亀山郁夫・筆
「小説という名の怪物が生まれ、二人の予言者が現れた。」より。〔週刊朝日百科『世界の文学』第15号(1999年10月刊)に所収。〕
『罪と罰』や『悪霊』を書いた当時のドストエフスキーは、保守派の論客として高い地位にあった。だからといって、社会主義の理念や革命に対する幻想が完全に潰(つい)えて(=すっかりなくなって)いたわけではなかった。青春時代の理想はむしろ、彼の魂の奥でかすかな炎をともし統けていたのだ。ドストエフスキーとは、このように、その根源において幾重にも引き裂かれた人間だったのである。
そして何よりも驚くべき点は、人類いや人間の一人ひとりがこれから選ぶべき道を、キリスト教による救済なり、善悪のモラルといった規範的な観念(=頭に勝手に描いた考え)のなかにおし込めることなく、真にポリフォニック(多響的)な声たちの饗宴(きょうえん。=豪勢な宴)として(→下の注)呈示した(=打ち出した)ところにある。ドストエフスキーの作家としてのスケールの凄(すご)さは、思考のプロセスに現れるいくつもの分裂をそのまま直視し、相対化する度量の広さにある、とも言えるだろう。
〔語注〕
・ポリフォニック(多響的)な声たちの饗宴
ミハイル‐バフチン(1895〜1951。ロシアの文芸学者。)が、ドストエフスキーの小説の特徴として示した「ポリフォニー性」のこと。各登場人物が、作者が中心となる視点から描かれるというよりは、おのおの作者から独立した存在として、相互に、自分の立場や考えを語り、行動し、その相互の対話や交渉の中で自己をあらわにしていくさま、のこと。
★亀山郁夫
かめやまいくお。ロシア文学者。東京外国語大学教授。
1949〜。
ルネ‐ジラール著
『ドストエフスキー ― 分身から統一へ』より。〔織田年和訳『地下室の批評家』(白水社1984年初版)に所収。p50。〕
彼(=ドストエフスキー)は自分にとり憑(つ)いた悪霊どもを小説のなかで形象(けいしょう)化して(=ある形にして)、それらを一つずつ祓(はら)う(=そのけがれ・罪を除き去って清める)。
★ルネ‐ジラール
フランス出身のアメリカの文芸批評家。
1923〜2015。
上のジラール氏の見方は、ドストエフスキーの創作動機に関するおもしろい見方だと思います。
池内 紀・筆
「最後のビザンチン人」より。〔『特集=ドストエフスキー』(現代思想1979年6月号。青土社刊。)に所収。p146。〕
ドストエフスキーは厖大(ぼうだい)な「作家ノート」を残している。その克明な記述によっても、彼が謎めいた夢遊の状態で書いたわけではないことはあきらかだろう。にもかかわらず、ドストエフスキーほど、心霊術でいう「霊媒(れいばい)」の助けをかりて書いたにちがいない、といった印象を与える作家はいないのだ。彼の作品は、聖者にとっての「黄金伝説」(→下の注)とひとしく、みえざる天使が口述筆記をしたかのようだ。しかし同時に、そこにはまたしばしば、しごく(=たいそう)人間的な顔がまじりこみ、突如としてなまみのドストエフスキーが顔を出す。 ―以下、略―
〔語注〕
・黄金伝説
中世ヨーロッパで流布した使徒・聖人伝。ジェノバ大司教ヤコブが十三世紀に編したと言われている。
★池内紀
いけうちおさむ。ドイツ文学者。
池内紀氏が上で言うように、後期の創作における、妻アンナと協力しての口述筆記は、特に登場人物の長広舌(ちょうこうぜつ)の箇所など、ドストエフスキーにおのおのの霊や天使がのりうつったかのように、忘我無碍(むげ)の状態で(極端な場合はいわゆる「自動書記」の状態で)行われたのかどうか、私もその仕事場の実際を以前から知りたく思っていました。ドストエフスキーの創作の状況や工房については、娘のエーメ(幼名リュボフ)が、母から聞いたものを中心に書き残しているものの、(その一部は、こちら。) 残念ながら、そのあたりのことまでは詳しく書き残してはいません。娘エーメの記述によれば、ドストエフスキーは、朝食後、前日の深夜に一人書斎で考え抜いてまとめた本文の下書きや骨子のメモ(これらは、のちに、後世のロシアのドストエフスキー研究者たちによって「創作ノート」としてまとめられる。)を手元に置いてそのまま読み上げるという形で、または、頭にまとめたままの内容を思い出すという形で、妻アンナに小説の本文を口述し速記させたようですが、ドストエフスキーの小説のポリフォニー性や、創作の過程でドストエフスキーはしばしばインスピレーションに見舞われている点などから言っても、ドストエフスキーの個人意識を越えた霊感のようなものが働いて、その場で即興で臨機応変に付け加えられるような本文箇所もあったのではないかと、私などは思う。
