芥川龍之介とドストエフスキー
(1〜26)
投稿者:
Seigo、大森、DU、
(1)
[434]
芥川龍之介とドストエフスキー
名前:Seigo
投稿日時:08/12/02(火)
・芥川龍之介のドストエフスキー受容とその影響
・芥川龍之介とその文学・思想とドストエフスキーのそれとの比較
などについて、気付き・情報・意見等があれば、聞かせて下さい。
芥川龍之介
ドストエフスキー
(2)
[435]
芥川のドストエフスキー受容情報(1)/芥川龍之介の人生観のこと
名前:Seigo
投稿日時:08/12/04(木)
【参考(1)】
○芥川におけるドストエフスキーのことについての情報(1)
・芥川は、『カラ兄弟』を英訳のぶんで短期日の間に読み終えている。『罪と罰』も若い時期に読了しており、「とりわけラスコーリニコフがソーニャとランプの下で聖書を読むシーンを実に
touchingだったと思った」と知人に語っている。ドストエフスキーの作品は四、五作、読んだらしい。
・芥川は、晩年の作品(『歯車』等)の中で、ドストエフスキーの作品や登場人物のことにいくどか触れている。
・『侏儒の言葉』では、ドストエフスキーの小説について、
「ドストエフスキーの小説はあらゆる戯画に充ち満ちている。尤(もっと)も、その又、戯画の大半は悪魔をも憂鬱にするに違いない。」
と書いた。
・短編小説「蜘蛛の糸」は、ドストエフスキーの作品の中の一挿話((『カラ兄弟』の中のグルーシェンカが語った「一本の葱」の話)を踏まえたものだと吉田精一氏をはじめ、研究者の間でみなされていた時期があった。(その典拠については現在では別の説が有力視されている。)
ほかに、短編「首が落ちた話」はドストエフスキーの作品(『白痴』)の中の一挿話を踏まえているのではないかという指摘あり。
………………………
○芥川龍之介の人生観をめぐって――「人間は考えることによって不幸になっている」(『パパラギ』)
以下は、芥川の人生観を表明している作品の中の箇所です。
「人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、また存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後さえ、腸加太児(ちょうカタル)の起ることもあると同時に、また存外楽楽と消化し得ることもある。こういう無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。」
(芥川龍之介『侏儒の言葉』)
「人生を幸福にする為(ため)には、日常の瑣事(さじ)を愛さなければならぬ。雲の光り、竹の戦(そよ)ぎ、群雀の声、行人(こうじん)の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。人生を幸福にする為には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁(うれい)を破ったであろう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を与えたかも知
れない。いや、芭蕉の一生は享楽の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に楽しむ為には、やはり又微妙に苦しまなけ
ればならぬ。人生を幸福にする為には、日常の瑣事に苦しまなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。」
(芥川龍之介『侏儒の言葉』)
※、これらの文章の言い回しは『カラ兄弟』のゾシマ長老の教説の中のそれに似ているので、ゾシマ長老のそれを踏
まえたのかも。
「完全に幸福になり得るのは白痴にのみ与えられた特権である。如何(いか)なる楽天主義者にもせよ、笑顔に終始することの出来るものではない。いや、もし真に楽天主義なるものの存在を許し得るとすれば、それは唯(ただ)如何(いか)に幸福に絶望するかと云(い)うことのみである。」
(芥川龍之介『西方の人』)
「我々は唯茫々(ぼうぼう)とした人生の中に佇(たたず)んでゐる。我々に平和を与へるものは眠りの外にある訣(わけ)はない。あらゆる自然主義者は外科医のやうに残酷にこの事実を解剖してゐる。しかし聖霊の子供たちはいつもかう云(い)ふ人生の上に何か美しいものを残して行つた。何か「永遠に超えようとするもの」を。」
(芥川龍之介『西方の人』)
「けれどもクリストの一生はいつも我々を動かすであらう。それは天上から地上へ登る為(ため)に無残にも折れた梯子(はしご)である。薄暗い空から叩きつける土砂降りの雨の中に傾いたまま。……」
(芥川龍之介『西方の人』)
「我々の生活に必要な思想は三千年前に尽きたかも知れない。我々は唯古い薪に新しい炎を加へるだけであらう。」
(芥川龍之介『河童』)
「創作は常に冒険である。所詮は人力を尽した後天命に委(まか)かせるより仕方はない。」
(芥川龍之介『侏儒の言葉』)
関連して、以下は、他の文学者・思想家の言(げん)。
「世の中は考える人たちにとっては喜劇であり、感じる人たちにとっては悲劇である。」
(ホレス・ウォルポールの言葉)
「日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」
(『徒然草』)
「人間は考えることによって不幸になっている。」
(『パパラギ』より)
「すべてを問題にすれば、すべてが危うくなる。」
(『アミエルの日記』)
「われわれの視野・活動範囲・接触範囲が狭いほど、われわれの幸福は大きい。それらが広いほど、われわれは煩わしく、また不安に感ずる度合いが大きい。というのは、それらとともに心配・願望・恐怖が増大し、拡がるからである。」
