夏目漱石における
ドストエフスキー

(更新:24/06/15)
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〔事項〕
概要
論文・文章



〔概要〕

漱石へのドストエフスキーの影響については、漱石本人の言葉や弟子達の証言がいくらか残されており、これまで研究もいくらかなされていて、その諸氏の研究論文も上に記したように閲覧できるようですが、その研究は、まだ十分でない。
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歳まではすぐれた英文学者であった漱石だから、漱石はドストエフスキーの小説のことに関しては、早い時期にその概略には触れていたものと思われます。  ただし、時期的に見て、漱石が、早い時期からドストエフスキーの小説を英文訳本文で直接読んでいたという見方には、無理があるようです。)

ただ、漱石自らも言っているように、ドストエフスキーに触れた当初は、ドストエフスキーの小説の作風が好きになれなかったようだ。
なにもドストエフスキーの描くような異常な局面ばかりが深刻な人生を示唆(しさ)するものとは限らない。もっと平凡な生活のうちに深刻な人生を暗示するものがいくばくも(=数多く)ある。
〔森田草平(漱石の愛弟子)が聞いた漱石の言葉より。〕

ドストエフスキーの小説のことはあまり気にもとめず、ドストエフスキーからの影響もほとんどなかったようです。
そういった中で、漱石の中でドストエフスキーという人物やその小説がクローズアップされたのは、 小説『門』を書いた後の、胃潰瘍が悪化して盥(たらい)いっぱいの大吐血をして30分間 の死ののち蘇生(そせい)した、いわゆる「修善寺の大患」の際とその後のこと、 と言われています。
(
漱石の愛弟子の一人であった森田草平という作家が、漱石にドストエフスキーの小説のことをしきりに話し、読むことをすすめた、とされていますが、森田草平がそのような行動を取った時期がいつなのかについては、森田氏は言明していないものの、森田草平が残した漱石とのドストエフスキーに関する対話の内容から判断するに、上の「修善寺の大患」以前のこと(小説『それから』を書いたあと?)であると推定されます。) 

その病後、漱石は、生死の間をさまよった今回の大病の体験から、銃殺刑を直前で免れ、てんかんに度々(たびたび)見舞われたドストエフスキーの体験のことをいろいろ思い、思いやり、ドストエフスキーに他人事(ひとごと)ならぬ親近や関心を覚え始めたようです。
漱石は、ドストエフスキーが銃殺刑を直前で免れ得たことを頭において、随筆「思ひ出すことなど」の中で、
ドストイエフスキーは自己の幸福に対して、生涯感謝する事を忘れぬ人であった。
と述べています。

漱石がドストエフスキーの小説に注目し始めたのも、それ以降であり、病後の静養中に、ドストエフスキーの小説『白痴』を読み返してみて、そこに見られる登場人物(ムイシュキン公爵のこと?)の心理に、漱石は、自分のことが書かれてあるみたいで共感を覚えた、ということを自ら文章に記しています。
「修善寺の大患」以降の漱石の小説群『彼岸過迄』『行人』『こころ』『道草』『明暗』への、ドストエフスキーの大なり小なりの影響を見ていく本格的な研究が待たれます。
(
『明暗』の中には
、登場人物がドストエフスキーのことについて言及している箇所が見られます。)


「漱石のドストエフスキー観は否定的で、その誇張性を批判し、それに対してジェーン・オースチンを賞揚したというが、事実は、ドストエフスキーにかなりの関心を示し、又影響を受けたらしい。」
(清水孝純氏の言)



〔夏目漱石におけるドストエフスキーについて論じている論文・本〕

・森田草平「漱石とドストエフスキー」
〔森田草平著『夏目漱石』(甲鳥書林1942年刊。講談社学術文庫1980年刊の巻1p71p84)に所収。〕

・森田草平「漱石のドストエフスキー論」
〔森田草平著『続・夏目漱石』(甲鳥書林1943年刊)に所収。〕

・板垣直子「漱石と『白痴』」「『道草』 ― ドストエフスキー文学からの示唆」
〔板垣直子著『漱石文学の背景』(鱒書房1951年刊)に所収。〕

・吉田精一「ドストエフスキーと日本文学」の中の分。
〔筑摩書房刊ドストエフスキー全集の別巻(1964年初版)に所収。そのp449p450。〕

・水谷昭夫「漱石とドストエフスキー」
〔『国文学』19718月号に掲載。水谷昭夫著『漱石文芸の世界』(桜楓社1974年刊)に所収。

・清水孝純「日本におけるドストエフスキー」の中の分。
〔『特集=ドストエフスキーその核心』(ユリイカ詩と批評6月号。青土社19746月初版。)に所収。そのp212。〕

・清水孝純「草平、漱石におけるドストエフスキイの受容」
〔『大正文学の比較文学的研究』(明治書院1968年刊)に所収。〕  
 
・宮井一郎「ドストエフスキーとの類縁、『明暗』の方法」
〔宮井一郎著『漱石の世界』(講談社1967年刊)に所収。〕
 
・高木文雄「漱石文学の支柱」の中の分。
(
※論文の所在は、現在調査中。)

・松本健一著『ドストエフスキーと日本人』(朝日新聞社1975年刊)の中の
「森田草平と夏目漱石」(p95p101)

・木下豊房著『近代日本文学とドストエフスキー ― 夢と自意識のドラマ』(成文社1993年刊)の中の
「二葉亭から漱石へ」「ドストエフスキーで漱石を読む」(p93p126)中の分。
 
・小沼文彦「ドストエフスキーと日本」の中の分。
1976年刊『欧米作家と日本文学 3』に所収。小沼文彦著『ドストエフスキーの顔』(筑摩書房1982年初版)p127。小沼文彦著『随想ドストエフスキー』(近代文芸社1997年初版)p21。〕

・久山康著『夏目漱石とドストエフスキイ』(創文社1990年初版)の中の分。


〔ドストエフスキーについて述べている「漱石の書いた(述べた)文章〕

赤木桁平・述「故漱石氏遺作『明暗』に就て =赤木桁平氏と語る=」の中の分
(1916
1215日付け「時事新報」に掲載。) 

・森田草平著『夏目漱石』『続夏目漱石』の中の分。
1911年筆「思ひ出すことなど」の中の分(一〜二)
1916年作『明暗』の中の箇所。


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