み上げる文書「告白」については、5年前の氏の著作『『悪霊』神になりたかった男』(みすず書房20056月刊)の最初の部分(p6p34)に、

テキスト――「告白」(ドストエフスキー『悪霊』より)

 として、すでに訳出して掲載していましたね。

 亀山氏の上のテキストはこれまで諸氏からいろいろと指摘を受けたという経緯もあり、このたびの掲載に際して亀山氏は 「告白」のその以前の訳文に手を加えたのかどうかという点も気になるところです。

 



(
)

[776]
>新訳「チーホンの庵室で」
名前:Seigo
投稿日時:10/04/01()


昨日、『総特集=ドストエフスキー』を入手しました。

以下は、
その中の、

チーホンの庵室で 『悪霊』第二部第九章/ドストエフスキー
(訳・解説=亀山郁夫)

を見ての気付きです。


○ 底本としては、

『『悪霊』神になりたかった男』(みすず書房20056月刊)に掲載のテキスト――「告白」(ドストエフスキー『悪霊』より)
と同じく、
章「スタヴローギンの告白」の校正刷版を第二部9章として組み込んでいるサラスキナ編『悪霊』(1996年にサンクトペテルブルグで刊行されたもの。いわゆるアカデミー版全集のうちの一巻。)

を採用している。
(
そのテキストの訳としては本邦初訳になっている。)

ただし、「テキスト――「告白」(ドストエフスキー『悪霊』より)」では省いていた箇所(マトリョーシャの年齢を示す箇所)

14歳前後とおぼしき

を、新たに訳出している。
(
箇所「14歳前後とおぼしき」は、ドストエフスキーが「校正刷」で朱を入れて抹消している箇所ですが、亀山氏は、本来の本文を重視したということで新たに採用したのでしょう。)
採るのは好ましくない箇所として諸氏が指摘した箇所であり、また、議論が起こるかもしれません。


○ 章中の文書「告白」を、「テキスト――「告白」(ドストエフスキー『悪霊』より)」と見比べてみると、

・当時とある目論見から月ぎめで借りたもので、
→ 当時、密会を目的に月ぎめで借りていたもので、

・私 → わたし

をはじめ、
表現や表記を少なからず手直ししています。

誤った解釈に基づく誤訳ではないかと諸氏から指摘のあったマトリョーシャの様子を描写している箇所、

 ・打たれるたびになにか奇妙な声をあげて泣いていた。

を、このたび手直しして、

 ・打たれるたびになにか奇妙な感じにしゃくり声をあげていた。

と訳出していることは特に注目できるでしょう。


 △参照:
亀山郁夫氏の『悪霊』の
少女マトリョーシャ解
釈に疑義を呈す


○ 付している「解説」は、
解説「スタヴローギンの告白」はどのようにして生まれたか?
と題して、
掲載が成らなかったことも含め、章「スタヴローギンの告白」の成立の過程のことや、テキストとしての校正刷版と筆写版のことを詳しく解説していて、新たにいろいろと参考になる解説になっていま
す。
 



(
)

[817]
RE:新訳『悪霊』のこと
名前:オドラデク
投稿日時:10/06/08()