(ショーペンハウエル『幸福論』)
「自己を運びて万法を修証するを迷いとす。万法すすみて自己を修証するは悟りなり。」
(道元の言葉)
「心暗きときは、すなわち遇(あ)うところことごとく禍(わざわ)いなり。眼(まなこ)明らかなれば途(みち)にふれてみな宝なり。」
(空海の言葉)
「学びて思はざれば則ち罔(くら)し、思ひて学はざれば則ち危うし。」
(『論語』)
「生は苦痛です、生は恐怖です、だから人間は不幸なんです。」
(ドストエフスキー『悪霊』のキリーロフの言葉)
「あまりに意識しすぎるのは、病気である。正真正銘の完全な病気である。人間、日常の生活のためには、世人一般のありふれた意識だけでも、充分すぎるくらいなのだ。」
(ドストエフスキー『地下室の手記』)
『西方の人(正・続)』を著すなど、キリストやキリスト教のことにも関心を向けていた芥川は、読んで触れたドストエフスキーの作品(『カラ兄弟』『罪と罰』)の中の宗教思想(キリスト教思想)をどう受けとめていたのだろうか。
晩年の芥川は、遺伝から自分が発狂するのではないかという耐え難い恐怖や創作の行き詰まり等によって精神が不安定となっていた中、『カラ兄弟』の中のイヴァンのこと(悪魔との対話や教唆した罪の意識で気がふれてしまうこと)を自身のことに重ねて戦(おのの)いたりしていたようですが、一方、芥川のドストエフスキーの作品の中の宗教思想に触れた読書体験は、晩年の彼の苦境に何らかの光明や救いの手をもたらすことができなかったのだろうか。
芥川に対する私のそういった長年の問題意識のもと、昨年、岩波新書の『芥川龍之介』(関口安義著・2003年5月刊)を読み、最近までの研究成果を踏まえた評伝として芥川のいくつかの面(人間味のある面など)が新たに知れて芥川という人間をあらためて興味深く思ったものの、芥川に中心的にあったものは、『西方の人(正・続)』に目を通せばわかるように、この眼前の現実世界にキリストや神の愛も奇跡も見い出すことはできないこの世、また、この世に現れたキリストさえこの世の現実に敗北してしまうこの世についての、研ぎ澄まされた知性と頭脳による、透徹した、クールな(アイロニカルな、厭世的な)現実主義的な、合理主義(理知主義)的な精神だったということでしょう。
(芥川が影響を受けたのは、ルナンが描いたあまりにも人間的なキ
リスト像だったとのこと。)
※、宮本顕治の『敗北の文学』も、この視点から、芥川龍之介の民衆から離
れた理知主義を批判しているようですね。
芥川はそういった人物であり、信仰という形での飛躍や謙抑が見られるドストエフスキーの述べた宗教思想(キリスト教思想)には、その切れる頭脳によりかなりの理解はあっただろうものの、冷めた目や心で接したのであり(『カラ兄弟』を読んで芥川が、室生犀星のようにアリョーシャと少年たちの「カラマーゾフ万歳!!」のラストシーンに涙を流したのかどうか、萩原朔太郎のように贖罪の信仰の面で天啓を与えられたのかどうかわかりませんが)、強く印象づけられることはなかったと言えるのでしょう。(『カラ兄弟』でひきつけられたものと言えば、アリョーシャやゾシマ長老の教えではなく、悪魔に苦しめられるイヴァンという人物像とその運命だったということになるのでしょう。)
(3)
[436]
RE:芥川龍之介とドストエフスキー
名前:大森
投稿日時:08/12/05(金)
芥川龍之介は、彼の遺書ともいえる「或る旧友に送る手記」の最後に、学生時代の自分について
「僕はあの時代にはみづから神にしたい一人だつた。」
と書いています。
そう書いた彼が自殺を選んだので、その頃の彼の脳裏にスタヴローギンやキリーロフ、あるいはイワンカラマーゾフのことが浮かんでいたのではないかと空想してしまいます。
(4)
[438]
芥川が読んだドストエフスキーの小説(「四、五作」)のこと
名前:Seigo
投稿日時:08/12/06(土)
『歯車』の中の一文、
「僕は勿論十年前にも四五冊のドストエフスキイに親しんでいた。」
を信じるならば(また、『歯車』を書いた時期を1927年とするならば)、芥川は、東大を卒業した年の翌年(1917年)の時期に、『カラ兄弟』『罪と罰』のほかに、ドストエフスキーの作品を二、三作読んでいた(その後は引き続いてドストエフスキーのほかの小説を読むことはなかった?)ことになります。引き続いて英訳のぶんで読んだのでしょうが、その二、三作はどの小説なのか、本人や知人の証言があればいいのですが。(そのへんの情報や気付きがあれば教えてほしいです。)
なお、気付きを言っておくと、
上で挙げた、
『西方の人』の中の、
「完全に幸福になり得るのは白痴にのみ与えられた特権である。如何(い
か)なる楽天主義者にもせよ、笑顔に終始することの出来るものではな
い。〜」
という文章は、ドストエフスキーの『白痴』を頭においての表現のようなにおいがします。
(なお、上で挙げた、短編「首が落ちた話」はドストエフスキーの『白痴』の中の一挿話
を踏まえているという指摘が正しければ、『白痴』を読んでいたことに
なります。)
『侏儒の言葉』の中の、
「ドストエフスキーの小説はあらゆる戯画に充ち満ちている。尤も、その又、戯画の大半は悪魔をも憂鬱にするに違いない。」
も、それまで読んだドストエフスキーの小説の内容を踏まえて言ったものでしょうから、『カラ兄弟』だけでなく『悪霊』の内容も含めて言ったのかもしれませんね。
(もしそうなら、大森さんの上の、芥川は『悪霊』を読んでいて晩年の彼の脳裏にスタヴローギンやキリーロフがあったのではという指摘は当たっているかもしれません。)
(5)
[443]
>短編「首が落ちた話」
名前:Seigo
投稿日時:08/12/08(月)