ドイツの哲学者ニーチェは、霊感に見舞われて忘我の状態で一気に書き上げたという『ツァラトゥストラ』について、「(書く過程で)自分は全く選択しなかった」と述べています。古今の偉大なる書というのは、そういった作者を越えた何か大いなる力が働いて、成る、という傾向があるのではないかと思う。
中村健之介・筆
「虐げられた人たちの内と外」より。〔『ドストエフスキー・作家の誕生』(みすず書房1979年初版)に所収。p187。〕
―途中、略― いわば過熱した内面の恣意(しい)的(=気ままな)濫用(らんよう。=乱用)は、ドストエフスキーの矯正(きょうせい)不可能の悪癖のようなものである。グリゴーリエフ(→下の注)がこの小説(注:ドストエフスキーの小説『虐げられた人びと』のこと)を評して「生活についての何たる無知!」と言ったのはもっともである。最近のソ連の研究者の論文でも「ドストエフスキーの人物たちは、永遠の軌道へ飛び出てしまった人間たちだ」という評があったが、それも、ドストエフスキーの、生活を無視して人物を書く傾向を指していると解(と)れなくはない(『ドストエフスキー。資料と研究』第一巻のM・ボボーヴィチの論文)。しかし、職業という能力発揮の型を無視して内面の濫用(らんよう)に身を任(まか)せる人間こそが、ドストエフスキーの発見であり、二十世紀文学へ彼の文学が繋(つな)がる可能性であったことも事実である。プルーストはドストエフスキーのよき読者であったし、ジョイス(→下の注)やカフカやカミュの代表作の主人公たちは、すべてしがない(=うだつのあがらない)勤め人なのに、その型からあふれ出していくのである。
〔語注〕
・アポロン‐グリゴーリエフ
ドストエフスキーの親友だった批評家・詩人。1822〜1864。『地下生活者の手記』が出た1864年に若くして亡くなっている。ドストエフスキー兄弟が発刊した雑誌「時代」「世紀」の同人でもあり、「土壌主義」を唱えた。「世紀」に掲載されたが批評家の注目を集めなかったドストエフスキーの『地下生活者の手記』の価値を認めた一人でもある。
・ジェームス‐ジョイス
アイルランドの小説家。1881〜1941。人間の内面を意識の流れにそって描き、二十世紀の文学に大きな影響を与えた。代表作『ユリシーズ』。
★中村健之介
ドストエフスキー文学の研究家・翻訳家。現代日本の代表的なドストエフスキー研究家の一人。元・東京大学教養学部教授。北海道大学名誉教授。
1939〜。
上の中村氏の、ドストエフスキーの小説における主要登場人物たちの、まともな就業や生活感や社会常識(マナー)の欠如・不足、という指摘は、ドストエフスキーの小説の内容の特徴として、鋭い指摘だと言わざるを得ないでしょう。
ウラジミール‐ナボコフ・筆
「フョードル・ドストエフスキー」より。〔『ロシア文学講義』(小笠原豊樹訳。1992年TBSブリタニカ初版。)に所収。p133。〕
ドストエフスキーの趣味の欠如、フロイト以前のコンプレックスに悩む人物たちの単調な扱い方、人間の尊厳が蒙(こうむ)る悲劇的な災難というものに淫(いん)する(=過度にふける)やり方など――これらすべてはお世辞にも褒(ほ)めるわけにはいかない。この作家の作中人物たちが「罪を重ねてイエスに至る」やり方が、あるいはロシアの作家イワン・ブーニン(→下の注)がもっとも無遠慮(ぶえんりょ)に言ったことばを借りるなら「イエスを垂(た)れ流して歩く」やり方が、私は好きではない。
〔語注〕
・イワン‐ブーニン
ロシア出身の作家・詩人。1870〜1953。革命後、パリに移る。代表作の小説として、『村』『乾いた谷間』『アルーニエフの生涯』など。1933年にロシア初のノーベル文学賞受賞者となる。
★ウラジミール‐ナボコフ
ロシアの名門貴族出身のアメリカの作家・詩人。小説『ロリータ』の作者として知られる。
1899〜1977。
イギリスの文学者や亡命したロシア作家や旧ソビエト時代の文芸学者には、しばしば、ドストエフスキーに対する痛烈な批判や嫌悪を表した文章が見られます。上のナボコフ氏やブーニン氏の発言も、ドストエフスキーの小説の作風に対するそうとう手厳しい言葉になっていますが、ある意味では、鋭い指摘だと認めざるを得ないでしょう。
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