太宰治とドストエフスキー
(1〜30)
投稿者:
Seigo、大森、(no Name)、
ミエハリ・バカーチン、
マイジョフスキー、洋。
(1)
[437]
太宰治とドストエフスキー
名前:Seigo
投稿日時:08/12/06(土)
太宰治の文学(太宰治という人物)とドストエフスキーの文学(ドストエフスキーという人物)の比較、太宰治のドストエフスキー受容に関して、気付き・情報・意見のあるお方は、聞かせて下さい。
○
太宰におけるドストエフスキーのことについての情報 (1)
・太宰は、晩年の作品(『人間失格』)の中で、ドスト氏の『罪と罰』のことに触れている。(作中の2の本文内。なお、私たちとしては、太宰がドストエフスキーのことを「ドスト氏」と呼んでいる点に注目で
す! )
* * *
太宰とドストエフスキーの比較で、自分として、まず挙がるのは、
語りのうまさ(作中において登場人物に成りきっての「語り」のうまさ)
ということ。
太宰の場合、『斜陽』、短編『待つ』など、若い女性に成りきっての「語り」は天下一品!
(2)
[439]
RE:太宰治とドストエフスキー
名前:大森
投稿日時:08/12/07(日)
太宰といえば、きっとミエハリさんがいろいろ書くと思いますので、太宰好きの私は、負けては悔しいので、先に、思い出す太宰のドストエフスキー言及箇所を指摘します。
「ドストエフスキーなど、毛脛まるだしの女装で、大真面目である。」(「女人創造」、新潮文庫「もの思う葦」108ページ。
ロシアではトルストイ、ドストエフスキーなど、やはりみな、それに関心しなければ、文人の資格に欠けるというようなことが常識になっていて、それは確かに
そういうものなのでしょうけれども、やはり自分はチェホフとか、誰よりもロシアではプーシュキン一人というていい位に傾倒しています。」(「わが半生を 語る。先輩・好きな人たち」、新潮文庫「もの思う葦」187〜188ページ)
こう見ると、太宰は、ドストエフスキーの重厚な作風より、プーシュキンやチェホフのさりげない作風の方を好んだようです。また、太宰は、ドストエフスキーの女性登場人物にもちょっと、無理があるように感じていたように見えます。
しかし、人間失格に有名な罪と罰への言及がありますので、そこから考えると、余り好きでないけど、無視できない大家。好きでないといいながら、気にせざるを得ない、自分に関係のある大きな問題を扱った作家として見ていたように感じます。
(3)
[449]
RE:太宰治とドストエフスキー
名前:no Name
投稿日時:08/12/21(日)
太宰治のドストエフスキー言及箇所をさらに発見しました。
「ねんねんと動き、いたるところ、いたるところ、かんばしからぬへまを演じ、まるで、なってなかった、悪霊の作者が、そぞろなつかしくなってくるのだ。軽
薄才子のよろしき哉。無茶な失敗のありがたさよ。醜き欲望の尊さよ。(立派になりたいと思えば、いつでもなれるからね。)」
(碧眼托鉢・立派ということに ついて。新潮文庫「もの思う葦」62ページ)
その前に「文学のおかしさは、この小人のかなしさにちがいないのだ」とあり、失敗の多い小人の代表者の一人にドストエフスキーが上げられているようです。
(4)
[450]
>[No.449][No.439]
名前:Seigo
投稿日時:08/12/23(火)
太宰治のドストエフスキー言及箇所の指摘、どうも。
いかにも太宰らしい文章であり、太宰のドストエフスキー観や文学観が現れていて興味深いです。(大森さんが挙げたぶんも含めて、どこかしら鼻につくところがあるのも、太宰氏らしいです。)
この文章から太宰が何らかのドストエフスキー伝を読んでいたことがわかりますが、米川正夫が書いたぶんでも読んでいたのでしょうかね。
なお、
鶴谷憲三「太宰治における<ドストエフスキー>」
〔佐藤泰正編『ドストエフスキーを読む』(笠間書院1995年初版)に所収〕
によれば、太宰が書き残したものの中にはドストエフスキーのことに触れている箇所は、計16箇所あるとのこと。同論文ではその所在を列挙して紹介していますが、それは当面見ずに、今後、お互い、挙げてみましょう。
(自分は上記の本は所持していてずっと以前に目を通しましたが、『人間失格』の中の箇所以外のぶんは忘れてしまっているので、自分も今後見つける楽しみを残しておいて、そうすることにします。)
以前ミエハリさんも挙げてくれていた大森さんが挙げたぶんも含めて、これで、四箇所が挙がりました。
(5)
[452]
RE:太宰治とドストエフスキー
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時: 08/12/24(水)
太宰とドストエフスキーに就いては過去にさんざん書いてきたので、あらためてトピックを立てられると、かえって書く気が起きないのですが、いずれ、過去に書き込みさせて頂いた文章のうち、面白そうなものがあったら、再掲させて頂こうかと思います。
とりあえず、下に挙がっている以外で、ざっと思いつく限りでは、
「葉」「猿面冠者」「狂言の神」「懶惰の歌留多」「春の盗賊」「正義と微笑」「もの思う葦」
の中に、ドストエフスキーへの言及やドストエフスキーからの引用があります。いちいちここでは引用しないので、皆さん、探してみて下さい。箴言集「碧眼托
鉢」の中には、下でno nameさんが指摘している他にも、もう1箇所ドストエフスキーへの言及があり、又、「懶惰の歌留多」「正義と微笑」でも、それぞれ二度ドストエフスキー
への言及があるので、『人間失格』の有名な箇所と合わせて、これでいまのところ、14箇所指摘できたことになります。あと2箇所はどこにあるのでしょうか。
尚、太宰のドストエフスキーへの直接的な言及や引用の指摘だけで終わらず、太宰とドストエフスキーの文体的な共通性に就いて詳しく分析した労作が、木下豊
房先生の『近代日本文学とドストエフスキー ― 夢と自意識のドラマ』(成文社)です。この本では、太宰だけではなく、二葉亭や漱石や横光とドストエフスキーとの比較考察もなされていて、なかなか刺激的
な一冊です。思想的に比較するというより、あくまで文体的に比較する姿勢がクールで、僕は好きな本ですね。
太宰とドストエフスキーは、口述筆記を多用した作家という共通点もあります。この点から両者の文体の秘密を分析してみるのも面白いと思います。
(6)
[453]
RE:太宰治とドストエフスキー
名前:大森
投稿日時:08/12/24(水)
新潮文庫「もの思う葦」を読んでいたら、再度発見。
「川端康成へ」
「そのとしの秋、ジッドのドストエフスキー論を御近所の赤松月船氏より借りて読んで考えさせられ、私のその原始的で端正でさえあった「海」という作品を
ずたずたに切りきざんで「僕」という男の顔を作中の随所に出没させ、日本にまだない小説だと友人間に威張ってまわった。」この作品は「道化の華」であり、 「道化の華」の誕生にドストエフスキーが一枚噛んでいるようです。
私はジッドのドストエフスキー論は読んでないので、ミエハリさんに道化の華との関係を解説して欲しいです。
また、同じ「川端康成へ」に「ちがうと首をふったが、その、冷たく装うているが、ドストエフスキーふうのはげしく錯乱したあなたの愛情が私のからだをかっかっとほてらせた」とあります。
また「碧眼托鉢」(新潮文庫、もの思う葦)の中にフィリップの手紙の孫引きでドストエフスキーについての引用が2箇所ありました。
こうして読むとわりと初期の作品の方に言及が多いような気がします。
私の印象では、太宰は自分の楽屋を見せつけるように見せて意外と楽屋を見せない作家、ドストエフスキーは楽屋を見せないように見えながら実は楽屋に引きずり込む作家という印象があります。
太宰から見ると楽屋に引きずり込むドストエフスキーの作風について、「くどい」と感じていたような印象があります。
(7)
[454]
RE:太宰治とドストエフスキー
名前:マイジョフスキー
投稿日時:08/12/27(土)
大森さん
「私の印象では、太宰は自分の楽屋を見せつけるように見せて意外と楽屋を見せない作家、ドストエフスキーは楽屋を見せないように見えながら実は楽屋に引きずり込む作家という印象があります。」
そうですね。太宰は私小説で自分をさらけ出しているように見えて、肝心なところは隠したり、舞台設定やモデルは現実に近くても物語のための創作です。ドス
トエフスキーは徹底した三人称小説でも、登場人物に作者の分身が現れたり、深読みすると告白ともとれる箇所が隠されていたりします。
太宰とドストエフスキーの生き様をみてみると、
・若い頃から大金(実家からの送金や遺産)を遊興(酒や薬物、賭博)に浪費し、浪費癖はなかなか直らなかったこと
・反体制的な組織に入り、つかまったことがあり、その後転向していること
・人妻や若い女に入れ込んだこと
・作家として成功してからも、浪費癖はなおらず、頻繁に周囲の人々から借金したり、原稿料の前借りをしていたこと
・借金の依頼のための手紙で、次回作がいかに素晴らしいものになるかを吹聴し、自らを鼓舞したこと
と、共通する点が多いことがわかります。
(8)
[456]
RE:太宰治とドストエフスキー
名前:大森
投稿日時:08/12/27(土)
マイジョフスキーさん、お返事ありがとうございます。マイジョフスキーさんが似ている点をあげたので、私は楽屋にからんだ、太宰とドストエフスキーの対照的な面を書きます。
太宰は、何度も「作者と作品は、違うものだ。」といった意味の事をあちこちに書いています。「もし彼女が、ひとめその笛の音の主の姿を見たならば、き
やっと叫んで悶絶するに違いない。芸術家はそれゆえ、自分のからだをひた隠しに隠して、ただその笛の音だけを吹き送る。」「私は断言する。真の芸術家は醜 いものだ。」(「十五年間」)また「一歩前進二歩退却」「もの思う葦・書簡集」「恥」などにそうした考えが見られます。
太宰の作品は、私小説風に見えても、作者の生活を素材にして再構成されたフィクションと思われます。
そして、そのフィクションの目的は読者の一瞬の感動にあります。
「そのときに面白く読めたという、それが即ち幸福感である。」
(「如是我聞」)
「アワレ見事!ト屋根ヤブレルホドノ大喝采、ソレモ一瞬ノチニハ跡ナク消エル喝采、ソレガホシクテ、ホシクテ」
(「走らぬ名馬」)
太宰の作品は読者の一瞬の感動をもたらすための「心づくし」なのであって、作者は、料理の調理人のように陰で読者のサービスのために孤独な努力をしていると太宰は考えていたように見えます。その意味で太宰の心の中には、自分の心はサービスを通じて他人とつながれるだけで、他人の心と直接、繋がることはで