書き込み[434]で挙げた、
ドストエフスキーの『白痴』の中の一挿話を踏まえているとされる、
(論文として、自分はまだ未見ですが、
渡辺正彦「芥川龍之介「首が落ちた話」材源考−ドストエフスキー『白痴』との関連」
〔『近代文学論』14号(1986年3月月刊)に所収〕)
短編「首が落ちた話」
を、芥川龍之介全一冊『ザ・龍之介』(第三書館1985年初版。※2000年8月に増補新版、2006年07月に大活字本が出ている。全146篇を収録。)で、昨日、読んでみました。
明治期の一軍人のことを扱った短編ですが、一読して、まず、作品自体なかなか秀作だと感じました。『舞踏会』『トロッコ』もそうですけど、芥川らしい彫琢(ちょうたく)された秀逸な情景描写・自然描写・追憶をちりばめたこういった作風の芥川の短編は、佳品になっていて、なかなか良(い)いんじゃないでしょうか。
・「もし私がここで助かつたら、私はどんなことをしても、この過去を償ふのだが。」
・――街の剃頭店主人、何小二(かしょうじ)なる者は、日清戦争に出征して、屡々(しばしば)勲功を顕
したる勇士なれど、凱旋後兎角(とかく)素行(そこう)修らず、酒と女とに身を持崩(もちくず)してゐたが、
(以上、短編「首が落ちた話」より)
一読して、内容の一部分・肝心となる部分から判断して、『白痴』の中でムイシュキン公爵がエパンチン将軍宅で語る、
・銃殺刑の直前までいって特赦で銃殺を赦された男の話
・断頭台で処刑される男の話
の内容を踏まえていることが、見てとれました。
(なお、首に傷を受けたあと馬上から川ふちに転げ落ちた主人公・何小二(かしょうじ)が蒼天を見上げるシーンは、トルストイの『戦争と平和』の中の、有名な、戦場に倒れたアンドレイが仰向(あおむ)いて広がる高い蒼い空を見上げるシーンを踏まえてますね。)
この短編は、芥川がドストエフスキーの作品を四、五作読んだとされる年の翌年に発表されているので、時期的にも合っています。(ちなみに、『カラ兄弟』の中の一挿話を踏まえているとされていた『蜘蛛の糸』の発表も同年なんですね。その典拠はほかにあっても、創作において『カラ兄弟』の中の一本の葱の話も芥川の念頭にあったのではないでしょうか。)
なお、この短編も、後日談(ごじつだん)を後半部に付け加えるという構成が気が利いています。
作中で作品の奥行きと余韻を示してゆく後日談をしばしば効果的に活用しているという点では、ドストエフスキーと芥川は共通しています。
(6)
[709]
芥川とドストエフスキー類似点
名前:DU
投稿日時:09/12/03(木)
「歯車」芥川龍之介
運河は波立った水の上に達磨船を一艘横づけにしていた。その又達磨船は船の底から薄い光を洩らしていた。
そこにも何人かの男女の家族は生活しているのに違いなかった。やはり愛し合う為に憎み合いながら。
「‥‥‥もうひとつ、あなたにうかがいますが、いいですか、ただの好奇心からでも、ネワ河の乾草舟にねたことがありますか?」
「罪と罰」工藤訳新潮文庫
あまり長文を書く時間も能力もないが、すこしづつメモがてら書いていきたい。
(7)
[710]
芥川「六の宮の姫君」のこと。
名前:D
投稿日時:09/12/03(木)
以前北村薫「六の宮の姫君」のことで、作中の老大家が石川淳っぽいということで、2ちゃんねるで石川淳がーいわゆる「玉突き」発言ーをしているのかと、聞いたことがあって、まあそのときははかばかしい答えは得られなかった。
結局この小説を動かす大事な発言が北村によると、「そこは創作です。ーー
芥川がそれを言って不思議ではない」国文学「やさしいかなしい芥川龍之介」
というお粗末加減だった。
まあ本だけは読んでいるらしいから、いい引用があった。
川端康成は優れた方ですけれど、ある解説で『六の宮の姫君』は王朝のあはれの物語だ、と言っている。それはないだろう、と。その意見にカチンときて、
とあるが、〔川端さんが北村より何百倍も優れているのは当たり前で〕さすがにすばらしい川端さんの鑑賞眼だと思う。「六の宮の姫君」はおそらくは芥川の自画像だろう。
「王朝のあはれ」といえば、「伊勢物語」も哀切極まりない。
ドストエフスキーとはあまり関係がなかったかも知れんが・・
いずれ繋がるかも。
(8)
[711]
「六の宮の姫君」の材源
名前:DU
投稿日時:09/12/03(木)
まあ材源が「今昔物語」にあるというのは当たり前だが、どうもテニスンの
「シャーロットの姫君」が噛んでいるような気がしてならない。〔別に英文学に詳しいとかじゃない・・たまたま読んで気になっている〕
「あれは極楽も地獄も知らぬ、腑甲斐ない女の魂でござる。御仏を念じておやりなされ。」
六の宮の姫君
芥川龍之介
これはたそ?さてこゝにあるは何ぞ?
かくて程近きともしびのかゞやける館に
あて人らが夜遊のさはぎも歇みつ
人々はおぢて十字を切りぬ
カメロットなるものゝふは皆
しかはあれどランセロットはしばし沈吟しいひけらくこのをみなのつららうたし
神よ大慈心もて此の女子にめぐみを垂れてよ
此のシャロットの姫にと
シャロットの妖姫
アルフレッド・テニソン
坪内逍遙訳
(9)
[712]
Toshyさんの芥川掲示板
名前:DU
投稿日時:09/12/03(木)
だいぶ前だがToshyさんの芥川掲示板でドストエフスキーと歯車のことなどを
議論したことがあった。いつのまにか行かなくなってしまったが、終わりのほうはかなり荒れていたような記憶がある。
Toshyさんはチェスが強くて、東北学院からイギリスですこし学ばれたとおっしゃっていた。
あと二松学舎出の芥川研究者の方もおられた。
釧路高専の小田島先生もたまに顔をだされていた。
もう無くなった。昔になったな。
さて、どうして芥川は、「歯車」でこんなことを書いているのか?
