新訳『罪と罰』について
(1〜8)
投稿者:
マイジョフスキー、Seigo、
カフカの村、coderati、
ka
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新訳『罪と罰』について
名前:マイジョフスキー
投稿日時:08/11/24(月)
総合ボードにSeigoさんが「新訳『罪と罰』への注目や反響は今一つ?」と書かれていましたが、第1巻が出たばかりですので、まだ本格的な論評はしにくいという事情もあるかもしれません。
第1巻で驚いたのは、巻末の読書ガイドの「ラスコーリニコフの聞きちがい」です。老婆殺害の現場に絶対に現れないはずの時刻に、リザヴェータはなぜ姿を
現し、殺されたのか。亀山郁夫氏によれば、この謎は、おそらくラスコーリニコフの「聞きちがい」に起因しているというのです。
少し長くなりますが、引用します。
ラスコーリニコフを最終的な「決断」へと導くのが、センナヤ広場でたまたま耳にした、商人夫婦とリザヴェータのやりとりである。商人夫婦は、彼女を「六時すぎ」に自宅に招いた。この「六時すぎ」の表現が微妙なのである。
ロシア語では、「六時すぎ」の表現を「第七時め」という「順序数詞」を用いた表現によって表す。しかし、「七時に」というときは、「個数詞」をつかう。
ラスコーリニコフがセンナヤ広場に現れ、彼らのやりとりを耳にしたとき、順序数詞によるこの「六時すぎ」つまり「第七時め」が、彼の耳には、個数詞として 聞こえた可能性があるのである。なぜなら、商人のなまりはひどく、たまさかの通行人には「七時に」としか聞こえないくらい、語形がくずれていた。引用して
みよう。
(フ・セモーム・チャスー)「六時すぎに」
(フ・セミ・チャソーフ)「七時に」
もしも、商人夫婦が、なまらず正確に、(フ・セジモーム・チャスー)「六時すぎに」と発音していたら、通りがかったラスコーリニコフが聞き間違えるはず
はなかったと思われる。こちらの正確なロシア語には、子音の(ドゥ)の音が入っているからである。ラスコーリニコフが千載一遇のチャンスととらえたこの小 さなディテールこそは、悪魔の囁きだったといわざるをえない。(キリル文字は省略)
さて、問題の聞きちがいの箇所はどのように訳されているのか。
「明日、いらっしゃいよ、六時すぎに。先方もお見えになりますからね。一存でね。あなた、お決めなさい」(亀山訳P149)
これは従来の翻訳と違うようです。
「七時ですよ、明日の。あっちからも来ますから、自分で決めるんですな」(工藤誠一郎訳P149)
ロシア語がわからないので、ネット上の英語訳(Constance Garnett訳)の該当箇所(カッコ内はテキストの行数)をみてみました。
"About seven o'clock
to-morrow. And they will be here. You will be able to deecide for
yourself."(2503)
英語でも「七時に」と訳しているのですね。
亀山新訳と英訳でこのような時間のズレが生じているのは、第1巻だけで他に4箇所あります。
で、見ていると、そう、だいたい五時を過ぎたころでしたか、ソーニャは立ち上がってスカーフをかぶり、マントを着こんで、アパートを出ていき、八時過ぎにまた戻ってきました。(P46)
At six o'clock I saw Sonia get up, put on her kerchief and her cape, and go
out of the room and about nine o'clock she came back.(760)
この並木道はふだんから人通りが少なかったが、まして今は午後一時すぎの炎天下とあって、あたりに人の姿らしきものもほとんどなかった。(p115)
This boulevard was never much frequented; and now, at two o'clock, in the
stifling heat, it was quite deserted.(1867)
九時過ぎなら警察署も開いているはずだ……(P403)
The police office is open till ten o'clock...(6977)
英語テキストで"o'clock"を検索した18箇所中4箇所で時間のズレが生じています。最初の「六時すぎに」と「七時に」も含めて、ロシア語のわかる方に検証していただけると助かります。
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RE:新訳『罪と罰』について
名前:Seigo
投稿日時:08/11/25(火)
マイジョフスキーさん、
「新訳『罪と罰』について」という項のトピ立て、ありがとさんです。
新訳『罪と罰』が出てから一ヶ月の気付きを総合ボードにちょっと書き込みましたが、近いうちにこちらに同トピを立てようと思っていたところだったので、まさにタイムリーでした。