きないという絶望的な孤独感があると思います。
ドストエフスキーの作品には、私小説的な作品はあまりありませんが、アリョーシャにしてもイワンにしてもラスコーリ二コフにしても作者の内面の具象化で
あり、そこで行われる議論は作者の内面の議論そのものに見えます。ドストエフスキーは、出来れば自分の内面を他人に理解して欲しいと強く願ったように見え ます。
妻アンナの「回想のドストエフスキー」によれば、アンナに会ってすぐにドストエフスキーは自分の個人的な悩みをアンナに話したとあります。また、結婚後
の妻への手紙にはえんえんと自分の不安感を書き続けています。これはドストエフスキーが自分の内面をわかってほしいと願っていることの現れでしょう。
ドストエフスキーは、他人と直接結びつくことを切に求めている。だから、彼は世界的な調和を強く望むのです。
ドストエフスキーが後半生で良き理解者である妻アンナと出会いプーシキン記念講演で会衆との一体感を得たのは長年の彼の「自分を理解してほしい」という切なる願いと努力の結果に見えます。
また太宰の心中の死は彼が「本当の自分は誰にも理解してもらえない」という彼の孤独感を表しているように思えます。
(9)
[457]
RE:太宰治とドストエフスキー
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:08/12/29(月)
>大森さん
「川端康成へ」がありましたね。これで16箇所全部指摘できたことになるのかな? ところで、あらためて読み直してみて、「川端康成へ」は、太宰のドストエフスキーへの言及のうちでも最も重要なものだと思いました。
うまく大森さんに乗せられてしまっているようですが、僕なりにジイドのドストエフスキー論と「道化の華」の関係に就いて書いてみたいと思います。
ジイドのドストエフスキー論が大いに読まれた同じ昭和10年前後、シェストフのドストエフスキー論もひろく読まれていたらしいのですけど、たとえば、同じ
く『地下室の手記』をドストエフスキー文学の最重要な作品として位置付けていたシェストフのドストエフスキー論が、基本的に、『地下室』に描かれた「自意 識」を目的化しているかのような思想論的な論立てであるのに対して、ジイドのドストエフスキー論は、あくまで「自意識」も一つの方法として捉える文体論的
アプローチであるのが特徴です。
・シェストフ=目的としての「自意識」
・ジイド=方法としての「自意識」
シェストフもジイドも、ぺトラシェフスキー事件への連座及びその結果としてのシベリア流刑を、ドストエフスキーに於ける重要な転機と看做していること、そ
して、その挫折の経験の結実として『地下室の手記』を位置付けていること――ではほぼ同じです。シェストフもジイドも、ぺトラシェフスキー事件以来の挫折 の体験を経て、『地下室』に結実する「自意識」をドストエフスキーが見出した、という見解では一致しています。
「十九世紀の賢い人間は、どちらかといえば無性格な存在であるべきで、道義的にもその義務を負っているし、一方、性格をもった人間、つまり活動家は、どちらかといえば愚鈍な存在であるべきなのだ」
(ドストエフスキー『地下室の手記』)
しかし、ここで提示されたアンチ「活動家」である「自意識家」という存在に就いての意味付けに於いて、シェストフとジイドは真逆の関係にあります。シベリ
ア流刑という挫折を経てドストエフスキーが見出した「自意識」を、シェストフはドストエフスキーの思想的達成と看做し、一方、ジイドはドストエフスキーの 方法的発見と看做していたのでした。言い替えてみれば、シェストフが「何が書かれているか」を問題にしたのに対して、ジイドは「如何に書かれているか」を
問題にしたわけです。ジイドの着眼は、いかにも小説家らしい問題意識という気もします。あるいは、詳しくは知りませんが、このジイドの文体論的アプローチ は、当時本国ロシアでも勢力を誇っていたフォルマリズム的な文学論に影響を受けたものだったのかも知れません。たとえばバフチンのポリフォニー論も、「方
法としての自意識」という文体論的アプローチを徹底的に掘り下げたものだと考えることも出来るのではないでしょうか。
「自意識」とは、簡単に言えば、自分自身にツッコミを入れる意識のことです。こういう自分自身にツッコミを入れる感覚の持ち主は、自分は何者であるか、と
決定的に言い切ることが出来ません。つまり、自分自身を「総括」することが出来ないのです。連合赤軍の事件で「総括」の対象となった人びとは、あるいは、 自分自身をも不可解な存在として感覚していた誠実な人々だったのかも知れません。「自意識」とは、つまり、何物をも絶対的に信じることの出来ない意識のこ
となのだと思います。自己を偽らぬ鋭敏な自意識の持ち主にとって、自己を「総括」することなど不可能です。「総括」とは自己欺瞞の別名に他なりません。し かし、武力革命の最前線では、そういう「自意識」を捨て、自分自身をも一面的に決めつけてしまう「総括」こそ至上の姿勢だと看做されたのでしょう。要する
に、20世紀にあっても、「革命家」は「性格を持った人間(=自意識を欠いた行動家)」であることが求められていたのです。森恒夫や永田洋子が同志たちに
求めた「総括」とは、つまり、「自意識を捨てろ!」ということだったのかも知れません。鋭敏な「自意識」の持ち主は、ついに「革命家=行動家」足りえない のです。
しかし、「転向」という絶対の正義への懐疑の体験は、否応なく人を「自意識家」にするでしょう。彼は既に何物をも信じることの出来ない人間になっているの
です。ドストエフスキーが『地下室の手記』で提示した現代的な存在形式とは、このようなものでした。彼は何物も信じることが出来ない。自分自身の言葉すら 信じることが出来ない。
そんな、イローニッシュな存在形式である「地下室人」を、シェストフがドストエフスキーの思想的達成であると捉えたのに対して、ジイドはあくまで方法的発見と捉えたのでした。
ジイドがそのドストエフスキー論で提示した「自意識」の方法化は、昭和10年代の日本文学に多大な影響を与えました。横光利一「純粋小説論」、小林秀雄
「私小説論」、永井荷風「墨東奇譚」、そして太宰治の「道化の華」――これらはすべてジイドのドストエフスキー論の影響を受け、その圏内で書かれたものだ といっていいでしょう。勿論、ジイドがドストエフスキー文学から抽出した「方法としての自意識」というモチーフが、具体的に実作上でどのような形を取るか
は、確たる答えはなく、その実践はそれぞれの作家たちの創作の現場に託されたのでした。ジイドの「自意識」を、横光は「四人称」、小林秀雄は「社会化した 私」、永井荷風は大江匡という「作中作家」、そして太宰治は「道化の華」で「語り手」そのものの小説中への導入――という形で試みたのでした。それぞれの
作家の持ち味を反映して、ジイドがドストエフスキーから抽出した「自意識」の方法的実践は、それぞれの花を咲かせることになりましたが、いずれにせよ、ジ イドのドストエフスキー論を震源として、20世紀文学の一大潮流となる「メタ文学」が明確に一つのジャンルとして確立することになった――ということは出 来るのではないでしょうか。たとえば、詩学的には、「道化の華」に於ける「語り手」は、『カラマーゾフの兄弟』に於ける「イワンの悪魔」に比定することも
出来るのではないかと思います。
そして、こういう「何を書くか」よりも「如何に書くか」がより強く意識されるようになった20世紀文学のデカダンスの超克を試みた一つの一命を賭けた実践
こそが、三島由紀夫の自決ではなかろうか――と僕は思っています。三島は、おそらく、ジイドが指摘したドストエフスキー文学に於ける「自意識」を、仏教に 於ける「阿頼耶識」によって乗り越えようとしていたのではないかと思います。
三島は、その遺作『天人五衰』で、次のように書いています。
「自意識は決して愛することを知らず、自ら手を下さずに大ぜいの人を殺し、すばらしい悼辞を書くことで他人の死をたのしみ、世界を滅亡へみちびきながら、じぶんだけは生き延びようとしてきた」(三島由紀夫『天人五衰』)
この言葉は、『地下室の手記』の有名な次の文章を念頭に書かれたものではないでしょうか。
「世界が破滅するのと、このぼくが茶を飲めなくなるのと、どっちを取るかって? 聞かしてやろうか、世界なんか破滅したって、ぼくがいつも茶を飲めれば、それでいいのさ」
(ドストエフスキー『地下室の手記』)
こういう他人の死をもネタにしてしまい、世界を滅亡させながらも自分自身はのうのうと生き延びようとする近代的「自意識」の超克を、どうも、「それも心々ですさかい」という言葉で締め括った『豊饒の海』によって、晩年の三島は試みようとしていたように思われます。
「この二十五年間、私のやつてきたことは、ずいぶん奇矯な企てであつた。まだそれはほとんど十分に理解されてゐない。もともと理解を求めてはじめたことで
はないから、それはそれでいいが、私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによつて、その実践によつて文学に対する近代主義的妄信を根底から破 壊してやらうと思つて来たのである。
肉体のはかなさと文学の強靭との、又、文学のほのかさと肉体の剛毅との、極度のコントラストと無理強いの結合とは、私のむかしからの夢であり、これは多
分ヨーロツパのどんな作家もかつて企てなかつたことであり、もしそれが完全に成就されれば、作る者と作られる者の一致、ボードレエル流にいへば、「死刑囚 たり且つ死刑執行人」たることが可能になるのだ。作る者と作られる者との乖離に、芸術家の孤独と倒錯した矜恃を発見したときに、近代がはじまつたのではな
からうか。私のこの「近代」といふ意味は、古代についても妥当するのであり、『萬葉集』でいへば大伴家持、ギリシア悲劇でいへばエウリピデスが、すでにこ の種の「近代」を代表してゐるのである」
(三島由紀夫「私の中の二十五年」)
勿論、三島の「近代」理解がどの程度妥当であるかは、又、大いに議論の余地のあるものでしょうけれども、それはともかく、三島が、その創作(夢想)と自決
(行動)によって、ジイド以来の「方法としての自意識」(=近代=「意識と自意識の分裂」)を乗り越えよとしたのであろうことは、おそらく確かなことだと 思います。
この僕の見立てがそれなりに当たっているとすれば、現在の日本人は、「自意識」が「目的」にも「方法」にもならない世界に生きているのだ――ということも出来るでしょうか。僕らはすでに「メタ」的であることにも安住出来ない世界に生きている。
――そんな世界に於ける「自意識」を、僕らは一体どう意味付ければいいのでしょうか?