この意味は当時書いた覚えがあるのだが思い出せない。
黄いろい書簡箋に目を通した。この手紙を書いたのは僕の知らない青年だった。
しかし二三行も読まないうちに「あなたの『地獄変』は……」と云う言葉は僕を苛立たせずには措かなかった。
(10)
[713]
「一本の葱」
名前:DU
投稿日時:09/12/03(木)
これは昔本線ドスト掲示板で書いたが、
「一本の葱」に似た話はラーゲルレーブが書いている。
『キリスト伝説集』(岩波文庫)
(11)
[715]
RE:芥川龍之介とドストエフスキー
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:09/12/03(木)
>DUさん
はじめまして。
北村薫の『六の宮の姫君』を参照しての、ドストエフスキーと芥川龍之介を巡る考察は、以前僕も「ドストエフスキーの総合ボード」に投稿させて貰ったことがあります。折角なので、その投稿記事を、以下に再掲載させて頂きます。
「なぜイエスは大審問官にキスしたのか――というお題ですが、復活のイエスをして老いた大審問官の唇に接吻させたのはイワン・カラマーゾフです。
懐疑の人イワンをしてこのような詩劇を語らせたことに、無信仰の煉獄を経て神に至るという、ドストエフスキー自身の祈りが託されているように思います。
日本の近代文学を担った作家達のうち最もイワン・カラマーゾフ的な人は芥川龍之介だと思うのですが、彼の王朝物に『往生絵巻』という掌編があります。殺生好きの武士だった五位入道が或る僧侶の説法を聴いて発心し、都の人々に嘲笑されるのも構わず「阿弥陀仏やよ。おおい。おおい」と呼ばわりながら一心不乱に西方浄土を目指し、遂に浜辺の松の枝上で遠く彼岸を臨みながら餓死するのですが、その遺骸の口には白蓮華が咲いていた……という話です。
『往生絵巻』を読んで自然主義文学の首領だった正宗白鳥は、屍体の口に白蓮華が咲くはずはない、ここで白蓮華を咲かせるのは現実を直視し得ない芥川の弱さであるが、しかし又、ここで白蓮華を咲かせるところに芥川の詩心の本質も表れている……というような、きわめて白鳥らしい批評を加えたということです。
僕には、この、芥川が五位入道の遺骸の口に咲かせた白蓮華が、イワンが大審問官の干乾びた唇に与えたイエスの接吻と重なって見えるのです。五位入道の白蓮華も、イエスの接吻も、芥川自身の言葉を借りて言えば、「嘘に依る外は語られぬ真実」だと思われます。
屍体の口に白蓮華が咲くはずはない、イエスが復活するはずはない、しかし、そうしたあり得ぬ物語に祈りを託さねばならぬ程に、芥川やイワンの見つめていた人生は娑婆苦に満ちた救い無く絶望的なものだった。
一方、『往生絵巻』と逆に、信仰を持ち得ない者の末路を描いた芥川作品に『六の宮の姫君』がありますが、これは「悲しみも知らないと同時に、喜びも知らない生涯」を送って、遂に発心することなく、「何も、何も見えませぬ。暗い中に風ばかり、――冷たい風ばかり吹いて参りまする」と言い残して死んだ六の宮の姫君の物語です。
一心に西方浄土を目指した五位入道の最期と、悲しみも喜びも知らぬまま生きた六の宮の姫君の最期との対比に、芥川なりの信仰観が吐露されているようにも思います。無為に過ごした姫君にはいまわの際に「暗い中に冷たい風ばかり吹いてくる」荒涼たる風景を用意し、激しく求めた五位入道の屍体の口には白蓮華を手向けた芥川……
そして、晩年あれほど聖書に打ち込んだ芥川自身が遂に信仰に至らなかったことは、彼自身の死が語っています。六の宮の姫君は、芥川の自画像であったとも言われています。
暗い中に冷たい風の吹く現実の土の上に、一筋の祈りをこめて活けられた芸術の花。この花の裏にある、芥川やイワンの絶望の深さに思いを至す程に、尚一層『往生絵巻』や『大審問官劇』は強く胸を打ちます。
※尚、今回の投稿中の『往生絵巻』と『六の宮の姫君』の解釈は、北村薫の『六の宮の姫君』(創元推理文庫)に多く拠りました。『六の宮の姫君』を含む北村氏の<円紫師匠と私>シリーズは、「女性の一人称体」によって書かれた、『ネートチカ』と『未成年』を合わせたような一種のビルドゥングス・ロマンとしても読めるので、ドストエフスキーの愛読者にもお薦めのシリーズです。特に『胡桃の中の鳥』に描かれる女性性の救済、『朧夜の底』に描かれる日常性の危うさ、『秋の花』に描かれる罪と赦し……あたりには、深くドストエフスキーと共鳴し合うものを感じます。現代日本を舞台にしているといっても、携帯電話やインターネットが普及する以前の八〇年代末から九〇年代初期という時代設定になっているので、既にそこはかとない懐かしさがこのシリーズには漂っていて、何処しら牧歌的なポエジーも感じさせます。大変な読書家として知られる北村氏は、作中、縦横無尽に古今東西の文学作品からの引用を駆使しているのですが、未だドストエフスキーの名前は<円紫師匠と私>シリーズには出てきていません。北村氏のドスト観も気になるところです」
(04年11月05日)
(12)
[717]
ミエハリ・バカーチンさんへ
名前:DU
投稿日時:09/12/04(金)
こんにちは。
あなたの書き込みは当時読んでいました。
しかし私は北村のあの推理はまったく信用していませんでしたので、それに依拠したあなたの論も評価しませんでした。あの「玉突き」がデッチ上げとはヒドイですよ。
>そして、晩年あれほど聖書に打ち込んだ芥川自身が遂に信仰に至らなかったことは、
>彼自身の死が語っています。六の宮の姫君は、芥川の自画像であったとも言われています。
これはまったく賛成です。
いまドストエフスキー関連は長く書けないのです。どうぞ、お考えを進められんことをお願いします。
(13)
[718]
「白蓮華」のはなし。
名前:DU
投稿日時:09/12/04(金)
ミエハリさん、「白蓮華」のはなしは中々良いと思いますよ。
(14)
[720]
ちょっと訂正。
名前:DU
投稿日時:09/12/05(土)
私の「六の宮の姫君」は芥川の自画像だという意味は、「六の宮の姫君」はあなたの論とは逆の意味でそうなのです。
