各小説論8
(更新:24/11/01)
http://ss390950.stars.ne.jp/BT-2.gif



武者小路実篤の指摘
(
 
『カラマーゾフの兄弟』について )
〔武者小路実篤著『自己を生かすために』(新潮社1918年刊)より。〕
※旧仮名遣い・旧表記は、現代表記に改めました。


ドストエーフスキイはここで自分が得たものをのこりなく表現した。
情熱と愛と信仰とをもって。この本が書ければ人類は救われる。一人のこらず救われる。救って見せる。そう思って書かれたものに違いない。


★武者小路実篤
作家。トルストイへの心酔でも知られる。
1885
〜1976


 


日野啓三の論
(
 
『カラマーゾフの兄弟』について )  
〔河出書房新社1968年刊カラー版世界文学全集第18巻『カラマーゾフの兄弟』の「解説」の末部より。〕


『カラマーゾフの兄弟』は難解な作品である。というのも、すべて偉大な作品はかなりの人生体験を経()なければ理解できないという一般に古典についていわれるような事情だけではない。単に個人的な人生体験だけでなく、歴史的な体験をも、この作品は要求するのである。たとえば、私自身もそうだったが、スターリン批判後、スターリンの事業とりわけいわゆるモスクワ粛清(しゅくせい)裁判などについての事情が明らかにされてくるにつれて、大審問官(注:第5編第5「大審問官」に登場する人物)という異様な幻想的人物の姿が、改めて恐ろしい現実性をもって理解されてきた。あるいはまた、ゾシマ長老が死の直前の説教で警告していた物質的繁栄の中での人間の孤独ということつまり「人間はパンのみにより生()くる(=生きる)に非(あら)ず」という真理を、われわれは福祉国家的状況が現実のものとなってきたごく最近になって、改めて思い知りつつある。そのように『カラマーゾフの兄弟』という作品は、単に個人の魂の深部だけでなく、歴史と文明の全構造にまでわたって見通すじつに広く遠い視野のうちに成立しているのであって、その点において、すでに完結したナポレオンのモスクワ侵攻という一歴史的事件を過去完了の形で壮大に描きあげたトルストイの『戦争と平和』や、人生の憂愁と陰影を徴妙に描いたチェーホフの諸短編とは異なる『カラマーゾフの兄弟』の独自性があるのである。この作品を読み返しながら、この作品の書かれたのがいまから90年も前の1880年であったということを、ふとわれわれは忘れかける。前世紀の作品というより、まさに同時代の作品と感じられるのだが、もしかすると同時代という実感さえ不適当かもしれない。というのは、われわれの歴史的体験ではまだ完全に理解することのできないもっと深い秘密あるいは遠い予言が、この作品には隠されているかもしれないとさえ考えられるからである。たとえばゾシマ長老の言葉を借りて、ドストエーフスキイはこの書物の中で、人類が科学と生産の急速な進歩の過程で次第に孤独の苦悩に傷つき、その果てに再び人類の真の幸福と意味について深い反省をする時期がくるであろうと確信こめて語っている(注:第6編第2の「(D)神秘的な客」の中のゾシマ長老の言葉。新潮文庫の中巻のp80。その箇所の本文は、こちら)。すでにわれわれは進歩という神話からはさめかけているが、しかしまだ新しい人類結合の理念、新しい精神のあり方については、漠然たる予感以上のものをもちえていない。もしドストエーフスキイが『カラマーゾフの兄弟』の第二部を書きあげていたならば、より明確な形で、来たるべき文明と精神の方向を打ち出していたかもしれない。しかし現在の『カラマーゾフの兄弟』だけでも、われわれは少なくとも、現在のわれわれの感覚と精神のあり方か決して究極のものでないばかりか、根源を見失った危険な状態にあることを教えられる。もちろんドストエーフスキイが暗示している未来の魂の方向は、古い神々の復活、古い信仰への復帰ということではない。奇蹟(きせき)と神秘に頼る古い信仰にかえれないことは、聖人ゾシマ長老の遺骸(いがい)が人々の期待に反して死臭を放(はな)つという事件(注:第7編第1「腐臭」)によって、ドストエーフスキイは強く示唆(しさ)している。だが、アリョーシャはこの事件の打撃から立ち直り、夜と星々と草花と大地との新しい交感の体験(注:第7編第4「ガリラヤのカナ」。中巻のp187)とともに、古い僧院から出てゆくのである。われわれもまた進歩と物質的繁栄の神話の死臭から、再び新しい出発をしなければならない。絶望と孤独と、ニヒリズムから逃げ出すのではなく、その重みとともに、その重みに押されながら歩み出さねばならない。既成の目標はない。だが大地を自分の足で確実に踏みしめて行く限り、歩くこと自体が目標をつくりだしてゆくであろう……。それがドストエーフスキイが『カラマーゾフの兄弟』という最後の作品で、死の前年にわれわれに残した遣言であり、予言である。そしてこの予言は、ますますその正しさを証明しつつあるということができよう。  
 
     
★日野啓三
作家。19292002


 


http://ss390950.stars.ne.jp/BT-2.gif