(10)
[458]
太宰治と山崎富栄
名前:マイジョフスキー
投稿日時:08/12/29(月)
大森さん
「ドストエフスキーが後半生で良き理解者である妻アンナと出会いプーシキン記念講演で会衆との一体感を得たのは長年の彼の「自分を理解してほしい」という切なる願いと努力の結果に見えます。
また太宰の心中の死は彼が「本当の自分は誰にも理解してもらえない」という彼の孤独感を表しているように思えます。」
ドストエフスキーは講演が上手なのに対し、太宰は講演が苦手だったようです。編集者や若い弟子たちと飲んでいるときは饒舌でも、知らない大勢の人の前では緊張したのでしょう。
最近、長部日出男の「桜桃とキリスト−もう一つの大宰府伝」と猪瀬直樹の「ピカレスク−太宰治伝」を続けて読んで、太宰治の自殺についていろいろ考えさせられました。
太宰を論じた文章の中で、興味深いものを発見しました。
■太宰の心中事件を報じた当時の新聞記事
「玉川上水に投身した作家、太宰治と愛人山崎富栄さんの死体捜査は、すでに第一回、第二回と行われ、十九日午前八時頃から第三回目の捜査が行われるはずで
あったが、これより先、同日午前六時五十分頃、投身現場より約千メートル下流の、三鷹町牟礼地内、明星学園前、玉川上水新橋を通りかかった同二〇〇二建設 院主張所監督大貫森一氏が、橋より川下10メートルのクイに、二つの死体が折重なって、引っかかっているのを発見、万助橋交番に届け出た。知らせにより、
太宰氏の仕事場「千草」の主人鶴巻幸之助が現場にかけつけ、付近の人の応援を得て、七時半頃死体を川ぶちに引揚げた。」
この記事について、ある大学教授が次のように書いています。
「それは恰もアレクセイ・カラマゾフが、その師、ゾシマ長老の死体から腐臭が漂い始めたとき味わった、あの懊悩と惑乱にも似た「厭な感じ」を伴っていた。しかもそこでは太宰の「死」を扱っているというよりは、「死体」をきわめてザハリッヒに扱っているのである。」
思わぬところにカラマーゾフが登場するのです。
引用したWEB上の文章では筆者の名は伏せてありますが、前後から『太宰治とその生涯』を書いた三枝康高であることは推測できます。
太宰治殺害説(無理心中説)を唱える三枝に対して、『山崎富栄の生涯−太宰治その死と真実』の著書である長篠康一郎は真相を徹底的に追及しています。この本の中では、三枝康高の名を明記しています。
ネットで注文した『山崎富栄の生涯−太宰治その死と真実』の古本が届きました。冒頭のグラビア写真をみただけでも、山崎富栄に同情を禁じえません。
(11)
[459]
RE:太宰治とドストエフスキー
名前:大森
投稿日時:08/12/31(水)
私がお願いしたミエハリさんの文章が反響を生んでいるようでうれしいです。
私も感想を書きます。
なるほど、ドストエフスキーの「自意識」という課題が、「道化の華」とそういう関係にあるのですかとミエハリさんの博識に感服。
「罪と罰」で、ラスコーリニコフが常に自分を監視しながら、自問自答を繰り返すように書かれるのも、そうした「自意識」を描こうとしたわけですね。なるほど。
私は、「道化の華」はそれ以降の「春の盗賊」とか「女の決闘」のような作者が作品を解説しながら話を進める形の作品の先駆作品と思っていました。そうす
ると「春の盗賊」や「女の決闘」にもドストエフスキーの影響があるわけですね。そうか、「春の盗賊」にはもともとドストエフスキーへの言及があるから、影 響があると見るのは当然か。
しかし、「道化の華」より先の太宰の作品を読むと、自意識というより、語り手に登場人物が乗り移って語っているイタコスタイルみたいな印象もあります。(あくまで印象ですが)
正宗白鳥の晩年の作品にも、小説だか随筆だか評論だか分からない語りスタイルの作品が多くあります。
ドストエフスキーの「自意識」問題が、日本人の随筆好きの伝統に共鳴し、掘り起こして、太宰独特の語りスタイルができていったという見方もできるかもしれない。(あくまで思い付きですが)
自意識問題について言及いたしますと、私は、前にも書きましたが人間は、二本の管から出来ていると思うのです。脳から全身への神経の管と口からお尻への食べ物の管の二本。
ミエハリさんもお好きな「我はまことの葡萄の樹、汝らは枝なり」(ヨハネ伝)という言葉を見ても聖書でも人間は管と見られています。
脳の前頭葉が目に見えない永遠的な神の世界に通じていて、そこからエネルギーをもらい、それを全身に回して、愛を形にしていくという作業を人間はする。そういうことが大切なんじゃないかと私は思います。
自意識君は、私が思ふに、管である枝と樹全体が調和してバランスよく活動するための調整役をすべきなんぢゃないでせうか。
「そこの自意識君。あんまり自己主張しすぎて、くれぐれも管の流れを悪くしたり、管に蓋をしたりしないで下さいよ。元も子もなくなるからね。自己主張の
しすぎは見苦しいですよ。」私は自分の自意識君には、そういい含めるように努力しています。(あれ?こうした突込みを入れるのが、また自意識なのか?)
マイジョフスキーさんについての感想はまた考えて書きます。
では、みなさま、よいお年をお迎へください。いろいろ、ありがたうございました。Seigoさんもありがたうございました。来年もよろしくお願ひゐたします。
元気で行こう。では、失敬。
(12)
[462]
>[No.454] ― 太宰とドストエフスキーの〜
名前:Seigo
投稿日時:09/01/01(木)
マイジョフスキーさんが
>太宰とドストエフスキーの生き様をみてみると、
>・若い頃から大金(実家からの送金や遺産)を遊興(酒や薬物、賭博)に浪費し、
> 浪費癖はなかなか直らなかったこと
>・反体制的な組織に入り、つかまったことがあり、その後転向していること
>・人妻や若い女に入れ込んだこと
>・作家として成功してからも、浪費癖はなおらず、頻繁に周囲の人々から借金
> したり、原稿料の前借りをしていたこと
>・借金の依頼のための手紙で、次回作がいかに素晴らしいものになるかを吹聴
> し、自らを鼓舞したこと
>と、共通する点が多いことがわかります。
と見事に指摘して列挙してくれた通り、
太宰とドストエフスキーは生涯の事跡において共通点が多いことは自分も以前から感じていました。
( なお、
>遊興(酒や薬物、賭博)に浪費し、
のうちの、薬物の使用は正しいようですが(晩年に至るまで長きにわた
って「opii banzoedi」という睡眠剤の常用者だった)、お酒については、ドストエフスキーはお酒はあまり飲まなかったので(そのぶん、お菓子・果物大好き
のかなりの甘党!)、お酒については当てはまらないようです。)
もちろん、一方で、相違点もあるわけで、
・実家の地方性
(青森から東京へ、モスクワからペテルブルグへ)
・実家の富裕の程度
(県下有数の富裕な大地主、病院長をしていた中流の貴族)
・信仰の面
(聖書やキリスト教には関心があったが信仰生活に無縁だった人、
心の落ち着きを与えた信仰生活を持っていた人)
・晩年の落ち着きの程度
(家族は大切にしていたがデカダン的の生活を抜けきれなかった晩年、賢
明な伴侶と家庭を得て賭博癖も終わり経済的にも落ち着いた晩年)
などが、まず、相違するようですね。
(13)
[466]
RE:太宰治とドストエフスキー
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:09/01/03(土)
太宰とドストエフスキーを対比した時に、その最大の相違点は、前者は39歳で死んでいて、後者は60歳まで生き延びたことではないでしょうか。39歳の時点でのドストエフスキーなんて、『罪と罰』はおろか、まだ、『地下室の手記』すら書いていません。少なく
とも39歳の時点で比較すれば、太宰の方がずっといい仕事をしています。
一方、太宰とドストエフスキーを対比した時の、その最大の共通点としては、お互いに貴族階級(地主階級)であるという出自への罪悪感から発した「民衆への
憧れ」ともいうべき想いを生涯抱き続け、又、その「民衆への憧れ」が両者ともに作品の重要なモチーフとなっていることだと思います。太宰はその文壇処女作 「思い出」で、女中のみよへの思いを、
「その夜、二階の一間に寢てから、私は非常に淋しいことを考へた。凡俗といふ觀念に苦しめられたのである。みよのことが起つてからは、私もたうとう莫迦に
なつて了つたのではないか。女を思ふなど、誰にでもできることである。しかし、私のはちがふ、ひとくちには言へぬがちがふ。私の場合は、あらゆる意味で下 等でない。しかし、女を思ふほどの者は誰でもさう考へてゐるのではないか。しかし、と私は自身のたばこの煙にむせびながら強情を張つた。私の場合には思想
がある!」(太宰治「思い出」)
と「思想(=デモクラシイ)」によって正当化しようとしていますが、太宰の後の小山初代との結婚生活も、ここで語られた「思想」の実践という心算が太宰自
身にはあったのではないかと思います。いわば、太宰なりの自分の人生をかけたヴ・ナロードですね。又、小山初代が芸者であったことを考えると、彼女との結 婚を、太宰自身はラスコーリニコフとソーニャの関係のヴァリエーションと内心看做していた可能性もあります。小山初代との結婚生活は彼女の小館善四郎との
浮気を直接的な理由として結局破綻しますが、初代と別れて以降も、「善蔵を思う」「黄金風景」「新樹の言葉」「作家の手帖」「親という二字」「美男子と煙 草」、そして『津軽』等と、太宰なりの「民衆との和解」は試行され続けます。いまここに挙げた太宰の作品は、すべてドストエフスキーの「百姓マレイ」の
ヴァリアシオンだと言ってもいいような作品群だと思います。太宰は太宰なりに、「民衆との和解」に憧れ続けたのです。だからこそ、彼がその生涯の最後に、
「僕は、貴族です」(太宰治『斜陽』)
と、戦後実現したはずの「デモクラシイ」の醜悪さに堪え切れず、「民衆との和解」をついに断念してしまったらしいことが、いっそう痛ましく感じられる訳です。
太宰が若くして自殺し、ドストエフスキーが自殺せずに曲がりなりにも老年に達することが出来たのは、あるいは、前者が現実に「デモクラシイ」を体験し、後
者が現実には「デモクラシイ」を体験せずに済んだからである――と考えることも出来るのではないでしょうか。あるいは、こうも言えるかも知れません、太宰 は、ドストエフスキー以上に「ヴ・ナロード」を現実の生活で実践し過ぎたために、民衆への絶望を深くし、ついに自死に至らざるを得なかったのだ――と。
太宰治にあっては「ヴ・ナロード」は常に曲りなりに実践の次元で追求されたものであったのに対して、ドストエフスキーにあっては「ヴ・ナロード」はあくま
で理念的な次元で語られるものに止まっていた。だからこそ、ドストエフスキーは太宰のように破滅することなく生き長らえることが出来たのかも知れません。
* * *
文学に於ける「自意識」の問題に就いては、又後日、書けたら書かせて頂こうと思います。
(14)
[467]
RE:太宰治とドストエフスキー
名前:大森
投稿日時:09/01/04(日)