引用だけで申し訳ありませんが、「悲しみも喜びも知らぬまま生きた六の宮の姫君」「無為に過ごした姫君」とはまるきり逆なのです。わたしは彼女の一生は充実した堂々としたものであったと確信しています。「暗い中に冷たい風ばかり吹いてくる」のは存在の根源に触れる、いわば絶対零度の風景であると思います。地上の暖かい風に吹かれている人間とは違うのです。
芥川が晩年信仰に入ろうが入るまいとどちらでもいいと思います。まあ信仰に入れば少しは「落ち着いて」長く生きたかもしれませんがそれもどちらでもいいと思います。
なにかこう言うと饒舌になった気がしてイヤな気がします。せめて誰も周りにいないことを望みます。
(15)
[721]
RE:芥川龍之介とドストエフスキー
名前:Seigo
投稿日時:09/12/05(土)
DUさん、ミエハリさん、
ドストエフスキーと芥川龍之介についての投稿を再開してくれて、どうも。
引き続いて述べたいことがあれば、気兼ねなく投稿してみて下さい。
このたび話題に挙がった短編『六の宮の姫君』(大正11年作)を先日読んでみました。
作中の、
>「何も、何も見えませぬ。暗い中に風ばかり、――冷
>たい風ばかり吹いて参りまする」
の箇所(姫のこの述懐の箇所は芥川の創作ですかね)などをどうとらえていったらよいのかがポイントになるのでしょう。
(なお、この箇所などは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中のゾシマ長老と問答を交わしたホフラコーヴァ夫人の述懐、
『墓の上にはごぼうがはえるばかり』であったら、まあ、どうでございましょう。(米川正夫訳)
の箇所などが、自分には連想されてしまいます。)
なお、
ページ内の人文系ボードに、今日、芥川龍之介のトピを立てたので、芥川龍之介自体のことの話題であれば、そのトピの方へも投稿してもらえればと思います。
特に、自分は昔から芥川の死因について関心があり、そのトピで、芥川の死因についても情報意見交換していければと思っています。
(16)
[723]
Seigo氏おひさしぶり。
名前:DU
投稿日時:09/12/05(土)
Seigo氏こんにちは。
「芥川龍之介とその作品」作ってくれてありがとう。
ついでにお願いなんですが、ここに「漱石とドストエフスキー」と
人文系ボードに「夏目漱石とその作品」を作って頂ければ有難いです。
これがあれば死ぬまで楽しめます。
よろしくお願いします。
(17)
[729]
:芥川龍之介とドストエフスキー
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:09/12/06(日)
>DUさん
こんにちは。
北村薫の『六の宮の姫君』は、そもそも小説として書かれたものですし、作中の田崎先生が架空の人物で、その「玉突き」発言も虚構であるというのは、特に問題視することでもないように思います。これが小説ではなく研究論文として発表されたものであれば、勿論問題でしょうけど。
川端康成の、
「王朝にありがちの話で、そのあはれに、芥川は近代の冷たい光をあてたのである」
という『六の宮の姫君』評に対する反発から、これだけの作品を書き上げた北村薫の力量に僕は素直に感服したいところです。川端と北村薫の間でも「玉突き」が行われたということでしょう。
もっとも、書誌学ミステリとして評価した場合、たとえば高木彬光の傑作『成吉思汗の秘密』のスリリングさに較べ、『六の宮の姫君』の迫力はかなり劣るとは思います。最後の方はバタバタと話を急ぎ過ぎているし、オチも弱い。ただ、北村薫は元々、ささやかな日常のドラマの中にある謎を品よく描くことを身上とする作家ですから、猟奇的傾向の強い高木彬光と較べてどうこう言っても栓もないことかも知れません。女子大生が芥川をテーマに卒論を書く過程をそのまま一つの小説に仕立て上げるというのは、なかなか面白い試みだと思いますし。
又、北村薫の『六の宮の姫君』は、芥川論でもあり、且つ、半分は菊池寛論にもなっていて、ミステリという大衆文芸の世界で仕事をしている北村氏の視点からの「純文学/大衆小説」を巡る考察としても読めるようになっています。北村薫の『六の宮の姫君』を読んだ人は、芥川や正宗白鳥や今昔物語のみならず、菊池寛の小説群・戯曲群もしっかりと読んでみたくなることでしょう。菊池寛を作家として再評価することで、「純文学/大衆小説」を巡る議論は、また新しい視点を獲得できるのではないでしょうか。実際、北村氏の『六の宮の姫君』が発表された(1992年)後暫くして、『真珠夫人』がテレビドラマ化されたり、猪瀬直樹が菊池寛を主人公にした『こころの王国菊池寛と文藝春秋の誕生』を書いたりと、菊池寛再評価とでも言うべき動きがありましたね。北村氏にはなかなかの先見の明があったと言えるかも知れません。
北村氏の『六の宮の姫君』の作中で紹介されている、菊池寛の『首縊り上人』の話などは、ゾシマ長老の腐臭事件をも思わせるものがあります。現世的・動物的ニヒリズムという意味では、菊池寛の方が芥川より上かも知れません。人間の意志(精神)に救済の契機を見ようとする芥川(『六の宮の姫君』『往生絵巻』)と、人間の意志(精神)を嘲弄する菊池寛(『首縊り上人』)――その二人の間に立って、人間への思いを新たに深める北村氏。やはり、北村氏の『六の宮の姫君』は、なかなかに読み応えがあります。
ところで、DUさんの、
「彼女の一生は充実した堂々としたものであった」
という『六の宮の姫君』評は、相当の新解釈と言っていいのではないでしょうか。心の弱い者の救われなさをモチーフにしたもの――というのが、概ね定番の解釈だと思います。しかも姫の一生が「充実した堂々としたものであった」とし、さらに姫は芥川の自画像である、とするのであれば、DUさんはつまり芥川の人生を敗北に終わったものとしては見ずに、「充実した堂々とした」勝利者の人生であったと考えられているわけですよね。芥川の生涯を「敗北の文学」ではなく「勝利の文学」であったと看做すのは、『六の宮の姫君』のみならず従来の芥川論をも覆すものでしょう。非常に興味深いので、気が向いたらで結構ですので、