訳の表現や文体の面だけでなくて、マイジョフスキーさんがさっそく挙げてくれたように、これまで及び最新の本国の研究成果(これこそ過去の訳者に比べての このたびの亀山氏の訳業の有利で持ち味発揮の面でしょう)も踏まえた新たな解釈や説に基づく訳出の箇所の指摘と検討もしていければと思います。(そういう 点で、各巻末の亀山氏による長い「解説(読書ガイド)」にも確かに注目ですね。)
なお、
先日、角川文庫から、過去に同文庫で刊行されていたが品切れになっていた、
米川正夫訳の『罪と罰』(米川訳全集のぶんと同じ1968年改訂版のぶん)
が改版されて再刊され再び身近に読めるようになったので(なお、新潮文庫も工藤訳のぶんの前は、米川正夫訳のぶん(ただし改訂前の1951年初版のぶん)だった)、その米川訳『罪と罰』と比較して見ていくというのも、よいですね。
( 自分は『罪と罰』は最初は旺文社文庫の江川卓訳で読んだのですが、
のちには、米川訳『罪と罰』にも親しみ、江川訳(現在は岩波文庫)の
個性だけでなく米川訳の個性や味にも愛着がありますので(なお、二
者ほどの強い個性はないが新潮文庫の工藤精一郎訳も良いと思って
ます)、三者の訳の表現の比較も当トピでできたらと思います。)
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問題は、なぜそんな〜
名前:coderati
投稿日時:08/11/25(火)
問題は、なぜそんなややこしいことをドストエフスキーがしたか?ですね
「フ・セモーム・チャスー(
В семом часу)」は「六時すぎ」と訳すほうが普通のようです(日本語の六時すぎと同じニュアンスかどうか、私は知りません)。江川卓訳でも「六時すぎ」です。
工藤さん、ガーネットさんの「七時」は読者の混乱を避けるためでしょうかねえ。その後ろに、ラスコーリニコフは、明日の晩、きっかり七時に、リザヴェータ が家にいないことを知った、というようなことが書いてありますので。こちらのほうは、正真正銘、ровно
в семь часов(きっかり七時)です。
この「フ・セモーム・チャスー( В семом часу)」は亀山さんの解説どおり、よほどのなまりなのでしょうか。あるロシア語のサイト(中身は読んでないのでわかりませんが、罪と罰の映画かなんか
の解説?)では、"в семом", то
есть в седьмом часу("フ・セモーム"すなわちフ・セジモーム・チャスー)と断っていました。セジモームはseventhです。
他の三例でも亀山さんと江川さんは一致しています。以下、原文と江川訳です。
И вижу я, эдак часу в шестом,
Сонечка встала,
надела платочек, надела бурнусик и с квартиры
отправилась, а в девятом часу и назад обратно
пришла.
で、私が見てますと、五時をまわったころでしたか、ソーニャが立ちあがって、プラトーク(ネッカチーフ)をかぶって、部屋から出ていきましたっけ。それで八時すぎになってから、また帰ってきたんです。(42ページ)
во втором часу и в такой зной
暑いさかりの一時すぎには(102ページ)
Контора в десятом часу отперта
警察署は九時過ぎなら開いているはずだが(350ページ)
なお、ソーニャのところ、часу в шестомをat six o'clockとするなら、в
девятом часуはat nine o'clockとなるはずなんですが・・・
それから、時間に関してはもう一箇所、第一部の六ですが、
Семой час давно!
六時はとうにまわったぞ!(江川訳146ページ)
のところはガーネットさん、「七時」でなく、
It struck six long agoと訳しています。
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時間のズレの謎は〜
名前:マイジョフスキー
投稿日時:08/11/25(火)
時間のズレの謎は解けましたが、ドストエフスキーの謎は解けません
Seigoさん、
差し出がましかったかもしれませんが、新訳『罪と罰』について語りあう場として利用できればと思い、トピを立てました。新訳ではじめて気づいたことが第1巻だけでも、いくつがありましたので、いずれまた書き込みします。
coderatiさん、
さっそく調べていただきありがとうございました。「順序数詞」と「個数詞」の関係かもしれませんが、訳によって1時間のズレが生じていることがわかっただけでも大きな収穫です。
> 問題は、なぜそんなややこしいことをドストエフスキーがしたか?ですね
本当にドストエフスキーのすることは謎が多いですね。その謎ときを読んだり、あれこれ想像するのがまた楽しみでもあります。
ロシア語関係の謎では、またお世話になるかもしれません。今後ともよろしくお願いいたします。
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RE:新訳『罪と罰』について
名前:カフカの村
投稿日時:08/12/07(日)