いろいろな方が言及したので感想を書きます。(以前も多少書いたことですが)
私は、太宰とドストエフスキーの最大の共通点は両方とも人格障害と分類されるたぐいの人間だったということだと思っています。
人格障害とは、心理学、精神医学の言葉で、幼年期に不適切な養育をされて他人への信頼感をもてない種類の人間のことです。
不適切な養育とは、つまり虐待ですが、身体的な虐待だけでなく、性虐待(「人間失格」に性虐待の記述がありますね)、心理虐待(「お前なんて生まれてこ
なければよかったんだ」といわれ続けるなど)、ネグレクト(無視、放任。ミーチャの幼年期がネグレクトですね)などがあります。
こうした不適切な環境下で、幼年期に孤独感、屈辱感、恐怖感、不安感などを植えつけられた魂は、大人になりさまざまな負の感情を出します。他人と繋がれ
ないという孤立感、得体の知れない恐怖や憂鬱、自分には価値がないという自信のなさ、様々な依存(アルコール、薬物、ギャンブル、買い物、拒食、過食、異 性など)、自殺願望、急な感情の激変(褒めた人を一転してけなす。急に怒り出すなど)、異常なまでの怒りと攻撃性。
以上の人格障害の特徴を見れば、太宰やドストエフスキーにそうした特長があることは認められるでしょう。
私は、以前も書いたように、同じ人格障害でも、ドストエフスキーは、他人につながりたいと願い、努力したように見えます。また、自分の抱いている神、自
由、理想的社会などの問題が他人にとっても大切な永遠の問題であり、それを通じて他人とつながれると考えていたと思います。だから多くの問題を抱えながら、ドストエフスキーは生き抜けたし、理解者の妻アンナに出会えたのだと思います。
太宰は、他人を恐怖して、けしてつながろうとしません。人間失格の中で中学校時代に竹一に自分の道化をわざとと見破られて恐怖する場面があります。「自
分は震撼しました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。
それからの日々の、自分の不安と恐怖。」
また「父」の中で人間の最も親密な場面であるはずの家族の団欒について以下の記述があります。「炉辺の幸福。どうして私には、それが出来ないのだろう。とても、いたたまらない気がするのである。炉辺が、こわくてならぬのである。」
太宰はただ、嘘(小説)によってだけ他人とつながろうとしました。しかし、嘘によって自分の本心が伝わるはずはありません。死ぬ間際には、楽しい嘘を
サービスする必死さや孤独さに、太宰は疲労していたのではないかと私は感じます。「饗応夫人」や「眉山」といった作品は、そうした死にそうなサービスのつらさを描いているように思えます。
すいません。長くなったのでこのくらいで。他の人の意見にコメントしようとして出来ませんでした。また後日。
(15)
[468]
RE:太宰治とドストエフスキー
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:09/01/05(月)
>大森さん
僕は医者が嫌いで、どんなに体調が悪くても自力で治すようにしていて、過去十年以上病院に行ったことがありません。何年か前、車にはねられて救急車を呼ばれた時にも、病院に行くのは拒否した程です。死ぬ時はそれが天命と諦めてさっさと死ぬのがいい。無理な延命こそもしかしたら人の世を誤らせているものでは
なかろうか――と思うことも時にあります。或いは、「延命」という発想のうちにこそ、現代の悪魔は潜んでいるのかも知れません。
それくらいに医者嫌いの僕ですが、殊にも精神医学に対する不信感は強く、心を病む人がいるから精神医学が必要とされているというよりも、精神医学こそが心
の病を増殖させているんじゃないのか? ――と思うこともしばしばです。たとえば、下に大森さんが列挙した人格障害の条件ですが、ほぼ、すべて僕にも身に 覚えがあるものです。もしドストエフスキーや太宰治が人格障害を抱えていたのであれば、僕も人格障害を抱えているといっていいでしょう。おそらく、精神科
医の診断を受ければ、僕も何某かの精神病なり人格障害なりを宣告されることでしょう。けれども、そんな僕も、しんどいことは山ほどあるけど、どうにかこう にか医者に掛からず日常生活を営んでいるわけです。精神医学とは、どうも人の弱気につけこんだ商売のような気がしてなりません。
もっとも、家族や恋人どころか、友人も知人も一人もいない、一切の人間関係から断絶したこの僕の生活が生活の名に値するのか――と問われれば、たしかに到
底まともな生活ではないとは思いますが、たとえまともな生活でなくとも、取り敢えず、誰かに過大な迷惑を掛けることもなく、どうにかこうにか自力で生きて いるのだから、自分でこれも致し方なしと観念しているのだし、こういう生活もありなんじゃないかしら――とも思います。僕が、どれだけ孤独で惨めな人生を
送ろうと、それは畢竟誰にとってもどうでもいいことなのですから。僕が生まれてきて、そして死んでいくことには、もとより何の意味もないのです。強いていえば、そういう無意味さを引き受けることが、生きるということです。ここは小林秀雄をパロって、次のように言っておきましょうか。まともな生活があるので
はない、ただ生活というものがあるだけだ――と。そこには実は何の意味もない。あとは、自分の天命が尽きるまで、牛の如く押していくだけです。
勿論、こう言ったからといって、自分の人生に意味を見出している人にケチをつけるつもりは毛頭ありません。それはそれで素晴らしいことなのだから、その意味を大切にして、その人なりの人生をまっとうして欲しいと思っています。
――さて、以上、僕本来のペシミズムを大分あらわにしてしまいましたが、大森さんの、太宰とドストエフスキーを対比して、両人とも人格障害者でありながら、
・太宰=人とつながろうとしなかった
・ドストエフスキー=人とつながろうとした
故に後者は穏やかな晩年を迎えることが出来た――という見立ては、一見判り易いですが、仔細に見ていくと、そう簡単に割り切れるものではないような気もします。そもそも、
・太宰=人とつながろうとしなかった
・ドストエフスキー=人とつながろうとした
このテーゼが、???という感じです。僕の知っている限り、太宰と同程度には、ドストエフスキーにもミザントロープ的側面はあり、又、ドストエフスキーと
同程度には、太宰にもフィラントロープ的側面はあったように思います。実際、本当に現実的に他人と人間関係を営む能力に欠けている僕などと較べれば、太宰 治だって、相当に友人の多い、魅力的で社交的な人物であったように見えますし、又、一見穏やかな後半生を送ったように言われるドストエフスキーだって、そ
の死後、親友付き合いをしていたはずのストラーホフからとんでもない偽善者であったと誹謗告発されているように、実は僕以上に真の友人を得ることの出来な かった、対人関係上に致命的な欠陥を抱えた人物だったと考えることも出来るでしょう。むしろ、ドストエフスキーは、
「――はっきり言ってごらん。ごまかさずに言ってごらん。冗談も、にやにや笑いも、止し給え。嘘でないものを、一度でいいから、言ってごらん。
――君の言うとおりにすると、私は、もういちど牢屋へ、はいって来なければならない。もういちど入水をやり直さなければならない。もういちど狂人になら
なければならない。君は、その時になっても、逃げないか。私は、嘘ばかりついている。けれども、一度だって君を欺いたことが無い。私の嘘は、いつでも君に 易々と見破られたではないか。ほんものの兇悪の嘘つきは、かえって君の尊敬している人の中に在るのかも知れぬ。あの人は、いやだ。あんな人にはなりたくな
いと反撥のあまり、私はとうとう、本当の事をさえ、嘘みたいに語るようになってしまった。ささ濁り。けれども、君を欺かない。底まで澄んでいなくても、私 はきょうも、嘘みたいな、まことの話を君に語ろう」(太宰治「善蔵を思う」)
と書いた太宰以上に、嘘で固めた人生を送った人だったと考えることも出来るかも知れません。どっちがより嘘吐きであったのかは、そう簡単に判定出来ないと思います。まさに、真実は藪の中です。
さて、あれこれ書きましたが、要するに、精神医学的知見に基づいて、
・太宰=人とつながろうとしなかった
・ドストエフスキー=人とつながろうとした
と纏めてしまうことに、僕は相当の違和感を覚えます。僕に言わせれば、どっちもどっちです。にもかかわらず、太宰が夭逝し、ドストエフスキーが老年まで生き延びたのは、両者の気質や思想や信仰の問題ではなく、ただ単に、肉体的に太宰が持たなかったからではないか、と僕は思っています。喀血を繰り返しながら
執筆に執り組んでいた晩年の太宰は、結核が亢進し、たとえあそこで心中しなくても、もってあと半年くらいのものだったとも言われています。太宰は太宰で天 命をまっとうしたというだけなのかも知れません。太宰は、係累の多くを結核で失っていますが、そういう遺伝的体質を持つ自分が長生きすることはあるまい
――と若い頃から覚悟していたのではないでしょうか。そう考えると、彼のがむしゃらに生き急ぐような生き様の発条が奈辺にあったのか窺い知れるようにも思 います。
太宰は、人とつながることが出来なかったから早死にしたのではなく、単に、遺伝的宿痾である結核が亢進して、身体がもたなくなり、自棄を起こしてしまったから早死にしてしまったのだ――と僕は思っています。
ま、ともかく、最後に、太宰とドストエフスキーの生涯に、後世の我々が、後だしジャンケンめいて甲乙をつけるのはおこがましい、とだけ言っておきましょう。
(16)
[472]
RE:太宰治とドストエフスキー
名前:大森
投稿日時:09/01/10(土)
ミエハリさん。感想、ありがとうございました。
一応返事と感想を書きます。
私の書いたことはあくまで率直な私の個人的な感想に過ぎません。
答えはもちろん藪の中です。
「ともかく、最後に、太宰とドストエフスキーの生涯に、後世の我々が、後だしジャンケンめいて甲乙をつけるのはおこがましい」というご意見にも、変かもしれませんが、共感を覚えます。
あくまで個人的感想とのみ思ってください。
「人格障害」について書いた件については、私は精神医学の知識を持ち出して分析するつもりではありませんでした。
私はここ10年以上、急に怒り出し攻撃してくる人物、激しい不安や憂鬱に襲われる人物たちと何人も接してきました。そうして、正直何度もへとへとになるまで苦しみました。
その中で、私は、人格障害という言葉を知り、接し方を学んだのです。またその中で、ドストエフスキーを再読し、若い頃分からなかったドストエフスキーの
小説の登場人物たちが身近に感じられるようになりました。「こういう人いる!よく知っている!」と思えるようになったのです。
私は判りやすいように精神医学の説明を使いましたが、私のドストエフスキー理解は、私の実生活の体験に基づいていて、それを精神医学の言葉を借用して書いたということです。
また、ドストエフスキーが人とつながりたい人、太宰は、人とつながらない人というのは、私がそれぞれの作品を読んで浮かんだ率直な感想です。