「私の「六の宮の姫君」は芥川の自画像だという意味は、「六の宮の姫君」はあなたの論とは逆の意味でそうなのです。引用だけで申し訳ありませんが、「悲しみも喜びも知らぬまま生きた六の宮の姫君」「無為に過ごした姫君」とはまるきり逆なのです。わたしは彼女の一生は充実した堂々としたものであったと確信しています。「暗い中に冷たい風ばかり吹いてくる」のは存在の根源に触れる、いわば絶対零度の風景であると思います。地上の暖かい風に吹かれている人間とは違うのです」
というあたり、こちらのトピックででも、もう少し詳しく展開して頂けるとありがたいです。
(18)
[730]
僕の母は狂人だった(芥川龍之介『点鬼簿』)
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:09/12/06(日)
あと、「芥川龍之介とドストエフスキー」というお題で思いついたのが、芥川が、イワンやアリョーシャと同じく、狂女の子供だったということです。狂人だった母親を回想した『点鬼簿』には、次のような文章もあります。
「僕の母は如何にももの静かな狂人だった。僕や僕の姉などに画を描いてくれと迫られると、四つ折の半紙に画を描いてくれる。画は墨を使うばかりではない。僕の姉の水絵の具を行楽の子女の衣服だの草木の花だのになすってくれる。唯(ただ)それ等の画中の人物はいずれも狐の顔をしていた」(芥川龍之介『点鬼簿』)
芥川の母親は、一種の狐憑きだったのでしょうか?
吉田精一の『芥川龍之介』(新潮文庫)によると、
「龍之介の母はきわめて小心な、内気な気質の人であったという。そして彼女の夫は、龍之介の描写に従うならば、「僕の父は又短気だったから、度々誰とでも喧嘩(けんか)をした。僕は中学の三年生の時に僕の父と相撲(すもう)をとり、僕の得意の大外刈りを使って見事に僕の父を投げ倒した。僕の父は起き上ったと思うと、「もう一番」と言って僕に向って来た。僕は又造作もなく投げ倒した。僕の父は三度目には「もう一番」と言いながら、血相を変えて飛びかかって来た。この相撲を見ていた僕の叔母――僕の母の妹であり、僕の父の後妻だった叔母は二三度僕に目くばせをした。僕は僕の父と揉(も)み合(あ)った後、わざと仰向(あおむ)けに倒れてしまった」(点鬼簿)というような激しい性格の持ち主で、又牛乳屋として小さい成功者の誇りを持っていた。だから彼の母は、普通の妻よりは、夫に仕える上で心を痛めることも多かったであろう。その上に龍之介の生まれる前年には、きわめて怜悧だった長女初子を失っている。それも彼女にとっては、自分の責任として深い自責の念を感じる事情にあった。そして長男たる龍之介は旧弊な人々の御幣をかつぎ勝ちな厄年の子で、捨子の形式までして育てねばならない。それやこれやで彼女の狭い女心の悩みは、人知れぬ重圧を以って、肉体や精神にのりかかって来たのであろう。彼女は龍之介の生後九カ月頃から発狂してしまった」(吉田精一『芥川龍之介』)
とありますが、ここで描き出されている芥川の生母ふくの面影は、イワンとアリョーシャの母親ソフィヤを思わせるものがあります。
実在の人物と作中の人物を較べても栓もないかも知れませんが、芥川という人は、ドストエフスキー本人よりもドストエフスキーの作中人物を彷彿とさせるものがあります。
(19)
[731]
「彼女の一生は充実した堂々としたものであった」
名前:DU
投稿日時:09/12/06(日)
ミエハリさん、レス有難うございます。
最近芥川も読んでないのですが、人間はただその宿命を生きるだけです。
勝利も敗北もありません。〔とにかく長く書く余裕がありません。〕
はたして宮顕は民衆にどれくらい近づいたのでしょうか。
(20)
[732]
生のためになされる精神の自己否定は、〜
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:09/12/06(日)
生のためになされる精神の自己否定は、イロニーとなった(トーマス・マン『非政治的人間の考察』)
>DUさん
ご返事ありがとうございました。
成程、「敗北の文学」でも「勝利の文学」でもなく、「宿命の文学」ということですね。
判るような気がします。
六の宮の姫君は――ひいては芥川龍之介は――その無慙な人生を無慙なままに生き切ることによって、その人生を「充実した堂々としたもの」にしてみせた、という感じでしょうか。
ニーチェの「ロシア的運命愛」も思い出されます。
そういえば、安吾は『文学のふるさと』で、
「晩年の芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の話ですが、時々芥川の家へやってくる農民作家――この人は自身が本当の水呑(みずのみ)百姓の生活をしている人なのですが、あるとき原稿を持ってきました。芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば、親子共倒れの状態になるばかりなので、むしろ育たないことが皆のためにも自分のためにも幸福であろうという考えで、生れた子供を殺して、石油罐(かん)だかに入れて埋めてしまうという話が書いてありました。
芥川は話があまり暗くて、やりきれない気持になったのですが、彼の現実の生活からは割りだしてみようのない話ですし、いったい、こんな事が本当にあるのかね、と訊ねたのです。
すると、農民作家は、ぶっきらぼうに、それは俺がしたのだがね、と言い、芥川があまりの事にぼんやりしていると、あんたは、悪いことだと思うかね、と重ねてぶっきらぼうに質問しました。
芥川はその質問に返事することができませんでした。何事にまれ言葉が用意されているような多才な彼が、返事ができなかったということ、それは晩年の彼が始めて誠実な生き方と文学との歩調を合せたことを物語るように思われます。