マイジョフスキーさん、conderati さん
センナヤ広場で偶然耳にした商人夫妻の「6時すぎ」は、これで間違いありません。「第7時に」というのは、基本的には、6時から7時の間を意味しますが、
一般の使われ方としては、6時から6時20分までを意味します。とすると、やっぱりラスコーリニコフは聞きちがえていたとしか、考えられませんね。マイ ジョフスキーさんは、そうする意味がわからない、とお書きになっていますが、たしかにそのとおり。いま、亀山さんの解説を読みましたが、このあたりが妥当
な解釈かなと思いました。
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>「フ・セモーム・チャ
スー( В семом часу)」
名前:Seigo
投稿日時:08/12/08(月)
※09(火)22:30追記
亀山氏の解説及び皆さんの説明で、その箇所についての事情がいろいろとわかり、ありがたく思います。(リザヴェータがなぜその時間に現場に戻ってきたのかという事情も、これで、やっとわかりました。ドストエフスキーが創作においてその仕掛けを思いついたのも凄(すご)い! )
結局、ドストエフスキーが仕掛けたその巧妙なからくりを踏まえて(工藤訳や英訳の「七時ですよ」も、そのことを踏まえて訳出してるんでしょうかね)、「フ・セモー ム・チャスー( В семом часу)」の箇所を、訳者としては、どう訳しておくのが適切なのか、ということになりますかね。
商人が言おうとした文(原文)でそのまま訳せば「六時過ぎに」という亀山訳になり、商人がなまってしまってラスコーリニコフが誤って聞いた文を考慮すれば「七時ですよ」という工藤訳や英訳になるということですかね。
『罪と罰』を老婆殺しのシーンまで読んでいく読者へ向けては後者の訳の方が訳者の配慮があって無難と言えるのかな?
いずれにしても、その箇所についての訳者の解説が必要であり、その語注なり解説なりを、どこで行うか(たとえば旺文社文庫のようにそのページの左端に語注
を付す、新潮文庫の訳のようにそのあとに割注を付すなど)ということになります。その点では、このたび、亀山氏が巻末にその解説をきちんと付したことは賢
明な処置だと言えるんじゃないでしょうか。(ただ、上で述べたように、その箇所の訳の方は従来通り「七時ですよ」とした方が、ストーリーや読み進めていく
読者への配慮もあって、適切なのではないでしょうかね。)
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聞き間違え?
名前:ka
投稿日時:08/12/11(木)
時刻の件、なかなか面白い話題ですね。
(英訳者ガーネット氏はロシア語の時刻の言い方を知らなかったのでしょうか。)
……ただ、そこで「ラスコーリニコフの聞き間違え」が生じた?という点については、亀山説でみなさん概ね納得しておられるようなので水を差すみたいですが、そう理解するのは多少無理があるように私は思います。
まず、「セヂモーム」→「セモーム」のなまり方は、さほど大した変化だとは考えづらく、要するに早口で言ったら子音「ヂ」が聞こえづらい、という程度のことでしょうし、それを別のものに聞き違える可能性は低そうです。
特に「フ・セミ・チャソーフ」とでは、アクセントのある母音まで異なっているのだから、なおさらのこと。
そもそも、もしラスコーリニコフが聞き間違えをした!というつもりでドストエフスキーが書いていたのなら、それを匂わせるような描写が必ずあるはずです。
ところが、上の引用箇所を読ませてもらった限りでは、そういった表現は見当たらないのですけれど。
※ついでに、「6時過ぎ」にお茶に招かれて出かけた人が「7時ちょうど」に家にいない…のって、別に普通のことじゃないですか?
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RE:新訳『罪と罰』について
名前:Seigo
投稿日時:09/10/21(水)
7月に亀山訳の『罪と罰』の最終巻が出て新訳『罪と罰』の刊行が完結して以降、新訳『罪と罰』について、いくつかの本格的な賛否両論も出ているようですし、
( 8月には、森井友人氏が、新訳『カラマーゾフの兄弟』の問題箇所
の指摘に続いて、
「亀山郁夫氏の『罪と罰』の解説は信頼できるか?
― 『『罪と罰』ノート』および新訳『罪と罰』読書ガイド
の事実誤認について ― 」
という新訳『罪と罰』論をネット上で公開しています。→ こちら。)
新訳『罪と罰』は、森井氏が指摘したように、訳出においていくつかの問題箇所はあるのでしょうが、
全体的には、訳文は、すらすら読みやすい訳になっている印象があります。
( 自分は新訳『罪と罰』はまだ全部は読み通していませんが、老婆殺害の場面
をはじめ、亀山氏の日本語訳の持ち味やセンス(良き日本語感覚)が、このた
びも発揮されていて、訳文自体に関しては、全般的に、新たな名訳だと自分は
感じています、)
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