論拠としてドストエフスキーの妻アンナへの手紙と太宰治の「人間失格」「眉山」「饗応夫人」を出して、比べて見ました。
また私の感じるそうした二人の姿勢と二人の寿命については私は因果関係を感じないし、因果関係があるとは書いていません。
寿命でなく、死ぬ直前に、ドストエフスキーが理解者の妻を得たことやプーシュキンについての演説で会衆から賞賛された事実、と、太宰が「眉山」や「饗応
夫人」のような献身者への無理解と献身者の死をテーマにした小説を書いたことや心中という世間を拒絶するような死を選んだ事実に、二人の人生への姿勢の違いを感じたと書いたのです。
まあ、どちらにしろ、素人の個人的感想なので、あんまり、おおげさに取らないでください。
そこんとこをよろしくね。
(17)
[473]
未成熟な人間の特徴は、〜
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:09/01/10(土)
未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある(サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』)
>大森さん
丁寧なご返事、ありがとうございました。
先日の僕の書き込みが、それこそ人格の未熟さを晒すような大人気のない調子のものでしたから、一言謝罪の言葉を付け加えようかとも思っていたのですが、大
森さんが返事を下さる前に謝ってしまうのも狡いことかな、と考え、まんじりともせずお待ちしていたので、今回の大森さんの返答には、正直ほっとさせて頂き ました。
「人格障害」という言葉を使われた意図については、了解致しました。「人格障害」というと、他に、僕はジョン・レノンを思い出します。彼も崩壊家庭の子供
であり、非常に攻撃的であると同時に非常に繊細な性格の持ち主であったようです。音楽を聴いているだけでも、彼の極端な二面性(コールド・ターキー/イマ ジン)は窺えますね。又、世界に平和を訴えた彼は、私生活では非常に暴力的な人間で、ヨーコも度々ドメスティック・バイオレンスの被害に遭っていたそうで
す。そして、最後は熱狂的なファンに射殺されて生涯を終えました。痛ましいことですが、彼の死も、又、一種の因果応報ともいうべきものだったのかも知れません。
「ドストエフスキーが人とつながりたい人、太宰は、人とつながらない人というのは、私がそれぞれの作品を読んで浮かんだ率直な感想です。
論拠としてドストエフスキーの妻アンナへの手紙と太宰治の「人間失格」「眉山」「饗応夫人」を出して、比べて見ました」
これに関しては、手紙と小説を比較してしまうのは、いささかフェアではないような気もします。手紙同士で比較すれば、上京仕立ての頃、井伏鱒二宛に「会ってくれなければ自殺する」という脅迫の文句を含めた手紙を送っているように、本来太宰もまた狂おしいまでに「人とつながりたい」と願っていたのだと思いま
す。
「人間失格」「眉山」「饗応夫人」などは、確かに対人恐怖が色濃い作品群ですが、これらの作品はすべて、戦後の混乱した世相と、特に実現したはずのデモク
ラシイの醜悪さに太宰が絶望していた時期に書かれたものだということを押さえておくことが大切だと思います。もし、太宰がデビュー当時から一貫して人間嫌いを基調にした作品ばかり書いていたのであれば、太宰の本質は「人とつながろうとしなかった」ことにあると一般化出来ると思いますが、太宰の全作品を眺め
てみれば、「思い出」「黄金風景」「富嶽百景」「走れメロス」「善蔵を思う」「風の便り」「華燭」「佳日」「散華」「津軽」――等々と、むしろ「人とつながりたい」という願いを中心モチーフにした作品の方がずっと多いのです。又、美知子夫人や親しかった友人・編集者、弟子筋の作家たちの残した回想記を読む
と、太宰は基本的に、不器用ながら、人間の好きな、陽気な性格の持ち主であったことが窺えます。
そんな太宰が、何故、戦後になって、あそこまで捨て鉢な生活を送ったのか――それを見誤ってはならないと思います。太宰の「世間を拒絶するような死」は、
あくまで、人間一般ではなく、戦後民主主義という醜悪な世相に向けられた抗議だったのではないか――と僕は思っています。
「日本は無条件降伏をした。私はただ、恥ずかしかった。ものも言えないくらいに恥ずかしかった。
×
天皇の悪口を言うものが激増して来た。しかし、そうなって見ると私は、これまでどんなに深く天皇を愛して来たのかを知った。私は、保守派を友人たちに宣言した。
×
十歳の民主派、二十歳の共産派、三十歳の純粋派、四十歳の保守派。そうして、やはり歴史は繰り返すのであろうか。私は、歴史は繰り返してはならぬものだと思っている。
×
まったく新しい思潮の擡頭を待望する。それを言い出すには、何よりもまず、「勇気」を要する。私のいま夢想する境涯は、フランスのモラリストたちの感覚を基調とし、その倫理の儀表を天皇に置き、我等の生活は自給自足のアナキズム風の桃源である」(太宰治「苦悩の年鑑」)
ここでも、若松孝二監督の『実録・連合赤軍』と同じく、「勇気」がキーワードになっていますが、太宰の戦後の怒りと絶望が奈辺にあったかを、我々はくれぐれも見誤ってはならないでしょう。ドストエフスキーだって、もしかしたら、戦後の日本に生きていれば、愛人と心中して死んでいたかも知れません。
先日マイジョフスキーさんが言及されていた、猪瀬直樹の『ピカレスク』と、同著者の『ペルソナ』は、猪瀬直樹の持論である官僚批判の文脈に引きつけて太宰及び三島の生涯と作品を読み直そうという試みでしたが、太宰治の短編「家庭の幸福」こそは、たしかに戦後最も早い時期になされた官僚批判であったとして読むことも出来るでしょう。
「……見すぼらしい女の、出産にからむ悲劇。それには、さまざまの形態があるだろう。その女の、死なねばならなかったわけは、それは、私(太宰)にもはっ
きりわからないけれども、とにかく、その女は、その夜半に玉川上水に飛び込む。新聞の都下版の片隅に小さく出る。身元不明。津島には何の罪も無い。帰宅すべき時間に、帰宅したのだ。どだい、津島は、あの女の事など覚えていない。そうして相変らず、にこにこしながら家庭の幸福に全力を尽している。
だいたいこんな筋書の短篇小説を、私は病中、眠られぬままに案出してみたのであるが、考えてみると、この主人公の津島修治は、何もことさらに役人で無く
てもよさそうである。銀行員だって、医者だってよさそうである。けれども、私にこの小説を思いつかせたものは、かの役人のヘラヘラ笑いである。あのヘラヘ ラ笑いの拠って来る根元は何か。所謂「官僚の悪」の地軸は何か。所謂「官僚的」という気風の風洞は何か。私は、それをたどって行き、家庭のエゴイズム、と
でもいうべき陰鬱な観念に突き当り、そうして、とうとう、次のような、おそろしい結論を得たのである。
曰く、家庭の幸福は諸悪の本」(太宰治「家庭の幸福」)
ここで読み間違えてはならないのは、太宰は決して「家庭の幸福」一般を罪悪視していた訳ではないということです。彼自身、子煩悩な父親であり、少なくと
も、日本が戦争に敗れるまでは、懸命に家庭を守ろうと頑張っていたのです。そんな太宰が、「家庭の幸福は諸悪の本」と言わざるを得ないほどまでに、戦後の 日本の社会は醜悪なものになっていたのではなかろうか――。生まれた時から戦後日本にどっぷり漬かって生きてきた人間には判りづらいですが、戦後の日本で
単に「家庭の幸福」を至上の価値として生きることは、途轍もなく醜悪なことなのかも知れません。
戦後日本の「デモクラシー」の偽善に対して、死をもって抗議した作家というと、太宰の他に三島由紀夫がいますが、太宰と三島の死を戦後民主主義への批判という文脈で統一的に捉え直した最近の評論に、加藤典洋の「太宰と井伏」 がありますので、一応、紹介しておきます。
(18)
[475]
追記――彼岸の対局――
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:09/01/11(日)
猪瀬直樹の『ピカレスク』と加藤典洋の『太宰と井伏』が、それぞれその論を展開する上で大きく依拠している川崎和啓氏の論文「師弟の訣れ――太宰治の井伏鱒二悪人説――」が、WEB上で読めるのでリンクを貼っておきます。
それにしても、若き日に「会ってくれなければ自殺する」と熱烈な愛情を罩めた手紙を井伏に送った太宰が、その生涯の最後に「井伏さんは悪人です」と書き残
して自殺したという経緯にも、人と人が解り合うことの難しさが雄弁に物語られているようで、何とも、筆舌に尽くし難い思いに胸を占められてしまいます。何 となく、スメルジャコフのイワンに対する狂おしい愛情も思い出してしまいます。自殺した太宰と、生き延びた井伏と、どちらの方がより辛かったでしょうか。
願わくば、伴に鬼籍に入った二人が、此岸に在った頃のように、彼岸の縁側で、又、お互いに際どい冗談を言いながら、将棋でも指してくれていたらと思います。
(19)
[500]
戦後といふ時代
名前:大森
投稿日時:09/03/01(日)
今日、ちょっと以前の書き込みを読み返し、ミエハリさんの「未熟な人間の特徴は〜」を読みました。その中でミエハリさんが戦後といふ時代への嫌悪を太宰が感じてゐたのではないだらうかと書いてをられたのを見て感想が浮かびました。
それは、ミエハリさん自身が戦後といふ時代の懶惰さに嫌悪を抱いてをられるのかなと感じましたのです。
私は戦後の高度成長開始と共に出生した人間であり、私は、戦後にまで残った戦前の古き良き日本の残り香を微かにかいだ人間と自覚してをります。私は、どうしようもなく戦後世代の人間ですが、同時に失はれた古き良き日本への郷愁を持ち続けてをります。私の人生の悪あがきの半分は、古き良き日本への郷愁と回
帰願望がもたらしたものといっていいのでせう。
ミエハリさんの「未熟な〜」の文章を読んで、もしかして、ミエハリさんも、古き良き戦前への郷愁と戦後への嫌悪感を抱きつつ、どうしようもなく戦後世代の人間であると自覚しているのかと思って書きました。
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近代という時代
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:09/03/01(日)
>大森さん
レス、ありがとうございます。
戦後の日本へ僕の抱いている感情は、それこそ、太宰の言葉を借りれば、
「汝を愛し、汝を憎む」
という感じになると思います。三島由紀夫の言葉を借りれば「憎悪愛」ですね。
三島由紀夫と全共闘運動はともに戦後民主主義を批判しましたが、両者に先駆けて大東亜戦敗戦後直ぐに戦後民主主義を批判して自殺した人こそ太宰治だと僕は
思っています。戦後民主主義は大東亜戦の否定の上に自らの正当性を主張していますが、大東亜戦とは何であったのか、それはつまり17世紀の近代資本主義勃
興以来今尚続くアングロ=サクソン帝国主導の世界帝国主義に対する一種の革命戦争であったわけです。そして、その革命戦争を支えた原理こそ尊王攘夷の理念