 {悪霊}新訳{スタローギンの告白}中の欠落箇所を掲載します。
 告白中の、初めからない二枚目に関してのスタローギンとチーホンのやり取りが抜けていました。 ^^


私は立ち上がって、すんでのことにそのまま出て行こうとした。こんな小さな子供がと思うと私にはそれがそれほど不愉快だったのである。それは私がそのとき急に感じた憐愁の情によるものであった......
『ここで紙片は終わりになり、文章はぷつりと尻切れとんぼになっていた。
 そこでどうしても一言しないわけにはいかない事態が生じた。
 紙片はぜんぶで五枚あった。たったいま読み終わったばかりの、文章が尻切れとんぼになっている一枚は、チーホンの手に握られ、あとの四枚はスタローギン が手に持っていた。チーホンの問いただすような視線にうながされて、すでにそれを待ち受けていた相手は、すぐにそのつずきを彼に手渡した。
「しかしここにも省略したところがありますね?」と紙片をたしかめて、チーホンはたずねた。「おや!これは三枚目じゃありませんか、二枚目がないことには」
「そうです、三枚目です。でもそれは......その二枚目の紙片はいま検閲に引っかかっているものですから」とてれたように笑いながら、急いでスタロー ギンは答えた。彼は長椅子の隅のほうに坐って、それまでずっと身動きひとつしないで、紙片に目を通しているチーホンの姿を熱に浮かされたような目つきで じっと見まもっていたのである。「いずれそのうちお目にかけますよ、あなたに......読んでいただけるようになりましたらね」と彼は妙に取ってつけた ようななれなれしい身振りをして付け加えた。彼は笑っていた。だが彼の様子は見ていても憐れなくらいであった。
"
「もうこうなれば二枚目だろうと三枚目だろうと、どっちでも同じことじゃありませんか......"とチーホンは言いかけた。
「どっちでも同じことですって?どうしてですか?」と不意にすさまじい剣幕で、スタローギンはからだを乗り出すようにして詰め寄った。「同じだなんてこと はぜんぜんありませんよ。ははあ!あなたはいまご多分にもれず、いかにも修道僧らしく、なにかとんでもない醜悪なことがあったに違いないと、まずそれを 疑ってみたいんでしょう。なにしろ修道僧は刑事事件にかけては、それこそこの上なしの予審判事ですからね!」
 チーホンは無言のままじっと相手の顔を見つめていた。
「どうぞご安心ください。その子娘が馬鹿な子で、妙な誤解をしたからと言って、なにも僕の責任じ ありませんからね......なんにもありゃしませんでしたよ。なあん、にも、ね」
「それは結構でした」と言ってチーホンは十字を切った。
「そんなことをいちいち説明していたら切りがありませんよ......これは......これは単に心理的な誤解にすぎません......
 彼は不意に真赤になった。嫌悪と、やるせなさと、絶望の感情がその顔に浮かんだ。彼はぷつりと断ち切ったように、口をつぐんでしまった。ふたりとも長いこと、一分以上も口をきかなければ、互いに顔を見合わせようともしなかった。
「いいですか、それよりもとにかく読んで下さい」と額の冷汗を機械的に指でぬぐいながら、彼は言った。「それに......なによりもいちばんいいのは、 僕の顔をぜんぜんごらんにならないことです......僕はいま、夢でも見ているような気がしているんです......そして......どうか僕に堪忍 袋の緒を切らせないようにしてください」と彼はささやくように付け加えた。
 チーホンは急いで目をそらして、三枚目の紙片を手に取ると、今度はもう途中でやめずに最後まで読みつずけた。スタローギンが手わたした三枚の紙片には、 それ以上中断された箇所は見当らなかった。だが三枚目の紙片もやはり文章の中途からはじまっていた。一字一句そのままにここに引用することにする−−— −』
 すべてが終わったとき、彼女は当惑してもじもじしていた。

(""
は引用者)

ドストエフスキー全集 8 筑摩書房
第八 イワン皇子 スタローギンの告白(チーホンを訪ねて)
小沼文彦訳 ページ424〜425より




(
)

[819]
RE:新訳『悪霊』のこと
名前:オドラデク
投稿日時:10/06/13()


新訳『悪霊』{スタローギンの告白}中の欠落箇所(初めからない二枚目に関してのスタローギンとチーホンのやり取り)は、『悪霊』全体を理解する上でも欠かせない内容です。
欠落箇所のない{スタローギンの告白}は、{丸穴を屋根にした正教寺院}に喩えられると思います。
そして、何より欠落箇所が欠かせないのは、『悪霊」を読む読者がドストエフスキーに笑われてしまわない為にです。

「〜〜〜そこで、問題となるのは、「すべてが終わったとき」の「すべて」の意味だが、読者は、この「すべて」の一語で、一気に妄想を膨らませることにな る。しかし他方、読み方によっては、この「すべて」には、すでに行われた行為以外の何ものも示唆されていない可能性もある。〜〜〜とすると、ドストエフス キーは、先のチーホンのみならず「チーホンの庵室で」を読んできかせた親しい友人や、未来の読者たちを、彼らのあらぬ妄想ゆえに嘲笑ったことになる」
(「現代思想」特集ドストエフスキー 2010年4月号{解説・スタローギンの告白はどのようにして生まれたか?}亀山郁夫 ページ7576より)

といった最悪の事態を避ける為にです。




(
)

[820]
RE:新訳『悪霊』のこと
名前:オドラデク
投稿日時:10/06/13()