さて、農民作家はこの動かしがたい「事実」を残して、芥川の書斎から立去ったのですが、この客が立去ると、彼は突然突き放されたような気がしました。たった一人、置き残されてしまったような気がしたのです。彼はふと、二階へ上り、なぜともなく門の方を見たそうですが、もう、農民作家の姿は見えなくて、初夏の青葉がギラギラしていたばかりだという話であります。
この手記ともつかぬ原稿は芥川の死後に発見されたものです。
ここに、芥川が突き放されたものは、やっぱり、モラルを超えたものであります。子を殺す話がモラルを超えているという意味ではありません。その話には全然重点を置く必要がないのです。女の話でも、童話でも、なにを持って来ても構わぬでしょう。とにかく一つの話があって、芥川の想像もできないような、事実でもあり、大地に根の下りた生活でもあった。芥川はその根の下りた生活に、突き放されたのでしょう。いわば、彼自身の生活が、根が下りていないためであったかも知れません。けれども、彼の生活に根が下りていないにしても、根の下りた生活に突き放されたという事実自体は立派に根の下りた生活であります。
つまり、農民作家が突き放したのではなく、突き放されたという事柄のうちに芥川のすぐれた生活があったのであります」(坂口安吾『文学のふるさと』)
と書いていますが、DUさんも安吾と同じような意味で、六の宮の姫君(=芥川)の人生は、「充実した堂々としたものであった」と言われているのでしょうか。
そして安吾は、『文学のふるさと』で、次のような、決定的な言葉を書きつけています。
「それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身(うつしみ)は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一(ゆいいつ)の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
私は文学のふるさと、或(ある)いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います」(同上)
思えば芥川は、出世作『羅生門』に於いて、荒廃した都の外れに広がる黒々とした闇に包まれた曠野(Darknessontheedgeoftown)を眺める下人の姿を描き、その下人の姿に自身の荒ぶる魂を仮託しました。
晩年の芥川は、結局、その文壇処女作で描いた「荒廃した都の外れに広がる黒々とした闇に包まれた曠野」(=文学のふるさと)に回帰していったのかも知れませんね。
そう考えれば、芥川の死を、「敗北」や「勝利」といった地上的価値で云々するのは、たしかに野暮の骨頂だと思われてきます。
むしろ、運命に従い、「曠野」に回帰して、徹底的に敗北してみせることによって、かえって芥川は精神の高貴性を一際眩しく輝かせてみせた――と考えることもできるでしょうか。
トーマス・マンは、『非政治的人間の考察』で、自作『トニオ・クレーゲル』を自解して、次のように書いています。
「ニーチェ体験がもたらす可能性には、精神的芸術的見地からいうと、兄弟のような関係をもつふたつの可能性がある。そのひとつは、あの無頼の審美主義、ルネサンス審美主義、力と美にたいするあのヒステリックな礼賛で、これはある種の文学が一時得意げにふりまわしていたものである。もうひとつは、イロニーとよばれるものである。この言葉でわたしが語ろうとするのは、わたし自身の場合である。わたしの場合、生のためになされる精神の自己否定は、イロニーとなった――この倫理的態度を説明し定義するには、それは生のためになされる精神の自己否定であり、自己裏切りである、としかわたしは言いようがない――そのさい、「生」という言葉で理解されているものは、ルネサンス審美主義におけると同様、精神をもたない存在や非精神的な存在がそなえている愛らしさ、幸福、力、優美さ、すこやかな正常性といったものであるが、ただルネサンス審美主義の場合とは違った、もっと低い声で語られる、もっと隠微な感情の陰影がそこにある。ところで、もちろん、イロニーは、かならずしも苦悩する種類のものとはかぎらないエトスである。精神の自己否定は、けっして真剣そのものの、まったく完全な自己否定ではありえない。イロニーは、ひそかにではあるが、求愛をする。成功のあてはないにしても、精神のために愛顧を得ようとする」(トーマス・マン『非政治的人間の考察』)
これは、ニーチェのいう「ロシア的運命愛」を、「精神」の敗北の姿としてではなく、「精神」の逆説的な自己肯定の姿として捉え直したものですが、芥川の『六の宮の姫君』を、『トニオ・クレーゲル』的な意味での「ロシア的運命愛=俗人的愛情=イロニー」を描いた作品として読むことが出来るかどうか――その辺で、『姫君』の評価も変わってくるのでしょうね。
僕としては、ぎりぎりのところで、芥川は『トニオ』的な開き直りに達することが出来なかった人だと思っています。「生」のためになされる自己否定を肯んじ得なかった「精神」の悲劇こそ、芥川の生涯であると思っています。しかし、その悲劇性によって芥川は近代日本に於ける「純文学」のアイコンとなったのですから、マンと芥川、どちらがより立派な作家であるのか、その判定も難しいですね。
――以上、短く書こうと思ったのですが、案の定、長くなってしまいました。とまれ、「芥川の死」の意味をどう考えるかは、近代日本文学に突き付けられた永遠のアポリアであって、安易に手を出せるお題ではないなあ、と改めて思い知らされた次第です。
(21)
[733]
ミエハリさん、良い引用・お考えを有難うございます。
名前:DU
投稿日時:09/12/06(日)
ミエハリさん、良い引用・お考えを有難う。
あなたは太宰をよく理解しているなあ、と思っていましたが、729番のお書き込みで、
それでもやはりなかなか芥川は理解されにくいなあ、と思っていました。
〔もちろんわたしの独りよがりの短い断定のせいもありますが・・〕
メモ〔前の書き込み用〕
わたしはそもそも他人の人生を勝利とか敗北での視点でみたくはありません。
太宰なんぞわざと「敗北」をえらんだ男でしょう。
宮顕がどんな勝利の人生を送りましたか?