だったはずですが、この理念を否定することで戦後民主主義が自らを正当化している点にこそ、太宰以来、三島、全共闘、そして現代のネット右翼に至るまでが 感じている「戦後という時代」への嫌悪は由来しているのではないかと思います。
そして、ドストエフスキーという作家も又、アングロ=サクソン帝国に対する革命戦争をスラヴ主義(ロシア・メシアニズム)の立場から夢想していた小説家で
した。尚、19世紀のロシアで猖獗し、ドストエフスキーもその一翼を強力に担ったスラヴ主義は、ブルマ&マルガリートの『反西洋思想』(新潮新書)による
と、フランス革命時代にナポレオンの覇権へ対抗する形で勃興したドイツ・ロマン派の各思想(ヘルダー、フィヒテ、ヘーゲル等)に多大な影響を蒙っていると いうことです。
ブルマ&マルガリートがコンパクトに纏めた近代に於ける「反西洋思想」の流れは、ドイツ・ロマン派、スラヴ主義(ロシア・メシアニズム)、日本浪曼派(近
代の超克)を経て、現代ではハマスやアルカイダに受け継がれて戦われていると考えることも出来ますが、たとえばレバノンのベッカー高原に拠ってパレスチナ に於ける反米反イスラエルの戦いに身を投じた岡本公三ら日本赤軍は、降伏も転向も拒否し大東亜戦を継続し続けた国士たちである――と見ることも可能です。
在野のエルンスト・ユンガー研究家であり、すが秀実氏が編集人を務める雑誌『悍』の創刊号にも過激な「大東亜戦争=世界革命戦争」論を寄稿している、知る 人ぞ知るアナルコ・ファシスト千坂恭二氏は、
「チャンドラ・ボースが、日本の外部からの来訪者(亡命者)だったならば、日本赤軍は日本から外部へ向かった(亡命した)といえるだろう。それは吉本(隆
明)がいうような「ドロップアウト」ではなく、地球的規模での「吉野」(京都の北朝に対して、後醍醐帝の南朝の国内“亡命”地)ともいうべきベッカー高原 に逃れた「日本史」なのである。日本赤軍が単なる一個の政治組織のレベルを越えて「日本史」的存在であるのは、彼らが「軍」であり「戦争」を継続し、その
意味において戦後以前の戦争の継承者だからだ。そしてベッカー高原が、外部としての「吉野」(日本の正史の在所)である所以は、日本の戦争が、日本一国の ものではなく、ドイツ、イタリアという海外盟邦を持っていたことにある」(千坂恭二「一九六八年の戦争と可能性」)
と現代の北畠親房みたいなことを書いていますが、戦後民主主義への「転向」を拒否し、尊王攘夷の理念を犇と守り、大東亜戦をアングロ=サクソン帝国に対す る世界革命戦争であったと捉え続けるのであれば、たしかに、千坂氏の言うような日本赤軍論も成立し得るでしょう。血盟団の一員であった重信房子の父親が、
娘のことを「立派な右翼」と呼んでいたのも、彼が日本赤軍に大東亜戦の継続を見ていたからかも知れません。ちなみに千坂恭二氏は、現代の革命派は再軍備・ 核武装を目指すべきであり、現代の日本にあっては、反戦・反核・エコロジー(=戦後イデオロギー)こそ反革命である、と過激な主張もしています。
千坂氏の主張の是非はともかく、両者とも、アングロ=サクソン主導の世界帝国主義(グローバリズム)に対して、「攘夷」の立場からプロテストを試みた作家であったという点こそ、太宰治とドストエフスキーの最大の共通点である――と言うことも出来るのではないでしょうか。
(21)
[502]
RE:太宰治とドストエフスキー
名前:大森
投稿日時:09/03/02(月)
ミエハリさんの文章は興味深いです。
私も、どうしようもなく戦後世代の人間ですが、戦後という時代にずっと居心地の悪さを感じてきました。その豊かさ、便利さ、アメリカ的な価値観、伝統との断絶、軽薄さ、底の浅さ。自分がそういう人間でありながら、どうしようもない嫌悪感、否定的な感情を抱いてきました。
確かに太宰は、戦時中に「新郎」「惜別」「散華」「佳日」といった愛国的な作品を残し、また戦後も「十五年間」「苦悩の年鑑」といった作品で反戦後風潮、天皇陛下への敬愛を示していますね。反戦後、親戦前の元祖であり、尊皇的といっていいかもしれません。
しかし、そうした気持と太宰の自殺は、結びついていないような気がします。太宰の死は、おもに、個人的な女性問題や人生の後半を迎える時期の精神的不安定さや人間失格などの作品を書いて「もう充分書いた」という気持などが原因ではないかと私は思っています。
私は、日本の戦前の戦争に一理あるし、西洋人の植民地征服に対抗したという一面はあると思っています。大東亜戦争で命を捧げた方々にも深い敬意を抱く者です。
しかし、私は矛盾し、様々な宗教が雑居しているような人間なので、一つの考えを主張しずらい気持でいます。私の心の中では、キリスト教と先祖の信じた浄
土真宗と山岳信仰が雑居し、明治以来の近代化についても一理あるもので仕方がなかったし、そこに立派な努力もあったとも思ってしまいます。
日本赤軍といえば、左翼というのが一般的なイメージと思いますが、なぜ、尊皇攘夷的な捉え方ができるのでしょうか。教えてください。
「反西洋思想」は、面白そうです。読んでみませう。
そういえば、ドストエフスキーにもヨーロッパが嫌い、スラブ主義、自然や大地への憧れなどがありますね。
(22)
[595]
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:09/07/27(月)
>大森さん
上の2009/03/01「近代という時代」の書き込みで、僕としては、まさに何故日本赤軍を尊王攘夷的に捉えることが出来るかの理由を書いたつもりでしたから、その後の大森さんの、
「日本赤軍といえば、左翼というのが一般的なイメージと思いますが、なぜ、尊皇攘夷的な捉え方ができるのでしょうか。教えてください。」
という質問には、正直ガックリしてしまいました。多分、先入見を排して丁寧に読んでくだされば、「近代という時代」の書き込みだけでも、日本赤軍を尊王攘
夷的に捉える視点がどうして可能になるか、ある程度判って頂けるとは思うのですが、僕が「近代という時代」の投稿記事を書く際に参考にさせて頂いた千坂恭 二氏の「日本的前衛とアジアの大衆」という論文のリンクもこの際貼っておきますので、気が向いたら読んでみてください。千坂氏こそ、大東亜戦と日本赤軍を一つの継続した戦いとして捉え直す視点を提示されている論客です。
また、現在渋谷のシネマライズで公開中のドイツ赤軍に取材した映画『バーダー・マインホフ 理想の果てに』の 予告編の冒頭で、裸の男が「ドレスデン、ヒロシマ、ベトナム!」と叫んでいますが、この三つの地名は、みな、第二次大戦以来、アングロ=サクソン主導のグ ローバリズム帝国との戦いに於いて焦土と化した土地の名前です。この三つの土地を、同じ一つの戦いに於ける虐殺の地として位置付けることで、ドイツ赤軍の
戦いが何に対する戦いであったかをこの映画は鮮烈に印象付けています。ドイツ赤軍も日本赤軍もともにパレスチナに拠点を置いていましたが、パレスチナこそ 第二次大戦後の世界に於ける「吉野=南朝」である、というのが千坂氏の特異な戦後史観です。千坂氏は、謂わば三島の言葉を借りれば「幻の南朝に忠義を励
む」志士の一人ということも出来るでしょうか。
日本の全共闘世代の左翼運動も、彼ら自身の意識のレベルでは左翼を自任していましたが、彼らの無意識のレベルではむしろ攘夷のパトスに突き動かされていた
のではないかと思います。その辺に三島も共感したのでしょう。誰だかが全共闘運動とは、要するに最後の攘夷運動だったのだ、と評してもいましたね。
まあ、元々、左翼も右翼もナショナルなパトスに根差すものですから、長いスパンで捉えてみれば、日本赤軍を尊王攘夷的に捉え直すことも、そう理解し難いことではないと思います。
さて、ここは一応「太宰治とドストエフスキー」というお題のスレッドですから、太宰のことにも触れておきましょう。大森さんは、
「確かに太宰は、戦時中に「新郎」「惜別」「散華」「佳日」といった愛国的な作品を残し、また戦後も「十五年間」「苦悩の年鑑」といった作品で反戦後風潮、天皇陛下への敬愛を示していますね。反戦後、親戦前の元祖であり、尊皇的といっていいかもしれません。
しかし、そうした気持と太宰の自殺は、結びついていないような気がします。太宰の死は、おもに、個人的な女性問題や人生の後半を迎える時期の精神的不安定さや人間失格などの作品を書いて「もう充分書いた」という気持などが原因ではないかと私は思っています。」
と書かれていますが、これはごく典型的で一般的でやや通俗的な太宰のイメージだと思います。太宰という作家は色んな角度からの読み方が可能ですが、太宰の
戦後の作品及び太宰の自殺を、戦後の世相に対する抗議という視点から捉え直すことで、典型的で一般的で通俗的な太宰のイメージから解放して、太宰の作品を よりアクチュアルに読み直すことも可能になるのではないかと思います。現代に至るまで太宰が若い読者を獲得し続けているのも、太宰が死をもって抗議した戦
後の偽善が未だに終らないことの証左とも言えるでしょう。
(23)
[601]
名前:大森
投稿日時:09/08/15(土)
ミエハリさんへ
「ガックリ」させてすみませんでした。
返事遅れてすみません。
質問の仕方が悪かったですね。
日本赤軍については、ほとんど知らないのですが、欧米の帝国主義的侵略に反対したことは知っていました。また、その点がミエハリさんをして「尊皇攘夷」と言わせているのだろうと言う事は推測できました。
その上で、私が聞きたかったのは、まず、初めに
@攘夷は分かるとしても、「尊皇」だったのか?ということです。
左翼である日本赤軍が、天皇崇拝の心情を持っていたのか、疑問です。
次に
A攘夷については、反欧米帝国主義的侵略(今でいう反グローバリズムですか?)の点は分かるのですが、攘夷というと、私は、「日本の伝統文化への愛と保護」を思い浮かべるのです。
日本赤軍に、日本の伝統擁護と伝統保持の姿勢があったかどうか、聞きたかったのです。
また時間があれば、お答えください。
紹介していただいた「反西洋思想」は読みました。
「苦悩の年鑑」や「十五年間」を読むと、太宰が、戦後「天皇平陛下万歳!」と書き、戦後の軽薄な風潮を嫌悪していたことは私にも分かります。
ただ、それと自殺と結びつけるのには抵抗を覚えます。
その件については、坂口安吾の文章を引用します。
「太宰はフツカヨイ的ではありたくないと思い、もっともそれを呪っていた筈だ。どんなに青臭くてもかまわない、幼稚でもいい、よりよく生きるために世間的な善行でもなんでも、必死に工夫してよい人間になりたかった筈だ。」
「太宰の遺書は、書体も文章も体をなしておらず、途方もない御酩酊に相違なく、これが自殺でなければ、アレ、ゆうべは、あんなことやったか、と、フツカヨイの赤面逆上であるところだが、自殺とあっては、翌朝、目が覚めないから駄目である。」
(不良少年とキリスト)
(24)
[602]
ドストエフスキーと太宰治
名前:洋。
投稿日時:09/08/16(日)
...
『人間失格』太宰治のなかで“罪”のアントは何か?