 続き

欠落箇所がどうしても欠かせないもうひとつの理由は、私達『悪霊』読者の作者ドストエフスキーへの礼儀の為にです。
ドストエフスキー自身が、「われらがサド」(ストラホフの命名)等との汚名を覚悟してまで『悪霊』に「告白」を掲載させようとした行動に対しての礼儀です。
ドストエフスキーが、その最大効果を狙って、わざわざツルゲーネフの元に赴き、自分のあることないことをふうちょうし、ストラホフとかいうラッパにも狙いをつけて行動した行為に対してですね。
もっとも、最大効果が期待出来そうなツルゲーネフでさえも、ドストエフスキーの行動のおかしさにすぐに気がついて「あなたは、わざわざそんなことを話す為に私のところへ来たのか!」と悲鳴をあげましたけどね。

亀山氏によると、スタローギンはドストエフスキー自身の「魂から」取り出してきた人物らしいです。
スタローギンを愛することができる人間とは、スタローギンとマトリョーシャの間で共有された、歓喜・笑い・淫蕩を共有し、スタローギンを大爆笑出来る者かもしれませんね。



(
)

[833]
RE:新訳『悪霊』のこと
名前:オドラデク
投稿日時:10/07/15()

欠落箇所がないと、『告白』の全体理解も難しいものになります。
読者には、チーホンとスタローギンの対話・やりとりを手がかりにして、はじめて『告白』の全貌が見通し出来るものになります。
何故なら、『告白』を読んで、自分がスタローギンの災難を密かに一番面白がった者であると告白するチーホンこそが、スタローギン(とマトリョーシャ)の一番の良き理解者だからです。
チーホンによって、読者が、ドストヱフスキーの笑い者にならずにすんでいるのです。

「いやとんでもない、私は世間の人というよりも、むしろ自分をもとにして判断したのですよ!{私は世間の人というよりも、むしろ自分のことを考えにおいてそう言ったのですよ!}とチーホンは叫んだ。
「本当ですか?いったいあなたの心の中に僕のこの災難をおもしろがるような、そんな気持ちがこれっぽっちでもおありなのですか?」
「そうですな、あるかもしれませんよ。いや、たぶん、あるに決まっています!」
(ドストエフスキー全集 8 筑摩書房 第八イワン皇子 スタローギンの告白(チーホンを訪ねて)小沼文彦訳 ページ445より)

しかもチーホンが面白がったのは、スタローギンの災難だけではありません。
チーホンは、スタローギンにとって、マトリョーシャの威嚇でさえもが恐怖や哀れみではなく滑稽 なものであったと断言します。

「〜〜〜あなたが犯した暴行の冷酷さなのか、それともその際に示された臆病な態度なのでしょうか?この文のあるところではあなたはむしろ、その少女のおど かすような身振りがあなたにとってもはや滑稽なものではなくて、実に恐ろしいものであったということを、あなたの読者に信じ込ませようとあせっておられる ようじゃないですか。しかしたとえ一瞬間でも、果たしてそれはあなたにとって滑稽だったのでしょうかね? いや、たしかにそうだったのです。私ははっきりそう言います」
(ドストエフスキー全集 8 筑摩書房 第八イワン皇子 スタローギンの告白(チーホンを訪ねて)小沼文彦訳 ページ440)より (新訳では欠落)

また、チーホンとスタローギンの対話・やりとりという手がかりがなければ、読者には、『告白』の展開はおろか『告白』中の出来事も意味不明なものになってしまいます。

*
 どうして、マトリョーシャが、スタローギンとの{あのこと}の後で「神様を殺してしまった」と感じたのか?。
*
 どうして、マトリョーシャが死に赴かなければならなかったのか?
*
 どうして、スタローギンは、マトリョーシャの死を見過ごし見とどけなければならなかったのか?
*
 どうして、マトリョーシャの死が必要だったのか?
*
 何故、マトリョーシャの死が{必要なもの}なのか?

さらには、どうして、ドストヱフスキーが『スタローギンの告白』を掲載することに執拗にこだわったのか?
『スタローギンの告白』が『悪霊』の中心に位置しているということは何を意味しているのか?

これらが、チーホンとスタローギンの対話・やりとりを通じて、はじめて読者には見渡せるものになるのです。
そして、『告白』を読み終えたチーホンとスタローギンの話題も、主に『告白』中の{あのこと}(とその){滑稽さ}を巡り白熱したものになっていきます。