文学はテレビなぞの下種な二分の果てにあるものでしょう。
「芥川の人生を敗北に終わったもの」/芥川の生涯を「敗北の文学」と
ーーーーーーーーーーーーーー
勝利の人生とわけることはできません。ーーーとこんな風に書く予定だったのです。
今回のお考えにまったく賛成です。というか私より上手に
明晰に、私の言いたいことを書かれておられます。
私は断固として「石油罐だかに入れて埋め」られて終わった、農民作家の
子供さんの充実した一生によし!と言いたいです。
マンには纏まった考えなど言えませんので、後日勉強させて下さい。
安吾さんはやはり堂々としていていいですね。
とにかくお時間を割いて頂き、良論をお聞かせ頂き有難うございました。
これに懲りずによろしくお願いします。
(22)
[737]
BruceSpringsteen-
DarknessOnTheEdgeOfTown
名前:DU
投稿日時:09/12/07(月)
ご紹介有難うございます。
如何せん英語が聞き取れません。
(23)
[753]都会で聖者になるのは大変だ
名前:ミエハリ・バカーチン投稿日時:2009/12/13(日)
※、以下は投稿日時:2009/12/09(水)21:34
>DUさん
スプリングスティーンの「DarknessOnTheEdgeOfTown」の歌詞は、邦訳すると、以下のような感じになります。
ある者たちは生まれつきいい暮らしを送り
ある者たちは苦労していい暮らしを手に入れる
俺は金を失い、妻も失った
しかしそんなことは今ではどうでもいいことだ
俺は今夜あの丘へ行こう
誰も俺を止めることは出来ない
俺の全財産を持って
俺は今夜あの丘へ行こう
そこは夢が見つけられ、そして失われる場所
街の外れの暗闇の中でしか見つけることのできないものを望んだ代償を
俺はいつかそこで支払うことになるだろう(BruceSpringsteen/DarknessOnTheEdgeOfTown)
まさに『羅生門』の世界です。
ドストエフスキーと芥川とスプリングスティーンの共通点としては、三者とも、近代都市の孤独と狂気をモチーフにして、その表現活動を続けたことが挙げられるでしょう。
スプリングスティーンの曲は、短編小説のような味わいがあります。シュールなワードプレイを駆使するインプロヴァイザーとしてはボブ・ディランの方が上だと思いますが、都会に生きる人々の横顔を描くストーリーテラーとしてはブルース・スプリングスティーンの方が上だと思います。村上春樹は、ブルーカラーの人生模様を描いたスプリングスティーンの歌詞をレイモンド・カーヴァーの小説と比較したりしていました。スプリングスティーンの楽曲群を現代アメリカ版今昔物語として聴くことも出来るでしょう。
スプリングスティーンがメジャー・デビューを決めるきっかけとなったのは、
「都会で聖者になるの
は大変だ
(It'sHardToBeASaintInTheCity)」
という曲なのですが、この曲名にスプリングスティーンというアーチストのすべてが凝縮されていると思います。まさにデビュー作にはすべてがあります。
(24)
[754]
今夜あの丘へ行こう
名前:DU
投稿日時:09/12/18(金)
ミエハリさん、こんにちは。〔ちょっと出かけていました〕
邦訳紹介して頂き有難うございます。わたしも探してみたのですが、
うまく見つけることができませんでした。
「今夜あの丘へ行こう」と言っていますが、「ゴルゴダの丘」なんでしょうか?
いずれ歌詞の邦訳本をみ見つけようとおもっています。
レイモンド・カーヴァーは昔原書で読んだのですが懐かしいな。
たしか「頼むから」と「僕らが愛に」の合本だった。
〔意外と英語は易しかったような、ポール・オースターとか初級クラスだった〕
寒いから体に気をつけてね。
|
|
|
|
(25)
[790]
「文学のふるさと」坂口安吾
名前:DU
投稿日時:10/04/16(金)
「文学のふるさと」坂口安吾
http://www.aozora.gr.jp/
cards/00195/files/44919
_23669.html
ミエハリさんから紹介して頂いたけれども、やはりすばらしい文章だな。
まあ、他人のことはどうでもいいわな。てめえが世界なんだ。
「伊勢物語」もいいなあ。
(26)
[791]
芥川龍之介『地獄変』ノート1より
名前:DU
投稿日時:10/04/16(金)
芥川龍之介『地獄変』ノート1より
8、良秀の妻は出てこないが、娘の幼児期に単なる病死したでいいのか。
9、良秀と娘の関係。聟をとらす考えもないし、娘に言い寄る男を追い払うなど普通の父親・娘の関係ではない。娘は良秀の実子に間違いないか。
どうも良秀は「罪と罰」のスヴィドリガイロフに似ている。妻殺し。
|