という問いの解答。
F.M.ドストエフスキーを深く読み込むと“信仰”であると、
漸くそう真実に感覚し得る様になりました。……オリジナルです。
誰も覚えておられないにしても、自分は暫く振りに書き込んでみます。
……亀山郁夫先輩の『悪霊』翻訳が楽しみです。ではでは♪
(25)
[603]
尊王攘夷を果たし得ていないインテリは駄目だね(三島由紀夫)
名前:ミエハリ・バカーチン
日時:09/08/16(日)
>大森さん
レスありがとうございます。
そもそも、左翼と尊王は背反するものではありません。近代日本左翼の元祖・中江兆民も、山口二矢に殺された浅沼稲次郎も、ともに尊王家でした。
「左翼=反天皇」という戦後的図式の先入見とも、我々はそろそろ“グッド・バイ”してもいいのではないかと僕は思っています。
斯上、必ずしも「左翼=反天皇」ではないということを踏まえて、再度言いますが、意識的レベルにあってはともかく、無意識的レベルにあっては、日本赤軍も
(それが南朝的なものであれ)尊王的な衝動に衝き動かされていたのではないか――と考えてみてください(「考える」とは、物事を辞書的定義に回収して安心 する作業のことではなく、物事を辞書的定義から超え出つつ認識し直そうとする精神の働きのことです)。そして、そう「考える」ことで、西郷隆盛から2・ 26を経て三島由紀夫や日本赤軍に至るまでの近代日本に於ける武装蜂起を脈々と下支えしていたものが、革命理念としての「尊王攘夷」だったとする見方も可
能になるでしょう。
かつて、日本史上に於いては、天皇こそ革命の原理として機能していたと考え、革命の原理としての天皇に就いて探究した代表的な人物に、丸山真男や三島由紀
夫他、橋川文三、竹内好、保田與重郎などがいますので、彼らの著作も是非読み直してみてください。彼らの仕事は遡れば江戸期の国学、更には北畠親房の『神 皇正統記』にも連なるでしょう。
三島由紀夫の『文化防衛論』は、昭和天皇の所謂「人間宣言」以来、日本の歴史から決定的に見失われた「革命の原理としての天皇」の像の恢復を目指して書かれたものでした。全共闘運動に攘夷のパトスの勃興を看取した三島由紀夫は、東大全共闘との討論会に於いて「君たちがひとこと天皇と言えば、僕は諸君と手を
結ぼう!」と訴えましたが、これは全共闘の学生たちを無意識裡に衝き動かしていた「尊王」の理念を、三島なりに意識化してやろうという老婆心から出た言葉 だったのだと思います。
――しかし、「革命の原理としての天皇」をついに意識化し得ず、全共闘運動は無慙な失敗に終わり、三島も自害して果てました。
もし、現在に「68年」に象徴される全共闘運動を一つの革命運動として再評価しようとするのであれば、それは、あのムーブメントは実は無意識的な「尊王攘
夷」のエトスとパトスの勃興だったことを認め、それをあらためて意識化するという形でなされねば、同世代人のノスタルジーを超えた次元でアクチュアルな意 味を持つことはないでしょう。そして、全共闘運動の中に無意識裡に潜在していた「尊王攘夷」の理念を、しかと意識化しよう――というラインで目下「思考」
を展開しているのが、千坂恭二氏に他なりません。
安吾の「不良少年とキリスト」は好きな文章ですし、一面の真理を衝いたものだとは思いますが、これだけで太宰の自殺の原因が語り尽くされていると考えるのは、あまりにも早計であります。
太宰の自殺は、多くの原因が絡まり合った上で出来した事件であり、もとより、一つの原因のみで説明することは出来ないでしょう。大森さんの強調したがって
いる、「フツカヨイ」、或いは、女性問題・経済問題に堪え切れなかった彼の精神的弱さ等も、たしかに、太宰の死の原因を為した要素のそれぞれ一つでしょ う。そして、それと同じように、「戦後の偽善」に対する彼の怒りと絶望も、彼の背中を押したもう一つの、しかし決定的な原因だったのだと思います。
太宰の戦後の動きを見ていくと、最初は終戦にある種の解放を感じ、それ以後の日本に希望を見出そうとしていたらしいことが、たとえば『パンドラの匣』などに窺えます。
しかし、戦後の世相は太宰が期待していたような方向には向かわず、むしろ戦中以上に下劣な方向に向かうことになります。太宰が「フツカヨイ」的になってしまったのは、そもそも、こうした戦後の世相に対する幻滅が大きな原因だったということも、見失ってはならないでしょう。
そういえば、先日、太宰の小説がGHQによって検閲されていたという記事が毎日新聞のサイトで配信されていました。
「今年生誕100年の作家、太宰治が終戦後の数年間に刊行した四つの短編集に収めた7作品について、GHQ(連合国軍総司令部)が検閲を実施し、問題があると判断した個所の削除を求める資料が見つかったことが31日、分かった。日本を神国と表したり、武士道精神について述べるなど、軍国主義を連想させる部
分が対象となっていた。
米ペンシルベニア州立大のエイブル・ジョナサン准教授と長崎総合科学大の横手一彦教授が共同研究により、GHQが検閲した太宰作品のゲラを、米メリーランド大図書館の「プランゲ文庫」で発見した。
横手教授によると検閲が分かったのは、▽「新釈諸国噺(ばなし)」(1945年発行)収録の「人魚の海」▽「薄明」(46年)の「鉄面皮」と「校長三代」
▽「ろまん灯籠(どうろう)」(47年)の「貨幣」▽「黄村先生言行録」(同)の表題作と「佳日」と「不審庵(あん)」。「新釈諸国噺」の冒頭にある「凡 例」にも検閲個所があった。太宰の複数作品が検閲を受けていたことが明らかになったのは初。」(毎日新聞、平成21年7月31日)
このGHQによる検閲も、太宰を「フツカヨイ」的にさせるのに、少なからぬ影響があったのではないかと思います。
ところで、ここ数回の遣り取りで気になっているのは、太宰の死の理由を太宰の個人的な弱さのみに集約し、太宰の死の意味を矮小化したくて堪らないらしい、
大森さんの個人的な都合です。太宰の自死に戦後の日本への批判を読み取るのは、実は、そう突飛なことではありません。何故、大森さんは、太宰の死の裡に歴 然とある戦後日本への批判を頑なに否定したがるのでしょうか?
(26)
[608]
今から百年後 人々は同じように感じるだろうか♪(The
Byrds/One Hundred Years From Now)
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:09/09/01(火)
今年は、太宰生誕100周年のアニバーサリー・イヤーということで、各地で各種イベントが開催されているようです。
全国紙・ブロック紙・地方紙、各新聞、文化欄で、それぞれ独自に太宰特集を組んでいるようです。
平成21年の日本で、太宰が如何に読まれているかを通覧する上で参考になるかとも思い、リンクを貼っておくことにします。
(27)
[673]
ミエハリさんへの返答
名前:大森
投稿日時:09/10/01(木)
この板について長く書かなかったのは、別の板で激しいやりとりをしている渦中で、こちらで冷静な話もできないだろうと思っていたことが原因です。
また、その中でミエハリさんが、私への絶交について言及しながら、やりとりが続いているという不安定な状況の中で、どこまで、やり取りが可能なのか、分からなかったからです。
書きたいことは決まっていました。
私は、太宰が「戦後の偽善」に憤ってきたこと、太宰の主張が聞き入れられないので疲れて「フツカヨイ的」になり、それが自殺に至った原因の一つであることは、その通りと思います。
「太宰の自殺は、多くの原因が絡まり合った上で出来した事件であり、もとより、一つの原因のみで説明することは出来ないでしょう。大森さんの強調したがっている、「フツカヨイ」、或いは、女性問題・経済問題に堪え切れなかった彼の精神的弱さ等も、たしかに、太宰の死の原因を為した要素のそれぞれ一つでしょ
う。そして、それと同じように、「戦後の偽善」に対する彼の怒りと絶望も、彼の背中を押したもう一つの、しかし決定的な原因だったのだと思います。」というミエハリさんの言葉には、全く同意します。
私が違和感を持ったのは、「太宰が死をもって抗議した戦後の偽善」という激しい言い方についてです。
「死を持って抗議」という言葉を、自分の主張を真剣に聞いてくれないから、自分の死を持って自分の本気さを示し、他人を真剣にさせようとすることを目指すと私は受け取ったのです。私は、しかし、戦後風潮への絶望は、太宰を「フツカヨイ的」にさせるマイナス要素として死の原因の一つになったのであり、自分
の死で他人を真剣にならせるつもりではなかったのではないか?と思ったわけです。
そのあたりの意見相違は、「死を持って抗議」という言葉のニュアンスの取り方についての差から生まれたものなのでしょう。
私は、太宰が死を持って抗議するより、むしろ生きて、そうした抗議を続けることで改善を目指したかったと推測します。
戦後風潮への太宰の最大の抗議の書は「如是我聞」でしょう。これは、文壇についての抗議ですが、その中に「民主革命。私はその必要を痛感している」という言葉があり、戦後の民主革命を自分の身近な文壇から努力したいという太宰の気持ちが透けて見える気がします。
「如是我聞」の最後に太宰は、「売り言葉に買い言葉、いくらでも書くつもり。」と書き、これからも抗議を続け、戦後の偽善と戦う決意表明をしています。これを読むと戦後風潮に絶望しながら、太宰は生きて、抗議し続けたかったのだ、と思います。
もちろん太宰のような昔死んで我々が会ったこともない人間の死の原因についての本当の真実については、我々には分からないことです。
だから我々は、太宰自身の文章や周辺関係者の文章や事実関係から、真実を推理するわけです。私は今まで、自分の論拠となる文章を提示し、自分の推論を書いてきました。
私は自分の説が仮説であることを理解しておりますし、また、もし、他の論拠推論を示され、その意見について納得できれば、自分の推論を破却することはやぶさかではありません。私は自分の仮説に特段こだわっていません。
ミエハリさんとのやり取りを通じて残念に思うのは、ミエハリさんがミエハリさんの論拠となる太宰自身の文章を提示されなかったことです。
真実を根拠からの推論ではなく、直感的に掴むという場合もあるでしょう。しかし、ミエハリさんの意見を周囲により納得させるには、論拠を示した方が、より説得力が増すと思うのです。
さて、尊皇攘夷の件ですが、私は、ミエハリさんの「西郷隆盛から2・26を経て三島由紀夫や日本赤軍に至るまでの近代日本に於ける武装蜂起を脈々と下支えしていたものが、革命理念としての「尊王攘夷」だったとする見方も可能になるでしょう。」という言葉については、否定的には考えていません。
また尊皇攘夷を批判しようとしているのではありません。
ただ、私がひっかかっているのは、ミエハリさんの言葉、
『そもそも、本音では「自分が一番偉い」と思っている僕に言わせれば、統一教会だろうが、創価学会だろうが、幸福の科学だろうが、キリスト教だろうが、マ
ルクス主義だろうが、ポストモダンだろうが、すべてカルトであることに変わりありません。』という言葉です。これは私にとって非常に衝撃的な言葉です。
ドストエフスキーは、スタヴローギンを、あらゆる信念について懐疑的な人物として描き、その内面の虚無と破滅を描きました。
あらゆる信念を懐疑して生きて行くのは、大変なことと思うのです。
しかし、一方、私は、一つの信念を選ぶことで生まれる不都合さ、不合理さ、独善性も感じるところです。
人間は、一つの信念にも、徹底した懐疑にもなかなか徹しきれず、信念と懐疑の中で揺れ動きながら生きていくものなのではないでしょうか。
私がミエハリさんに「尊皇攘夷はカルトか?」と聞いたのは、上記の文章を書いたミエハリさんが、信念と懐疑とのバランスをどう取っているのか、知りたかったからです。決して、貶めようとしたわけではありません。
もし上記の言葉が、私のオドラデクさんへの疑問を、批判するための方便ならば、それはそれで、そういうものかと思います。
(28)
[683]
彼のこのたびの急逝は、彼の哀しい最後の抗議の詩であった(太宰治「織田君の死」))
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:09/10/05(月)
>大森さん
太宰が戦後の世相をどのような思いで見つめていたのか、それを知る手掛かりとして、死の前年に書かれた有名な織田作への追悼文をまず引いてみましょう。
「織田君は死ぬ気でいたのである。私は織田君の短篇小説を二つ通読した事があるきりで、また、逢ったのも、二度、それもつい一箇月ほど前に、はじめて逢ったばかりで、かくべつ深い附合いがあったわけではない。
しかし、織田君の哀(かな)しさを、私はたいていの人よりも、はるかに深く感知していたつもりであった。
はじめて彼と銀座で逢い、「なんてまあ哀しい男だろう」と思い、私も、つらくてかなわなかった。彼の行く手には、死の壁以外に何も無いのが、ありありと見える心地がしたからだ。
こいつは、死ぬ気だ。しかし、おれには、どう仕様もない。先輩らしい忠告なんて、いやらしい偽善だ。ただ、見ているより外は無い。
死ぬ気でものを書きとばしている男。それは、いまのこの時代に、もっともっとたくさんあって当然のように私には感ぜられるのだが、しかし、案外、見当たらない。いよいよ、くだらない世の中である。
世のおとなたちは、織田君の死に就いて、自重が足りなかったとか何とか、したり顔の批判を与えるかも知れないが、そんな恥知らずの事はもう言うな!
きのう読んだ辰野(たつの)氏のセナンクウルの紹介文の中に、次のようなセナンクウルの言葉が録(しる)されてあった。
「生を棄てて逃げ去るのは罪悪だと人は言う。しかし、僕に死を禁ずるその同じ詭弁家(きべんか)が時には僕を死の前にさらしたり、死に赴かせたりするの
だ。彼等の考え出すいろいろな革新は僕の周囲に死の機会を増し、彼等の説くところは僕を死に導き、または彼等の定める法律は僕に死を与えるのだ。」
織田君を殺したのは、お前じゃないか。
彼のこのたびの急逝(きゅうせい)は、彼の哀しい最後の抗議の詩であった。
織田君! 君は、よくやった」(太宰治「織田君の死」)
織田作の死因は結核でしたが、「死ぬ気でものを書きとばしている」織田作に同志的共感を覚えていたらしい太宰は、織田作の死に際し、その死を「哀しい最後
の抗議の詩」と受け取りました。これは、織田作への追悼に託した太宰自身の戦後の世相への抗議の表明でもあったのではないかと思います。太宰の酒量はこの 頃から急増し、宿痾の結核も亢進していったそうです。織田作の死は、係累の多くを結核で亡くしている太宰にとって、自分にも愈々死期が迫っていることを深
く自覚させる事件だったのかも知れません。
弟子でもあり担当編集者でもあった野原一夫の『回想 太宰治』によると、昭和22年の初夏には、太宰治6月死亡説という噂が太宰の知人の間で半ば冗談ながら流れていたそうですが、そんな噂が半ば冗談とはいえ 流布したのも、当時の太宰が死の予感を色濃く漂わせるようになっていたからでしょう。『回想
太宰治』の「死の影」の章には、急激に悪化する太宰の健康状態を見かねた野原が、
「先生、養生してください……ぼくは、なんだか、先生が、ほんとうに死なれる気でいられるんじゃないかと、なんだか、そんな気がして……先生、養生してください」(野原一夫『回想
太宰治』)
と思いつめて嘆願する場面がありますが、この場面は同書中の白眉の一つでしょう。又、愛人の山崎富栄も、この頃すでに太宰と死をともにすることを覚悟し両親宛てに遺書を認めています。昭和22年の初夏の段階で、太宰は既にきわどいところまで来ていたのだと思います。
実際に太宰が死ぬのはその一年後で、その死も入水によるものでしたが、昭和23年6月に入水しなかったとしても、結核の亢進状態からいって、おそらくあと 数カ月の命だったのではないかという説もあります。太宰は、昭和22年の夏以降、自分の命が既に長くないという覚悟の上でその文筆活動を行なっていたのだ ろうと僕は思っています。殆ど、一作一作を遺作にするような気魄で創作に打ち込んでいたのでしょう。当時太宰の脳裡には、織田作の他に、若くして結核で亡
くなった圭治兄さんの姿も思い出されていたかも知れません。
「そのとしの、四月ごろから、兄は異常の情熱を以(もっ)て、制作を開始いたしました。モデルを家に呼んで、大きいトルソオに取りかかった様子でありまし
た。私は、兄の仕事の邪魔をしたくないので、そのころは、あまり兄の家を訪ねませんでした。いつか夜、ちょっと訪ねてみたら兄は、ベッドにもぐっていて、 少し頬が赤く、「もう夢川利一なんて名前は、よすことにした。堂々、辻馬桂治(兄の本名)でやってみるつもりだ。」と兄にしては、全く珍らしく、少しも茶
化さず、むきになって言って聞かせましたので、私は急に泣きそうになりました。
それから、二月(ふたつき)経って、兄は仕事を完成させずに死んでしまいました。様子が変だとWさん御夫妻も言い、私も、そう思いましたので、かかりの
お医者に相談してみましたら、もう四五日とお医者は平気で言うので、私は仰天いたしました。すぐに、田舎の長兄へ電報を打ちました。長兄が来るまでは、私 が兄の傍に寝て二晩、のどにからまる痰(たん)を指で除去してあげました。長兄が来て、すぐに看護婦を雇い、お友だちもだんだん集り、私も心強くなりまし
たが、長兄が見えるまでの二晩は、いま思っても地獄のような気がいたします。暗い電気の下で兄は、私にあちこちの引き出しをあけさせ、いろいろの手紙や、 ノオトブックを破り棄てさせ、私が、言いつけられたとおり、それをばりばり破りながらめそめそ泣いているのを、兄は不思議そうに眺めているのでした。私
は、世の中に、たった私たち二人しかいないような気がいたしました。
長兄や、お友だちに、とりかこまれて、息をひきとるまえに、私が、
「兄さん!」と呼ぶと、兄は、はっきりした言葉で、ダイヤのネクタイピンとプラチナの鎖があるから、おまえにあげるよ、と言いました。それは嘘なのです。
兄は、きっと死ぬる際まで、粋紳士風(プレッシュウ)の趣味を捨てず、そんなはいからのこと言って、私をかつごうとしていたのでしょう。無意識に、お得意 の神秘捏造(ミステフィカシオン)をやっていたのでありましょう。ダイヤのネクタイピンなど、無いのを私は知って居りますので、なおのこと、兄の伊達(だ
て)の気持ちが悲しく、わあわあ泣いてしまいました。なんにも作品残さなかったけれど、それでも水際立って一流の芸術家だったお兄さん。世界で一ばんの美 貌を持っていたくせに、ちっとも女に好かれなかったお兄さん」(太宰治「兄たち」)
さて、死を覚悟して物を言おうとする時、人間はどんなことを語るのでしょうか。特に太宰のように反俗的傾向の強い作家の場合、たとえ世間にどう取られよう
と、これだけは言っておかねばならぬということだけを言おうとするのではないでしょうか。そういう決意の産物が「如是我聞」だと僕は思います。「如是我 聞」は、太宰の死の覚悟の上に書かれた、まさに「死をもっての抗議」だったのだと思います。
「如是我聞」の冒頭で、太宰は次のように語っています。
「他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ。敵の神をこそ撃つべきだ。でも、撃つには先ず、敵の神を発見しなければならぬ。ひとは、自分の真の神をよく隠す。
これは、仏人ヴァレリイの呟(つぶや)きらしいが、自分は、この十年間、腹が立っても、抑えに抑えていたことを、これから毎月、この雑誌(新潮)に、ど
んなに人からそのために、不愉快がられても、書いて行かなければならぬ、そのような、自分の意思によらぬ「時期」がいよいよ来たようなので、様々の縁故に もお許しをねがい、或いは義絶も思い設け、こんなことは大袈裟(おおげさ)とか、或いは気障(きざ)とか言われ、あの者たちに、顰蹙(ひんしゅく)せられるのは承知の上で、つまり、自分の抗議を書いてみるつもりなのである」(太宰治「如是我聞」)
そうして展開された「如是我聞」に於ける外国文学者批判、老大家批判、志賀直哉批判の激越さは、当時の読者にも大変なショックを与えたということです。実
際、滅茶苦茶です。言いたい放題です。特に志賀直哉批判は、文壇の王として志賀が君臨していた当時の感覚からすると、到底後先考えている人間に出来ること ではないと受け取られたようです。太宰研究の第一人者である奥野健男は、新潮文庫版『もの思う葦』の巻末解説で、
「『如是我聞』は、『人間失格』を書いているあいまに、おそらくは文学青年時代、尊敬した志賀直哉ら既成文学者の、戦争期、そして敗戦によっても、亳も変
わらない思い上がり的な自信と、他への思いやりなさと、それにへつらう若いとりまきの人々、外国文学一辺倒の主体性なき日本の文学者の権威主義と奴隷根性 について、今まで胸に秘めて来た批判を、死を賭して爆発させた、まことに歯切れのよい胸のすく、喧嘩的文章である」
と書いています。奥野健男は、リアルタイムで「如是我聞」を読んだ人ですが、彼のこの感想は、当時「如是我聞」が一般読者にどのように受け取られたかの貴
重な証言でもあるでしょう。それは、戦後の偽善、及び既成文壇の権威主義対する、「死を賭して爆発させた」抗議と受け取られたのです。
そして、太宰の死を、「死を賭して爆発させた」抗議というラインで受け取り、三島の死と結び付けた論考が、たとえば、下でも紹介した加藤典洋の『太宰と井伏――ふたつの戦後』になりますので、気が向いたら読んでみてください。
――ところで、大森さんは、
「もちろん太宰のような昔死んで我々が会ったこともない人間の死の原因についての本当の真実については、我々には分からないことです。
だから我々は、太宰自身の文章や周辺関係者の文章や事実関係から、真実を推理するわけです。私は今まで、自分の論拠となる文章を提示し、自分の推論を書いてきました。
私は自分の説が仮説であることを理解しておりますし、また、もし、他の論拠推論を示され、その意見について納得できれば、自分の推論を破却することはやぶさかではありません。私は自分の仮説に特段こだわっていません。
ミエハリさんとのやり取りを通じて残念に思うのは、ミエハリさんがミエハリさんの論拠となる太宰自身の文章を提示されなかったことです。
真実を根拠からの推論ではなく、直感的に掴むという場合もあるでしょう。しかし、ミエハリさんの意見を周囲により納得させるには、論拠を示した方が、より説得力が増すと思うのです」
と書かれていますが、中でも、
「もちろん太宰のような昔死んで我々が会ったこともない人間の死の原因についての本当の真実については、我々には分からないことです。
だから我々は、太宰自身の文章や周辺関係者の文章や事実関係から、真実を推理するわけです」
という箇所は僕もまったく異論はありません。しかし、続く、
「私は今まで、自分の論拠となる文章を提示し、自分の推論を書いてきました」
と、
「ミエハリさんとのやり取りを通じて残念に思うのは、ミエハリさんがミエハリさんの論拠となる太宰自身の文章を提示されなかったことです」
という文章は、聊か不誠実に過ぎるのではないかと思います。先日も書きましたが、僕も僕なりに自分の仮説の根拠となる太宰自身の文章や研究者の文献を挙げ
ています。むしろ大森さんこそ、太宰自身の文章や研究者の文献への言及を殆どされず、論証というほどの論証はされないまま、自分の思い込み(願望)を語られていただけのように僕には見えます。 何故、こういう過去ログを読めばすぐに判る嘘(誤読?)を書くのでしょう? 残念、というより、ちょっと不可解で
した。
ただ、その大森さんの思い込み(願望)は、つまりは、若い人たちに、高貴な死を選ぶよりも卑小な生を選んで欲しいという、アントリーニ先生的な思い遣りから出ているものなのだろうな、とは僕もうすうすと感じてはいます。
(29)
[688]
死を持っての抗議
名前:大森
投稿日時:09/10/22(木)
ミエハリさん。
おっしゃりたいことは了解しました。
私とのすれ違いの原因は、「死を持っての抗議」のいう言葉の捉え方の違いにあるようだと思います。
ミエハリさんは、「死を持っての抗議」を、太宰が死に至るまでの間に命をすり減らすように抗議の文書を書いたという意味で書かれたのですね。それならば、良く分かります。
私は、「死を持っての抗議」を、「太宰の自殺自体が戦後風潮への反感の意思表示」と誤解したのです。私の頭の中で「(戦後の軽薄な風潮への)死を持って
の抗議」という言葉から連想されたのは、三島由紀夫の自決でした。三島の自決は、「(戦後の軽薄な風潮への)死を持っての抗議」ということにふさわしいと 思いました。
太宰が命を削る思いで、戦後風潮への抗議を文章として発表していったということについては、充分理解できます。
(30)
[689]
目を閉じて生きるのは楽なこと 自分の見たものは好きなように誤解すればいいさ♪(The Beatles/Strawberry Fields Forever))
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:09/10/22(木)
>大森さん
いえ、僕の言いたいことはそういうことではないのですけど、これだけ遣り取りして、尚、こうも的外れな返事ばかりが返ってくるというのは、僕の発信能力及び大森さんの受信能力ともどもに致命的な欠陥があるのだと思います。言い方を変えれば、僕と大森さんは決定的に異なる言語体系に生きている人間同士なのだ
ということです。
この調子でこれ以上続けても、金輪際お互いに判り合えることはないでしょうから、「太宰は何故死んだか」というお題に関しては、余程大森さんの方でご自身の思い込みを覆す何か決定的な発見が今後あったのでない限り、これ以上特に返事を頂く必要はないと思います。
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